蛭田瑞穂 16年5月22日放送

160522-07

東京 東京駅

東京の玄関口、東京駅。
設計を手がけたのは建築家辰野金吾。

赤レンガを積み上げた中に、白い石を帯状に配置する美しいデザインは
ビクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、
辰野式建築として知られている。

建築と美について、辰野は弟子にこんな言葉を残している。

 およそ建築は一面において芸術であり、
 他面において構造を研究する学問である。
 構造の方は数理でおしていくから解決に難くないが、
 芸術方面は理屈ではいかぬから難しい。
 今日の建築の欠点は芸術方面が遅れていることである。
 諸君はこの点に注意せねばならぬ。

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蛭田瑞穂 16年5月22日放送

160522-08
Kakidai
東京 東京タワー

港区芝公園に立つ東京タワー。
東京スカイツリーができた今も
東京のシンボルの地位はゆるがない。

しかし、完成して間もない頃は、
「エッフェル塔の猿真似」と揶揄されることもあった。

そんな声に対して、設計者の内藤多仲はこう語ったという。

 ある人はエッフェル塔そっくりだという。
 これは人が人に似ていると言うようなもので
 一理ある見方とも言えます。
 しかし、タワーの美しさについて作為はありません。
 無駄のない安定したものを追求してできたもので、
 いわば数字のつくった美しさとでも言えましょう。

優れた数式が美しいように、優れた建築もまた美しい。

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渋谷三紀 16年5月21日放送

160521-01

あのひとの好物 東郷平八郎

小説「坂の上の雲」にも登場する、
日露戦争の名指揮官、東郷平八郎。
イギリス留学時代に食べたその味が忘れられず、
ビーフシチューをつくるよう部下に命じた。

しかしながら、料理長は、
ビーフシチューがどんなものかを
知らなかった。
デミグラスソースの代わりに、
しょうゆと砂糖を使って、
なんとかつくりあげたのが、なんと、肉じゃが。

100年後、
おふくろの味と呼ばれるようになるなんて、
そのとき誰が想像しただろう。

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渋谷三紀 16年5月21日放送

160521-02

あのひとの好物 田山花袋

小説家、田山花袋。
食に対しては、
味より匂いにこだわる性分。
熟しすぎて崩れそうな庭の柿を、
口髭をぬらしながら、
啜るようにして食べていたらしい。

匂いへの執着が、
花袋の代表作「蒲団」をうんだ。
主人公は小説家。
想いをよせる弟子の蒲団の匂いを嗅ぐという
フェティシズムを描いた小説だ。

自らの欲求を赤裸々に書いたことが評価され、
花袋は明治文学史に、その名を残した。

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渋谷三紀 16年5月21日放送

160521-03

あのひとの好物 林芙美子

作家、林芙美子。
貧しい暮らしの中で書いた「放浪記」が、
ベストセラーになった。
印税を手に、芙美子は憧れのパリ留学を果たす。

パリでの芙美子は、
文化、酒、美食、そして恋にどっぷりとひたる。
髪を短くカットし、
アール・ヌーボーの椅子に腰かける姿は、
日本にいたときとは別人のようだ。
その芙美子が、帰国後すぐに向かった場所がある。

 波止場のそばの小さいうどん屋で、
 葱をふりかけた熱いうどんを食べた。
 天にものぼるやうにおいしい。
 たつた六銭だつたのに吃驚してしまつた。

クロワッサンもカフェオレも知った。
けれど、父母との放浪暮らしの記憶は、
深く濃く、芙美子のからだに刻まれていた。

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渋谷三紀 16年5月21日放送

160521-04

あのひとの好物 清少納言

ちかごろブームのかき氷。
実は千年以上も前から、
日本女性を夢中にさせていた。

 あてなるもの
 削り氷にあまづら入れて
 新しき金鋺に入れたる

清少納言は枕草子に、
あてなるもの、つまり、雅なものとして、
水晶や藤の花とともに、
シロップがけのかき氷を挙げている。

氷など、たやすく手にできなかった時代。
キラキラまばゆい輝きも、
ひんやりと口に広がる甘みも、
一瞬でとけゆく儚さも。
いまとは比べ物にならないほど、
美しく映っていたにちがいない。

