森由里佳 14年11月9日放送
風呂⑥ 自由と平等と銭湯と
慶應義塾の創設者である福沢諭吉。
「学問ノススメ」で、自由と平等を説いたことは有名だ。
しかし、
慶應義塾の向かい、芝の三田通りで、
銭湯を経営していたことはあまり知られていない。
福澤は、著書「私権論」でこんなことを書いている。
銭湯に入る者は、氏族であろうが、平民であろうが、
みんな等しく湯銭を払い、身辺に一物なく丸裸である。
銭湯の入浴には、なんら上下の区別なく平等であり、
かってにはいっても、出ても自由である。
総理大臣も赤ん坊も、
風呂に入ってしまえばみな同じ人間。
当時の日本に必要だったのは、
政治でも外交でもなく、
裸の付き合いだったのかもしれない。
蛭田瑞穂 14年11月9日放送
お風呂⑦ 太宰治
昭和十四年、結婚したばかりの太宰治は
甲府の郊外に新居を借りた。
午後三時まで自宅で仕事をした後、
ほぼ毎日のように近所の共同浴場に通った。
風呂の後には湯豆腐を肴に地酒を飲むのが、
何よりも楽しみだったという。
これまでの生涯を追想して、
幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期。
甲府での日々を太宰は後にそう回顧している。
蛭田瑞穂 14年11月9日放送
お風呂⑧ 川端康成
私は高等学校の寮生活が、
一、二年の間はひどく嫌だつた。(中略)
私の幼年時代が残した精神の疾患ばかりが気になつて、
自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた。
それで伊豆へ行つた。
旧制一高の学生だった川端康成は精神の静養のため伊豆へ旅に出る。
旅の途中、湯ヶ島温泉での旅の踊子との出会いが、
後に小説『伊豆の踊子』誕生のきっかけとなるのは有名な話だ。
心が晴れない時は、温泉に行ってみよう。
日常とはちがう世界がそこにはある。
道山智之 14年11月8日放送
チャイコフスキー 1
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
彼の「ピアノ協奏曲第1番」は、
それをささげたモスクワ音楽院院長のルビンシテインに
酷評された。
「ほとんどを書き直さなければ、演奏することはできない」
チャイコフスキーは答えた。
「私は1音も変える気はありません。このまま出版します」
翌年、この曲はボストンでの初演で大成功。
まず彼はアメリカで認められた。
それにつづくサンクト・ペテルブルグでの演奏では、
なんとルビンシテインが指揮をつとめることになった。
その3年後に完成した「ヴァイオリン協奏曲」は、
評論家に「悪臭を放つ音楽」とまでも言われる。
しかしその後、ヨーロッパ中で人気を獲得していく。
チャイコフスキーが生まれ育ったロシアの田舎の体温と、
ヨーロッパの感性が絶妙に融合した、
新しい時代の音楽。
認められるには、少しばかり時間が必要だった。
バレエ振付家、ジョージ・バランシンは語る。
「曲がはじまるや否や、チャイコフスキーだとわかる。
“まぎれもなく彼だ!”と。
そうまでさせる人は、多くはありません」
道山智之 14年11月8日放送
チャイコフスキー 2
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
結婚に失敗し、
精神的に追い詰められていた彼をささえたのは、
大富豪の女性、フォン・メックだった。
9歳年上のフォン・メック夫人は、
決して会わないことを約束に、
チャイコフスキーを経済的に援助。
14年にもわたって文通をつづけた。
チャイコフスキーは支援のおかげで
ヨーロッパ中をさすらいながら、
「弦楽セレナーデ」や「眠れる森の美女」など
珠玉の作品を書き上げた。
決して会わないと誓った純潔と、おさえきれない友情。
言葉にできないその想いが、
名曲として結晶したのかもしれない。
チャイコフスキーは、婦人あての手紙に書いている。
「ハイネの指摘どおり、
言葉の終わるところから、
音楽ははじまるのです。」
道山智之 14年11月8日放送
Indabelle
チャイコフスキー 3
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
大好きな妹サーシャの訃報を知ったのは、
指揮者として、カーネギーホールのこけらおとし公演へ向かう
途中のことだった。
アメリカで、故郷よりもずっと熱狂的に
受け入れられたチャイコフスキー。
