佐藤理人 17年6月24日放送

170624-01

ネッシー 「コロンバ」

565年、アイルランドの聖職者コロンバが、
スコットランドへ布教に訪れたときのこと。
彼とその一行はある巨大な湖にたどり着いた。

コロンバを乗せるボートを取りに、
弟子が対岸へ泳いでいると、
突然怪獣が現れ、恐ろしい声で吠えた。

弟子たちが恐怖に立ちすくむ中、
コロンバは十字を切って神に祈った。

 それより先へ進もうとするなかれ。
 その者に触れるなかれ。戻れ!早く!

怪獣は二度と人々を驚かさなくなった。

湖の名前はネス湖という。
史上初のネッシーの目撃談である。

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佐藤理人 17年6月24日放送

170624-02

ネッシー 「マッケイ」

1933年、ネス湖周辺の道路が整備されると、
ネッシーの目撃情報は飛躍的に増えた。

その姿を初めて写真に収めることに成功したのは、
アルディ・マッケイ夫人。

ネス湖の湖畔でホテルを経営する彼女は、
その年の4月、夫とドライブを楽しんでいた。

ふと湖の静かな水面を眺めると、
そこにクジラのように巨大な魚が見えた。
彼女は夫に叫んだ。

 止めて! 怪獣よ!

それからの約80年間で、
ネッシーを見た人の数は1000人を超える。

しかし、その全身を写した写真は一枚もない。

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佐藤理人 17年6月24日放送

170624-03

ネッシー 「ディンズデール」

1960年、ネッシーの動く姿が
初めて映像に収められた。

撮影者は航空技師のティム・ディンズデール。

彼は仕事を辞め、ネス湖の船の上で、
朝から晩まで幻の怪獣を追いかけた。

その熱意はイギリス中を刺激。
ネス湖異変調査局が設置された。

湖畔にカメラを張り巡らし、
巨大な餌まで作ったが、シャッターは切られず、
音波探知機は水音一つ記録しなかった。

成果は一つだけあった。湖の深さは300mもあり、
巨大な洞窟があることがわかったのだ。

だが、怪獣が住む形跡は、一つも見当たらなかった。

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佐藤理人 17年6月24日放送

170624-04

ネッシー 「外科医」

1934年4月の朝。ロンドンの外科医、
ロバート・ケネス・ウィルソンが、
ネス湖を訪れたときのこと。

突然、首の長い怪獣が現れて、
泳ぎ去っていった。

夢中でシャッターを切った写真は
新聞に掲載され、世界中で反響を呼んだ。

史上最も有名なネッシーの写真、
通称「外科医の写真」である。

その60年後。ある男が死の間際に、
写真がトリックだったことを告白した。

首謀者の名はマーマデューク・ウェザラル。
彼は偽物の首をつけたおもちゃの潜水艦を、
湖に浮かべて撮影。
ウィルソンの社会的地位に目をつけ、
偽証を依頼した。

多くの人生を狂わせた写真の正体。
それは、エイプリルフールのジョークだった。

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佐藤理人 17年6月24日放送

170624-05

ネッシー 「フェルサム」

ネッシーを追い続け、
25年間ネス湖で暮らす男がいる。

モンスターハンター、スティーブ・フェルサム。

7歳で初めてネス湖を訪れた彼は、
世界中から調査隊が詰めかける様子を見て、
自分もいつかこの仕事をしようと誓った。

その夢を28歳で叶えてから四半世紀。
ネッシーを見たことはまだ一度もない。

それでも彼は全く後悔していない。

 毎日が自由と冒険で満たされている。
 僕の人生こそ最大のミステリーなのさ。

ちなみにネッシーの正体は、
巨大なナマズだと思っているそうだ。

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河田紗弥 17年6月18日放送

170618-01

コーヒーはいかが? 〜魔法の木の実〜

現在のエチオピアにあたるアビシニアという地に
カルディという一人のアラビア人のヤギ飼いがいた。

ある日、彼は自分が世話をしているヤギが
灌木の実を食べると、
騒がしく興奮状態になることに気がつく。

そこで、近くの修道院を訪ね、
この不思議な話を伝えると、
院長は関心を示し、その実を茹でで飲んでみた。
すると、頭がスッキリするような不思議な感覚が院長が襲った。

