坂本弥光 15年12月19日放送
リーヴァイ・ストラウスとジーンズ ジーンズの誕生
リーバイスの創始者、
リーヴァイ・ストラウス。
彼の運命を変えた1通の手紙がある。
差出人の名は、ジェイコブ・デイヴィス。
洋服店を営んでいたデイヴィスは、リガ出身の移民。
ストラウスの上顧客の1人であった。
その手紙に書かれていたのは、
彼がひとりの客につくったズボンの話。
より丈夫で長持ちするズボンを作るために、
金属鋲、英語でいうリヴェットを
ズボンのポケットの隅に打ちつけた製法だった。
しかし、デイヴィスには特許を取得するための資金がなかった。
そこでストラウスが資金を提供し、共同で特許を申請した。
そうして2人の手によって、
ジーンズは産声を上げたのだ。
坂本弥光 15年12月19日放送
リーヴァイ・ストラウスとジーンズ リーバイス
これは、
リーバイスの創始者 リーヴァイ・ストラウスの話。
1880年代に入り、
ジーンズの生地は、キャンバスからデニムに変更。
そうして生まれたのが、世界で最初のブルージーンズだ。
リーバイスのブルージーンズには、
ウエストバンドに縫い付けられたレザーパッチに
ツーホースマークというシンボルがある。
これは、2頭の馬で両方から引っ張っても破れないほど
頑丈であることを意味している。
1890年には、ロットナンバーが導入。
最高級の製品に「501」の番号が与えられる。
その後、少しずつ改良が重ねられ、
1902年に現在のような5ポケットのスタイルが確立。
まるでその完成を見届けるかのように、
リーヴァイ・ストラウスは死去した。
73歳だった。
坂本弥光 15年12月19日放送
リーヴァイ・ストラウスとジーンズ スターとファッション
ジーンズのイメージをつくりあげた、
1人の映画スターがいる。
マーロン・ブランド。
1953年に公開された映画「あばれもの」で、
暴走族のリーダーを演じたマーロン。
そこで彼は、黒の革ジャンと黒いブーツ、
リーバイスの「501」ジーンズという格好で、
バイクにまたがり暴れ回る。
まったく違うスターの誕生だった。
マーロンに魅了された若者たちは、
誰しもがこぞってジーンズを履くようになった。
このようにして、
ジーンズは若者たちの流行の第一線を走ることになる。
イヴ・サンローランは、こんな言葉を残している。
「ジーンズを、私が世の中に出すことができなかったことが、残念でならない。」
森由里佳 15年12月13日放送
asobitsuchiya
笑いのはなし 長寿番組の言い分
長寿番組「笑点」のテーマは昔、
歌詞が歌われていたのをご存じだろうか。
作詞は、放送業界を支えた天才、前田武彦。
バラエティ番組やお笑い番組は見ないという人が増えているが、
そんな人にとって、興味深い内容だ。
ゲラゲラ笑って見るテレビ
ドキドキしながら見るテレビ
メソメソ涙で見るテレビ
色んなテレビがあるけれど
同じ見るなら笑わにゃ損損
笑う点ならそのものズバリ
それはご存知それはご存知
笑点だよ
さあ、おなじみのあの曲が、
あと30分ほどで聞こえてきますよ。
森由里佳 15年12月13日放送
笑いのはなし 長寿番組の由来
笑点の歴史は、1966年にさかのぼる。
番組名の由来だといわれているのは
三浦綾子のベストセラー「氷点」だが、
本当は、サントリーのPR誌に連載されたワンカット漫画だ。
あのアンクルトリスの生みの親 柳原良平が、
高視聴率を誇っていた人気ドラマにあやかってつけたタイトルを、
立川談志が気に入って、使用を願い出たのだという。
あやかるどころか、笑点は今年で50年を迎える大ヒット。
今まさに終わろうとしている今週の笑点も、
