大友美有紀 16年6月5日放送
「棟方志功」大鉢
昭和11年、棟方志功は春の国画会に
板画作品「大和し美し」(やまとしうるわし)を出品する。
これが思想家・柳宗悦の目に留まり
半年後に開館する日本民藝館の買い入れ作品となった。
棟方志功が「世界のムナカタ」へと飛躍する第一歩だった。
作品納入の時、棟方は初めて柳邸を訪れた。
創作版画の先達から、家中にあるものはみな宝物だから、
そそっかしい君は気をつけなくてはいけないと諭されていた。
体中から湯気が出る思いで部屋に通されると、
正面にどっかりと据えられた大鉢に眼が吸い寄せられた。
見惚れて柳の存在すら忘れた。どんな名人の作だろうと
興奮でがんがんと心臓が鳴り、ぐったりと疲れるほど締め付けられた。
我に還り「イギリス製でしょうか」と尋ねる棟方に、
柳は「これは九州の職人が作ったうどんをこねる鉢で、
誰かを感心させようとして作られたものではない」と説明した。
希有のものより、普遍のもの。
ほんとうのモノは、名前が偉くならなくても仕事が美しくなる。
それまで有名になることだけを目標に
創作に取り組んできた棟方にとって、
柳の言葉は、天地が逆転するほどの衝撃であった。
大友美有紀 16年6月5日放送
芥川千景
「棟方志功」ねぷた
板画家・棟方志功は青森に生まれた。
青森といえば、ねぶた祭りだ。
8月上旬のねぶたが終わると一気に秋になる。
米の収穫が始まる。続いてリンゴの収穫が始まる。
それが終わると長い冬が来る。
棟方は「ねぶた」を「ネプタ」と発音した。
禰舞多(ネプタ)は四季の宗教だ。
春めき、夏めき、秋めき、冬になってこそ
禰舞多(ネプタ)の総ざらいはあるのだ。
ある時、棟方家にオープンリールのテープレコーダーが導入された。
「これで録音できるのか」と志功はマイクを手にし、
何やら低く歌いだした。ねぶた囃子だった。
太鼓の響き、笛の音、ブリキのカネの音、
歌うというより節を付けて語っているようだった。
それはテープが尽きるまで30分続いた。
当時中学生だった孫娘一人だけがその様子を見ていた。
今、いくら探してもそのテープは見つからないという。
大友美有紀 16年6月5日放送
「棟方志功」ゴッホ
青年の棟方志功は「白樺」に掲載された「ひまわり」を見たとき
「ワはゴッホになるっ」と思わず叫んだ。
物狂おしいほど油絵に恋をし、
油絵描きになる夢に取り憑かれた瞬間だった。
しかし、落選に次ぐ落選。上手くいかない。
そんな時、ゴッホが描いた「日本趣味おいらん」に出会う。
フランスの雑誌に掲載された浮き世絵を元に描かれたものだった。
棟方もゴッホも雑誌の口絵に夢中になり、模写していた。
そして日本が世界に誇れるものは、版画なのではないかと思い至った。
わたくしは、ワは、ゴッホになるッ、と
ワケも判らなく叫ばねばならなかった時と
わたくしのワも違って来たようです。
あれから読んだり会ったり念ったり(おもったり)
願ったりした事、送ったり別れたりしている仕舞ったこと、
これから仕舞わねばならない事なぞ沢山ある中に、
ワは、ゴッホになるッ、をわたくしなりに観じたいと思っています。
最晩年、昭和47年の夏、アトリエの庭に
ゴッホの描いたのと同じ八重咲きの向日葵が咲きそろった。
棟方は、憑き物が憑いたようにひまわりを描き、
多くの自画像板画を制作した。原点に還るのようだった。
大友美有紀 16年6月5日放送
Momotarou2012
「棟方志功」凧
眼が悪かった棟方志功は
小学校の図画の成績はずっと丙か丁だった。
絵を描く事は好きだった。
同級生たちが「シコ、絵コ描いてケロ」と
紙を持って来ると凧絵を描いた。
描くのは、歌舞伎役者。絵の具などないから、墨一色。
それが空にあがった時、どんな凧よりも目立ったという。
青森の凧絵には3つの流れがあった。
役者絵が中心のあでやかな青森の凧、
鷹揚な描法で能面のような顔が描かれる五所川原の凧、
北斎ばりの画風で三国志の豪傑を扱う弘前の凧。
青森の優艶、五所川原のスケールの大きさ、
弘前の剛直勇壮、それぞれがからだの中に入っていて、
自分の絵や板画の魂を入れているのだ。
孫たちには「ワの凧だきゃ、イッツバンであった」と自慢した。
ネプタも凧絵も棟方の世界の源を作っている。
大友美有紀 16年6月5日放送
Kirsty S
「棟方志功」背広
上口愚朗(かみぐちぐろう)という人がいる。