彼は帰国後、あるバレエ曲を書き上げる。
「くるみ割り人形」。
幼いころ母をなくしたあと、つらいときも
ずっと自分の心のささえになってくれた妹。
彼はその面影を、この兄妹のストーリーの中に
夢のような美しいメロディの糸で織り上げていった。
この曲は、
のちにマイケルジャクソンをしてこう言わしめた。
「いちばん好きなのは、「くるみ割り人形」。
ポップスのアルバムでは当たり曲は普通1曲だけなのに、
あの組曲は1曲1曲すべてがすばらしい。
あんな、1000年たっても聞きたいようなアルバムをつくりたかった。」
ポップで、ダンサブル。
チャイコフスキーの音楽は、国境なんてかるがる超えて、
人の心に入ってくる。
道山智之 14年11月8日放送
チャイコフスキー 4
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
幻の交響曲「人生」。
未完成のまま終わったが、
そのテーマが引きつがれてできたといわれる曲がある。
交響曲第6番「悲愴」。
このタイトルはフランス語では“Simphonie Pathétique”、
たしかに「悲愴」と訳されるが、
元々チャイコフスキーが自筆の楽譜に書きこんだのは
ロシア語“патетическая(パテティチェスカヤ)”。
「情熱的」「心を動かす」という意味だった。
「この曲は、私の作品の中で、もっとも心のこもった曲だ」
初演されたわずか9日後に、彼はこの世から旅立ったために、
「悲愴」というタイトルは謎めいた響きを持つことになった。
しかし彼は、けして遺言がわりにこの曲を書いたのではなく、
これからもいい仕事をする気満々だったのではないだろうか。
ちょうどこの頃、とある劇場からの指揮の仕事も引き受けたばかりだったという。
“チャイコフスキー 交響曲第6番「情熱」”
タイトルを心の中で置きかえて、
そっと目をとじ聴いてみる。
彼の想う「人生」を感じてみる。
大友美有紀 14年11月2日放送
Minneapolis Institute of Arts
「父の言葉」絵画修復家・岩井希久子(いわいきくこ)
日本では、まだ数少ない「絵画修復」という仕事。
岩井希久子は36年前に修復の仕事を始めた。
この道を選ぶきっかけとなったのは、
父の言葉だった。
世の中に絵描きは掃いて捨てるほどいるけれど、
修復家はいない。
当時、岩井の父は、熊本県立美術館の建設準備室の室長だった。
ヨーロッパの名だたる美術館を視察し、本物の芸術に触れ、
職人が芸術を支えていると実感していた。
絵描きを目指していた希久子は、画家との結婚を機に、
修復家になることを決意した。
大友美有紀 14年11月2日放送
「ゴッホ」絵画修復家・岩井希久子(いわいきくこ)
絵画修復家・岩井希久子がゴッホの「ひまわり」の
修復をしたのは、2005年のこと。
1987年のバブル期に日本に来てから18年の時が経っていた。
展示ケースの中にあっても目に見えないホコリは、
絵に少しずつ溜まっていく。
筆致が強く絵の具のエッジが突起のようになっている、ゴッホの絵。
クリーニングの作業は、フラットな絵の3倍かかった。
表面のニスも変色していたので、除去した。
汚れやニスを落とし、修復が終わると
オリジナルのきれいな黄色が鮮やかに
浮かび上がってきました。
まるでお風呂上がりのよう。
絵全体の明度が上がり、明るくやわらかい黄色が
甦ったのです。
大友美有紀 14年11月2日放送
「モネ」絵画修復家・岩井希久子(いわいきくこ)
絵画修復家・岩井は、展覧会の際、
海外からやってくる絵の状態をチェックする、
という仕事も担当する。
バブル期に世界中から集まってくる絵をたくさん見る中で、
状態の悪い絵が多いことに心を痛めた。
絵は酸化によって劣化する。
そして思いついたのが「低酸素密閉」。
お菓子の袋に入っている脱酸素材がヒントになった。
地中美術館に展示されているモネの「睡蓮」は、
作画当時のままのピュアな状態で残っている貴重な作品。
「低酸素密閉」のアイデアをもとにした隔離密閉を行っている。
私は、いかに保存していくかが最も重要だと考えています。
状態が悪くなったら、修復してそれで終わり、
というのではなくて、病気にならないほうがいいに決まっています。
地中美術館の「睡蓮」は、
モネが描いたままの絵の具の質感とつや、
絵の具の突起がそのまま残っていた。
ニスもかかっていない。
この絵が病気にならないように、保存は続いている。