小野麻利江 14年5月18日放送
学びの話5 B・B・キング
ブルース界の巨人、B・B・キング。
親戚が持ってきたギターに初めて触れたのは、彼が8歳の時。
以来ギターに夢中になり、
農場で働いた給料で手に入れた自分のギターを手に
ラジオから流れてくるジャズ、ブルース、
カントリー&ウェスタンといった音楽をコピーしはじめた。
ある日、街角でブルースをプレイしたところ、
投げ銭が増えたことから、ブルース・プレイヤーになることを決心。
ブルースへの傾倒を強めていった。
テネシー州メンフィスのラジオ局でDJとして名を馳せた後、
1949年にレコードデビュー。
以来、半世紀以上にわたり、文字通りブルース界の「キング」で
ありつづけている彼だが、
いろんな楽器を弾くことで、
ギター・フレージングに効果があるんだ。
と、ギター以外にも、ピアノ、ベース、ドラム、
ハーモニカ、ヴァイオリン、クラリネットなどを独学で習得している。
学ぶことの素晴らしいところは
誰にも取られることがないってことだ。
B・B・キングの成功は、数え切れない学びでできている。
小野麻利江 14年5月18日放送
学びの話6 DJおばあちゃん
「暇つぶしと、ぼけ防止に」。
そんな理由で習い事をはじめるシニアは、きっと少なくない。
でも、そう言って習い始めたのが「DJ」だとしたら・・・?
「DJ SUMIROCK(スミロック)」こと
岩室純子(すみこ)さん。78歳。
高田馬場の老舗餃子店で働いている。
知り合いが主宰するイベントで、クラブの楽しさに開眼。
DJスクールに通いはじめた。
先生のダメ出しを受けながらも、すでに東京やパリ、
ノルマンディのクラブで回したこともあるという。
夢は、ニューヨークのクラブデビュー。
そう語るDJ SUMIROCKを前にすると
「年寄りの冷や水」なんて諺のほうが、
時代遅れに見えてくる。
茂木彩海 14年5月18日放送
audreyjm529
学びの話7 オールド・ブラウン・シュー
学びへの意欲は
興味が持てないと
なかなか起きないものだが、
これが恋だったりすると、話は早い。
例えば
ビートルズ
『オールド・ブラウン・シュー』の一節。
君と一緒になれるんだったら
天気よりもすばやく君好みの男に変わってみせる。
想いがあれば、学ぶ力はずっと強まる。
茂木彩海 14年5月18日放送
学びの話8 ハックルベリー・フィンの冒険
長い教育の中で、
私たちの「学び」は、気づかぬうちに
「義務」に近づいてしまったのかもしれない。
知らない知識に出会ったら、学ばなくちゃ。
偉い人の話を聞いたら、学ばなくちゃ。
本を読んだら、学ばなくちゃ。
そんな習性を見抜くかのように
『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒頭、
著者のマーク・トウェインはこんな警告を出している。
この物語に主題を見出そうとする者は起訴される。
教訓を見出そうとする者は追放される。
プロットを見出そうとする者は射殺される。
夢中で文字を追い掛け、想像し、没頭する。
そういう学びの方法もあると、
この本は教えている。
道山智之 14年5月17日放送
JBOY
中村八大1
作曲家、中村八大。
日曜の夕方になると流れてくる「笑点」のオープニングテーマ。
あのメロディは、「上を向いて歩こう」で有名な、
ジャズピアニストにして作曲家、
中村八大がつくったものだ。
底抜けに明るいメロディの中に、
ひそむブルージーな気配。
饒舌なミュート・トランペット。
純和風な曲に見えて、じつはジャズのエッセンスがひそむ。
日曜の終わりに感じる、そこはかとないせつなさに、
あの曲は一役買っているのかもしれない。
道山智之 14年5月17日放送
ForestWander
中村八大2
作曲家、中村八大。
彼が作曲した「上を向いて歩こう」が
「SUKIYAKI」として全米チャート1位になったのは、51年前。
作詞家・永六輔、歌手・坂本九とともに
成しとげた快挙だ。
ビルボードチャートで、
3週連続1位を記録。
アメリカでの売り上げが100万枚に達し、
翌年全米レコード協会のゴールドディスクを受賞した。
日本のみならず、アジアの歌手が
ビルボード1位になったのは、いまだにこのときだけである。
震災後の日本でも
人々を力づけてきたこの曲は、
自分の心をそっとかえりみるような繊細さと
やさしさをたたえている。
道山智之 14年5月17日放送
中村八大3
作曲家、中村八大。
1959年の初夏、彼は映画につかう歌を8曲、
翌日までに書き上げる仕事を頼まれた。
ジャズピアニストだった彼は、
コンビを組む作詞家のあてもなく、有楽町の日劇の前の交差点を渡る。
そのとき偶然、通りのむこうから
歩いてきたのは、顔見知りの永六輔だった。
すぐに八大は、作詞の経験がなかった六輔を口説き、
自分の部屋につれていき徹夜で8曲を作り上げた。
それは、
2年後に「上を向いて歩こう」を世に送り出す「六八コンビ」が誕生した瞬間だった。
歩いてさえいれば、運命はむこうからやってくることがある。
道山智之 14年5月17日放送
JFXie
中村八大4
作曲家、中村八大。
彼は10歳のとき、
「荒城の月」と「さくらさくら」を聞いて涙を流し、
生涯をかけて大音楽家になろうと誓った。
そして人気ジャズピアニストとして多忙を極めていた
22歳のときには、メモにこう記した。
「中村八大は他から作られず、自分で完成させる物也。
(中略)
中村八大は誰よりも苦しく、誰よりも幸せでなければならない。
(中略)
右の通り決定する。」
いそがしい中でも、自分のやりたいことを見失わず、
日々つくりあげていく。
その決意こそが、のちに彼を作曲家にし、
「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」など、
後世にのこる名曲を送り出すエネルギーとなったにちがいない。
礒部建多 14年5月11日放送
IsakFotografi
サッカーとジャズ
「サッカーはジャズである。」
元日本代表監督、岡田武史は、
サッカーの理想型をこう語る。
楽譜通りの演奏だけではなく、
瞬間での即興性がある。
それがジャズの醍醐味。
サッカーにも戦術があるが
最後に試合を動かすのは、選手のひらめきだ。
岡田は言う。
「最善は、そのときだけのことであって、
少しでも局面が変われば、最善の選択もかわってきます」
なるほど、
だからこそサッカーは人を魅了し、
時に、芸術的とも評されるのだろう。
礒部建多 14年5月11日放送
日本サッカーの父
日本サッカーの父と呼ばれた男、
デットマール・クラマー。
1964年、東京オリンピックの年。
彼は日本代表初の外国人コーチとして招かれた。
初歩的な練習を繰り返すクラマーに、選手たちは困惑した。
しかし日本はアルゼンチンを破り、ベスト8の快挙を成し遂げる。
クラマーの日本サッカーへの愛は、
自国ドイツをも超えていた。
日本を去った後、
1975年にバイエルン・ミュンヘンを率いて
UEFAチャンピオンズカップで優勝した時でさえ、
こんなコメントを残している。
人生最高の瞬間は
日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。
私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない。
クラマーの最高の瞬間を、
今年の日本代表に超えてほしい。