名雪祐平 14年5月31日放送
薔薇よ、薔薇 クレオパトラ
世界三大美女、クレオパトラ。
毎日、薔薇の風呂に入り、薔薇の香水を体中に塗った。
寝室には、薔薇の花びらを
膝の高さまで敷きつめた。
その香りの中に、
ローマの英雄たちを招き入れ、
自分の男にしていったという。
その一人、アントニウス。
ローマを裏切り、ローマとの戦争に敗れ、
自害する。
10日後、
クレオパトラも後を追う。
39歳の体を毒蛇コブラに噛ませた。
薔薇の香水職人に見守られながら。
名雪祐平 14年5月31日放送
薔薇よ、薔薇 リルケ
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ
その多くの花はみちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
詩人リルケの
薔薇への愛情は
とてつもなく深かった。
たとえ、薔薇によって
自分自身が殺されたとしても。
薔薇の棘に刺された傷がもとで
51歳で死去したリルケ。
その墓に刻まれた傑作。
薔薇よ おお 純粋なる矛盾
それだけ多くのまぶたの下に
誰の眠りも宿さぬことの喜びよ
名雪祐平 14年5月31日放送
薔薇よ、薔薇 ゲーテ
童は見たり、野なかの薔薇
有名なドイツ歌曲『野ばら』の冒頭。
詩はゲーテによる。
実は物悲しい恋の歌。
この童は、大学生だったゲーテ自身。
薔薇は、恋人のフリーデリーケ。
二人が出会う歌の一番から打って変わり、
二番は鬼気迫る。
童は言った
おまえを折るよ
野ばらは言った
ならばあなたを刺します
いつも私を思いだしてくれるように
そして三番。
童は野ばらを折った
野ばらは童を刺した
薔薇よ、赤い薔薇よ 野なかの薔薇
村山覚 14年5月25日放送
貝原益軒の儒教的健康法
江戸時代の学者・貝原益軒が書いた
「養生訓」には自身の経験と中国の古典に
基づいた健康法が数多く載っている。
眠り過ぎるな
少量の酒は有益
薬や鍼灸に頼るな
当時としては珍しく
85歳まで生きた益軒先生の言葉には
説得力がある。
そうそう、「養生訓」にはこんな教訓も。
口数を少なくせよ
はい先生。分かりました。
村山覚 14年5月25日放送
Wil C. Fry
野村克也の亀的健康法
元プロ野球選手、野村克也 78歳。
ぼやく名監督ノムさんとしての印象が強いかもしれないが
選手として、監督として、出場した試合数もすごい。
現役27年間で3,017試合。
監督としては3,204試合。
半世紀以上に渡って球場に通い続けた男の大記録だ。
そんなノムさん、健康法を尋ねられたときに
こんな風に答えたそうだ。
亀やワニは百年生きるというけど、
見ていると川岸でじっとしているでしょう?
だからワシも動かないことが健康法です。
体は動かさなくても、頭の中は野球のことでいっぱい。
夢中になれるものを見つけた人に、休んでいる暇はない。
村山覚 14年5月25日放送
カルマンのプロヴァンス的健康法
122歳まで生きたフランス人女性、ジャンヌ・カルマン。
「人類史上最も長生きした人物」として
ギネスブックに載っているだけではなく、
フィンセント・ファン・ゴッホと街の画材店で会ったことがある、
85歳からフェンシングを始めた、
100歳まで自転車に乗っていた、
114歳で映画に出演した、
など、話題に事欠かないアクティブな女性だった。
煙草も晩年まで吸っていたそうで、
禁煙をした理由は「介護してくれる人に
マッチを擦ってもらうのが申し訳ないから」。
なんともチャーミングな理由である。
長寿に憧れ、尊敬の念を抱く人々やマスコミは
彼女の食生活や習慣、つまりは“健康法”を真似しようとした。
ポートワインをよく飲んでいた
チョコレートが大好きだった
オリーブオイルを好み、肌にも塗っていた
毎日、日光浴をしていた
友達とよくおしゃべりをしていた
どれも真似できそうなことばかり。理にもかなっている。
でもカルマンさんは「ポリフェノール」や「骨粗鬆症」、
「アンチエイジング」なんて言葉は一切気にせずに、
毎日をただ陽気に暮らしていたのではないだろうか。
ある日、マスコミに「お肌がきれいですね」と言われた
カルマンさんはこう答えた。
これまでにできた皺はひとつだけ。
私は今でもその皺の上に座っているのよ
マダム、それって…おしりのことですか?
阿部広太郎 14年5月25日放送
イマヌエル・カントの勤勉な健康法
ドイツの哲学者、イマヌエル・カント。
彼は自分にルールを課していた。
朝は必ず5時に起床。
同じ時間に同じ道を散歩。
その正確さは絶対。道行くカントを見て
人々は時計の針を合わせたという。
80歳まで生きたカント。
きつそうなこの生活を、
カントは楽しんでいたようだ。
疑う余地のない純粋の歓びの一つは、
勤勉の後の休息である。
阿部広太郎 14年5月25日放送
Alan Vernon.
徳川光圀の食べる健康法
無病延命の術は、鳥獣に習うしかない。
鳥獣は腹が減ったら食い、空腹が収まったらもう食わない。
健康維持の秘訣をこう語ったのは、
水戸黄門として知られる徳川光圀。
ほどほどの食生活を心掛けながらも、
食に対しての好奇心は旺盛だった。
生類憐みの令が出ていても
お構いなしに牛肉や豚肉を食べたり。
また、無類の麺好きだったこともあり、
中国から亡命していた儒学者を呼び寄せ、
麺の作り方を調べ、ラーメンを食べたりも。
ちなみに、ラーメンも、餃子も、チーズも、牛乳も、
日本で最初に食べたのは光圀とされている。
光圀の食への探求は、ついに薬まで行きついてしまった。
中国、朝鮮、オランダから草木を取り寄せて漢方に。
大変貴重な薬だったとしても、
領内で薬を必要とする者がいたら惜しげなく与えたという。
庶民が住んでいる所には、医者もいないし、薬もない。
庶民は病気になったら自然に治るのを期待するしかない。
求めやすい漢方薬の処方を編纂し彼らに与え、彼らを救え。
光圀は水戸藩の医師に命じ、
いまで言う家庭の医学書「救民妙薬」を発行させる。
食べることが好きだった光圀だったからこそ、
誰よりも薬の大切さに気づいたのかもしれない。
73歳まで生きた光圀。
「この紋どころが目に入らぬか」
肌身離さず持っていた印籠は薬箱である。
藤本宗将 14年5月25日放送
伊能忠敬とウォーキング健康法
全国をめぐり、日本地図をつくった伊能忠敬。
彼が日本各地を歩いて測量したのは
55歳から71歳にかけて。
すでに高齢だった忠敬にとっては
かなりきつい行程であったらしく、
家族に宛てた手紙で何度も苦労を伝えている。
そのため卵で栄養を取るようにするなど、
日々の食事にも相当気を使っていたようだ。
けれど彼のいちばんの健康法といえば、
やはり全国行脚という
ウォーキングだったのではなかろうか。
享年73歳。
まさに人生という長い道のりを歩き切った。
藤本宗将 14年5月25日放送
sizima
千利休と大豆健康法
茶道を大成させた千利休。
お茶を飲むことも健康に良さそうだが、
彼はさらに大豆をすりつぶして作った
「呉汁」をよく飲んでいたという。
しかし利休の命を奪ったのは病気ではなく
時の権力者・秀吉との確執。
切腹を命じられたのは、69歳のことだった。