小野麻利江 15年6月28日放送

150628-05
HiroshimaGab
お米の話 田植えにまつわる言い伝え

かつての日本の四季は、今よりもずっと
米づくりと密接につながっていた。
米づくりにまつわる言い伝えが
土地ごとにいくつも存在していた。

田植えに関しても、
五月の婚礼、八月の離れ月
という風習があった。
これは、旧暦の五月と八月に
婚礼をとり行なうのを避けるように、戒めたもの。

旧暦の五月は、田植えの最盛期。
婚礼に人手を出すどころではなく
しかも梅雨時に重なるとあって、
花嫁行列などしようものなら、晴れ着は台無しになる。
実に理にかなった言い伝えであった。

しかし今や旧暦の五月、今の暦で六月は、
「ジューンブライド」として婚礼の最盛期。
欧米の「ジューン」には梅雨などなく
日本にそのまま取り入れるのは
本来は無理がありそうなものだが、
そんな懸念もなんのその。

挙式場所の変化や空調の発達で
梅雨時の晴れ着の心配が減ったこともあるが、
なにより日本の農業人口が減り、
田植えの日取りとの兼ね合いを
気にする人が減ったということも、
普段は気づきもしないが、
実は大きな要因のように思える。

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熊埜御堂由香 15年6月28日放送

150628-06
Emran Kassim
お米の話 振り米の言い伝え

お米が主食として行き渡るようになったのは、
第二次世界大戦中の配給米からだといわれている。
それまでは、麦や、アワ、ヒエなどで人々は食をつないできた。

そんな日本の農村に「振り米」という言い伝えが残っている。
重い病人が村にでると、よその村からひとにぎりの米を借りてきて、
竹の筒に入れて振って、耳元で米の音を聞かせていたのだ。
「ああ、がんばれば、米が食べられかもしれない」と
気力がでて生き延びるひともいれば、
亡くなっても安らかな顔をして冥土へ旅立てたという。

食べることは、生きることと言うが、
つやつやの白いお米は、日本人の生きる希望
そのものなのかもしれない。

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熊埜御堂由香 15年6月28日放送

150628-07

お米の話 魯山人の質問

食通で知られる北大路魯山人が
料亭、星岡茶寮(ほしがおかさりょう)の顧問をしていた頃。

雇う料理人には、第一にこう聞いたという。

 きみは飯が炊けるか?

ご飯も立派な料理と考えていた魯山人。
その面接は、とびきり厳しかったに違いない。

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薄景子 15年6月28日放送

150628-08

お米の話 八十八人の神様

子どもの頃、茶碗に一粒でもごはんが残っていたら、
「お米一粒には八十八人の神様が宿っているのだから、残さず食べるように。」
などと、たしなめられたことはないだろうか。

地域によって、神様の人数には諸説あるが
八十八人という数字の由来は、
米という字が、八十八という漢字からできていて
米の収穫までに八十八の工程があり、
手間暇かけた分だけ、神が宿るからだと言われている。

毎日のごはんが食卓に届くまでに、
作る人の手間と苦労と愛情がどれだけこめられているだろう。
そんな思いでごはん粒を見つめていたら、
お米そのものが神様ではないかと思えてくる。

きょうも、おいしいごはんを、ありがとうございます。
感謝しながらいただくと、ごはんはますますおいしくなる。

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佐藤理人 15年6月27日放送

150627-01

ドラえもんの作り方①「ポロンちゃん」

 破滅だ! 
 
1969年のある日、漫画家藤子・F・不二雄は、
そう叫びながら自宅の階段を駆け下りた。

新連載のアイデアが何ひとつ思い浮かばない。
焦燥感に駆られて廊下に足を踏み出した瞬間、
何か丸いものに躓いた。 

 ポロン♪

それは娘の起き上がりこぼし。人形が奏でる音に合わせて、
頭の中に散らばったパズルのピースが次々とハマっていく。
 
近所のどら猫。未来のロボット。
ポケットの中の秘密道具。タイムマシン。

 パパ、ポロンちゃんを蹴飛ばしちゃダメッ!

