四宮拓真 17年5月21日放送

170521-04

相田みつを 創作活動

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

人間味のある朴訥とした筆づかいを、
誰もが思い浮かべることができるだろう。

しかし、彼の創作の現場は、その作風とは程遠いものだった。

シュッ、シュッと、斬りつけるような勢いで筆を走らせる。
その張り詰めた空気に、家族は近づくことができなかったそうだ。
そして、クオリティへの飽くなき執念。
書いても、書いても、納得できない。
ひとつの作品で何百もの、ときには何千もの半紙を使っていたという。
みつをの息子の一人(かずひと)さんは、山のような失敗作を燃やすのが日課だったそうだ。

「素朴」で「温和」なみつをの作品は、
尋常ならざる「殺気」と「気迫」によって生み出されていたのだ。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-05
どんぺい
相田みつを 作風の変化

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

みつをと言えば、誰もが連想するのは、あの独特の書体。
筆がのたうつようで、いわゆる「上手な字」ではない。

しかし、そのイメージを持って彼の初期の作品を見ると、あなたは驚くだろう。
実にきれいな楷書で、整然と漢字が並んでいるからだ。
それもそのはず。
みつをは19歳で著名な書家に弟子入りし、その後ほどなくして、
権威ある書道展で入選の常連になった。
20代にして、書道界ではかなりの実力者だったのだ。

そんなみつをが、いまの作風に変化したのは、30歳ごろ。
彼にどんな心境の変化があったのか。
のちにこう語っている。

 自分は、技術的に高度な作品を書くことはできる。
 でもそれでは、こいつなかなかうまいなあ、と感心はしてくれるが、
 いいなあ、素晴らしいなあ、と感動はしてくれないのだ。

そう考えて、みつをは自分の言葉を、
自分の字で伝えることに人生を捧げる決意をしたのだった。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-06

相田みつを 一文字

「にんげんだもの」など の作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

人生訓のような詩が人気だが、作品全体を眺めると
実は「一文字だけの作品」が多いことにきづく。

「出逢い」「逢引」の「逢」、
「不可能」「不自然」の「不」がその代表例で、
ほかにも「水」や、ひらがなの「ゆ」などもある。

 不自然の「不」という字は、否定ではない。
 今日の自分を生きる、今日新たに生まれ変わる。
 そうとらえている。

彼は、一文字のなかに、無限に広がる世界をイメージしていた。

「土」という一文字を書いた作品がある。

 タテ1本・ヨコ2本の線でできた極めてシンプルな漢字だが、
 だからこそ難しい。
 何回書いても、うまくいかない。

そう言って、彼は死ぬまで、「土」を書き続けた。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-07

相田みつを 芸術家とは

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

彼の作品は、絶大な人気を誇る一方で、
トイレの落書きと言われたり、パロディの対象になったりした。
みつを自身が「便所の神様」と揶揄されたことさえあった。

そんなイメージのせいだろうか、
彼はなかなか「芸術家」として評価されなかった。
とりわけ、アートの専門家からの批評・評論はいまもほとんど存在しない。
無視、と言っても差し支えないほどだ。

一方で、一般の人々からの人気は圧倒的だ。
関連出版物の販売数は累計で1千万部を優に超えると言われる。
東京・有楽町にある「相田みつを美術館」には、
オープンから20年が経ったいまでも、年間で40万を超える人たちが訪れる。

誰からも愛される。しかし、専門家だけが愛さない。
はたして、「芸術家」とはなんだろうか。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-08
朝彦
相田みつを 相田みつを美術館

日本一有名な詩人・相田みつをの作品は、
東京・有楽町にある、
相田みつを美術館で出会うことできる。
ここには年間40万人もの人々が訪れる。
ひとりの詩人の施設としては、驚くべき人気である。

もちろん時期と時間にもよるが、
来館者には学生と高齢者の人が多い。

修学旅行なのか、制服姿で連れ立って入ってくる学生たちは、
「あっ、にんげんだものだ」なんて静かにおしゃべりしながら楽しんでいる。
一方で高齢の方は、おごそかに作品と対峙し、
ひとりうんうんとうなずいている。

一見シンプルで平易、しかし実は奥深いみつをの言葉がいちばん響くのが、
若者と高齢者という正反対の人々というのは興味深い。

日本人は相田みつをで育ち、相田みつをに帰ってくるのかもしれない。

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福宿桃香 17年5月20日放送

170520-01

計量の話 ダンカン・マクドゥーガル

きょうは「世界計量記念日」。
アメリカの医師、ダンカン・マクドゥーガルが
人間の魂の計量を行ったのは、今から116年前のことだ。

彼は、もしも魂に重さがあるなら、
魂が身体を離れる瞬間に体重が減るはずだと考え、
末期の患者を秤の上にのせた。
すると、患者が息を引き取ると同時に秤が動き、
21gの減少を示したのだ。

