三島邦彦 15年8月15日放送
戦争と平和 渡辺白泉(わたなべはくせん)
戦場で炸裂する爆弾。
町中に鳴り響く軍歌。
映画や小説の中の戦争はいつも、激しい音に包まれている。
そうした戦争の描き方に、
新しい表現を切り開いたのは、俳句だった。
俳人、渡辺白泉。
70年前の戦争中、こんな句を詠んだ。
戦争が、廊下の奥に立っていた
猫のように、どろぼうのように、
静かな日常に音もなく侵入し、
いつの間にかその姿をはっきりさせる、戦争。
気づいたときには家庭の奥まで入り込んでしまっている、その不気味さ。
この一句があるおかげで、
私たちは、戦争というものの始まり方に、
あらためて注意することができる。
三島邦彦 15年8月15日放送
戦争と平和 鶴見俊輔 (つるみしゅんすけ)
2015年7月20日、
ひとりの思想家がこの世を去った。
その人の名は、鶴見俊輔。
ハーバード大学の在学中に日本とアメリカの戦争が始まり、
捕虜収容所で書いた論文で大学を卒業した。
鶴見はある日、捕虜としてアメリカに残るか、
日本に帰るかの選択を迫られ、日本への帰還を選んだ。
政治家の家系に育った鶴見には、
アメリカと日本が戦争をすると決まった時から、
日本が負けることがわかっていた。
日本は戦争に負ける。
その敗北を、アメリカで安全と食料が確保された捕虜として迎えるよりも、
日本でともに負けたいと鶴見は思った。
鶴見は、自らの生き方をこう語る。
日本の国について、その困ったところをはっきり見る。
そのことをはっきり書いてゆく。
日本の国だからすべてよいという考え方をとらない。
しかし、日本と日本人を自分の所属とすることを続ける。
三國菜恵 15年8月15日放送
戦争と平和 坂口安吾
太平洋戦争が本格的にはじまった日、
ラジオから流れてくる放送に
日本中が緊張していた。
そんな中、坂口安吾はふらりと散歩へ。
「お魚を買ってきてくださらない」と
友人夫婦に頼まれていたから。
安吾は魚屋で焼酎までご馳走になった。
夕陽を浴びながら、すっかりいい気分。
けど、本心は決して穏やかではなかった。
日本は負ける、否、亡びる。
そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めていた。
ギスギスした空気の中、命をかけて楽天的であり続けた。
そうした人たちによって、戦後、文学はまた生まれることができた。
中村直史 15年8月15日放送
戦争と平和 石橋湛山(いしばしたんざん)
ジャーナリスト、石橋湛山。
戦争へ向かう日本で、
敢然と軍部を批判した。
世界の国々と友好を築き、貿易を活発化し、人の力を生かす。
それが日本の繁栄する道。
理想論ではなく、冷静な分析に基づいた主張だった。
軍部の暴走を止めることはできなかったが、
戦後日本の復興に心血をそそいだ。
1950年、第55代内閣総理大臣就任。
病のため、在任期間はわずか65日。道半ばだった。
石橋の残した言葉がある。
資本を豊富にするの道は、
ただ平和主義により、
国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。
伊豆原浩太 15年8月9日放送
Sharif Sharifi
ウィニー・ハーロウ① 世界で最も美しい「まだら肌」のモデル
世界中から熱い視線を浴びる黒人モデル、
ウィニー・ハーロウ 19歳。
1994年、カナダのトロントで生まれた彼女は、
4歳の時に、肌の色素の一部が抜け落ちる病を発症。
体中に白いまだら模様が広がり、
友人からは、「シマウマ」というあだ名で呼ばれた。
あまりにも続く嫌がらせに、自殺を考えたこともあった。
そんな彼女が、今年、世界を代表するトップモデルの仲間入りを果たした。
コンプレックスを抱えながらも、臆することなく夢へ突き進んだウィニー。
彼女は、今、“世界で最も美しい「まだら肌」のモデル”と呼ばれている。
伊豆原浩太 15年8月9日放送
BWJones
ウィニー・ハーロウ② 人生を変える出会い
世界で最も美しい「まだら肌」の黒人モデル、
ウィニー・ハーロウ。
