佐藤延夫 14年1月4日放送



森繁久彌の年賀状

森繁久彌は、四つの顔を持つ。
俳優、歌手、コメディアン、そしてアナウンサー。

下積み時代は劇団を渡り歩き、
その傍ら、NHKのアナウンサー試験に合格。
そして戦後はコメディアン、俳優、シンガーソングライターなど
才能を一気に開花させる。

そんな彼の、ある年の年賀状には
仕事へのまっすぐな気持ちがしたためられていた。

 昔のうたを
 今日のうたを
 明日のうたを
 心ゆくまで謡いとう存じます

人々に愛された理由が、とてもよくわかる。

topへ

佐藤延夫 14年1月4日放送


Carly & Art
手塚治虫の年賀状

漫画家、手塚治虫が晩年に残した名言。

「あと40年ぐらい書きますよ。
 アイデアだけはバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」

その言葉のとおり、
彼は年賀状でも独創的なアイデアをふるってみせた。
おなじみのキャラクターを総動員し、
自分の似顔絵をパロディにした。

そして、ある年の年賀状には、
こんな言葉が書かれた。

 今年こそ
 卵から生まれたばかりの気持で
 がんばります

見習いたいほどのアイデアと謙虚な気持ちが、
葉書いっぱいに溢れている。

topへ

佐藤延夫 14年1月4日放送



文人たちの年賀状

夏目漱石の年賀状は、シンプルだ。
ハガキの中央に、ぽつんと名刺を貼り付けたようなデザイン。
「恭賀新年 夏目金之助」
ただその文字だけ書かれている。

芥川龍之介は、高校3年生のとき、ハイカラな年賀状を送った。
「新年に多くの幸運あれ」というドイツ語とともに、
手描きのイラストも加えたそうだ。

川端康成は、力強い筆文字で
「頌春(しょうしゅん) 川端康成」と記している。

そして正岡子規は、自分の思いを書き留めた。

「新年めでたく候
 皆様めでたく候
 私もめでたく候」

あなたは年賀状に、どんな思いをしたためましたか?

topへ

村山覚 13年12月29日放送


velo_city
鬼が笑った話 斉藤仁

2つの金メダルを持つ柔道家・斉藤仁は、
引退後にコーチとなり、数多くの金メダリストを育てた。
厳しい練習内容から鬼コーチと呼ばれた。

斉藤の厳しさを示すエピソードとしてよく知られるのは
北京五輪での石井慧選手のインタビュー。

「オリンピックのプレッシャーなんて、
 斉藤先生のプレッシャーに比べたら屁のつっばりにもなりません」

これを聞いた鬼コーチ斉藤は怒っただろうか、
それとも、笑っただろうか。

topへ

村山覚 13年12月29日放送



鬼が笑った話 初代若乃花

昭和33年。体重105キロの小柄な力士が横綱に昇進した。
初代・若乃花。
熱のこもった取り組みから「土俵の鬼」と呼ばれた男である。

同時期に横綱であった栃錦といくつもの好勝負を演じたため
「栃若時代」という言葉もうまれた。

引退会見で「横綱の豪快な上手投げや呼び戻しが見られないのは
本当に寂しい」と言われて、こう答えた。

 『まぁそのうちにまた出てきますよ、そういう人が。』

30年後、甥っ子である貴花田が初優勝。
理事長としてトロフィーを渡すこととなった。
少し険しい顔をして涙をこらえていた土俵の鬼は、
土俵を降りてから静かに微笑んだ。

topへ

村山覚 13年12月29日放送



鬼が笑った話 パガニーニ

クラシック音楽史に
燦然と名を残すヴァイオリニストといえば、
ニコロ・パガニーニ。

今からおよそ200年前に、
そのずば抜けた演奏技術はヨーロッパ中の話題となり
「ヴァイオリンの鬼神」「悪魔に魂を売り渡した男」
などと言われていた。

ある国で演奏した際、国王がアンコール演奏を求めた。
しかし『パガニーニは二度繰り返さない』と断ったという。
自分の演奏を唯一無二だと自負していたパガニーニは、
作品が楽譜として出版されることも拒否し続けた。

またある時、求婚してきた女性に対して
『私のヴァイオリンをいつでもただで聴くつもりだな?』
と言ったというエピソードも残っている。

こんな鬼のような男が、表舞台から姿を消した時期がある。
ギターを弾く女性と同棲をして4年ほど姿を消していたのだ。
パガニーニが作曲したヴァイオリンとギターのための
二重奏曲からは、愛に溢れた生活が想像できる。

ヴァイオリンの鬼も、
愛する女性の前では屈託なく笑っていたのだろうか。

topへ

阿部広太郎 13年12月29日放送


BONGURI
鬼が笑った話 内海藤太郎

日本のフランス料理の礎を築いた、
料理人、内海藤太郎。

「厨房では鬼のように怖かった」
弟子たちはそう語る。
ミスをしたらビンタが飛び、
遅刻した者は外に放り出した。

帝国ホテルの総料理長もつとめた内海が、
海外から来た若い料理長の下につき、
周囲を驚かせた。

「日本の西洋料理は知り尽くしている
 新しい料理を知るためここに来た」

美味しい料理に出会う料理の鬼。
嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。

topへ

阿部広太郎 13年12月29日放送



鬼が笑った話 三國連太郎

30代なかばで老け役を演じるため、
上下の歯10本を麻酔もかけず引き抜いた。
役作りのためなら手段を選ばない、
「演技の鬼」と言われた三國連太郎である。

ある時は、浮浪者の心理を探るために、
ボロボロの格好で街中のカップルを脅し、
逮捕されそうになったこともある。

硬派な演技派俳優として知られたため、
「釣りバカ日誌」の温厚でコミカルな社長役は、
当初、本人は不本意だったようだ。
「昔の義理で出演している」
インタビューなどでもしばしばそう語っていた。

人が役をつくるのか。役が人をつくるのか。
20年続いたシリーズ最終作『釣りバカ日誌20 ファイナル』の
記者会見で三國はこうスピーチしている。

「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険のような作品。
 スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る。
 僕にとって生涯の仕事だった。」

演技の鬼は
日本中から愛される「スーさん」として、
スクリーンの中で楽しそうに笑っていた。

topへ

阿部広太郎 13年12月29日放送


もがみますみ
鬼が笑った話 戸山為夫

競馬はブラッドスポーツ。
血統という意味の通りサラブレッドは、
徹底的に追及された血の結晶である。

そんな競馬界の常識に挑んだのは、
「鍛えて最強馬をつくる」調教師、戸山為夫。

良血とはいえないミホノブルボンに対し、
大抵の馬が1、2本で音を上げる坂路コースを、
多い時には5本も走らせた。

「馬は勝たないと生き残れない。
 心を鬼にしてでも鍛えて勝たせるのが馬のためだ」

日本ダービーを圧勝し、
皐月賞との二冠を達成したミホノブルボン。
そこには調教の鬼の惜しみない笑顔があった。

topへ

藤本宗将 13年12月29日放送



鬼が笑った話 馬場信春

戦国時代。
鬼と呼ばれた武将はたくさんいたが、
なかでも武田家に仕えた馬場信春は
70戦してかすり傷ひとつ負わず、不死身と恐れられた。

だが、鬼にも最期のときが来る。

長篠の戦いで孤軍奮闘するものの、味方は総崩れ。
時代の移ろいをどう感じたのだろうか。
部下に退却を告げた馬場は、
にっこり笑ったと記録に残されている。

topへ


login