大友美有紀 16年1月3日放送

160103-05

「小林一三」 大衆芸術

阪急電鉄の創業者であり、宝塚歌劇の生みの親でもある
小林一三は、常に「大衆のために」何が出来るかを考えていた。
昭和七年、本格的な東京進出を試み、
東京宝塚劇場を設立。
家族で楽しめる娯楽の中心地帯を創らねばと考え、
拠点を日比谷に定めた。
それまでの個人で楽しむ娯楽の中心地は、
カフェや売春屈が出来たりと悪くなる傾向にあったからだ。

 日比谷には公園があるのみならず、公会堂があり、
 図書館があり、隣には帝国ホテル、そうして幸い
 あの付近に空き地がたくさんある。

 
東京宝塚劇場のモットーは、
「大衆芸術の陣営、家庭共楽の殿堂」。
会社員が仕事帰りに来られるよう公演時間を、
平日は夜六時から十時までとした。
観覧料も安くし、当日券も販売した。
伝統的な芸能や松竹とは、違うやり方だ。
結果、他社と摩擦なく事業を展開できた。
いや、それは一三の目論見通りだったのかもしれない。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-06

「小林一三」 平凡主義

阪神電鉄の創業者、小林一三は、
出世する方法を問われて、重宝な便利な人になるか、
ぜひ無くてはならない人になるかの二つしかない、
と答えた。必要な人になるのは非常に難しいが、
便利な人になるのは、心掛け次第で誰にでも出来る、という。

  便利な人になるには、平凡主義です。
  何でもなく、朝早く起きて毎日始業の三十分前に
  会社に出る。そうすれば成功する。
  そう私は考えております。

  
課長が朝早く来て、一人だけ先に出社している。
目に止まる。覚えてもらえる。
何か仕事があれば、あいつにやらせてみよう、ということになる。
チャンスをつかむ。
便利な人は、重宝な人になり、異動させたいと思っても、
今あの人に動かれては困る、となり、必要な人となる。

  何でもないようですが、
  一万人の中にこれを実行できる人は
  ほとんどいないといって良いくらいです。

必要な人になるのは難しいのだ。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-07

「小林一三」 結婚第一

阪急電鉄の創業者、小林一三は、
宝塚、阪急百貨店などで三千人以上の若い女性を擁していた。
一三は、その前途を誤らせないように努め、
その幸福を守ってやることを唯一の目的として、
「結婚第一主義」を常々説いていた。
それは決して「女は家庭に入れ」ということではない。

  宝塚音楽歌劇学校で教育する方針も、
  上手な女優を作るという考えは少しもなく、
  ただ一人前の女性を作り上げたいとばかり考えています。
  私がもし六百人の女生徒に、芸術専門の教育をしたら、
  幾十人かの芸術家を生み出すことはさほど困難ではないと思います。
  ただし、その幾十人かを作り出すために、残りの五百数十人は、
  立派な芸術家にもなれず、さりとて、
  家庭の奥様となるに相応しい教養をも受けていない、
  中途半端な女性を作らねばならぬことになります。

芸術家になる天分のある者は、自分で道を開拓できる。
一三はそうではない女性たちの幸福を考えていたのだ。
平凡主義、大衆第一に通ずる考えである。

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大友美有紀 16年1月3日放送

160103-08

「小林一三」 見えない二

一月三日生まれだから「一三」。
阪急電鉄の創業者、小林一三の事業のスタートも
一と三だと言う人がいる。
東宝と阪急の会長を歴任した、清水雅(まさし)。
 
 一と三はあるが、二がないのである。
 一にあたる事業計画は出来るが、
 二の掛け声のところが世間からは、まったく見えないのである。
 二にあたる部分が、長い間、暖められ、研究され、準備されて
 満を持しているからである。
 さて三の掛け声がかかるとカン馬のごとく猛然と飛び出していく。
 世間があれよ、あれよと目を見張っている間に、 
 ゴールインするという寸法や。

