大友美有紀 16年8月7日放送
世界で愛された日本人 八田輿一
台湾南部、台南市に八田輿一記念公園がある。
日本が台湾を統治していた時代、烏山頭(うさんとう)ダムの
建設を指揮し、周辺の台南地域を豊かな農業地帯に変えた土木技師だ。
当時、台湾南部の嘉南平野は香川県ほどの広大な土地であったが、
雨は周囲の河川から海まで流れ出てしまい、この地を潤すことはなかった。
八田は、ダムを建設し平野全体に給排水路を巡らせようと計画した。
日本の国庫補助を得、地元から資金を集め着工した。
アメリカから最新のスチームショベルも買い入れた。
しかしアメリカから来た技師は、現場に使い方を一切教えない。
八田は現場を叱咤激励した。
とにかく使い方を覚えてしまってアメリカ人の
鼻を明かしてやろう。
現場に家族ともども住み込み働いた。
工事の期間中には大きな事故もあった。
八田は、遺族のお見舞いに奔走し、台湾式の弔意を示した。
八田の熱意は工事を動かしていた。
ダム完成後、八田の銅像が作られる。
日中戦争当時、銅像は金属供出対象になったが、こつ然と消えてしまった。
今、記念講演にはその銅像がある。
彼を慕う誰かが、守ったのだろう。
佐藤延夫 16年8月6日放送
作家とオリンピック 三島由紀夫
1964年。
三島由紀夫は、39歳になっていた。
そのころは、代表作「仮面の告白」や「金閣寺」が英訳され、
海外でも高い評価を受けている。
ノーベル文学賞の有力候補にもあがっていたという。
そんなとき彼が取材したのは、東京オリンピックだった。
開会式の風景を克明にレポートしている。
「坂井君は緑の階段を昇りきり、聖火台のかたわらに立って、成果の右手を高く掲げた。
そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもっと高いのだ。」
三島由紀夫は、スポーツの祭典を好意的に捉えた。
あれから半世紀。
31回目のオリンピックが、はじまった。
佐藤延夫 16年8月6日放送
作家とオリンピック 岡本太郎
1964年。
岡本太郎は、53歳だった。
東京オリンピックでは、デザインの一部を任され
参加メダルの表側を担当している。
ちなみに、最初にこの仕事の話が来たとき、
選手としてオファーされたと勘違いしたという。
いかにも彼らしいエピソードだ。
そして東京オリンピックのマラソンでは、新聞にコラムを書いている。
「赤、青、緑、ナマな色とりどりのパンツやランニング。
その中に真っ黒いテラテラした膚(はだ)。
着るものよりも、肉体の色どりがさらに強烈だ。」
岡本太郎の見たオリンピックは、やはり芸術の一部だった。
佐藤延夫 16年8月6日放送
作家とオリンピック 星新一
1964年。
東京オリンピックの年、星新一は38歳だった。
数年前、日本SF作家クラブ設立に参加し、
毎年のように短編集を上梓していたころ。
新聞に、オリンピックを題材にした短編が掲載されている。
「今日はオリンピックでも見に行くとするかな。」
「あら、うちの立体カラーテレビで見物すれば、同じことじゃないの。」
こんな書き出しで始まる物語は、いかにも星新一の世界だった。
オリンピックは、世界の驚異的な繁栄のため毎年開催され、まもなく年に2回となる。
旅行サービス社に電話をすれば、空中ステーションから
大型ロケット機で開催地に運ばれる。
興奮した観客が現れると、鎮静作用のあるガスが噴射される。
そして特別オリンピックは、月の第一ムーンシティで行われる。
タイトルは、「オリンピック2064」。
星新一の想像するスポーツの祭典は、
今よりも、ずっとずっと未来の話だ。
佐藤延夫 16年8月6日放送
作家とオリンピック 小林秀雄
1964年。
東京オリンピックの年、小林秀雄は62歳だった。
文芸評論家としての地位を確立し、
自らの作品でも、さまざまな賞を受賞した。
前年の1963年には、文化功労者にも選ばれている。
「文体をもった批評は芸術作品だ。」
三島由紀夫にそう言わしめるほどの彼が、
東京オリンピックの記事を書いた。
「何か感想を書かねばならぬ約束で、原稿紙はひろげたものの、
毎日、オリンピックのテレビばかり見ていて、何もしないのである。」
オリンピックは、作家の手を止めてしまうほどの媚薬なのか。
熊埜御堂由香 16年7月31日放送
