澁江俊一 16年1月10日放送
石原裕次郎の放蕩
今日は慶應義塾を創立した
福沢諭吉の誕生日であり、
早稲田大学を創立した大隈重信の命日。
おしゃれでスマートな
イメージで語られる慶應ボーイ。
昭和を代表する慶應ボーイと言えば
石原裕次郎だ。
もともと俳優を目指していた裕次郎。
喧嘩、タバコ、酒と
放蕩の限りを尽くしていたからか、
在学中に受けたオーディションは
すべて不合格。
しかし兄、慎太郎の小説「太陽の季節」で
映画デビューを飾ると
たちまち日本を熱狂させるスターになる。
遊びを知り尽くした裕次郎のやんちゃさは、
日本の映画界には未曾有の衝撃だった。
佐藤理人 16年1月9日放送
宗兄弟 「誕生」
63年前の今日、世界一有名な
双子のマラソンランナーが生まれた。
宗茂・猛の「宗兄弟」。
1980年代、瀬古利彦とともに
日本長距離界をリードした彼らは、
見た目はそっくりなのに中身は正反対だった。
兄の茂は大雑把で天才肌。
練習より調整
と感性のまま走った。
一方、几帳面で努力家な弟の猛は
練習あるのみ
とひたすらトレーニングに励んだ。
兄弟で出場したマラソン大会は22回。
勝ち星は茂が12回、猛が10回とほぼ同数。
ちなみに茂は左利き、猛は右利きと、
利き手も正反対だそうだ。
佐藤理人 16年1月9日放送
Real Cowboys Drive Cadillacs
宗兄弟 「茂」
世界一有名な双子のマラソンランナー
「宗兄弟」の兄、宗茂。
現役引退後、監督に就任した彼の元に、
一人の気功師から手紙が届いた。
正直興味はなかったが、
選手たちのケガや故障の助けになればと、
茂はすがる思いでその気功師を訪ねた。
しかし彼はそこで
自分の気功の才能に目覚めてしまう。
監督の職を弟の猛に譲った後、
大学で東洋医学を学び、地元宮崎に
気功の診療所を開いたのは8年前のこと。
心や体の弱った人を助けてあげたい
そう言う彼の診療所には
全国から大勢の患者が訪れるという。
佐藤理人 16年1月9日放送
宗兄弟 「猛」
世界一有名な双子のマラソンランナー
「宗兄弟」の弟、宗猛。
タッチの差でこの世に生まれた性なのか、
猛はレースではいつも兄・茂の背中を追い続けた。
しかし1983年の東京国際マラソンで
茂の自己最高記録を抜くと、1984年のロス五輪では
日本のトップ瀬古利彦を降し4位入賞を果たす。
さらに茂の引退後も現役を続行。
兄より9年も長く走り続けた。
天才肌の兄と努力家の弟。
どちらが優れた選手かはわからない。
ただ、ひたすら走り続けるその後ろ姿は、
努力は決してムダではないことを
私たちに教えてくれる。
佐藤理人 16年1月9日放送
spcbrass
宗兄弟 「モスクワ」
1979年福岡国際マラソン。
モスクワ五輪代表の座をつかむのは
瀬古利彦か、宗茂・猛の「宗兄弟」か。
レースは三つ巴のデッドヒートに突入。
先頭から猛、茂、そして背後から迫る瀬古。
運命の40km地点。宗兄弟は思わず後ろを振り返った。
今だ。瀬古はこの瞬間を4年間待っていた。
振り向くのは苦しい証拠。ラストスパートをかけ、
二位の茂よりわずか2秒差でゴールテープを切った。
宗兄弟と喋っちゃいけない
友達になっちゃいけない
なめられちゃいけない
あいつは違うと思わせないといけない
監督にそう言われ続けた瀬古の執念勝ちであった。
だが半年後、日本はモスクワ五輪をボイコット。
3人の金メダル争いは幻と消えた。
佐藤理人 16年1月9日放送
drp
宗兄弟 「瀬古」
1980年代、日本マラソン界をリードしたビッグ3、
瀬古利彦と宗茂・猛の「宗兄弟」。
地元宮崎が雨の日、兄の茂は弟の猛に言った。
こっちが雨でも東京は晴れている
瀬古は今頃走っているに違いない
東京が雨の日、瀬古のコーチも同じことを言った。
東京は雨でも宮崎は晴れている
宗兄弟は40kmも50kmも走っているぞ