本名上口作次郎。宮内庁御用達の洋服店で修行し、
26歳で独立し自分の店を持った。
棟方志功は、上口と「ナカヨシ」だった。
共に小学校しか出ていない、学ぶ事に貪欲、
吸収力も半端なものではなかった。
上口の作った服を着て他の人と共に写真を撮ると、
判然と群を抜いて立派なことがわかる、
全く驚きだ。何か知らない底からの位(くらい)がある。
仕事柄、棟方は上半身に筋肉がついている。
上口が棟方のために仕立てた背広は、
左右の襟も裾もポケットの形も違い、
ボタンホールがひとつしかない。
一度着用すると、別になんの破綻もなく、
着姿をこわさない、妙に不思議なこの背広。
棟方のいちばんのお気に入りだった。
大友美有紀 16年6月5日放送
「棟方志功」ベートーヴェン
棟方志功は音楽が好きだった。
幼い頃は、家が貧しかったために
楽器だけはどうする事もできなかった。
家族を持ってから、娘二人にはピアノを、
長男にはバイオリンを習わせた。
家の中に音楽があることが幸せだった。
音楽というものと美術との関係は、
わたくしはきりはなせない、
お互いむすび合う世界だと思っています。
とりわけベートーヴェンが好きだった。
蓄音機を持っていない頃からレコードを揃えていた。
ステレオセットを持つ生活になっても
自分でレコードをかける事はできなかった。
針を落としてくれる人をじっと待っている。
棟方にとって音楽は誰かと一緒に聴くものだったのだ。
自分が墓に入ったら白い花一輪と第九を聴かせてほしい、
そう言葉を遺していた。
佐藤延夫 16年6月4日放送
Confetta
大恋愛の果てに ルー・ザロメ
存在するだけで、男の人生を変えてしまう女がいる。
ロシア生まれの女流作家ルー・ザロメは、そのひとりだろう。
哲学者ニーチェでさえも
彼女にすっかりのぼせあがり、
何度も恋文を送り続けた。
叶わぬ恋に苦しみながらも、
ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」を完成させる。
もう一人、ザロメに惚れ込んだニーチェの友人、
パウル・レーは、彼女と別れた4年後に
スイスの山中で謎の死を遂げている。
大恋愛は、名作と悲劇を生んだ。
佐藤延夫 16年6月4日放送
大恋愛の果てに ピエール・キュリー
フランスの物理学者ピエール・キュリーは、
知人のアパートで、魅力的な女性と遭遇する。
彼女の名は、マリー・スクロドフスカといった。
ピエールは何度もモーションをかけるが、
マリーは研究が終わると祖国ポーランドへ帰ってしまう。
そこで考えたのは、ただ口説くのではなく
「研究のパートナーになってほしい」という誘い文句だった。
やがて結婚した二人は、放射線の研究で
ノーベル物理学賞を受賞する。
キュリー夫人。
すっかり妻のほうが有名になってしまったが、
きっとピエールは満足しているだろう。
佐藤延夫 16年6月4日放送
大恋愛の果てに イサベル女王
中世ヨーロッパ、カスティーリアの王室に、
イサベルという娘がいた。
まだ子どもだったイサベルだが、
四十過ぎの貴族と結婚させられそうになったり、
そうかと思えばポルトガル王の後妻に推されたりと、
政略の道具となっていた。
しかしイサベルは、その申し出を断固として拒否した。
それは、隣国アラゴン王国のフェルナンドと恋仲だったからだ。
ふたりはひそかに城を抜け出し、
強引に結婚式を挙げてしまう。
そしてふたつの国も手を組み、
今のスペイン、イスパニア王国を誕生させる。
恋愛が、国家をつくることもある。
佐藤延夫 16年6月4日放送
大恋愛の果てに ポンパドゥール夫人
18世紀のパリ。
ジャンヌ・アントワネット・ポワソンは、
平民の子でありながら、上流階級の教育を受けて育った。
身分の高くない貴族、デティオールと結婚したが、
そのあとにサロンで出会ったのは、ルイ十五世だった。
皇太子に見初められた彼女は、
皇室からの圧力を味方にして夫と別れ、新たな爵位を手にした。
ポンパドゥール公爵夫人と名前を変えると、
持ち前の美貌と聡明さで、政界までも牛耳っていく。
ファッションセンスは抜群、
芸術への造詣も深く、
慧眼の持ち主でもあった彼女だが、
43歳の若さでこの世を去った。
人生の転機は、いつやってくるかわからない。
人生の終わりも、いつやってくるかわからない。
今日を、明日を、大切に。