大友美有紀 15年1月4日放送
nicolacassa
「郵便の語源」前島密(まえじまひそか)
「郵便」という言葉は、前島密の造語と思われている。
しかし、「郵」とは元来「宿場」のこと。
「駅」と同じように公用文書の送り届けも行っていた。
駅には馬偏がついている。
中国では騎馬で送り届けることを駅逓(えきてい)。
徒歩で送り届けることを郵逓(ゆうてい)と言った。
江戸時代の漢学者は飛脚便のことを「郵」の字を使って、
郵便と呼ぶこともあった。それを前島が採用した。
はがきも「はしがき」から来た言葉だが、
葉っぱの葉に、書の字の葉書に決めたのは、前島だ。
葉書なる名称を付すること
言葉において知りやすく
意味においても的を得ている。
覚えやすく、わかりやすく、
そして親しまれやすく。
日本の郵便事業は拡大していった。
佐藤延夫 15年1月3日放送
あの人のお正月 大槻玄沢
江戸時代の蘭学者、大槻玄沢。
彼の「玄沢」という名前は、尊敬する2人から一文字づつ貰っている。
医学の師匠、杉田玄白の「玄」と、
蘭学の先生、前野良沢の「沢」。
そして彼自身もまた蘭学の塾を開き、
多くの後継者を育てた。
大槻玄沢は、初めて西洋風の正月を祝った日本人と言われる。
寛政6年の11月11日。
この日は西暦1795年の1月1日にあたることから
オランダ正月と名付け、毎年ニューイヤーパーティーを開いた。
肖像画では難しい顔をしているが、
楽しいこともお好きだったようで。
佐藤延夫 15年1月3日放送
あの人のお正月 十返舎一九
江戸時代の浮世絵師、十返舎一九。
「東海道中膝栗毛」の作者でもあり、
日本で最初に文筆業のみで自活した人物と言われている。
流行作家になっても酒と女に溺れてしまい
生涯、貧しい生活だったそうだ。
正月に着る衣装がなかった彼は、ある計画を練った。
それは、年賀に訪れた客を風呂に入れ、
その間に衣装を拝借し、正月の挨拶を済ませてしまうこと。
流行作家らしい、荒唐無稽なお正月。
佐藤延夫 15年1月3日放送
あの人のお正月 一休宗純
室町時代の禅僧、一休宗純。
6歳で出家し、
詩歌や書画に優れた才能を見せるが、人柄は自由奔放。
かなりの変わり者だったと伝えられている。
ある年の正月には、
竹の棒に骸骨を載せて
この歌を呟きながら街を練り歩いたそうだ。
「門松は冥土の道の一里塚、
めでたくもあり、めでたくもなし」
「めでたい」と言って笑っているのもいいけれど、
またひとつ、年を取るんですよね。
佐藤延夫 15年1月3日放送
備忘録 旅人
あの人のお正月 東くめ
童謡「お正月」が生まれたのは
今から100年以上前、1901年のことだ。
作詞を担当したのは、東くめ。
当時、幼児教育に力を尽くしていた夫からの依頼だった。
そのとき、くめが相談した相手は
学生時代の後輩、滝廉太郎。
そして日本初となる、話し言葉による童謡の数々が生まれた。
「お正月」のほかにも「鳩ぽっぽ」などの作品を残したが
その2年後、滝廉太郎はこの世を去る。
一方のくめは、90歳までピアノ教師として働いた。
きっと毎年、子どもたちに
お正月の歌を弾いてあげたのだろう。
中村直史 14年12月28日放送
Marianne Bevis
言葉2014 ロジャー・フェデラー
「もうフェデラーの時代は終わった」
そんな観客たちの声を、彼は感じていただろうか。
2014年ウィンブルドン。
ピークを過ぎたはずのロジャー・フェデラーは躍動した。
体力が落ちた分は技と精神力でカバーした。
ピンチを何度ものりこえ、進んだ決勝戦。
第4セット。
対戦相手ジョコビッチのマッチポイント。
さすがに、フェデラーもここまでか。
だれもが思った。力の差は歴然に見えた。
けれど、ここからのフェデラーはすさまじかった。
毎日少しずつ何かをあきらめている僕らは、
決してあきらめちゃダメなんだと、
最終セットに突入するフェデラーを見て思った。
表彰式。チャンピオン、ジョコビッチの第一声。
僕はフェデラーのありとあらゆるすべてを尊敬する。
それは場を盛り上げるための
賛辞なんかではなかった。
中村直史 14年12月28日放送
Se7en Summits
言葉2014 石川直樹
写真家であり、冒険家でもある、石川直樹。
彼の写真が特別な理由はシンプルだ。
だれも行ったことのない場所で写真をとれば、
だれも見たことのない写真になる。
でも、この世界に
だれも行ったことのない場所なんて残っているのだろうか?
インターネットでどんな場所のことも知ることができるこの世界で?
そんなギモンに、石川直樹は答える。
世界を知ったつもりになると、とたんに世界はつまらなくなる。
毎日歩く駅までの道のりだって、
本当はまだ何も知らないのかもしれない。
毎日は冒険なのだ。
三島邦彦 14年12月28日放送
さようなら2014 エボラ出血熱と闘う人々
アメリカのタイムズ誌が選ぶパーソンオブザイヤー。
その年最も世界に影響を与えた人物を選ぶこの企画が、
2014年に選んだのは、
The Ebola Fighters。
「エボラ出血熱と闘う人々」だった。
西アフリカからの世界的な大流行の兆しに、
国際社会が恐怖した2014年。
その中で、感染の拡大防止に取り組む人々がいた。
その一人、看護助手サロメ・カーワーさんは
国境なき医師団の一員として
日々患者の入浴や食事の手伝いをしている。
両親をエボラで失い、自らもエボラに感染しながら生き抜いた彼女。
国境なき医師団に加わった理由をこう語る。
神様が私にもう一度、他の人を助けるチャンスをくれた気がするんです。
人類を救おうとする勇気。献身。
彼らのかけがえのない努力のおかげで
わたしたちは新しい年を迎えることができる。
三島邦彦 14年12月28日放送
The_Old_Grey_Wolf
さようなら2014 ディディエ・ドログバ
その瞬間、テレビの前にいた誰もが、スタジアムの空気の変化を感じた。
2014年6月14日。
ワールドカップ日本対コートジボワール。
前半に日本が1点を先制して迎えた後半、ひとりの選手が途中出場した。
ディディエ・ドログバ。
かつて、テレビカメラに向かって語りかけたことがきっかけで、
激しかった内戦が停止したという伝説の男。
ドログバはその時のことをこう語る。
サッカーは宗教のようなもの。その影響力を母国の未来のために活用したまで。
母国では大統領以上の影響力を持つ
その男の背中に、
多くの人は神を見た。
三島邦彦 14年12月28日放送
keith Allison
さようなら2014 デレク・ジーター
ニューヨークの貴公子と呼ばれた野球選手、デレク・ジーター。
今年、その華やかな野球人生に幕を閉じた。
宇宙飛行士が宇宙からメッセージを贈るなど、
この上なく豪華な引退セレモニー。
そのスピーチで、彼はこう語った。
思うに私は世界でもっともすばらしい仕事に就いてきました。
たった一つしかないニューヨークヤンキースの遊撃手になる
チャンスに恵まれたのです。
どんな重圧をも楽しめる心。
それが彼の何よりの武器だった。