相手が自分より練習していたらどうしよう。
その恐怖に打ち勝つため、
3人は雨の日も風の日も走り続けた。
ライバルは敵じゃない。
自分を成長させてくれるいちばんの味方だ。
大友美有紀 16年1月3日放送
「小林一三」 小使いさん
阪急電鉄の創業者、小林一三(いちぞう)。
本日、一月三日が誕生日。
生家は、甲州、韮崎の裕福な問屋。
町の有力者の坊ちゃんだ。
高等科の時、学校に
妙な小間使いがいた。
授業中、突然教室に入ってきて、
一席もの申すのだ。
そんな調子だから、
小間使いはクビになることになった。
一三は、確かに小間使いも悪いが、
知っておきながら止めなかった学校も悪いと
憤然とした。
同級のみんなに意見を述べると、
一同異議がない。
家に帰って父親にもこの議論を持ちかけて、
小間使いの命を一度は救ってやってくれるよう嘆願した。
とにかくそれで小間使いのクビはなくなった。
根回しし、有力者に頼む。
一三は青年の時からビジネスの基本を
知っていたようだ。
大友美有紀 16年1月3日放送
「小林一三」 有望なる電車
阪急電鉄の前身、
箕面有馬電気軌道の開業当時、
小林一三は、資金繰りに苦しんでいた。
そこで工事中にもかかわらず
出資者に事業を説明するPR誌
「最も有望なる電車」を作った。
最初のページから
小説家志望だった一三の文学的センスが
存分に発揮されている。
箕面有馬電鉄の沿道はそんなによいところですか。
之は委(くわ)しく申し上げるまでもありません。
この沿道は飲料水の清澄(せいちょう)なること、
冬は山を北に背にして暖かく、
夏は大阪湾を見下ろして吹き来る汐風の涼しく、
春は花、秋は紅葉と申分ないことは論より証拠で
御一覧になるのが一番早わかりが致します。
大阪の狭い住居で暮らす人は、
きっとここに住みたくなっただろう。
「最も有望なる電車」は、
日本のPR誌の原点とも言われている。
大友美有紀 16年1月3日放送
「小林一三」 宝塚少女歌劇団
明治四十三年三月、箕面有馬電気軌道の
石橋-箕面間、大阪梅田-宝塚間の二路線が開通。
当時の宝塚は、山しかない。
人は住んでいたものの
にぎやかな場所ではなかった。
創業者の小林一三は、
山奥へなんとかしてお客を引っぱり出そうと
宝塚新温泉をつくり、少女歌劇団を結成した。
初めはそんな大きな歌劇を拵(こしら)えよう
という意思は毛頭なかったのです。
ただ当時三越に西洋音楽の少年楽隊というものが
あったので、それに対して少女楽隊を作ろうという
程度だったのです。
少女楽隊をやっている間に
たまたま東京で帝劇の歌劇を見て、
うちの子たちにも、ああいった真似は出来ないものかと
相談したら、出来るというんで拵えたのです。
最初の劇場は、温水プールを改造したもの。
それが百年続く歌劇団になった。
たまたまにしては、壮大である。
大友美有紀 16年1月3日放送
「小林一三」 阪急百貨店
箕面有馬電気軌道は、阪神急行電鉄となり、
神戸線が開通すると梅田駅は大きなターミナル駅となった。
毎日十二、三万人の乗客が利用する。
創業者の小林一三は、ここに百貨店を開業する構想を抱いた。
当時の百貨店のほとんどが呉服店から出発し、
駅から離れた場所にあるため、
自動車での無料送迎サービスを行っていた。
一三は、これを自分の電鉄事業と結びつけたらどうだろうと
考えたのである。
乗客の全部が買い物をする訳ではもとよりないが、
それでも煙草を買い昼食を食うぐらいのことは
誰でもするだろう。
それにはここから自動車で各自の百貨店へ行くよりも、
ここで用事が足りるような百貨店を
新設するに超したことはない。
当時日本にも外国にも
百貨店を経営する電鉄会社はなかった。
希代のアイデアマン、小林一三は前例がないからといって、
やって悪いことはない、と百貨店事業をスタートさせた。