冬の寒さに冷え切った多くの人々を、
暖めてくれたに違いない。
そういえば、アンクルトリスはいつも、笑っている。
森由里佳 15年12月13日放送
笑いのはなし 長寿番組の大黒柱
長寿番組「笑点」の今をときめくのは、
司会者の桂歌丸だろう。
体調をくずしては番組に復帰し、
そのたびに、「しぶといな」などと
毒のある笑点流で迎えられているのは有名だ。
もちろん、この一連のやりとりについては、
毎回、多くの視聴者からお叱りがあるのだという、
しかし、今もその毒が中和されないでいるのは、
他でもない、歌丸の希望があるからだ。
「ドンドン言え。あんた方が遠慮したら番組が沈むから。
先輩、後輩だろうと舞台の上では同じ。
遠慮しないで来てくれ」
そんな歌丸を、メンバーは心底慕っている。
毒の裏には、愛があった。
蛭田瑞穂 15年12月13日放送
笑いのはなし 榎本健一と菊谷栄 その1
昭和の喜劇王、榎本健一が率いたエノケン劇団。
その座付作家に菊谷栄という男がいた。
劇団に所属した7年間に100本以上の作品を書き下ろし、
ヒット作を連発。榎本健一の黄金期をともに築いた。
しかし、菊谷はその絶頂期に戦争に招集され、
わずか2ヶ月後、中国で銃弾に倒れる。
34年の短い生涯だった。
のちに紫綬褒章を受賞した榎本健一は菊谷の墓を訪ね、
勲章を墓前に供えた。
自分は彼のかわりに受け取ったようなものです。
榎本健一はそう語った。
蛭田瑞穂 15年12月13日放送
笑いのはなし 榎本健一と菊谷栄 その2
喜劇役者榎本健一と喜劇作家菊谷栄。
20代で出会ったふたりは意気投合し、
菊谷はエノケン劇団の座付作家となる。
民謡をジャズにアレンジした『民謡六大学』など
菊谷のつくる笑いは斬新さにあふれていた。
しかし、当時は第二次世界大戦前の軍国主義の時代。
脚本に対する政府の検閲は日に日に厳しくなっていた。
菊谷の脚本も『弥次喜多・親子編』では55ヶ所、
『メイフラワー』では88ヶ所もの削除命令が出た。
それだけの削除命令が出てもなお、
人々を笑わせることをあきらめない。
そこに菊谷栄の、プロの喜劇作家としての魂を見る。
蛭田瑞穂 15年12月13日放送
笑いのはなし 榎本健一と菊谷栄 その3
榎本健一率いるエノケン劇団の座付作家として
数々の笑いを世に送り出した、菊谷栄。
1937年、日中戦争が勃発すると菊谷に召集令状が届く。
故郷青森の部隊に入隊した菊谷は、
中国に赴くため列車で品川に向かった。
新宿で舞台に出ていた榎本はその知らせを聞くと、
客席に向かって深々と頭を下げた。
この芝居の本を書いた座付作家が
お国に召されて品川駅を通過します。
どうか一時間だけ暇をくださることをお許しください。
「行ってこい!」。
観客から拍手で送り出された榎本健一は品川駅に駆けつけ、
僅かな停車時間に無二の親友を励行した。
それが作家と役者の今生の別れとなった。
飯國なつき 15年12月13日放送
brizzle born and bred
笑いのはなし モンティ・パイソン
1970~80年代に世界的な人気を博した
英国の伝説のコメディーグループ「モンティ・パイソン」。
当時の事件や哲学を題材にしたり、
同性愛や民族・宗教上の差異を扱ったきわどいネタも多く、
そのナンセンスさと毒の強さは、コメディの域にとどまらない。
メンバーのエリック・アイドルはこう語る。
私は、コメディというのは勇気だと思います。バカをする勇気。(中略)
コメディというのは真実を告げることができる力というものを
持つことだと思います。だから好きなんです。
ゲラゲラとした笑いの裏には、
そんな覚悟が眠っている。