大友美有紀 14年2月2日放送



「冬季オリンピック」若田光一

2013年11月7日、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から
ソユーズロケットが打ち上げられた。

このロケットには、2つの「初」が搭乗していた。
国際宇宙ステーションで日本人初の船長、
コマンダーとなる若田光一。
そして、宇宙をリレーする聖火のトーチ。

ロシアの宇宙飛行士によって、ISS船外をリレーして、
交代で帰還したクルーが持ち帰った。

ソチオリンピックの聖火リレーは、北極点も通過した。
そのルートは、これまでにないほど壮大だ。

オリンピックのロゴがペイントされたロケットで、
トーチとともに宇宙へ向かった若田光一は、
1963年生まれ。
前回の東京オリンピックの前に生まれている。
オリンピックに、最も縁のある宇宙飛行士かもしれない。

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佐藤延夫 14年2月1日放送


s.yume
小塚昌彦さん1

小塚昌彦さんをご存知ですか。

直接は知らなくても、どこかで間接的にお会いしていることでしょう。
人によっては、毎日お世話になっているかもしれません。

パソコンを開けばわかります。
文章を書こうとすれば、もっとわかります。

ある日、小塚さんは、こんなことをおっしゃっていたそうです。

「日本人とって文字は、水であり米である」

パソコンで目にするフォント、
小塚明朝、小塚ゴシック。
それは小塚昌彦さんが作った書体でした。

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佐藤延夫 14年2月1日放送



小塚昌彦さん2

戦後まもなく、新聞社の工務局に就職した少年がいた。
そこは活字を扱う部署であり
新聞社のイメージとはかけ離れた、
さながら工場のような職場だったそうだ。

職人が鉛の合金に文字を彫る。
新聞記事にするための活字が準備され、
見出しや写真を組み付ける。
すべてが手作業だった時代を目に焼き付け、
少年は文字デザインの道に進む。

書体設計家、小塚昌彦さんは
新聞社を定年退職したあとも、
さまざまなメディアの文字を操り続ける。



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佐藤延夫 14年2月1日放送


d’n’c
小塚昌彦さん3

書体設計家、小塚昌彦さんが
新しい書体、新ゴシックを作るときのこと。
読むための文字というよりも、
ディスプレイに適した書体にしたいと考えていた。

それはすなわち、目で楽しむ言葉。
読みやすくて、親しみやすくて、疲れない。
書体を意識することなく、読めば意味が素直に入ってくる。

その思いが実を結んだ証拠として、
日本中の多くの交通機関で
新ゴシックの文字が使われている。

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佐藤延夫 14年2月1日放送



小塚昌彦さん4

書体設計家、小塚昌彦さんの師匠は
60歳を迎えたとき、こんなことを言ったそうだ。

「ここから本当の字が書けるような気がする」

そして小塚さん自身が60歳を超えたあとに
初めて作ったオリジナルの書体が、小塚明朝だった。

発売セレモニーで、
小塚さんはこの新しい書体に点数を付けた。
76点だという。

トータルで何千、何万字にも及ぶ書体デザインに
100点満点などあるはずもなく、
80点が最高得点だ、と語った。

小塚さんは、きっと今も、本当の字を探している。



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三國菜恵 14年1月26日放送


kimuchi583
はじまりの言葉 川端康成

東北・信越地方では
ことしも積雪2メートル以上の雪が降っているという。



スタッドレスタイヤを履いた車を走らせ、

寒い地域へと渡るトンネルにさしかかったときに

思い出すにうってつけの一行がある。



 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった



この川端康成の一行を胸に、真っ白な景色を見ると、

ただの移動もちょっとだけ物語をおびてくる。
そんな効果がある気がする。

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中村直史 14年1月26日放送


Lazaro Lazo
はじまりの言葉 沢木耕太郎

心配性の親たちにとって、
こんなに面倒な一冊はないだろう。
その魔力で、これまで、どれだけの数の若者たちを
世界の放浪へと旅立たせたのか。

本の名前は「深夜特急」。
沢木耕太郎が書いた旅行記のバイブルは、
こんな一文ではじまる。

 ある朝眼を覚ました時、
 これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。

はじまったばかり、のはずの2014年も
もうひと月が過ぎようとしている。
ぐずぐずしてはいられない。
さあ、どこへ向かおう?

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三島邦彦 14年1月26日放送


Bradley Wind
はじまりの言葉 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

江戸川乱歩、黒澤明、手塚治虫、
アインシュタイン、マーラー、
そして村上春樹が愛したもの。

それは、ドストエフスキーの小説。

「罪と罰」「地下室の手記」「悪霊」。
この偉大な19世紀ロシアの作家が残した小説は
今も世界中で読まれ続けている。

そんなドストエフスキーの代表作であり
世界文学における最も重要な作品のひとつ
『カラマーゾフの兄弟』には、
「著者より」という長い序文がある。

その前口上から伝わるのは、
まぎれもない名作を書きあげた著者の興奮と、
これを読者がどう理解するかについての逡巡。
自ら混乱していることを語りながら綴られた序文はこうして終わる。

序文はこれでおしまいである。こんなもの余分だという意見にわたしは大賛成だが、
書いてしまった以上は仕方がない、そのまま残しておくことにしよう。
では、さっそく本文にとりかかる。

ドストエフスキーが自ら戸惑うほどの名作が、ここから始まる。

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三島邦彦 14年1月26日放送



はじまりの言葉 オスカー・ワイルド

『サロメ』や『幸福の王子』で知られる
アイルランドの作家、オスカー・ワイルド。
世界的な作家でありながら、
とてもアクの強い人物だったため、
その葬儀には数名しか集まらなかったという。

『ドリアングレイの肖像』の序文で、彼はこう書いた。

ある芸術作品について意見が分かれるのは、
作品が新しく、複雑で、生きていることの証しである。

友人たちとの関係を保つには、
彼は新しく、複雑すぎたのかもしれない。

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三國菜恵 14年1月26日放送


nakimusi
はじまりの言葉 阿久悠

1971年にヒットした

尾崎紀世彦の『また逢う日まで』。

この曲の作詞を手掛けた作詞家・阿久悠は

歌のなかで男女の新しい別れのかたちを

描けないかと模索していた。



当時、別れの歌といえば、

別れたら最後、二度と会うことのないかなしみを

描くばかりのものだった。



けれど、阿久は、

男と女が話し合い、納得しあって、二人で出ていく

そんな新しい別れのかたちをこの歌詞で提示できないかと考えた。

そうして生まれたのが、この一節。



 ふたりでドアをしめて

 ふたりで名前消して

 その時心は何かを話すだろう



別れてはじめて知る、始まりがある。

この新しいパターンの別れの歌は

尾崎紀世彦の朗々と力強い歌声と

晴れ晴れとしたラッパの音とともに

日本中に届けられた。

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