村山覚 15年7月18日放送

150718-03
Yasunari Goto
ホームランの話 バレンティン

「ホームランを打つときは、
 ボールがバスケットボールみたいにでかく見えるんだ」

ウラディミール・バレンティン。
カリブ海の小さな島から日本へやってきたその男は、
日本プロ野球のホームラン記録を更新しようとしていた。

それまでの記録は、王貞治・ローズ・カブレラの3人が持つ55号。
記録更新を阻むため相手ピッチャーに敬遠をされるのではないか?
と野球ファンやマスコミは囁いた。

それは杞憂に終わった。

日本のピッチャーたちは、バレンティンと真っ向勝負をし、
前代未聞の60号という記録が生まれた。

ホームランは野球の華、と言われるが、
男のプライドを賭けた真剣勝負こそ、野球の華である。

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藤本宗将 15年7月18日放送

150718-04

ホームランの話 藤村富美男(ふじむらふみお)

かつて「物干し竿」と呼ばれた長いバットで
ホームランを量産した打者がいた。
ミスタータイガースこと、藤村富美男。

ヒントにしたのは知人に誘われたゴルフだった。藤村曰く、

「長いものでシバいたほうが、
 遠心力があるからよく飛ぶだろうと」

しかし、理由はもうひとつあった。

「川上の赤バット、大下の青バットという時代。
 拮抗してなにか特徴のあるバットはないかいな、とね」

そんな目立ちたがりは、
選手兼監督になってからも変わらなかった。

1956年6月24日の対広島戦。
1点ビハインドで迎えた9回裏2死満塁の場面で
3塁コーチについていた藤村は、球審にこう告げたのだ。

 「代打、ワシ!」

スタンドの観客は大喝采。
そして打席に入って3球目。藤村の物干し竿が一閃すると、
打球はレフトスタンドへと消えていった。

それは日本球界史上2人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打。
そして、藤村にとって現役最後の本塁打。
ショーマンシップあふれるプロの生き様は、
最後の最後まで派手だった。

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坂本弥光 15年7月12日放送

150712-01

チョコレート① ヴァン・ホーテン

世界中の人々が愛するチョコレート。
その誕生の裏には、4つの大きな革命があった。

1つ目が、オランダの化学者
C・J・ヴァン・ホーテンによる「ココア」の発明だ。

それまで、ざらざらとした口当たりの悪さで、
おいしくなかったチョコレート。

しかし1828年、彼がカカオ豆から
ココアパウダーとココアバターを分離製造する機械を開発。
これにより、簡単に飲めるチョコレートドリンク、いわゆるココアが生まれた。

200年弱が経ったいまでも、ココアと言えばヴァン・ホーテン。
すべての人が親しむ、唯一の味になったのだ。

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坂本弥光 15年7月12日放送

150712-02

チョコレート② ジョセフ・フライ

チョコレートを誕生させた、4つの革命。
その2つめはイギリスで起こった。

1847年まで、チョコレートは飲みものとされていた。
なぜなら、当時の製法でつくられたチョコレートは
とても砕けやすく、固めることができなかったからだ。

しかし、イギリスのジョセフ・フライがその歴史を変える。
ココアの粉末とココアバターを分離して混ぜ合わせ、
ペースト状にして、簡単にバーの形にできるようにした。
この技術によってチョコレートを成形することが可能になったのだ。

2年後、ジョセフは『おいしい食べるチョコレート』という名の板チョコを発売。
これが現在の板チョコのはじまりとなった。

そんなジョセフのチョコレートは
いま、キャドバリーと看板を変え、
全世界で40種類以上のチョコバーを売る人気ブランドとなった。

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坂本弥光 15年7月12日放送

150712-03

チョコレート③ ダニエル・ペーター

4大チョコレート革命の3つめは、
1876年、ダニエル・ペーターのミルクチョコレートの発明だ。
これまで香辛料のように苦みの強かったチョコレートが、
ミルクを加えることによって、まろやかな味に生まれ変わったのだ。

完成に至るまでは、長い道のりだった。
ダニエルは本来、ろうそく職人。
義父の経営するチョコレート会社の様子を見るうちに
職人魂に火が付いたのか、味の改良に取り組むようになる。

しかし、ただミルクを入れればよかったわけではない。
溶けたチョコレートに水分を混ぜると、
砂糖が油と分離するために食感が悪くなってしまう。
試行錯誤を繰り返していたダニエルは、
隣に住むベビーフード業者、アンリに相談を持ちかける。

