川野康之 17年8月12日放送
Matthiasb
マーメイド号が太平洋を横断した日
三日めの朝になってようやく風が吹いた。
友ヶ島水道を通って大阪湾をやっと抜けた頃
雨が降り始めた。
しだいに風と雨が激しくなっていった。
気がつくと低気圧のど真ん中にいた。
風は強く、マストが折れるかと心配するほどだ。
大波が船体にぶちあたってくだけ、外板をばらばらにするかと思われた。
水がどっと入ってきた。
バケツで必死に汲み出した。
船酔いが苦しかった。
四日め。
どうやら紀伊水道をぬけた。
しかし夜に入ると、風がなくなった。
ヨットはまた推進力を失った。
堀江謙一、思うにまかせぬ風に苦しめられてばかり。
波に揺られながら、
「上を向いて歩こう」を歌った。
涙が出てきた。
川野康之 17年8月12日放送
Geran de Klerk
マーメイド号が太平洋を横断した日
マーメイド号に積み込んだもの。
米、45キロ。
缶詰め、278個。
水、68リットル。
水は、嵐に出会った時に3分の2以上を失った。
足りない分は雨水を現地調達。
「まあ、いいや。海には水がたくさんあるしな」
堀江謙一は楽天的だ。
携帯も衛星電話もない時代。
太平洋の上では、ほんとうのひとりぼっちである。
頼みの綱は風だけ。
そのさびしさを想像するのはむずかしい。
航海記の中で堀江は、こう記している。
「太平洋をひとりでわたるさびしさは、
出発の前に想像していたのとは、まるでちがう。
『さ・び・し・い』なんて、そんな単純なものではない。
あらゆるつらさがミックスしたのが、さびしさである。」
川野康之 17年8月12日放送
マーメイド号が太平洋を横断した日
堀江謙一はパスポートを持っていない。
当時の日本はまだ海外旅行が自由化されてなかった。
旅券を手に入れるのは簡単ではない。
まして冒険目的の航海とあっては、とうてい許可がおりるはずがなかった。
出発直前までいろいろな窓口を回って手をつくしたが、らちがあかない。
しゃあない。もう待てへんわい。
そういうわけで、密出国である。
もし見つかったら強制送還だ。
堀江は覚悟を決めた。
そのかわり途中ではつかまってやらない。
逮捕はシスコで。
と自分に言い聞かせた。
ひとりぼっちで太平洋にいる。
知っているのは家族と一握りの友人だけ。
世界中のほとんどの人はそれを知らない。
何かあっても助けに来てくれる人はいない。
装備の中にアメリカのお金で5ドル入っていた。
強制送還になったらせめてこれで散髪しろよ、
と出発前にある人がくれたものだ。
川野康之 17年8月12日放送
マーメイド号が太平洋を横断した日
ラジオのスイッチを入れたら、バンクーバーの放送が入った。
ジャズが聞こえてきた。
ゴールまであと1000マイルを切った頃から
「シケ凪」が続いた。
風はなくて、波だけが荒い。
まったく進まない苦しい日が何日も続いた。
北米大陸の手前では北風が吹くという。
その風を待ち続けた。
やっと待望の北風が吹いた。
帆をふくらませてマーメイド号はすべり始める。
ラジオからサンフランシスコがよく入ってきた。
1962年の今日、8月12日。
西宮出港から94日め。
ゴールデンゲートブリッジを通った。
サンフランシスコは快晴だった。
気になるパスポートについてだが
サンフランシスコ市長がこうコメントしたという話が伝えられている。
「コロンブスもパスポートは持っていなかった」
と。
大友美有紀 17年8月6日放送
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「軽井沢ソサエティ」軽井沢ゴルフ倶楽部
日本一プレーするのが難しいゴルフ倶楽部がある。
コース設計の話ではない。
ゴルフ会員権の「売買、譲渡、継承不可」。
会員になるためには正会員2人の推薦を得て、
理事会の面接が必要になる。
軽井沢ゴルフ倶楽部。
かつて理事長だった白洲次郎がこのプリンシプル、
原則を作った。
関東ゴルフ連盟にも入っていない。広告もしない。
軽井沢の別荘に集まった同好の士が楽しむための
英国式「ゴルフ倶楽部」である。
大友美有紀 17年8月6日放送
