大友美有紀 14年4月6日放送
Norihiro Kataoka
「長新太」ナンセンス
ナンセンスの絵本作家、長新太。
彼の絵本を見て、なんで子どもが喜ぶのかわからない、
という母親がいっぱいいるという。
たまに自宅にまで電話がかかってきて、
「動物の色が普通と違う」と言われることもあった。
彼は、絵本はお母さん方にわからなければいけない、という。
子どもの本は、お母さん経由で子どもに届くことが多いからだ。
ぼくの本がわからない、というお母さん方が、
こわいわけよ。
それは、ぼくの絵本が子どもに届かないことになるし、
もっと言うと、ナンセンスとかユーモアを、
おとながわかりにくくて、子どもに届けない、
ということになる。
ところがほんとうは子どもの方がすぐわかっちゃうわけ。
長新太のナンセンスは日常的なものではなく、
抽象であって、シュールレアリズム的なナンセンスだ。
理解するのではなく、楽しむものである。
大友美有紀 14年4月6日放送
「長新太」生理的にここちよい
絵本作家、長新太の「アブアアとアブブブ」という本。
アブの兄弟が、巻いてある紙をパッと誰かの顔の前にたらす。
アブたちはこれをやると気持ちがスーッとする。
生理的に心地よいということが、
なににおいてもいちばん大切じゃないか
という気持ちが、ぼくは非常に強いわけよ。
それによって、いろいろなことがことが
決まるんじゃないかと思うんです。
色彩やフォルムも、意識してつくり出すというよりは、
川の流れみたいに自然にそうなってくる、
ひとりでにそうなってくるものこそ大事にしたいと考えていた。
ちなみに、アブアアがおとうとで、アブブブがおにいさん。
大友美有紀 14年4月6日放送
izamu
「長新太」アニミズム
ナンセンスの絵本作家、長新太。
ある講演会で、生まれ変わったら何になりたいか、という質問に、
イカやタコが好きだから、イカやタコになりたいね、と答えた。
それは冗談でなく、本気に近い気持ち。
幼い子が「大きくなったら新幹線になりたい」という気持ちと同じようなもの。
長新太の発想は、自然界のすべてのものに霊魂や精霊が宿るという
「アニミズム」のようなものだ。
大げさにいうと、机も椅子もコップにしてもフォークにしても
すべて命があるという感覚があって、
別に人間だけがいきてるんじゃない、という感じが
ぼくは非常に強いです。
人間の内蔵だって自分でコントロールできない。
みんなそれぞれ生きていて、自我意識があると思っている。
彼の本には、お尻だけ「ポコリ」とはずれて外出してしまったり、
心臓がとんでってテレビ局に行ってしまったり、
下半身だけが先に歩き出してしまうお話もある。
長新太を本当に理解できるのは、子どもだけかもしれない。
大友美有紀 14年4月6日放送
「長新太」ちへいせんのみえるところ
ナンセンスの絵本作家、長新太は、
だだっ広いところが好きだった。
彼の作品には地平線、水平線が多い。
紙がある。
刷毛でうすいクリーム色の下地をつくる。
そして、横に一本線を引く。
漫画のコマ割りの線を描く。
そして、コマに横線を一本引く。
絵本「ちへいせんのみえるところ」は、
全ページ、同じ位置に地平線が描かれている。
けれども全部の絵が別の絵だ。
ページをめくると、同じようで微妙に違う地平線。
そこに男の子が出てきたり、ゾウが出てきたり、船が出てきたり。
言葉は、「でました」だけ。
何が出てくるか、ページをめくるたびにドキドキする。
読む人のドキドキを思い浮かべて、
長新太はニヤニヤしていたかもしれない。
大友美有紀 14年4月6日放送
「長新太」絵本の作り方
絵本作家、長新太のイラストエッセイ、
「絵本のつくりかた」お料理風に
材料は、
青空たっぷり
渡り鳥、少々
そよ風、ひと吹き
地平線または水平線、一本
麦畑、たっぷり
少年、一人
湖、一ケ
魚(マス)一匹
ゾウアザラシ(オス)一頭
以上にナンセンス印のエスプリ少々
全体の味つけは、甘からず辛からず
これがコツ
大友美有紀 14年4月6日放送
「長新太」仕事の理想
ナンセンスの絵本作家、長新太。
仕事の理想は、と問われると。
永久に未完成ということ。
人々はすぐに完成されたものを
性急に追求しがちだが、
それは僕の信念に反する。
少しばかり不安定でも、
その作家の香り、あるいは匂い、
つまりエスプリみたいなものが、
みるものに共感をおぼえさせれば、
それで結構と思っている。
享年77歳。
遺作となった絵本「ころころにゃーん」は、
ピンク一色で描かれていた。
佐藤延夫 14年4月5日放送
苦節時代 レオナール・フジタ
フランスで、最も有名な日本人画家と言われる、
レオナール・フジタこと、藤田嗣治(ふじたつぐはる)。
二七歳でフランスに渡るも、
第一次大戦のあおりを受けて、日本からの送金が途絶えてしまう。
赤十字で看護師として働き、
アルバイトをいくつも掛け持ちするが
それでも生活は苦しく、
モンパルナスの安宿でパンひとつをかじる毎日が続いた。
そんなときでも、寝て食べる以外の全ての時間を、
創作活動に費したという。
のちに彼が生み出した独創的な油絵の技法は、
あのピカソですらため息をついたそうだ。
佐藤延夫 14年4月5日放送
苦節時代 小林一三(いちぞう)
大学を卒業したら新聞社に入り、小説家になる。
それが、ある男の夢だった。
しかしその願いは叶わず、銀行に就職する。
やる気も足らず、遊びだけを覚えて十数年。
同僚に誘われた会社設立の話も立ち消えとなり
妻子を抱え、路頭に迷うことになる。
そんなときに出会ったのが、
箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)という会社だった。
ここで初めて、男のアイデアが花開いていく。
人々が何を求めて喜ぶか。
その原則は、不遇の時代に見つけていたようだ。
彼の名は、小林一三。
のちの阪急電鉄の創業者である。
佐藤延夫 14年4月5日放送
苦節の時代 湯川秀樹
ノーベル物理学者、湯川秀樹の少年時代は
きわめて地味なものだった。
他人とあまり口をきかず、何を尋ねても
「言わん」という一言で済ますため、
「イワンちゃん」とからかわれた。
不調和で、バランスのとれない心。
しかし、内向きに注がれていたエネルギーは、
研究者として大成する起爆剤になっていた。
中間子理論の答えが見えたときのことを、
彼はこんな言葉で振り返る。
「十月初めのある晩、私はふと思いあたった」
それは自分との会話の中で、見つけたもの。
佐藤延夫 14年4月5日放送
苦節の時代 嵐寛寿郎
明治36年、京都で生まれた少年は、
小学校を卒業するとすぐ、丁稚奉公に出された。
着物の襟の製造販売店だった。
朝五時に起きて、荷車や自転車に油をさす。
冬でも足袋を履くことを許されず、一日中、配達で走り回る。
夜は十二時までミシンがけという重労働で、月給はわずか一円。
今の金額に直すと、4,000円ほど。
月に一度の休みは、チャンバラ映画やアメリカの喜劇映画を見て過ごした。
この少年は、十数年後、嵐寛寿郎という名前で
大衆の心を鷲掴みにする。
あのころ見た銀幕の世界に、自分の生きる場所を見つけた。