さらに彼は体重が減少するまでの時間も計測し、
次のように発言している。

 患者の中には、体重が減るまでに1分かかった者がいた。
 考えや行動がゆっくりしていた人は、
 魂も身体を離れるまでに時間がかかるのかもしれない。

現在では信憑性がないとされているが、
みんなをちょっとワクワクさせてくれた彼の計量は
偉大だったと言っていいのではないだろうか。

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村山覚 17年5月20日放送

170520-02
kamums
計量の話 具志堅用高

きょうは「世界計量記念日」。
計量が欠かせないスポーツといえば、ボクシング。

43年前、沖縄から上京した若きボクサー、具志堅用高。
トレードマークのアフロヘアは、
身体を大きく見せるための工夫でもあった。

試合前の減量は1ヶ月前からはじめる。
住み込みでバイトをしていたとんかつ屋のマスターが
仕入れてくれたヒレ肉と、野菜サラダで身体を絞った。

試合当日。計量後の定番メニューは、
ステーキ、鰻、スッポンの血、そして、アイスクリーム。

 世界チャンピオンになったら楽しいよ。
 モテるし、誘いも多いし、おいしいもの食べれるし!

伝説のチャンピオンの原動力は、おいしいもの。

でもやっぱり体重は気になりますよね。
あなたは食べる前に計る?それとも、食べてから計る?

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村山覚 17年5月20日放送

170520-03
small-life.com
計量の話 舞の海

きょうは、メートル条約が結ばれた「世界計量記念日」。
数センチメートルの差に泣き、それを克服した男のお話。

ときは平成元年。大学の相撲部で活躍していた小柄な男が
大相撲の新弟子検査にのぞんだ。規定の身長よりも背が
低かったので、鬢付け油を頭の上で固めて身長計にのった。
しかし、暑さで油が溶け、規定に達しなかったため不合格…。

翌年、その男は頭にシリコーンを埋めて、見事合格する。
そこまでやるかという声もあったが、
相撲への情熱は誰よりも強かった。

彼の名は、舞の海。のちに「平成の牛若丸」「技のデパート」
と呼ばれ、体重が2倍も3倍もある小錦や曙といった
巨漢の力士とも張り合った。

 大きい力士も小さい力士と組むのは怖いんですよ。
 どんな相撲をされるか分からないから。

男の情熱、そして巧みな戦術を、数字で計ることはできない。

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永久眞規 17年5月20日放送

170520-04

計量の話 柴田音吉

きょうは「世界計量記念日」。
日本人初の本格テーラーとして知られる柴田音吉。
10歳の頃から裁縫を学んでいた彼は、
神戸で洋服店を開いていた英国人に弟子入りし、腕を磨いた。
その丁寧な仕立てと着心地のよさは評判となり、
あの伊藤博文も通うほどであった。

あるとき、明治天皇の洋服を依頼された柴田。
しかし、直接採寸することは許されなかった。
最高の一着をつくるには、どうしても採寸が欠かせない。
あくまでその点にこだわった柴田は、

 陛下のお身体には触れないので、
遠くから目測でサイズをお測りしたい。

と願い出たという。
柴田のこだわりがつまったその仕上がりには、
明治天皇も非常に満足したそうだ。

やがて明治政府によって
「礼服は洋装にする」という太政官布告が出され、
日本にも洋服が広く定着していくことになる。
その陰には、採寸にこだわる天才テーラーの活躍があった。

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永久眞規 17年5月20日放送

170520-05

計量の話 香川綾

きょうは「世界計量記念日」。
今ではどんなレシピにも使われている
計量スプーンと計量カップ。
もとは、日本に栄養学を普及させた
香川綾が考案したものだ。

戦後、日本の計量はメートル法に変わったが
一般家庭にはなかなか浸透せず、
匁やグラムが混在していた。

調味料の単位がバラバラだと
塩分や糖分の摂取量が把握しにくく、
日本人の健康を損なうかもしれない。

そう考えた香川は、
計量スプーンと計量カップを製作。
さらにヘラをつけることで、
すり切り1杯や2分の1杯など
より細かく正確に計れるよう工夫を凝らした。

たった1グラムの違いも、
毎日口にすれば大きな違いになる。

おいしくて栄養のある料理が
家庭で手軽に作れるのは、
彼女の細やかな思いやりのおかげなのだ。

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