驚いた彼は、
夜の儀式中に居眠りをする修行僧たちにも飲ませてみた。
すると、修行僧たちは居眠りもせずに、勤行に励むことができた。

この「魔法の木の実」の噂は、
瞬く間に国中に広まり、多くの人から求められるようになった。

そう、これがコーヒー誕生の瞬間だ。

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河田紗弥 17年6月18日放送

170618-02

コーヒーはいかが? 〜賢者の学校〜

現在のイスタンブールにあたるトルコのコンスタンティノープルに
タクタカラと呼ばれる小さな街があった。
1554年。その街に、シェムジとヘケムという二人の男が
それぞれコーヒーハウスを開業した。

この二つの店舗が世界最初のコーヒーハウスと言われている。

どちらのお店も、装飾や調度品もこだわり、
居心地は抜群。
社交の場として、トルコ人の熱狂的な支持を集めていた。

この二つの店舗をきっかけに、
トルコではコーヒーハウスが急増し、
ますます豪華になっていった。

そんなコーヒハウスには、
様々な国の商人や旅人、裁判官を目指す若者、官邸の役人など
様々な人が訪れ、
別名「賢者の学校」とまで言われていたんだとか。

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河田紗弥 17年6月18日放送

170618-03

コーヒーはいかが? 〜プチ・ノワール〜

1672年、サンジェルマンの博覧会で
アルメニア人のパスカルという男によって
パリではじめてコーヒーが販売された。

トルコ人の少年たちが給仕したり、
小さなカップを盆に載せて、人混みの中を売り歩いていたという。

コーヒーは、「プチ・ノワール」と呼ばれ、好評を博した。

その後、パスカルはコーヒーハウスを開業したが、
東洋風のカフェは
貧困階級の人々のためのものというイメージが当時はあったため、
売り上げは今ひとつで、結局店をたたむことに。

時は経ち、1689年。
それまで東洋風だったコーヒーハウスと一線を画した、
純フランス風のカフェ「カフェ・ド・プロコープ」が登場。

創業者であるフランソワ・プロコープは、
上流階級の人々を狙って、
新築間もない劇場コメディー・フランセーズの真正面に開業した。

それが功を奏し、大勢の人々の溜まり場となり、
多くの役者、作家、劇作家、音楽家などが集う文学サロンとなった。

革命期には、政治家やジャーナリストたちが、
コーヒー片手に激論を交わしていたんだとか。

時には、芸術を愛する者たちが集い語り合う場として、
時には、切迫した問題を激しく論じ合う場として、
コーヒーハウスは、人々の生活に密着し、愛されていった。

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河田紗弥 17年6月18日放送

170618-04

コーヒーはいかが? 〜コーヒーカンタータ〜

1700年代、ロンドンやドイツでは
「コーヒーを飲むと体が黒くなる」
「コーヒーを飲むと子どもが産めなくなる」などの風説があり、
女性はコーヒーを飲むべきではないと言われていた。

これに反発する女性の声を代弁し、
ドイツでのコーヒー騒動を風刺したのが、
バッハの「コーヒー・カンタータ」だ。

歌詞は、当時の人気詩人であったピカンダーによるもの。
娘のコーヒー好きをなんとか止めさせようと奮闘する
古風な父親が描かれている。

もしおまえがコーヒーをあきらめないなら、結婚パーティーには行かせないぞ。
散歩に行くことすら許さない。
はやりのスカートも買ってやらない。
窓の中から、町を眺めることもできなくしてやる!
帽子につける金銀細工も、手に入らないぞ。

 かまわない、でも、私の楽しみだけは取り上げないでね。


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河田紗弥 17年6月18日放送

170618-05

コーヒーはいかが? 〜コーヒー禁止令〜

現在のドイツのプロシアのフレデリック大王。
大のコーヒー好きで知られた彼は、
1781年に突然コーヒー禁止令を布告した。

当時、植民地を持っていなかったドイツにとって、
コーヒー消費量の増加は、
一方的な通貨の海外流出となってしまい、
国際収支のバランスが悪化してしまうのだ。

しかもドイツビールの消費量が減り、財政を圧迫していた。

そこで大王自ら、自分の好みを押さえて、ビールを飲むように奨励し、
コーヒーに重税をかけた。

しかし、それでもコーヒー愛好者は減らず…。
彼は、王室以外でのコーヒーの焙煎禁止に踏み切った。

その結果、貴族や将官といった
上流階級のみがコーヒーの販売を独占することとなり、
王室は莫大な利益を得たんだとか。

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