大友美有紀 15年5月3日放送

150503-03
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「家付き」小島康宏(こじまやすひろ)

1966年、26歳だったタカラ社員、小島康宏は、
当時の社長、佐藤安太から着せ替え人形を入れる
キャリングケースの製造担当に任命される。
小島は、アメリカ輸出向けのビニール玩具の需要が減り、
赴任先の香港工場から呼び戻されたばかり。
「だっこちゃん」人形で空前のヒットを記録したタカラだったが、
このころはビニール玩具の需要が減り、事業の多角化が求められていた。
バービー用に持ち運びできるドールハウスがあることは聞いていた。
けれど、実物を見たことがない。銀座のデパートを数件回っても見つからない。
神田の古書店でシアーズの通販カタログを手に入れ、
どういうものかやっとわかった。
横長のトランクケースをあけるとソファ、テーブルやベッドなどの家具がある。
部屋そのもの。アメリカの豊かさを感じさせるハウスだった。
カタログにあったインチ表示を見ながら試作すると
横66センチ、縦35センチの随分大きなものになってしまった。

 日本の女の子には、バービー用のドールハウスでは大きすぎる。
 小さいサイズの人形を作り、それにぴったりのハウスをつけて
 一緒に売り出したらどうだろう。

そのころ、結婚するなら「家付き、カー付き、ババァ抜き」という言葉が
流行っていた。人形に、その流行の家が付くのなら、
子どもたちも大喜びするはず、と考えた。

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大友美有紀 15年5月3日放送

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「リカちゃんハウス」照井真澄(てるいますみ)

リカちゃん人形の初代開発者、小島康宏と一緒に開発に取り組んだ人物がいる。
照井真澄。人形劇の舞台美術をやっていたという経歴の持ち主。
小島は人形担当。照井はハウス担当。
日本は戦後から脱しきれていない時代。
玄関を入ると三和土があり、畳の上に絨毯を敷いて
応接間にしている家がたくさんあった。
作るからには今までにない夢がたくさんつまったハウスにしようと考えた。

 カバンを開けてただのお家じゃ、つまらない。
 宮殿や噴水のあるロマンティックな雰囲気を出すために、
 舞台の書き割りのようなだまし絵を入れることにした。

照井は、だまし絵にこだわった。
階段は優雅な曲線で、遠くの欄干にも蔓草や貝殻の模様をしっかり刻む。
遠近法で正確に写し出して、だまし絵の世界を成立させる。
今でもハウスの背景を覚えている、元少女たちが多いのも、
照井のこだわりがあってこそだ。

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大友美有紀 15年5月3日放送

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Vintage Japan-esque
「少女まんがの世界」小島康宏(こじまやすひろ)

タカラがリカちゃん人形の開発に着手した当時、
ファッションドールの市場競争は激化していた。
タカラは後発である。
初代開発担当の小島たちは、どんな人形にするか、必死になって考えていた。
りぼん、マーガレット、なかよしなどの少女まんが雑誌を端から読んだ。
ストーリーは、どれもお涙頂戴物。ヒロインは家が貧乏だったり、
父親が不慮の事故で死んでしまったり。
まんがを読んでいる女の子たちが身近に感じてくれる人形がいい。
日本の女の子たちが迷わず友達にしてくれるような人形。
少女まんがを眺めていると、そこには女の子たちが触れている空気、
少女特有の感慨や好奇心であふれていた。
この世界を立体化したらどうだろう、という考えが沸いてきた。

一番はじめのリーフレットに記載された
リカちゃんのプロフィールにもその世界観が生きている。

 お父さん、フランス人。お母さん、日本人。
 リカちゃん、とてもやさしい。好きなこと、絵がじょうず。
 べんきょう、あまりできない。
 悩み、フランスにわたった父がわからない。

少女たちが大好きなものを形にする。
こんな当たり前のことが、当時のファッションドール業界では
独創的で新しい発想だった。

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大友美有紀 15年5月3日放送

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「視線」いづみちゃん

人形の目は、左右どちらかを向いていることが多い。
初代開発担当者の小島は、彩色を行う時、
目は正面ではなく左右どちらかを向かせてほしいとお願いした。
だからリカちゃんは視線が向かって右側を向いている。

  これに対してリカちゃんのお友達のいづみちゃんは、
  視線を正面に合わせてみました。
  澄んだブルーの瞳で前を見つめるいづみちゃんは、
  上品で清純で媚びない正統派の美しさがある。
  正面は正面で、よいものでした。

