大友美有紀 17年7月2日放送
komehachi888
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」いたずらっ子
松本かつぢは神戸に生まれた。
小学校に上がる前から絵を書くことは好きだった。
そして、いたずらっ子でもあった。
外に遊びにいくと、空き家に忍びこんだり、
あちこちで苦情がくるようなことを、しでかした。
勝ちんや、これをやるから外へ出るんじゃないよ。
母親は、数枚の紙と鉛筆と、
かつぢの大好物のあん巻きと焼き餅を渡す。
すると、かつぢは夢中になって絵を描き、
外へ出なくなるのだった。
夢中になれる、というのは大きな才能だ。
大友美有紀 17年7月2日放送
Rubber Soul
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」カット描き
抒情画家、漫画家、童話画、多彩な仕事を手がけた
昭和のマルチアーティスト、松本かつぢ。
小学4年生の時、父親の仕事の関係で上京する。
中学は全寮制だった。勉強は苦手だった。
特に代数は大きらい。えい、めんどくさいと
放っておいて絵ばかり描いていたら、落第してしまった。
そのうえ、かつぢは、夜な夜な寮を抜け出していた。
よからぬ遊びにふけっているのではないかと、噂になった。
舎監に呼び出されて、
あわや放校になりかけるんですが、
じつは、それがわたしを挿絵画家の道に
進ませるきっかけになるんですな。
当時、かつぢの家は貧しかった。
学費のために、夜間、新聞運びのアルバイトをしていた。
それを知った担任は、雑誌の挿絵を描くように勧めてくれた。
それが博文館の「新青年」。
才能ある新人画家の発掘に力を入れていた雑誌だった。
大友美有紀 17年7月2日放送
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」なんでも描いた
挿絵画家、松本かつぢは、西洋、東洋に関わらず、
老若男女の顔を魅力的に描くことができた。
抒情的な絵とコミカルな絵、両方を描くことができた。
漫画というジャンルでも成功することができた。
これは類を見ない才能だ。
頼まれるから何でも描くので
自分の画風なんてものはありはしませんでした。
アルバイトで挿絵を描いていた頃、何でも描いた。
自分のタッチがないことに悩んでもいた。
でもそれがのちの才能を開花させるのだ。
大友美有紀 17年7月2日放送
Okinawa Soba
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」顔が大事
アルバイトで雑誌に挿絵を書いていた当時、松本かつぢは
大人気の抒情画家・蕗谷虹児(ふきやこうじ)の
渡仏送別記念の写真記事を目にする。
送別会場や横浜港にあふれる、蕗谷のファン。
船の看板で手をふる蕗谷。泣きながら手を振る少女たち。
かつぢは、感激し、格好いい!と、のぼせ上がり、
俺もこんな風になりたい!抒情画を描こう!と決意する。
ある時ひょいと気がついたんです。
有名な人たちの絵を一目見ただけで、
誰々の絵だとすぐわかるけれど、
そのポイントは・・・そうだ顔だ、と。
かつぢは「かつぢの描く少女の顔」というのを一所懸命描き続けた。
今までの抒情画家はオセンチが売り物だから同じ傾向ではいけない。
明るくて可愛い抒情画を工夫しはじめる。
ようやく「かつぢの少女の顔」と自信が持てたのは、それから2年後だった。
大友美有紀 17年7月2日放送
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」クルミちゃん
「かつぢの少女の顔」として自信の持てる絵が描けるようになると、
松本かつぢは抒情画家として活躍しはじめる。
当時流行の雑誌「少女の友」に多数の挿絵を描いていた。
人気も高くなってきた。そんな時、かつぢは少女漫画へ移行する。
どうしてかといえば・・・。
それは、ひとくちに言えば、
もとのびのびと絵が描きたかったからですよ。
そうして生まれたのが「くるくるクルミちゃん」。
お茶目なクルミちゃんはたちまち人気になり、
グッズも生まれ、35年もの間、連載された。
大友美有紀 17年7月2日放送
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」笑ってさよなら
少女漫画「くるくるクルミちゃん」の作者、
松本かつぢは、抒情画も描き続けていた。
毎月毎月、締切に終われ、編集者の催促、泊まり込み、
徹夜での作業が続く。つらかった。
50歳のとき、決心をして「少女雑誌からの引退」を
各出版社に声明する。
売れているのになぜやめるんだ、ぜいたくを言うな、と
ずいぶん引き止められましたが、そういわれるうちが
花なのよ、って笑ってさよならをしました。
少女雑誌は引退しても、絵本の絵を頼まれる。
ベビー用食器やベビーバスなどにも絵を描く、
ベビー用品の製作までする。
物を作ることは、楽しい楽しい仕事なのだ。
大友美有紀 17年7月2日放送
備忘録 旅人
「抒情画家・漫画家・そして/松本かつぢ」伊豆
抒情画家、漫画家、童話画家、松本かつぢには、
7人の子どもがいた。長じて世帯を持ち、次々と孫も増える。
元来子ども好きだったかつぢ。一家はとても仲が良かった。
ただ、子どもたちだけの時よりも、家はもっと賑やかになっていった。
ウヘッ、わしゃもうかなわんわで、
伊豆の修善寺の山奥に玄関もない天井もない
つつ抜けの山小屋を建てて、
私一人だけは、そこで暮らしています。
畑を耕したり本を読んだり、気が向けば絵筆をとる。
一人静かに孤独を楽しむ毎日。
最後の仕事として、草花と2人の幼子をの姿を描いた
「ハームとモニーの12ヶ月」を残していった。
佐藤延夫 17年7月1日放送
童謡のこころ 赤とんぼ
童謡「赤とんぼ」。
詩人の三木露風は、
修道院の国語教師をしていた時代に
この歌をつくった。
夕やけ小やけの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
窓の外に見える赤とんぼに、
幼き日の情景が重なる。
母は、家庭をかえりみない父に愛想を尽かし、
まだ小さな自分を祖父に預け、
実家に帰ってしまった。
あのとき、自分をおぶってくれた人、
それは母ではなく、子守娘だった。
今日7月1日は、童謡の日。
人生を切り抜いた歌は、心に響く。
佐藤延夫 17年7月1日放送
mermaid99
童謡のこころ いぬのおまわりさん
童謡の歌詞を考えるのは、難しい。
詞が長いと子どもが覚えられないし、
流行らなければ、意味がない。
「いぬのおまわりさん」を作詞した佐藤義美は、
歌詞が長すぎるという編集者の言葉に耳を塞ぎ、
あらゆる修正を拒否したそうだ。
まいごのまいごの こねこちゃん あなたのおうちは どこですか
佐藤の狙い通り、この歌は子どもたちの心を掴み、
50年以上経った今でも人気の曲となっている。
今日7月1日は、童謡の日。
簡単に聞こえる歌ほど、作り手の魂が込められている。
佐藤延夫 17年7月1日放送
Paul Hoi
童謡のこころ 月の砂漠
大正時代の画家、加藤まさを。
ロマンチックな乙女の世界を描き、
少女たちから圧倒的な支持を受けた。
結核の療養で訪れた千葉の御宿海岸で、
彼は、童謡「月の砂漠」を書いたと言われている。
月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が ゆきました
9番まで続くこの歌は、
王子と王女の物語になっており、
どこかへ落ち延びていくような寂しさを持つ。
加藤は御宿をたいそう気に入り、余生もこの地で過ごしたという。
今日7月1日は、童謡の日。
童謡は、年をとってから聞くのも味わい深い。