「軽井沢ソサエティ」短パンにゴム草履
軽井沢ゴルフ倶楽部には、いくつかの特長がある。
クラブハウスに個室がない。
法人会員制度がない。
予約システムがなく、
原則として会員はクラブに来た順にプレーする。
会員の推薦があれば、夏の一時期を除きビジターも
プレーできるが、プロゴルファーは出入り禁止。
新聞記者、警護、秘書、運転手など、
会員や会員の家族、プレーヤー以外は
クラブハウス立ち入り禁止。
軽井沢ゴルフ倶楽部にはドレスコードも無い。
リゾートの倶楽部なんだから軽装でいいと、
白洲次郎は短パン、ゴム草履でクラブハウスにやってきた。
でも、それが許されたのは白洲だけだった。
大友美有紀 17年8月6日放送
「軽井沢ソサエティ」避暑地のはじま
明治19年、軽井沢を訪れたカナダ人宣教師、
アレキサンダー・クロフト・ショーは、
スコットランドに似たこの地の寒冷な気候と雄大な景色に魅了される。
自ら山荘を建て、東京の西洋人コミュニティに
軽井沢の素晴らしさを広めていった。
ショーの友人の宣教師たちも軽井沢に別荘を持つようになった。
やがて避暑のために軽井沢を訪れる西洋人が増えてくる。
万平ホテルをはじめ西洋式ホテルが次々と開業する。
旧華族など日本の上流階級や政財界の人々も軽井沢に別荘を建てる。
夏の間、軽井沢の自然を愛する人々が集まり、交流し、娯楽を楽しむ。
軽井沢ソサエティと呼べる「集まり」が誕生する。
時間と約束を守ること
ウソを言わぬこと
生活を簡素にすること
西洋人宣教師たちが住み始めた頃の軽井沢は、
キリスト教的風潮の強い町だった。
「善良な風俗を守り、清潔な環境を築こう」という精神が
軽井沢の歴史と伝統の根底にあり、軽井沢を支えている。
大友美有紀 17年8月6日放送
「軽井沢ソサエティ」じろじろ見てはいけない
旧軽井沢銀座の土屋写真店には、皇族の写真をはじめ
この地を訪れた著名な人物の写真が飾られている。
軽井沢生まれの地元民は、小さい頃から
「皇族の方々など別荘に住んでいる偉い人たちを
見かけても、じろじろ見てはいけない」と
親からきつく言われていた。
1950年代から亡くなるまで毎年、
ジョン・レノンが万平ホテルに長期滞在していた。
通りを散策するレノン一家を見かけても
まとわりつくファンや写真を撮る人はいなかったという。
著名人を特別視しない自由な雰囲気がかつての軽井沢にはあった。
大友美有紀 17年8月6日放送
「軽井沢ソサエティ」吉川英治の軽井沢の家
軽井沢には作家や文化人たちの別荘も数多くあった。
国民大衆作家、吉川英治が別荘を手に入れたのは
行きがかり上のことだった。
昭和22、3年頃、知人に「このままでは年が越せない、助けてほしい」と
拝み倒され、軽井沢の一軒家を購入した。
間取りも場所もよくわからない、どんな家かも下見もせずに
成り行きで買ってしまった。
数年後、夏場涼しいところで執筆したいと考えた吉川は、
軽井沢に家があることを思い出した。
いざ探してみると、とても住めたものではなかった。
大掃除をし、仕事場を建て増しし、ようやく腰を落ち着けると
いっぺんで気に入った。以来毎年、夏になると軽井沢を訪れた。
夏休みが終わり家族が東京に帰っても10月半ばまで滞在した。
その時期には知人の作家たちも引き上げてしまう。
残ったのは吉川と画家の梅原龍三郎ぐらいになる。
秋たけてのこる浅間と画家一人
大作家も寂しさに素直になれる。
それも軽井沢の魅力なのかもしれない。
大友美有紀 17年8月6日放送
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「軽井沢ソサエティ」夏の美容室
銀座で100年以上も店を開いている美容室が
夏の間、軽井沢にも店を出している。
旧華族、政財界の著名人が避暑に訪れていた頃、
その奥様、お嬢様たちも一夏、軽井沢に滞在した。
みな銀座の美容室の常連のお客様だった。
軽井沢には美容室がなくて、
困っているのよ。
昭和36年、銀座にいらしているお客様の
アフターケア、という位置づけで出店した。
スタッフはすべて東京から派遣。
以来、毎年営業を続け、
この夏も万平ホテルにオープンする。