一三の経営哲学は、無理をしないこと。
無理をすれば必ず焦る、焦れば破綻が起こり、
また無理を重ね失敗する。

それは、無難に物事を進める、という意味ではない。
無理ではないと思えるまで思案する大切さを説いているのだ。
世間から見えない「二」が要なのである。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-01

お札の人 福沢諭吉

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

この言葉を残した人が、
日本で一番価値のあるお札になっているのは、ちょっと面白い。

福沢諭吉さんが初めて一万円札に登場したのは、1984年。
今からもう20年以上も前になります。
ちなみに、この肖像画は56歳のときのもの。
子どもたちが結婚をし、親としての幸せを感じていた時期と言われています。

さて、今年のお正月、
どれほどの数の諭吉さんが
日本中を飛び交うでしょうか。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-02

お札の人 野口英世

学問は、一種のギャンブルである。

そんな大胆な名言を残したのは、
千円札の顔でもおなじみの、野口英世さんです。

彼の千円札が発行されたのは、2004年。
ちなみにお札の肖像画に髭を生やした人物が多いのは、
偽造防止のためと言われています。

ところでこの方、
実はかなりお金にルーズだったという説も残っています。
でも、あなたの財布の中の野口さんは、無駄遣いしてはいけません。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-03

お札の人 樋口一葉

恋とは尊くあさましく無残なもの也。

そんな言葉を残したのは、
五千円札の顔でもおなじみの、樋口一葉さんです。

いつお札になっても不思議じゃない女性、と言われ続けて、
ようやく日の目を見たのは、2004年のこと。
貧しさゆえの屈辱を味わいながら、
母と妹を養育し、婚約者にも逃げられてしまう。
その思いの雫が、数々の名作を生み出しました。

一葉さんが五千円札になった年は、
アテネオリンピックで女性選手が目を見張る活躍をしています。
さて、今年のオリンピックは、どんな名シーンが見られるでしょうか。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-04

お札の人 聖徳太子

日本の紙幣に最も多く登場した人物は、
どなたかご存知ですか?
ちょっと難しいかもしれませんね。
ではまず、お札の歴史を振り返りましょう。

明治時代、初めて肖像画入りの紙幣に登場したのは、神功皇后でした。
日本最初のお札の顔は、女性だったんですね。
それ以来、菅原道真、武内宿禰、和気清麻呂、藤原鎌足など
多くの歴史上の人物が名を連ね、
初の日本銀行兌換銀券では、大黒様になったこともあったんです。
そして昭和5年。ついに聖徳太子が登場します。
戦前に2回、戦後には5回、
しかも五千円と一万円では、四半世紀にわたって発行されました。
ミスター日本紙幣と言っていいかもしれません。

今でも、お年玉といえば、
聖徳太子の顔を思い浮かべる方も多いはず。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-05

お札の人 岩倉具視

薄いブルーのお札、といえば
懐かしく思う方がいらっしゃるかもしれません。
最後の500円札の肖像画は、岩倉具視さんでした。

発行されたのは、1969年。
東名高速道路が開通した年です。
やがて、1982年に500円硬貨が発行され、
その3年後、五百円紙幣の製造はそっと終わりを告げました。

貯金箱やタンスの奥、
家のどこかにまだ500円札があるというみなさん。
大丈夫です。まだ使えるそうです。

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小野麻利江 15年12月27日放送

151227-01

掃除のはなし 掃除にまつわるロシアの風習

ロシアの風習の中に、
掃除にまつわる興味深いものがある。
それは、家に来た客が帰ったあと、
家に着くまで床掃除をしてはいけない。というもの。

この風習は、かつてお葬式の後、
井戸から汲んだ水で床を拭き、
「亡くなった人は二度とこの家に帰ってこない」
としたことに由来する。
それが転じて、旅立つ人を亡くなった人にしてはならないと
旅の間の床掃除が禁じられ、
さらには、帰ってゆく客に対しても
無事を祈って、床掃除を控えるのだという。

だから、お客さんが帰ったあと
すぐに床掃除を始めようとする人がいたら、
ロシアの人は、こうたしなめるそうだ。

 すべて洗ってしまうと、
 出て行った人に
 道がなくなってしまう。

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