三國菜恵 14年6月22日放送
雨の季節に 大正時代の中央気象台
マイクテスト。マイクテスト。本日は晴天なり。
テスト放送のことばとして
「本日は晴天なり」というフレーズが
大正十四年、中央気象台で採用された。
当時英語圏でテスト放送に使われていた
「It’s fine today.」を直訳して
日本の放送に採用しようという流れからだった。
しかし本来英語圏では、
母音、子音、破裂音
放送テストに必要な発音のすべてが
「It’s fine today.」に含まれていたことから採用されたのだが、
「本日は晴天なり」というフレーズは
その条件をクリアできていない。
それでも、このフレーズは多くの人に愛された。
雨が降ろうが降るまいが、
「本日は晴天なり」。
外来語が急激に入ってきた大正時代。
きちんと役に立ったかはわからないけれど、
カラッと明るいマイクテストのことばがうまれた。
三國菜恵 14年6月22日放送
雨の季節に どこかのだれか
6月。雨の季節。
雨にもいろいろな言い表し方がある。
たとえば、こんな表現。
肘かさ雨(ひじかさあめ)
急に降り出した雨のこと。
肘を傘の代わりにして軒先まで走る様子からこう呼ばれる。
天泣(てんきゅう)
「天」が「泣く」と書いて、天泣。
空に雲が無いのにぱらぱらと細かい雨が降ってくることをさす。
狐の嫁入りとも呼ばれる。
ただそこに降る雨を、
何か美しく言いかえようとしたり、あえて擬人化してみたり。
雨は人をちょっとだけ、文学者にしてしまう。
道山智之 14年6月21日放送
Phil Guest
バート・バカラック1
作曲家、バート・バカラック。
今年4月に来日したとき、彼は85歳。
ピアノを弾きながら、歌いながら、同時にオーケストラへの指揮を華麗にこなし、
感動的なステージをつくりあげた。
今回の来日は、前回の2012年から
まだ1年半しかたっていない。
彼はその理由を語っている。
「前回、私が日本へ来たとき、
心を開き、より深い感情を見せてくれたみなさんに
とても感動しました。
それは、以前日本に来たときとくらべると、
より感動的なものでした。
私は、地震や津波、それらによって発生した惨状を経験し、
日本のみなさんが心を開き、感じてくれたのだとほんとうに信じています。
多くの方々の感動を目の当たりにし、
心からそう思いました」
コンサートホールに響く彼のメロディは、
悲しみのあとにはなにかが待っているはず、という人生のメッセージそのものだった。
道山智之 14年6月21日放送
バート・バカラック2
作曲家、バート・バカラック。
彼は学生時代、作曲家ダリウス・ミヨーのクラスにいた。
他の生徒たちが、複雑で抽象的な曲を披露する中、
バートは自分の書く甘いメロディを引け目に感じていた。
演奏を聞き終わると、ミヨーは言った。
「口笛で吹けるメロディを書いたからと言って、
恥じる必要はまったくない」
「記憶に残るメロディをつくれる人間はめったにいない。
そしてそれは本質的な才能なのだ」
バートは、一生の教訓を与えてもらった、と語っている。
若き作曲家志望の学生にかけたひとことが、
その後の音楽史をぬりかえることになった瞬間だった。
道山智之 14年6月21日放送
realjv
バート・バカラック3
作曲家、バート・バカラック。
彼は語る。
「自分の書いた曲を、自分で守ろう、と思うようになってから
何かが変わった。
プロデューサーでなく、編曲者だったとしても、
スタジオに行ってやってしまう。
プロデューサーのクレジットはほかの人の名前でもかまわない。
曲を、守ることに興味があったんだ」
名曲「アルフィー」の録音で、
バートは大スター、シラ・ブラックに激しいボーカルを求めた。
テイク数は28にも及んだ。
「もっとうまくやれるんじゃないか?もう1回やってくれないか?」
そんなバートに、
プロデューサーのジョージ・マーティンがしびれをきらした。
「バート、キミはいったい何をほしがってるんだ?」
バートは答えた。
