厚焼玉子 17年4月15日放送
遺言の日 ノーベル
全財産はつぎの通り処理すること
遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、
毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、
その利子を賞金の形で与える。
(利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、
化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、
生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、
文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、
諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・
または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、
それぞれ一部を与えること。)
右の賞は、候補者の国籍を問わず、
最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である
1895年11月27日 アルフレッド・ノーベル
この遺言のおかげでノーベル賞ができた。
4月15日は遺言の日
厚焼玉子 17年4月15日放送
遺言の日 ナポレオン
1821年、ナポレオンは遺言の補足として
こんな言葉を残した。
「わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。
わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。」
これを書いた4月16日、
ナポレオンの健康状態は悪化する一方で、
わずかな食べ物も戻すようになっていた。
ナポレオンはそんな中でも
自分の遺言書が破棄されることを恐れ
用心深く数通の複製を作っていた。
2013年、パリの競売でこの遺言補足書が落札された。
35万7千ユーロ、日本円でおよそ4700万円だった。
ナポレオンは自分の遺言書の価値が
わかっていたのだろうか。
4月15日は遺言の日
厚焼玉子 17年4月15日放送
遺言の日 本居宣長
江戸の国文学者、本居宣長の遺言には
葬式と墓についての細かい指示がある。
墓地7尺四方、真ん中を少し後へ寄せて塚を築くように。
そのうえに桜の木を植えるように。
塚の前には石碑を建てること。
塚の高さは三四尺ばかり。
芝を植え土を固くして崩れないようにする。
のちのち、もし崩れているところがあれば、
ときどき見回って直しておく。
植える桜の種類は山桜の花のよいのを選んで植えてほしい。
本居宣長はその墓の設計図も残している。
そして墓についての指示の後には
墓参りについての指示が続くのである。
遺族の心境を伺ってみたい。
4月15日は遺言の日
厚焼玉子 17年4月15日放送
遺言の日 カール・マルクス
カール・マルクスは家政婦に遺言を求められたときに
こう言った。
出て行ってくれ!
最後の言葉なんてものは、
充分に言い足りなかったバカ者達のためにあるのだ。
皮肉なことに、この言葉が
いまではマルクスの最後の言葉として伝えられている。
4月15日は遺言の日
厚焼玉子 17年4月15日放送
遺言の日 ガンディ
束縛があるからこそ、
私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、
私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、
私は走れるのだ。
涙があるからこそ、
私は前に進めるのだ。
これはマハトマ・ガンディが
暗殺される3か月前に書いた詩だ。
ガンディは胸に3発の銃弾を打ち込まれたとき
暗殺者を許すという意味のジェスチャーをしたと伝えられている。
4月15日は遺言の日
藤本宗将 17年4月9日放送
Zanpei
奈良の大仏と開眼供養
西暦752年の4月9日。
奈良の東大寺で大仏の開眼供養が行われた。
しかしその時点で大仏は完成しておらず、
まだ仕上げ作業の多くを残していた。
飾りなどを含めて最終的に完成したのは、
さらに約20年後のこと。
開眼供養の年は
仏教伝来から200年目の節目に当たり、
どうしても間に合わせることが
必要だったのではないかと推測されている。
納期に追われる厳しさは、
天平の昔から同じらしい。
藤本宗将 17年4月9日放送
奈良の大仏とヘアスタイル
大仏さまの頭についているたくさんの突起。
これは渦巻き状の髪の毛で、「螺髪(らほつ)」という。
奈良の大仏の場合、
ひとつの螺髪は直径が約22cm、高さが約21cm。
重さは約1.2kgにもなる。
ただ、それが何個取り付けられているのかは
これまで正確に数えることができなかった。
しかし2015年に東京大学の研究者が
レーザー解析によって螺髪の数を算出。
492個の螺髪が取り付けられているとわかった。
奈良時代からの伝承では「966個」とされてきたが、
その約半分。定説を覆す結果だ。
江戸時代に造り直されたときに減ったのか、
もともと少なかったのか。
理由はわからない。
大仏さまは、髪の毛一本までミステリアスだ。
藤本宗将 17年4月9日放送
KE-TA
奈良の大仏と経済効果
奈良の大仏の建造費を、当時の資料などから
経済学者が試算したことがある。
まず原材料費については、大仏に使った精錬銅 約500トンや
大仏殿の柱の丸太84本など、約3363億5000万円。
そして人件費。建造に携わった人だけで
延べ260万人以上にも及ぶといい、約1292億円。
さらに彼らの住居費として、約1億7000万円。
積算すると、大仏と大仏殿の建造費は
現在の価格で約4657億円となる。
もっともこの試算には石材や内部装飾、
東大寺の他の建築物にかかった費用は含まれていないので、
実際にはもっと多くのお金が動いたはずだ。
建造にかかわった人々の消費なども含めた経済波及効果は、
約1兆246億円に上るという。
これだけ大規模な「公共事業」。
いまならかなりの景気対策になりそうだが、
やはり現代と奈良時代では状況が違う。
かつてない大規模な建設工事によって国の財政は大きく悪化。
とりわけ農民の負担が激増し、
平城京のなかでは浮浪者や餓死者が後を絶たなかった。
地方によっては農民たちが逃亡して税制が崩壊するなど、
律令政治の矛盾点が浮き彫りになっていった。
仏教で世の中を救おうとする聖武天皇の願いとはほど遠い結末。
やがて都も京都の平安京へと移される。
奈良に残された大仏は、
どんな思いで世の移ろいを見つめていたのだろう。
藤本宗将 17年4月9日放送
奈良の大仏と平和
平和を守るためにつくられた奈良の大仏だが、
現実には戦火によって二度も焼失している。
はじめは、源平の合戦。
そして二度目は、戦国時代。
しかしそのたびに
人々の力を集めて大仏は再建された。
いま現存している奈良の大仏は、
江戸時代、太平の世になってからのものだ。
大仏が焼けずにすむということが、
平和の証と言えるかもしれない。
平和を守るのは、私たち人間の役目なのだ。
藤本宗将 17年4月9日放送
Takashi(aes256)
鎌倉の大仏と作家
時代小説からノンフィックションまで、
幅広い活躍で知られた作家の大佛次郎。
大仏(だいぶつ)と書いて「おさらぎ」と読むこのペンネーム、
由来は鎌倉の大仏さまだ。
作家として活動をはじめた頃、大佛は鎌倉大仏の裏手に住んでいた。
本物の大仏が太郎だから、謙遜して自らは「次郎」としたのだという。
その後も彼は自然と歴史のある街並みを愛し、
生涯を鎌倉で暮らした。
しかし日本が高度成長期を迎えた頃、
鎌倉にも宅地開発の波が迫ってきた。
街のシンボルである鶴岡八幡宮の裏山までもが
そのターゲットとなったのだ。
当時は自然や景観を保護するということに対して、
まだ一般的な関心が低かった時代。
そのときいち早く反対の声を上げたのが、大佛だった。
開発への反対運動は、一般市民はもちろん、
川端康成や小林秀雄、鏑木清方、伊東深水といった
文化人にまで幅広い支持を集めた。
そしてイギリスのナショナル・トラスト運動を参考にして
大佛が立ち上げた「鎌倉風致保存会」によって
開発予定だった山林1.5ヘクタールの買収と保存が決まる。
さらにこれをきっかけとして、
1966年には「古都保存法」が制定された。
大佛次郎の尽力がなければ、
いまの風景は残っていなかったに違いない。
鎌倉の街は、もうひとりの大仏さまに守られたのだ。