大友美有紀 15年9月6日放送
cogdogblog
「ボサノヴァ」ナラ・レオン
ボサは「隆起、傾向、素質」といった意味。
ノヴァは「新しい」。
つまりボサノヴァは、ニューウェイブだった。
ブラジルでの全盛期は1950年代の終わりから
60年代の前半ころまで。
その後はもっとテンポが早く、
リズミカルな音楽が流行っていく。
美しいメロディ、ハーモニーと
心地よいリズムにのった
プライベート・ウィスパーソング
ナラ・レオンがボサノヴァを表現する言葉。
まるで彼女自身のようだ。
大友美有紀 15年9月6日放送
GlevumSunday
「小鳥のような声」ナラ・レオン
1959年、秋、海軍兵学校で開かれたコンサートで、
ナラ・レオンは、始めて舞台に立つ。
みなさん、ボサノヴァの一番若いメンバーを紹介します。
今日、始めて人前で歌います。ナラ!
そう紹介されるとナラは、パニックになった。
お客さんに背を向けて、半泣きで歌った。
けれどもその歌は大喝采を受けた。
かわいらしいヒザと前髪、
小鳥のような歌い方、ギターの腕前のよさ。
コパカバーナの少女、ナラ・レオンは、
徐々に人気を獲得していく。
各地でライブに呼ばれ、レコーディングに参加する。
1963年、プロとしての初仕事となる演劇作品
「哀れな金持ちの娘」に出演する。
マスコミもナラを賞賛した。
ナラ・レオンは、将来もっと上手になるだろうと
思わせるギターを弾き、とても音感がよく、
素晴らしい声を持っている女の子だ。
こうして、ボサノヴァのミューズへの第一歩を踏み出した。
大友美有紀 15年9月6日放送
ditadura3
「ボサノヴァとの訣別」 ナラ・レオン
デビューから、瞬く間に人気を博していった、ナラ・レオン。
いつからか「ボサノヴァのミューズ」と呼ばれるようになった。
このころブラジルの政情は、不安定だった。
ナラは、愛や海や花をモチーフにするボサノヴァの歌詞に
否定的になっていった。ミューズと呼ばれることも気に入らなかった。
自分の言いたいことを主張している音楽を求め始めた。
そして1964年4月1日、ブラジルで軍事クーデターが起こった。
その2週間後、ナラは「オピニオン」という歌をコンサートで歌う。
殴ったっていい
捕まえたっていい
何も食べ物が与えられなくてもいい
でも私は意見を変えない
ナラは、マスコミから自分を「反逆分子」と思うかと問われる。
軍事政権に賛成しないのか、と。
人々の悲劇や、問題、悲しみ、苦悩や喜びを歌うのが
「反逆分子」なら、そう呼ばれることから逃れられないわ
大友美有紀 15年9月6日放送
「パリへ」 ナラ・レオン
ブラジルの軍事政権は検閲という圧力で、
アーティストたちの表現の自由を奪っていった。
軍警察はナラ・レオンを逮捕したがっているという情報がはいる。
ナラと夫の映画監督カカー・ヂエゲスは、
ブラジルから出国し、パリに移り住んだ。
ナラは、パリでとても幸せだった。
誰も私のことを知らなかったし、
普通の生活ができたの。
ナラは、ボサノヴァのミューズであることからも解放された。
大友美有紀 15年9月6日放送
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「再び、美しきボサノヴァのミューズ」 ナラ・レオン
1970年、ナラ・レオンはパリで穏やかな生活を送っていた。
ブラジルの音楽にフランス語の歌詞をつけたり、
フランス語からポルトガル語の歌詞を作る仕事をしていた。
そして、音楽を通じて「ブラジル」を見いだしたいと思っていた。
軍事政権の灰色のブラジルではなく、
思春期時代の希望に満ちたブラジル。
上手く説明できないのだけれど、
でも、急に、唯一歌いたいと思ったのが