人生の転機は16歳の時に訪れた。
地元トロントのジャーナリスト、シャノン・ブードラムが
彼女の生い立ちを取材。YouTubeで取り上げたのだ。
体中に白いまだら模様が広がる病に苦しみながらも、
「モデル」という夢を追いかけ、前向きに生きるウィニー。
彼女の姿は、やがてイギリスで最も歴史のあるタブロイド紙「The Daily Mail」やアメリカの情報番組「Access Hollywood」でも特集された。
ほとんどのモデル事務所から見向きもされなかったウィニーが
世界中の注目を集め始めた。
当時を振り返って、ウィニーは言う。
もしも、子ども時代に戻れるなら、自分にこう声をかけてあげたい。
「大丈夫。これから、きっといいことがあるから。」
伊豆原浩太 15年8月9日放送
ウィニー・ハーロウ③ コンプレックスじゃなくて、個性
モデルの卵を発掘する
アメリカの人気テレビ番組「America’s Next Top Model」。
世界で最も美しい「まだら肌」の黒人モデル、
ウィニー・ハーロウは、ここから誕生した。
番組のホストをつとめる人気女優、タイラー・バンクスが
偶然、ウィニーの存在をインスタグラムで発見。
本人に出演を依頼したのだ。
番組では、これまでウィニーを幾度となく苦しめた「まだら肌」が
唯一無二の個性として評価された。
自身のコンプレックスと正面から向き合い、個性として捉え
前向きに生きてきたウィニー。
さまざまなオーディションに競り勝ち、
モデルを志願する全米の応募者の中から6位に入賞。
幼い頃からの夢だった「モデル」への切符を手にしたのだ。
彼女は、肌の褐色の部分を取り除けば、
全身を白くすることができた。そうしない理由をこう語っている。
「もし、神様がわたしを黒人にしたかったならば、そうしただろうし、
白人にしたかったなら、そうしたでしょ。でも、神様はわたしに
オリジナルな存在として、両方を与えた。だとしたら、それが
わたしのあるべき姿だと思うの。」
伊豆原浩太 15年8月9日放送
warriorwoman531
ウィニー・ハーロウ④ 自分自身がどう思うか
2015年2月。
世界で最も美しい「まだら肌」の黒人モデル、ウィニー・ハーロウは、
スペインのファッションブランドdesigualのモデルに抜擢された。
幼い頃からの夢だった「モデル」としてデビューを果たした。
彼女はこう話す。
「トップモデルでさえ、いろんな個性を持つ時代が来たと思うの。
あなた自身があなたをどう思うか。それが一番大切なんじゃないかしら。」
コンプレックスに正面から向き合い、
個性として活かすことで、夢をつかんだウィニー。
世界中の人びとを魅了するのは、彼女の容姿だけではなく
強くてポジティブな生き方である。
山田英理人 15年8月9日放送
後藤新平
1923年 関東を未曾有の大地震が襲った5日後、
帝都復興院総裁 後藤新平はこう宣言した。
躊躇逡巡。
この機会を逃すこと、国家永遠の悔を遺すに至るべし。
後藤にとって震災は
東京発展のチャンスだったのである。
復興費に30億円を要せよ。
幹線道路は、幅60m以上、中央に芝を。
建物も広場も、建材はレンガを使うべし。
新聞紙面上に発表された国政の数々。
しかし、後藤は世間に大風呂敷と揶揄され、
結局復興は五億円にも満たない小さなものとなった。
あれからもうすぐ一世紀、
(ナビ)この先、集中工事のため渋滞です。
幅22mの環状線の真ん中で、
今日もカーナビが、
僕たちに国家永遠の後悔を、告げている。
山田英理人 15年8月9日放送
ナンシー・ハンクス
ナンシー・ハンクスは、
貧しかった。
学もなかった。
それでも息子に教育を、と
毎日聖書を読んで聞かせた。
聖書の御言葉通りに、
神を愛し、隣人を愛しなさい。
そう日々教え続けてきた彼女だったが、
不幸にも風土病にかかってしまった。
この世を去る間際、
まだ9つの息子にこう言った。
汝は、100エーカーの農場を持つよりも、
一冊の聖書を持つものとなれ。
息子の名はエイブラハム・リンカーン。
のちに彼は古い聖書を手に、
第16代大統領就任を宣誓する。