娘の声で我に返ると、そこにはもうドラえもんがいた。

それから半世紀近くに渡り、
自分の発明が世界中の子供達を虜にすることなど、
彼はまだ知る由もなかった。

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佐藤理人 15年6月27日放送

150627-02
panDx1
ドラえもんの作り方②「少年の心」

子どものリアルな姿を描く。
それは漫画家にとって最も難しいことのひとつ。

目線の高さに気づかず、
つい子どもの姿をした大人を描いてしまう。

しかし「ドラえもん」の作者、
藤子・F・不二雄はそんな悩みとは無縁だった。

彼は執筆の合間を縫って、
三人の子どもたちにたくさんの本を読んであげた。
トムソーヤの冒険。ファーブル昆虫記。
子どもの目線で共に驚き、ワクワクすることで、
自分もまた一人の子どもに還ることができた。

彼のタイムマシンは引き出しの中ではなく、
本棚にあった。

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佐藤理人 15年6月27日放送

150627-03

ドラえもんの作り方③「感動の味」

大長編ドラえもんのシリーズ第一作、
「のび太の恐竜」は「野生のエルザ」から生まれた。

親を失った子ライオンのエルザを育てたのち、
野生を取り戻すためサバンナに帰す感動の実話。

「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄は、
愛する者を愛するが故に突き放す、
その自己犠牲の心に感銘を受けた。

「のび太の恐竜」のラストシーンは、
目の肥えた大人も唸る辛口のハッピーエンド。

子ども向けの漫画だからこそ、
メッセージはお子様ランチにしない。

それもまた、
映画を観てくれる子どもたちへの愛だった。

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佐藤理人 15年6月27日放送

150627-04

ドラえもんの作り方④「SF」

 ありそうもない話をありそうに描きたい

それが「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄の夢。

日常のありふれた出来事ほど、
視点を変えればワクワクする冒険になる。

彼は言う。

 僕にとってのSFは、
 サイエンスフィクションではなく、
 「少し不思議」のこと

民話や伝承など、この世の言い伝えの多くは不思議な話。
昔々、おじいさんがおばあさんと若い娘と三角関係に落ちて…
といったリアルな話はひとつもない。

想像力。それは神様が人間にくれた、
現実を生き抜く力なのだろうか。

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飯國なつき 15年6月21日放送

150621-01

太陽① やなせたかし

 ぼくらはみんな生きている
 生きているから笑うんだ

やなせたかしが作詞した童謡、「手のひらを太陽に」。

この歌を作った時、やなせたかしは、
「自殺したいほどの」厭世的な気持ちに満ちていた。

漫画家を自認しながらも、仕事がうまくいかない日々。
暗いところで、冷たい手を暖めながら仕事をしていると、
ふと、自分の手のひらの赤さが電球で透けて見えた。

 ぼくは(中略)
 自分自身についても全く嫌気がさしていたが、
 それなのになんとぼくの血はまっかで元気そうに動いているのだろう。
 こんなに血が赤いのに、
 ぼくはまだ死んではいけないなとその時に思った。

きっとその時、
ぎらぎらと熱い「太陽」が
やなせたかしの心の中で輝きはじめていた。

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飯國なつき 15年6月21日放送

150621-02
M-Kou
太陽② 岡本太郎

1970年に開催された大阪万博。
シンボルとして、テーマ館の屋根を突き破って
そびえ立つのはかの有名な「太陽の塔」である。

屋根には、当初、穴を開ける予定はなかった。
ところが、岡本太郎は
「べらぼうなものをつくりたい」と言い出し
どうしても70メートルの高さが必要だと譲らなかった。

その土俗的なデザインは、
万博のテーマである「人類の進歩と調和」というテーマを
否定するためだったともいわれている。

岡本太郎はこんな言葉を残している。

「人類は進歩なんかしていない。
 なにが進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。
 皆で妥協する調和なんて卑しい」

屋根を突き破り、そびえたった、岡本太郎の魂。
万博から40年以上たつ今でも、
人々の心を揺り動かし続けている。

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