ボサノヴァだったの。
ギターを手に取って歌いはじめた。
そこにブラジルから、ナラ・レオンのアルバムを
録りたい、という手紙が届く。
ボサノヴァ集だった。
ナラは、再び音楽が好きになった。
そのアルバムのタイトルは
「美しきボサノヴァのミューズ/Dez anos depois」
女神は帰ってきた。
佐藤延夫 15年9月5日放送
画像提供:東京国立博物館
浮世絵の男たち 鈴木春信
江戸の浮世絵師、鈴木春信は
可憐で華奢な美人画で人気を博した。
柳屋見立三美人という作品では、
当時の「ミス江戸」とおぼしき三人を描いている。
谷中は笠森稲荷の茶屋娘、お仙。
浅草の楊枝屋 本柳屋の看板娘、お藤。
そして中央にたたずむ美人は
歌舞伎役者の、二代目瀬川菊之丞だった。
美人画家になったあと、役者の絵はほとんど描かなかったものの
美貌の女形は別格だったようだ。
また、絵暦と呼ばれる当時のカレンダーにも
数々の美人を登場させた。
江戸のグラビアアイドルに、男性たちはさぞ夢中になっただろう。
佐藤延夫 15年9月5日放送
画像提供:東京国立博物館
浮世絵の男たち 喜多川歌麿
江戸の寛政年間は、
浮世絵の黄金期と言える。
多色摺の新しい技法により斬新な表現が可能になると
あまたの絵師がしのぎを削った。
中でも喜多川歌麿は、
美人画の最高峰として君臨した。
どのような人物なのか不明な点は多いが、
彼はいくつかの作品の中で
自画像を残している。
たとえば、遊女に囲まれて杯を手にする美男子。
羽織には「歌」そして「麿」という字が記されている。
今や世界的にも有名な歌麿だが、
きっと遊び心に溢れた人物だったのだろう。
佐藤延夫 15年9月5日放送
浮世絵の男たち 葛飾北斎
生涯で3万を超える作品を世に出したと言われる
江戸の代表的な浮世絵師、葛飾北斎。
「富嶽三十六景」は世界的にも有名だが、
彼の表現力や大胆さは、
当時の絵師の中でも群を抜いていた。
名古屋に滞在したときには、
寺院の庭に百二十畳もの大きさの達磨を
たった半日で、しかも即興で描いたという。
さらに、将軍の前でも動じることはなく、
かかとに朱肉をつけた鶏を紙の上に放ち、
足跡を美しい紅葉に見立てた。
生涯で93回も引越しをしたという北斎。
活動のジャンルにおいても、一ヶ所に安住することはなかった。
たしかにその絵を見比べてみると、
北斎の本当の魅力と凄みが伝わってくる。
佐藤延夫 15年9月5日放送
浮世絵の男たち 蔦屋重三郎
江戸は吉原大門の前に書店を開いた、蔦屋重三郎。
最初こそ遊郭の案内書などを販売したが、
浮世絵師との交流が盛んになると
新規事業を展開し始める。
喜多川歌麿と組み美人画で大成功を収め、
東洲斎写楽の作品は全て、独占販売とした。
しかし時代の波には逆らえない。
寛政の改革が始まると
風紀を乱すものとして摘発され、
財産の半分が没収となる。
商売の才能に優れ、面倒見がよかったという蔦屋重三郎。
どんな時代にも名プロデューサーはいるものだ。
薄景子 15年8月30日放送
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涼菓の話 ネロのアルプスの雪
イタリアンジェラートの起源ともいわれる
こんな逸話がある。
紀元前1世紀頃のこと、暴君として知られた
ローマ皇帝ネロは、家臣たちにこう言った。
アルプスの雪が食べたい。
その一言で、家臣は遠く離れたアルプスまで行き、
命がけで氷や雪を持ち帰った。
ネロは、それにフルーツや果汁、はちみつなどを加えて
愉しんだという。
まさに、暴君のわがままの極み…。
でも、そのおかげで、世界中でジェラートの幸せが
楽しめるようになったのかもしれない。