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渋谷三紀 16年5月21日放送

160521-05

あのひとの好物 カント

ドイツの哲学者、カント。
カントの行動を見れば
時刻がわかるといわれたほど、
規則正しい生活を送っていた。
そんなカントにも、弱みがあった。

大好物のチーズだ。

食べすぎておなかを壊し、死にかけた。
医者に止められても、
世話係にチーズをねだり、だだをこねた。

チーズをくれたら、金を払おう。
私には確かにその金がある。

そういって、
自説の論理的証明をはじめたというのだから、
哲学者の執念は、おそろしい。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-01

フェルマーの最終定理 300年間解けない問題

17世紀から20世紀にかけて。
あらゆる科学の分野は、飛躍的に発展した。
17世紀、
人の体質は4つの体液の配分で決まるという体液説が主流だった。
20世紀には遺伝子組み換えが可能になった。
ガリレオが月を望遠鏡ではじめて観測し、天体であることが分かり、
その300年後、人類は月に降り立った。

しかし、数学では、人類の知識の進歩に
300年間耐えてきた問題がある。

フェルマーの最終定理。

Xn+Yn=Zn

nが2以上の場合、nは整数の解を持たない。

この問題の起源は、ピタゴラスの時代にまで遡る。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-02

フェルマーの最終定理 ピタゴラスというはじまり

紀元前6世紀を生きたピタゴラスは
古代バビロニアとエジプトを20年間にわたり旅をし
当時の世界に存在した数学の規則をすべてを身につけた。

その後、ピタゴラス教団を設立し
600人の弟子とともに数論の研究を行った。

彼らは、数と数の関係を理解することが
宇宙を理解することにつながると信じていた。

例えば、約数の和とその自身の数が同じになる
完全数というものがある。

神が天地を6日間で創造したのは6が完全数だからであり、
月が28日で地球を周回するのは28が完全数だからとされた。

また、複数のハンマーの重さが整数の比である時、
調和した和音が生まれることを発見した。

ピタゴラスは、自然現象の背後に
数学的規則があることをはじめて明らかにした。

なかでも有名なのは直角三角形の斜辺の2乗は、
他の2辺の2乗の和に等しいことを示した式。

X2+Y2=Z2
だろう。

いわゆる、ピタゴラスの定理だ。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-03

フェルマーの最終定理 天才のアマチュア

ピエール・ド・フェルマーは1601年にフランスで生まれた。
彼は裁判所の仕事に忙殺されていたが
わずかな暇を見つけては数学の研究に没頭した。

数学者のどの団体にも属さず
自分が解いた証明を解いてみろと様々な数学者に手紙を送った。
そして、フェルマーは自分が解いた答えを誰にも明かさなかった。

フェルマーと定期的に親交があったのは
数学の最新の発見を伝えてくれたメルセンヌ神父と
確率論を一緒につくりあげたパスカルだけであった。

フェルマーは一冊の本も、論文も発表していない。
彼の長男であるクレマン・サミュエルが、
父の手紙やメモや「算術」という
数学書の余白にかかれた走り書きをまとめた。
それによりフェルマーの驚くべき数学的発見が明らかになる。

ニュートンに影響を与えた微積分法、
保険会社の基礎となった確率論。
新しい友愛数の発見。素数定理などなど。

フェルマーの発見した定理は
ひとつづつ検証され証明されていった。
しかし、ひとつだけガンとして証明を拒んだ定理があった。

Xn+Yn=Zn nが2以上の場合、nは整数の解を持たない。

フェルマーのメモにはこう書かれてあった。
私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが
余白が狭すぎてここには記せない。

フェルマーの最終定理。
人類300年の挑戦がはじまった。

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