「ちょっとした魔法ですよ」
テイク数の多さに、シラは腹を立てていたが、
それが、がむしゃらな歌を生み、時をこえて心にのこるものとなった。
道山智之 14年6月21日放送
mfhiatt
バート・バカラック4
作曲家、バート・バカラック。
彼は語る。
「たとえただの握手だったり、路上でサインを求められたり、
自分の曲に誰かがコメントしてくれたりするだけでも、
そうしたつながりは私にとって大きなパワーと意味を持っている」
2008年、日本での公演終了後、
若い女性がバートと目があった瞬間言葉を失い、
涙を流しはじめた。
心打たれたバートは近づいて、そっと両腕で抱きしめながら思った。
「もし女性をこんな気持ちにさせる音楽をつくれるとしたら、
それだけで大したものじゃないか」
その女性の名は、椎名林檎。
さっそくバートから、楽曲「It Was You」を贈られた。
この曲は、彼がつくった最新の楽曲だ。
松岡康 14年6月15日放送
[puamelia]
上を向いて歩けば
1963年6月15 日。今日は坂本九の『上を向いて歩こう』が
アメリカのビルボートチャートで1位を獲得した日。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
「上を向いて歩く」
実はこの行為、ストレス耐性を鍛える効果があるという。
上を向くと、青い空が見える。
色彩心理学によれば青い色には「沈静」「クール」の意味があり、
心を冷静にしてくれるのだ。
また、明るい空の色は
副交感神経に作用して、脈拍や血圧を下げる。
体温も下がり、安らいだ状態に導いてくれる。
嫌なことがあったら、上を向いて歩いてみよう。
きっと、少しだけ心が強くなるはず。
奥村広乃 14年6月15日放送
作詞家のとまどい
1963年6月15 日。今日は『上を向いて歩こう』が
アメリカのビルボートチャートで1位を獲得した日。
「上を向いて歩こう」は、励ましの歌ではない。
と、作詞を手がけた永六輔は、言う。
この歌の歌詞は、1960年に起きた安保闘争で
感じた大きな挫折感を、表現したものであった。
この泣き虫の気持ちを歌った曲が、
たくさんの人に愛され、歌われることに
永六輔は作詞者としてとまどいを感じることもあった。
なぜ、ヒットソングになったのだろうと考えたとき、
こんな仮定にたどり着いた。
日本人は泣くのが好きなんです。
「上を向いて歩こう」はもともとが泣き虫の歌ですから、
いちばん素直に泣ける歌なんじゃないかなと思います。
澁江俊一 14年6月15日放送
作曲家のメモ
1953年に結成した「ビッグ・フォー」で、
アイドルさながらの
人気ピアニストとして活躍していた中村八大には
誰よりも苦しい時期があった。
初リサイタルの失敗、莫大な借金、
極度のスランプ、そして薬物への依存。
それでも助けてくれる友人がいた。
音楽家としての原点に帰るため
八大はアメリカとヨーロッパに渡り
現地で生の音楽を浴びるように聴いた。
そして1961年。
生まれ変わった八大は、
新たな一歩となる「上を向いて歩こう」を
初めて人々の前で演奏する。
中村八大22才のメモにはこんな言葉がある。
「中村八大は誰よりも苦しく、
誰よりも幸せでなければならない。」
世界中で愛された「上を向いて歩こう」は
若くして苦しみと幸せのすべてを
誰よりも味わった作曲家だからこそ、
生み出すことのできた歌なのだ。
澁江俊一 14年6月15日放送
dreampower-jp
本当はロックンロール
日本の有名なロックンロール!
ライブ中によく、そう叫んでは
「上を向いて歩こう」を歌った忌野清志郎。
その時、会場には必ず、
この上ない一体感が生まれた。
アメリカ遠征中の若きジャイアント馬場や、
日本人初のメジャーリーガー、マッシー村上。
そして野茂英雄…アメリカに渡り、
夢を叶えようとした日本の孤独なヒーローたちを
励ましたこの曲は、清志郎にとって、
間違いなく最高のロックンロールだったのだ。