二人は、昼夜を問わず研究に没頭。
ついにアンリがチョコレートに合う「粉ミルク」をつくり上げ、
ダニエルはミルクチョコレートを完成させるのだ。

アンリの本名は、アンリ・ネスレ。ネスレ社の創業者だ。
いまもチョコレートとコーヒ―がぴったりと合うのは、
彼らの友情の証かもしれない。

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坂本弥光 15年7月12日放送

150712-04
Chocolate Reviews
チョコレート④ ロドルフ・リンツ

4大チョコレート革命。
その最後の革命は、スイスで起きた。

発明者は、ロドルフ・リンツ。
誰もが知るリンツ社の創業者だ。
父親とお菓子屋を営んでいたロドルフは、
ある日、間違えてチョコレートを一晩中ミキサーに掛けたままにしてしまう。

一晩練り上げられたチョコレートは、
口あたりはなめらかで、
溶けるほどに、アロマと甘さが口いっぱいに広がる。
まさに、とろける美味しさだったという。
それが後に「コンチング」と呼ばれる、
チョコレートに欠かせない製法になる。

私たちの知るチョコレートは、
25歳の青年の、おっちょこちょいによって完成したのだ。

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廣瀬大 15年7月12日放送

150712-05
Clint Koehler
物語を愛した河合隼雄

「人間」そしてその「こころ」に興味を持ち、
優しい眼差しで人々の「こころ」の研究を続けた
心理学者・河合隼雄。

日本におけるユング派心理学の第一人者である彼は
夢の分析により人の「こころ」を恢復する手法や、
箱庭療法を日本に紹介した。

夢分析も箱庭療法も
その人の「こころ」の奥底に眠る
物語を発見し読み解くことからはじまる。

彼は幼いころから物語が大好きだった。
また、同時に数学が大好きな理論派でもあった。

当時学校で教わるのは
軍国主義の影響下にある日本神話など。
軍隊が嫌いだった彼は、
物語のおもしろさに気づきつつも、
それを認めたくない。
そんな複雑な気持ちを持っていたという。

「なに言うとるんや、あほな」という
軍国主義に対する気持ちと
夢中になって読み漁っている物語に対する愛情が、
隼雄少年にこんなことを言わせている。

「人間の先祖が猿やったら、
進化論的にいうと、アマテラスは
いちばん猿に近かったのと違うか」

自分の見た夢を忘れてしまうように、
この発言を河合隼雄は覚えていないという。

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廣瀬大 15年7月12日放送

150712-06

物語を愛した河合隼雄

心理学者・河合隼雄のいちばん最初の記憶は
弟が兵隊ごっこをしている姿だという。

「トッカーン、トッカーン!」と突撃の喊声を上げる弟。
弟の年齢はおそらく3歳ぐらい。

記憶が鮮明なのは、その弟がそのあと、すぐに亡くなったからだ。

「捨てたらあかん、捨てるな」、
そう言って泣きながら弟の出棺を止めた。

「その泣いている思い出を、
ほんとうは覚えていないのです。
しかし、母親がよくその話をしたから
なんかやっていたような気がするんですね。
それはぼくにとってすごく大事な思い出になっています」

と後年、彼は優しく語った。

その現実と想像の間にある思い出は
彼の人生を支える大切な物語である。

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廣瀬大 15年7月12日放送

150712-07
Icely88
物語を愛した河合隼雄

心理学者・河合隼雄は言う。

心の病をかかえる患者さんが
治っていった話をそのまま書いたら、
都合のええ偶然が起こりすぎて
小説にならない。

でも、僕の患者さんが治っていくときには
奇跡のようなことがよく起きる。
こんなおもろいことないですよ。

世界は小説より
圧倒的に、都合がいい物語で
できているようだ。

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廣瀬大 15年7月12日放送

150712-08
Aureusbay
物語を愛した河合隼雄

心理学者・河合隼雄は、幼いころ、
ほかの子どもと行動するのが嫌で
幼稚園が嫌いだった。

でも担当の先生を大好きになり、
幼稚園に行くのが楽しみになった

しかし、ある日、
その先生は結婚し、
幼稚園を辞めてしまう。
大好きな先生のお別れのあいさつで
隼雄少年はかっこわるいと思いながらも涙が止まらない。

自己嫌悪に陥り、家に帰ってから、
母親の前であまり悲しそうな顔をしないでいたら、母親は言った。
「ほんとうに悲しいときは、男の子でも泣いてかまわない」
それでまた彼は泣いてしまった。

そのあと、遊びに来た同級生の男の子。
「今日は男の子でも泣いてるもんがいた」と冷やかすと
「ほんまに悲しいときは泣くやつのほうが偉いよ」と言い返した。

彼は幼いころから、自然と暮らしの中で
「こころ」との向き合い方を学んでいた。

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