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記録のはなし 澤穂希の記録
6回のワールドカップを経験したサッカー選手、澤穂希。
彼女の功績はFIFA女子ワールドカップ最多出場選手
としてギネスに登録されている。
そんな彼女もサッカーを辞めよう
と本気で思ったことがあった。
1990年代に日本のプロサッカー部が次々廃部を決める中、
澤は思い切ってアメリカに渡る。
「クイック・サワ」と呼ばれ大活躍する中で、
あるアメリカ人と恋に落ちた。
彼と一緒に暮らしながら、サッカーに全力投球する充実した日々。
しかし、突然、プロリーグが休止することになった。
この時、澤は恋人と結婚してアメリカで暮らそうと決意する。
恋人の、「サッカーやめられるの?」
という問いに「もちろん」と答えた。
すると恋人は意外な言葉を返した。
「きみには、とことんサッカーをやってほしい。」
澤はそのひと言に背中を押されて、
再び日本のプロサッカー界へ戻ってきた。
ひたむきな生き方、
それが彼女に多くの記録をもたらしたのだ。
小野麻利江 16年7月31日放送
Corn Farmer
記録のはなし イチロー
2016年6月15日。
サンディエゴ・パドレス戦。
9回2アウト。
イチローは日米通算4257本目となるヒットをはなち、
「プロ野球における通算最多安打数」の
ギネス世界記録を達成した。
マーリンズに移籍した昨シーズンは、
メジャー移籍後最低の成績に終わったが、
今季は、課題となっていた
「強い当たり」のヒットの割合が格段に上がり、
40歳を過ぎても復調する姿に、
専門家さえも驚きを隠せない。
常に人に笑われてきた その悔しい歴史が僕にはある
パドレス戦後に開かれた会見で、
そんな想いを口にしたイチロー。
常にクールな彼のその目には、涙が浮かんでいた。
石橋涼子 16年7月31日放送
記録のはなし 織田幹雄
1928年のアムステルダムオリンピックで
アジア初となる金メダルを獲得したのが織田幹雄だ。
種目は陸上、三段跳び。
織田は著書の中で
私はオリンピックの穴を狙った
と語っている。
この一見すると戦略家のような言葉は、
織田幹雄にはしっくりこない。
なぜなら、なかなか記録が伸びずに
オリンピック出場も危ぶまれ、
周囲から引退をほのめかされながらも
黙々とフォームの改良や基礎の徹底を続けた
織田の愚直なまでの努力を、多くの人が知っているからだ。
今、陸上の神さまと呼ばれている彼の言葉として
しっくりくるのは、こちらだろう。
僕は「精進」という言葉を信条にやってきた。
これは自分なりの解釈で
「精を出せば、必ず進歩する」という意味です。
石橋涼子 16年7月31日放送
記録のはなし 前畑秀子
水泳選手の前畑秀子は幼いころから数々の記録を残し、
若干18歳でロサンゼルオリンピック日本代表に選ばれた。
結果は0.1秒差での銀メダル。金は逃したが、
自分が持つ日本記録を6秒も縮めた結果に、秀子は満足したという。
ところが、日本に戻った秀子を待っていたのは、
多くの人々からの「残念だ」という反応。
4年後のベルリンオリンピックに向けての重圧はすさまじく、
何度も何度も水泳を辞めようと考えたという。
それでも彼女を引き止めたのは、亡き母の教え
「やりかけたことは最後まで」の想いだった。
そんな前畑秀子が、五輪直前を振り返った時の言葉が残っている。
優勝できなかったら、帰りの船から飛び込んで死ぬしかない。
しかし自分は泳げる。
さて、どうやって死ぬか。
何事も最後までやりとげる信念を持つ彼女は、
無事、ベルリンオリンピックで優勝し、
日本人女性初の金メダリストとなった。
薄景子 16年7月31日放送
KUHT
記録のはなし カール・ルイス
オリンピックが生み出した
陸上競技界の世界的ヒーロー、カール・ルイス。
4大会を通じて獲得したメダルは、
9個のゴールドを含む10メダル。
走り幅飛びでは、4連覇の偉業を達成した。
そんな数々の記録を生むために
カール・ルイスは、
日々どんなトレーニングに励んだのだろう。
彼はこんな言葉をのこしている。
楽しいと思う方法でトレーニングせよ。
ベストを尽くせば、誇りに思える。
自分にとってのオリンピックで
「達成感」という金メダルを勝ち取ろう。
それは、スポーツに限らず、
目標をもつすべての人にエールを送る言葉。
楽しむ、そして、ベストを尽くす。
そうすれば、結果は必ずついてくる。