渋谷三紀 14年2月15日放送
h.morsel
料理する人 向田邦子
向田邦子は、自身のエッセイに
こんなことを書いている。
今でも私は、
客が小皿に残した醤油を捨てるとき、
胸が痛む。
モノを大切にした昭和の暮らしが
育んだ感覚。
邦子は、
梅干しの赤じそや
昆布のくず、かつお節の粉を
捨てずに使ったという。
しかし、決してケチではない。
素材にはとことんこだわり、
忙しい中でも、友人たちが驚くほど
いいものを見つけてきた。
いいものを買い、とことん食べきる。
「ほんとうにおいしいもの」を
知っている人だった。
渋谷三紀 14年2月15日放送
料理する人 栗原はるみ
レシピ本の累計発行部数2,000万部。
数多くの料理家の中で、
栗原はるみの人気はずばぬけて高い。
そもそもは、
夫の友人たちに料理をふるまううち
評判が評判を呼び、
料理番組の裏方の仕事を紹介されたのが、はじまり。
人気料理家になった今でも
彼女は自身を「ふつうの主婦」と名乗る。
家庭では、ジャガイモは常備野菜。
古くなったジャガイモを
いかにおいしく食べさせるかが大事。
あくまで主婦目線でレシピを開発している。
シェフだからプロで、
主婦だからアマチュアなのではない。
主婦は、生活に根差した料理のプロだ。
岡安徹 14年2月15日放送
料理する人 小林カツ代
料理人ケンタロウさんの母であり、
自身も料理研究家として親しまれている
小林カツ代。
主婦の目線から、家庭で実践できる
料理を考案するだけでなく、
プロの料理人を相手に料理対決で
勝利した経験もある。
「家庭料理」でプロに勝利するという
快挙を成し遂げた彼女にマイクを向けてみると
意外や不満げな顔をしている。
その不満の理由を聞いてさらに意外。
「制限時間内に片付けが間に合わなかった。」
料理をすれば、洗い物も出る。
つくる事と片付けを同時にこなしてこそ、
家庭料理だという。
お見それいたしました。
主婦は、プロです。
岡安徹 14年2月15日放送
Janet Hudson
料理する人 辰巳芳子
病床の父のために考案した、
滋養たっぷりの「いのちのスープ」が話題となり、
今なお多くの料理人がその指導を仰いでいる料理研究家
辰巳芳子。
50年以上の料理研究と独自の考察から
命に直結した「食」の大切さを説く辰巳は、
幸せな人生の基本をこう喩える。
「薄紙を重ねるような、毎日毎日の幸せの積み重ね」
ていねいに、心を込めて料理すること。
簡単だが忘れがちな、日々の営みにこそ、
幸せへの道しるべが隠れていた。
高田麦 14年2月15日放送
料理する人 森茉莉
真のお嬢様、森茉莉。
16歳まで父の膝の上で育ち、
お嫁に行っても
召使いにごはんを口元まで運ばせた。
中年になり貧乏になったときも、
彼女は決して「贅沢」を忘れなかった。
食にまつわる彼女のエッセイには、
こんな描写がある。
マヨネエズの壜を出し、
鎌倉ハムを出し、
牛酪(バタ)を出し、
片兎で卵(かたうでたまご)を出し、
薔薇色がかった朱色の玲瑯珠(れいろうたま)の如きトマト
(les tomates vermeilles)を二つ出し…
ただのサンドイッチだというのに、
こだわりが感じられ、実においしそう。
彼女にとって
料理をおいしくする一番のスパイスは、
高級な食材でも調味料でもなく、
「贅沢な精神」だった。
奥村広乃 14年2月9日放送
東京駅
いまから100年前。
東京駅の開業式典の冒頭で
ときの首相大隈重信は
招待客1,500人余りを前にこう述べた。
「物はすべて中心を欠くべからず。
あたかも太陽が八方に光を放つがごとく、
鉄道も光線のごとく四通八達せざるべからず」
東京駅を太陽に。
そしてそこから延びる線路を
太陽の光に例えたこの言葉。
100年もむかしに大隈は
いまの東京を
思い描いていたのだろうか。
松岡康 14年2月9日放送
塔の名前
1958年。
新しい電波塔の名称を決める審査会が行われた。
日本全国から86,269通もの応募があり、
一番多い名称は「昭和塔」、続いて「日本塔」「平和塔」だった。
大もめの審査会で、
審査委員の一人、漫談家の徳川夢声は、
自信満々にこう言った。
「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」
コトバのプロである徳川が推したのは、
普通すぎる名前だった。
彼の推薦により、塔の名称は東京タワーに決まる。
もしも、昭和塔という名称になっていたら。
東京タワーはこんなにも愛されていただろうか。
今日もその塔は、
東京の空にまっすぐ立っている。
澁江俊一 14年2月9日放送
glowingstar
東京の愛し方
東京は、
どんなふうに愛しても許される街。
日本を代表する写真家、荒木経惟。
花や人妻ヌードと並んで、
彼が永年撮りつづけるのが東京の風景だ。
1984年発行の、
特に愛されている写真集がある。
「東京は、秋」。
数年後に亡くなる最愛の妻、陽子と
東京を散歩するように撮った一冊だ。
妻:建物の裏側を撮るのが好きでしょ?
夫:裏側ってのはね、ディテールとか、染みとかがある。
裏へ行くまで気づかなかったとか、そういうのがある。
東京の裏側っていうか、それが見える。
どの写真にも
妻、陽子との何気ない会話がつけられている。
昔と今が混ざり合い、急激に変わり続ける街を、
愛する人と歩きながら、いつくしむように、
荒木はシャッターを押した。
いつかは別れる大切な人と、
こんなふうに歩いてみたくなる。
それが、東京。
礒部建多 14年2月9日放送
Dick Thomas Johnson
日本武道館
東京都九段下にある、日本武道館。
1966年6月30日を境に
ロックの殿堂と呼ばれるようになった。
その日、
初めて武道館でライブを行ったのは、ビートルズだ。
それまで、厳粛な武道の場であったため管理側は猛反対。
しかし、ライブの企画担当だった
読売新聞の鈴木啓正(すずきひろまさ)は、
こう説得した。
「英国女王陛下から
勲章をもらった芸術家に
貸してもらいたい。」
その一言が、
武道館を日本一のライブ会場に変え、
東京を日本の音楽の中心にした。
今日もたくさんのミュージシャンが、
そこで演奏する日を、夢見ている。
三島邦彦 14年2月8日放送
Brian Sawyer
寒さとあたたかさについて 三國万里子
毛糸を操る編み棒は
たえまなく動き、
ひとつひとつ編み目を重ねていく。
毛糸は手袋になり、マフラーになり、セーターになる。
ほとんどの洋服を機械が作る世の中になっても、
ひとは毛糸の手編みにぬくもりを求める。
そこには、手仕事でしか出せないあたたかさがあるから。
編み物デザイナー、三國万里子は、自らの仕事をこう語る。
春、夏、秋とニットを編みためて、冬になったら短期間のお店を開いてそれを売る。
とてもシンプルな、まるで「かさじぞう」のおじいさんのような仕事。
寒い冬に、ひとをあたためる。
シンプルな仕事は、とても大事な仕事なのだ。