大友美有紀 14年9月7日放送
「動物園の人々」北九州到津(いとうづ)の森公園・岩野敏郎(いわのとしろう)
閉園寸前まで追い込まれて復活した旭山動物園のように、
再生した動物園が北九州にある。到津の森公園。
園長の岩野敏郎は旭山の元園長小菅とは、長年の盟友だった。
1973年、岩野は獣医師として動物園の経営母体だった西日本鉄道に入社。
97年には園長に。赤字続きだった園をたてなおすぞ、
と意欲に燃えていた矢先に、閉園を告げられる。
その後、市民の署名運動が起こり、市が動物園を受け継ぐことになる。
岩野はその時には部外者だ。動物園の構想を相談されることもない。
しかし、開園まで半年、というタイミングで園長を打診される。
もうハードはできてしまっている。
ないものねだりをしても始まらない。
大事なのは飼育員の精神性、つまりソフトです。
ハードからハートをとれば濁点が2つ残るだけ。
ハードの中に自分たちの思いがなければダメなんです。
到津の森公園の理念は「市民と自然を結ぶ窓口」。
今日もたくさんの人たちが足を運ぶ。
佐藤延夫 14年9月6日放送
Kaiser Acore
ウォーレン・バフェットの教え1
アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。
証券会社を営んでいた父の影響か、
投資への才能は、小さなころから芽生えていた。
6歳のときには、コーラ6本を25セントで仕入れ、
1本5セントで売った。
中学生になると、新聞配達を始める。
といっても、汗水流して走り回るわけではない。
50人の子供を集め、時給50セントで雇い、事業として経営した。
そして高校を卒業するころには、1万ドルの資金ができた。
その少年はやがて、経営する投資会社の株価を
45年で82万%も上昇させ、天才と呼ばれるようになった。
ウォーレン・バフェットは言う。
ゲームに勝つには、とにかく先手を取ることだ。
佐藤延夫 14年9月6日放送
chuckp
ウォーレン・バフェットの教え2
アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。
彼は偉大な投資家だが、倹約家でもある。
それなりの資産を手に入れたのに、
結婚してしばらく暮らしたのは、借家だった。
家族ができると一戸建てを購入したが、価格は3万1500ドル。
決して高い金額ではない。
しかしバフェットは考える。
この金額を複利で運用した場合、
10年後、20年後にはいくらになるか、ということを。
彼の、こんな言葉がある。
「本当に私はこの散髪に30万ドルを費やしたいだろうか」
せいぜい300ドルの散髪代だって、
運用すればいつか、30万ドルになる可能性だってある。
佐藤延夫 14年9月6日放送
Boa-sorte&Careca
ウォーレン・バフェットの教え3
アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。
彼が投資の世界で成功できたのは、
幅広い業種の中で、
自分が理解できる分野とそうでない分野を
はっきり区別したからだ、と言われる。
たとえ人気のある銘柄でも、
自分の考えが及ばない分野であれば
一切、手を出さなかった。それは、
「よその連中のほうに有利なゲームではプレイしたくない」
という哲学。
彼の、こんな言葉がある。
「ポーカーをやり始めて20分たっても、
まだ誰がカモかわからない人は、自分がカモなのだ」
ただ世間を眺めていても、それは1ドルにもならない。
佐藤延夫 14年9月6日放送
Collinulness
ウォーレン・バフェットの教え4
アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。
彼が長年暮らすのは、ウォール街ではなく
生まれ故郷の、ネブラスカ州オマハという地方都市だ。
投資を生業にする人間が、ニューヨーク以外に住むのは
本来、あり得ないこと。
しかしバフェットは、変化をリスクと捉えた。
ウォール街は熱狂を生み、
ときにそれは、人から冷静な判断力を奪うと考えた。
情報や人の動きが少ない街で暮らす。
おかげで1日に8時間も10時間も本を読み、
思索にふけることができた。
「投資の世界では、好きな球が来るまでいつまでも待つことができる。
そして野手が眠ってしまったのを見計らってから球を打つことができる」
これが彼の哲学だ。
Oracle of Omaha〜オマハの賢人と言われる理由が、よくわかる。
三島邦彦 14年8月31日放送
ぜっとん♪
あの人の夏 阿久悠
「怪物」と呼ばれたヒットメーカー、阿久悠。
作詞家としてこれ以上ない多忙を極める中でも、
毎年夏の15日間は特別な仕事のために空けられていた。
その仕事は、夏の甲子園を見て、一日に一篇の詩を書くこと。
大会期間中の阿久は、
一日四試合、片時もテレビの前を動かなかった。
画面から目を離さずに食べられるよう、食事はいつもどんぶり飯。
グラウンドの球児たちにも負けない気迫で一球も目をそらすことなく、
自己流のスコアブックに色鉛筆で結果や印象を綴っていく。
そして感じたドラマに対し、一回戦で敗退したチームにも、
優勝したチームにも、惜しみない称賛を送り続けた。
1979年から2006年まで足かけ27年、
その間に生まれた詩は、360篇を超える。
これは、その中の一節。
甲子園は去る人の闘いで
だから
熱狂の底に感傷がある
大物も去る 普通も去る
敗者も去る 勝者も去る
たとえ 優勝しても
終る人 去る人に変りはない
三島邦彦 14年8月31日放送
あの人の夏 いわさきちひろ
淡く幻想的な色彩で
こどもたちの姿を
描き続けた画家、
いわさきちひろ。
1945年8月。
ちひろ26歳の夏。
戦争が終わった翌日からつけはじめた日記が残っている。
青草がそっと足になびいてたまらなくいとしい。
この草草の色、山のあおさ、日本の大空よ!!
青春をまるごと戦争に奪われてしまった女性は、
その五感で、これまでとは違う夏を感じていた。
三島邦彦 14年8月31日放送
あの人の夏 中田喜直
夏が来れば思い出す
名曲「夏の思い出」の作曲家、
中田喜直(なかだよしなお)。
その父、中田章(なかだあきら)は、
春の代表曲「早春賦」の作曲家だった。
春の歌に関しては自分は父の『早春賦』にまさる曲を作ることはできない
父への敬意と対抗心。
息子は、夏を代表する歌を生んだ。
三國菜恵 14年8月31日放送
あの人の夏 少年アヤ
からだは男の子だけれど、心はどこか女の子。
かわいいものが昔から大好き。
そんな作家・少年アヤの夏は、
ハウスダストに苦しめられた夏だった。
好きが高じて集めたファンシーグッズの数々。
日焼けで傷まないように
大切にしまいこんでいたら、
埃の温床になってしまったのだ。
その光景を見たアヤ。
随分と申し訳ない気持ちになった。
物って、視線を行き届かせていないとたちまち傷む。
「愛してるよ、大切にするよ、宝物だよ」という姿勢が肝心な気がします。
さんざんな夏だったけれど、
モノとの関係を見直せた夏だった。
中村直史 14年8月31日放送
あの人の夏 天正遣欧使節
海外への旅がほぼ死を意味した
戦国時代のことだった。
弱冠13歳前後の4人の少年が
ヨーロッパを視察するため
長崎の港を旅立った。
伊藤マンショ、千々岩ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。
2年半にも及ぶ航海の末、
4人は真夏のポルトガルに上陸する。
彼らの経験は想像を絶するものだった。
けれど、彼らの記録は日本から消し去られることになる。
4人が戻った日本は
キリスト教を許さない国になっていた。