山田英理人 15年8月9日放送

150809-07

金栗四三

昭和42年、
マラソンランナー金栗四三(かなぐりしそう)のもとに
一通の手紙が届いた。

 第5回ストックホルムオリンピック日本代表、金栗四三選手。
 あなたはスタート後一切の報告がありません。
 ぜひ、ゴールすることを要請します。

レース中に意識を失くした日本人を
委員会はリタイアと見なさなかったのだ。
金栗はゴールし、大会の全日程が終了した。

 タイムは、54年と8ヶ月 6日と5時間 32分20秒3だった。

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山田英理人 15年8月9日放送

150809-08

ジョンソン博士

「ジョンソン博士曰く」
スピーチやディスカッションで
このセリフが持つ効果は大きい。

世界で初めての英語辞典を編集した、
サミュエル・ジョンソン博士の威厳を
借りられるのだから。

キューブリック監督作品 『突撃』にも博士は登場した。

第一次世界大戦のとある戦線。
ドイツ軍基地を狙うため、
将軍は無謀な突撃作戦を敢行した。

「愛国心があれば突破できる。」と言う将軍に、
カークダグラス演じるダックス大佐は、
「将軍、ジョンソン博士は別の考えを披露されています。」
と言ってから、次の成句を引き合いに出す。

 愛国心は悪党の最後の隠れ蓑だ。

ことばに勝る武器は、きっとない。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ①

2015年5月2日、ひとりのバレリーナがこの世を去った。
彼女の名は、マイヤ・プリセツカヤ。
「20世紀最高のバレリーナ」と呼ばれた、伝説のダンサーだった。

生まれ持った運動能力とカリスマ性を考えれば、
プリセツカヤがバレエの道を進むことは、必然だったといえる。
彼女は、生後8ヶ月で歩き始めた。
誰に教わるでもなく爪先立ちで歩き回るようになり、
靴に穴が開くまで踊り騒いだという。
見かねた両親に連れられて行ったバレエ学校の試験では、
彼女が披露した1回のお辞儀に審査員が魅了され、合格となった。

天性の素質が開花した彼女の勢いは止まらない。
バレエの知識も経験も持たずに入学してきた少女は
卒業試験を満点で合格。
世界5大バレエ団のひとつ・ボリショイバレエの一員となった。

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福宿桃香 15年8月8日放送

150808-02

マイヤ・プリセツカヤ②

20世紀最高のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤ。
最高のバレリーナと呼ばれる所以は、
最高のパフォーマンスを、どんな時でも、見せてくれたからに他ならない。

フィレンツェで、「かもめ」という演目を踊ったときのこと。
左足の指を骨折していた彼女は、
1時間かけて塩化エチルで指を麻痺させ、いつもどおりに舞台へ立った。

すさまじいまでの忍耐強さが培われたのは、
スターリンの支配下で暮らした幼少期。
父親が処刑され、母親と弟が収容所へ連れていかれた絶望の中でさえも、
彼女は踊ることをやめなかった。
家族の分まで踊らなければ。それが自分の使命だと信じていた。

晩年、彼女はこんな言葉を残している。
「どんな場所にいても、なぜそこにいるのかがわかっていなければならない」
多くの人に支えられて舞台に立てる幸せと責任を、生涯忘れなかったのだろう。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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www.kremlin.ru
マイヤ・プリセツカヤ③

スターバレリーナとして、
80歳を過ぎても踊りつづけたマイヤ・プリセツカヤ。

日本との関係は非常に深かった。
公演のためにたびたび来日していた現役時代はもちろん、
引退後も日本の若手を育成するべく、何度も足を運んだ。

宝塚歌劇団の公演「王家に捧ぐ歌」では、
彼女が自らミュージカルの振付を担当している。
稽古の日に合わせて来日し、
檀れいや湖月わたる、安蘭けいをはじめ
当時のトップダンサー達に厳しく指導をした。

魂と心と技術が一体にならないと、美しさは生まれない。
彼女の教えを、日本のダンサーたちは今も覚えている。
日本の芸術への貢献をたたえて、
黒澤明やオスカー・ピーターソンにつづき88人目となる
高松宮殿下記念世界文化賞をはじめ、旭日中綬章が贈られた。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ④

スターバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの代表作といえば、
「瀕死の白鳥」。

バレリーナの個性が大きく出る踊りで、
彼女が演じる白鳥は、1度しか倒れない。
最後の最後まで死に抵抗し、突然、動きを止めるのだ。

彼女の白鳥は、彼女の人生そのものだったといえる。
自伝には、こんな言葉があった。

蔑まれたり、人間としての尊厳が踏みにじられない日は一日としてない。

ユダヤ系の家系だったことを理由に受けた差別・迫害はすさまじく、
海外公演で滞在していたホテルでは、食事がドッグフードのこともあった。

それでも彼女は、バレエを通じて抗いつづける。
「カルメン組曲」や「ボレロ」など反ソ連的な新作に挑戦を続け、
世界をよりまっとうな方向へと、変えていった。

プリセツカヤの死後、日本のバレリーナ・森下洋子は、こう語った。

自らをなげうって多くの人に喜びを届けるという聖なる仕事を終え、
マイヤさんが彼岸に渡る船から手を振っている姿が、はっきり見えるような気がします。後は任せた、と。

自伝のタイトルは、「闘う白鳥」。
彼女の一生は、長い長い闘いだった。

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蛭田瑞穂 15年8月2日放送

150802-01
Hambear
夏を感じる① サーファー・ムーン

ビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウイルソンは海が苦手だった。
サーフィンの経験もない。

それでもブライアンはレコード会社の要請で
サーフ・ミュージックをつくることを余儀なくされた。

3作目のアルバム『サーファー・ガール』に収められた『サーファー・ムーン』。
サーフ・ミュージックとしては異例の、管弦楽器を用いたスローバラード。
歌われるテーマも太陽ではなく月。

サーフィンをやらないブライアン・ウイルソンだからこそ
創造することのできた、オリジナルな世界がそこにはある。

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蛭田瑞穂 15年8月2日放送

150802-02
Bogda
夏を感じる② ユア・サマー・ドリーム

ビーチボーイズの3作目のアルバム『サーファー・ガール』に
収められたバラード『ユア・サマー・ドリーム』。

この曲で歌われるのはある青年の夏の一日。
女の子を誘って海まで行き、手をつないで浜辺を歩くが、
思いを打ち明けるタイミングを逸したまま、やがて陽は沈む。

歌詞はこう結ばれる。

 Time has come for you to show your love
 Make it real, your summer dream
 さあ彼女に愛を伝えるんだ
 君の夏の夢を叶えるんだよ

カリフォルニアの明るいバンドと思われがちなビーチボーイズだが、
リーダーのブライアン・ウイルソンが描く世界は
そんなイメージに反してほろ苦く、切ない

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蛭田瑞穂 15年8月2日放送

150802-03

夏を感じる③ サーファー・ガール

ビーチボーイズ3作目のアルバム『サーファー・ガール』。

海やクルマといったテーマは前作までと変わらないが、
複雑なコーラス・アレンジ、斬新なコード進行、
無駄のないサウンドデザインなど、音楽面では飛躍的な成長が見られる。

このアルバムでリーダーのブライアン・ウイルソンは
初めてプロデューサーも兼ね、
以来、その天才的な音楽の才能を開花させていく。

『サーファー・ガール』についてブライアン・ウイルソンはこう述べる。

 才能を認められたい。敬愛されたいという猛烈な願望から、
 徹底した完全主義を貫いた。すぐに暴君という評判が広まったけど、
 最高を、完璧を求めた。その結果、ビーチボーイズにとって初めての、
 本当にいいアルバムをつくることができたんだ。

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森由里佳 15年8月2日放送

150802-04
芥川千景
夏を感じる④ 風鈴職人 関根久雄

風たちの歌声のような「ちりんちりん」という音色は、
日本人のこころに涼を与えつづけてきた。

しかし、
静岡県三島市の風鈴職人、関根久雄は、
本当に感じてほしいのは音色ではないと言う。

彼が目指すのは、自己主張しすぎない音を持つ風鈴だ。

その理由をこう語る。

「風鈴が鳴って、感じて欲しいのは涼しさです。
風鈴が鳴ると、あ、風が吹いているなと感じてもらいたい。
音が大きすぎると、風鈴自体の主張が強くなりすぎて、
 (中略)涼しい風がイメージしにくくなってしまいます。」
 
理想の音色をさがすため、
関根は毎年、あくなき試行錯誤を繰り返す。

熱い職人魂が、
涼しい夏をはこんできます。

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