  
試作の彩色は、自然光のしたで行い、細かなやり取りをした。
ローズピンクが多かった人形の唇を、みかん色に、
というのも小島のアイデアだった。
つぶらな瞳にオレンジ色の唇をした日本人のルックスをした女の子、
リカちゃんは、こうして生まれた。

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大友美有紀 15年5月3日放送

150503-07
タカラトミーリカちゃん
「非対称の顔」小島康宏(こじまやすひろ)

リカちゃん人形の金型を起こす直前、開発担当者の小島は
最終OKがでた原形の粘土を、落としてしまった。
左側の鼻が少しへこんだ。
けれども、これぐらいなら大丈夫だろうと安易に考えて、
製造メーカーに渡してしまった。

  製造メーカーの担当の方は、粘土の原形を見て
  「これは、いい顔をしていますね」とほめてくれました。
  あれは鼻がちょっと押された分、顔が非対称になって
  より人間らしくなったということではないかと思います。

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大友美有紀 15年5月3日放送

150503-08

「リカちゃんの流行」小島康宏(こじまやすひろ)

1968年、リカちゃんに友達ができた。
やさしい「いづみちゃん」とかっこいい「わたるくん」。
そのころ「トリオ」という言葉が流行っていた。
3人は「リカちゃんトリオ」となる。
このころから着せ替えのドレスは格段にお洒落になる。
60年代後半、昭和元禄と呼ばれ好景気に浮かれた時代。
ミニスカートにパンタロン、ロングスカーフ、ボレロにマキシのコート。
新しいアイテムをどんどん取り入れていった。
 
 ただ、これにはひとつ決まりがあって、
 近寄りがたい最先端の流行ではなく、
 それを着た人を東京の下町でも見かけるようになったら、
 リカちゃんも即OKとしました。

 
いつかは手の届きそうな流行を届ける。
初代開発担当者の小島は、
リカちゃんは女の子たちの半歩先を行く憧れの存在と考えていた。

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佐藤延夫 15年5月2日放送

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生みの親/尚道子

15世紀のことになる。
琉球諸島を統括し、はじめて統一権力を確立した
尚思紹(しょうししょう)と嫡男の尚巴志(しょうはし)は、
琉球王国の歴史をつくった。

それから500年以上が経ち、
琉球王族の末裔に嫁いだ人がいた。
尚道子(しょうみちこ)さんは、料理研究家でもあった。

ウインナーに切れ込みを入れて食べやすくなり、
見た目も可愛い「たこさんウインナー」は、彼女が考案した。

このおかずは、今もなお
日本中のお弁当と子どもたちの心を統一している。

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佐藤延夫 15年5月2日放送

150502-02

生みの親/華屋与兵衛

江戸は両国に「華屋」という寿司屋があった。
そこで評判になったのは、
鯖、小肌、アナゴなどを酢飯にのせた
江戸前の握り寿司。
なかでもネタとシャリの間に
わさびを挟み込むのが人気で、
この寿司屋はとても繁盛したそうだ。

主の名前は、華屋与兵衛。
天保の改革では、寿司が贅沢品とみなされ投獄の憂き目にあうが
寿司とわさびの組み合わせは、日本全国に広まっていった。

みんな、美味しいものには貪欲だ。

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佐藤延夫 15年5月2日放送

150502-03
Carl E Lewis
生みの親/上杉謙信

笹の一種、クマザサには抗菌作用があり
古くから食品の保存に利用されてきた。
戦国時代、武士が戦に出るときに
携帯しやすく日持ちのするものとして考えられたのが、
団子をクマザサで包む「笹団子」だ。
真偽のほどは定かではないが、
考案したのは、かの有名な戦国武将、
上杉謙信という説もある。

昔から、端午の節句の供物だった笹団子。
もし、いただく機会があったら
出陣する武士の気持ちになってみるのもいいかもしれない。

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佐藤延夫 15年5月2日放送

150502-04

生みの親/斎藤義政

大正時代、フルーツパーラーを経営していた斎藤義政は、
秋冬用の新メニューを考えていた。
イチゴやスイカなど人気の果物がない秋は、客足が遠のくからだ。

まずは、ヨーロッパで見た「パンチ」という甘いカクテルに
フルーツをたっぷり飾ろうと考えた。
では名前はどうするか。
当時の風刺漫画は「ポンチ絵」と呼ばれており、
そこからネーミングを拝借し、フルーツポンチに決まった。

季節のフルーツで彩られた新メニューは、
当初の狙いから大きく外れ、
一年中愛される看板メニューになったことは言うまでもない。

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