奥村広乃 13年11月24日放送
OLの恋
1929年、昭和4年のヒット曲。
西條八十作詞の『東京行進曲』にこんな一節がある。
恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)かく 人もある
当時の丸ビルは、地下一階、地上八階建て。
その大きさや、モダンな外観から「東洋一のビル」と称された。
働く女性が、モダンガールと呼ばれ、
ひざ下スカートにショートカットのファッションで
生き生きと活躍し始めた時代。
職場で出会い、
恋心を燃やした男女も多かっただろう。
礒部建多 13年11月24日放送
OLの曲
OLの教祖と呼ばれ
働く女性たちから多くの支持を受けている、
シンガーソングライター、古内東子。
本人がメディアに出ることは滅多にないが
その歌はテレビドラマのテーマとしてよく使われた。
古内の楽曲は、デビュー当時から変わる事なく、
恋愛に向かう女心をリアルに歌い続ける。
彼女の切なくも温かい音楽に、
OLたちは自分の体験を重ねながら、
聴いているのだ。
古内は言う。
含みの美学、みたいなものが表れていると思います。
自己投影できたり、少し余白があった方が
気持ちを込めやすい気がしています。
古内のつくる余白は
恋や仕事に疲れたOLたちの心を癒し
優しく背中を押している。
蛭田瑞穂 13年11月23日放送
野茂英雄①
1995年、野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースで
メジャーリーグデビューをした時、
正捕手を務めていたのが、マイク・ピアッツァだった。
メジャーリーグ史上最も攻撃力に溢れた捕手
とも賞賛されるピアッツァは、
1995年には打率3割4分6厘、32本塁打を記録し、
打者としても新人の野茂を援護をした。
野茂がピンチになる度に、ピアッツァはマウンドに
駆け寄り日本語で声をかけた。
ノモ、シューチュー
「野茂、集中しろ」。
優れた投手と捕手は、短い言葉で
心をひとつにすることができる。
野茂とピアッツァがそれを教えてくれた。
蛭田瑞穂 13年11月23日放送
野茂英雄②
1996年9月17日、
ロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄は
コロラド・ロッキーズを相手に
ノーヒット・ノーランを達成した。
野茂が記録を達成したケア―ズ・フィールドは
ホームランが出やすい球場として知られる。
その理由は球場の場所にある。
標高1600メートルという高地に位置するため、
気圧が低く、空気抵抗が少ない。
そのため打球の飛距離が伸びるのだ。
1995年に開場して以来、ケア―ズ・フィールドで
ノーヒット・ノーランを達成した選手は、
野茂英雄以外には誰もいない。
野茂自身初のノーヒット・ノーランの価値は
そこにもある。
蛭田瑞穂 13年11月23日放送
Chickens in the Trees
野茂英雄③
野茂英雄がメジャーリーグで活躍するまで、
アメリカは日本のプロ野球を明らかに格下に見ていた。
野茂英雄のメジャーリーグ1年目は
マイナー契約からのスタート。
年俸はメジャーリーグ最低保障の十万ドルだった。
日本で4年連続最多勝を挙げた投手は
その程度の評価しかされていなかった。
1年目に新人王を獲得するほどの
活躍を野茂が見せたことにより、
メジャーリーグの日本に対する見方も変わった。
のちに松坂大輔は1億3百万ドルで
レッドソックスに入団し、
今年、上原浩治はワールドシリーズの胴上げ投手となった。
蛭田瑞穂 13年11月23日放送
野茂英雄④
野茂英雄は1989年のドラフト会議で、
史上最多の8球団からの1位指名を受けた。
野茂はどの球団に指名されても
プロ入りすることを公言していた。
野茂は野球さえできればそれでよかった。
抽選の結果、野茂の交渉権を獲得したのは
近鉄バファローズだった。
くじを引き当てたのは当時の監督仰木彬。
野茂の特徴はその投球フォームにあった。
のちにトルネードとも称される独特のフォームに、
プロ野球界からは批判の声も上がっていた。
しかし野茂はプロ入りするにあたり
フォームを矯正されることだけは拒んだ。
そして仰木彬はそれを認めた。
仰木の判断が正しいことが証明されたのは
それから1年後。
新人の野茂は最多勝、奪三振王、新人王など、
あらゆる賞を総ナメにし、1年目にして
日本プロ野球界の頂点に立った。
薄景子 13年11月17日放送
Chickens in the Trees
アーティストの話 棟方志功
愛してもアイシキレナイ
そう言いきるほど
板画を愛した世界的巨匠、棟方志功。
彼は一生の朝の数を
三万六千五百朝
と表現した。
1年365日、100歳まで生きても
朝は3万6500回だけ。
だから、ひと朝だってムダにしない。
そんな棟方の板画家魂がこめられた言葉だ。
1日が生まれる朝は、
新しい何かが生まれる瞬間でもある。
うかうかしてはいられない。
薄景子 13年11月17日放送
アーティストの話 淡谷のり子
20世紀を駆け抜けた
ブルース界のアーティスト、淡谷のり子。
戦時下で多くの慰問活動を行っていた淡谷の楽屋に、
ある時、若い兵士たちが来てこう言った。
自分たちは特攻隊員だから、
歌の途中で出ていくこともある、
その無礼を前もっておわびに来たのだと。
淡谷が一番を歌い終わると同時に、
その兵士たちはいっせいに立ち上がり、
舞台に向って敬礼をして出て行った。
もう帰ってこないかもしれない。
彼女は涙で、歌えなくなった。
歌手は舞台で泣くものではありません。
淡谷のり子の信条が破られたのは、
生涯でこの一度だけ。
茂木彩海 13年11月17日放送
quicheisinsane
アーティストの話 アニエス・ヴェルダ
フランス初の女性映画監督として知られる
アニエス・ヴェルダ。85歳。
ベルギーで幼少時代を過ごし、
第二次世界大戦に逃れて家族でフランスに渡った。
写真家として活動したのち、26歳で映画をつくり、
さらに2003年からはコンテンポラリーアーティストとしても活躍。
80歳半ばにして、3つ目の人生を歩みはじめた。
自分にしか撮れない写真を撮った。
監督した映画が話題になった。
新しい作風にチャレンジした。
誰が聞いてもアーティストらしい人生を送っている彼女だが、
自分の作品をアートと呼ばれるのは、あまり好きではないようだ。
私は自分の作品を見てもらうのは嬉しいけれど、
“芸術作品”なんて強制するのは大嫌い。
重すぎるわ。ケーキに乗るさくらんぼのようなものよ。
無くても大丈夫だけれど、あったらもっと嬉しいもの。
自分の作品をそんな風に気楽に感じられたとき
アーティストはもっと自由になれるのかもしれない。
茂木彩海 13年11月17日放送
アーティストの話 紫舟
社会人3年目で、夢を追いかけることを決意した
書道家、紫舟。
筆を運んだ痕跡をそのまま鉄のオブジェにしてみたり、
3Dのデジタル処理をしてみたり。
書道家として新しい試みをし続ける彼女には、ある夢がある。
100年後に見ても新しいと感じさせる何かを持った書を書きたい。
アーティストとしての決意を込め、今日も筆を運んでいる。