名雪祐平 13年9月29日放送


readerwalker
一眼 ロッコ・モラビト

1967年7月17日。フロリダ。
蒸し暑い日。停電。最悪。

電信柱の上のほうで。

電線の作業員の男二人がキスしていた。深く。

決してふざけているわけではなく、必死。

一人は、高圧電線に触れてしまい、
2100ボルトの電流に心臓を止めてしまった男。 

気絶し、逆さまになった体勢の男を
もう一人の男がしっかりと抱えながら、
口移しで人工呼吸を始めたのだ。

力を失った体に、再び命を吹き込まなければ。
そして、なんとか息を吹き返した。

いのちのキス。

その光景を
取材中のジャクソンビル・ジャーナル紙の
ロッコ・モラビトがカメラにおさめた。

写真は
1968年ピューリッツァー賞受賞。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送



一眼 ミルトン・ブルックス

1941年春。デトロイト。
フォード社自動車工場。
従業員12万人。

ストライキを叫ぶ労働組合の群衆に、
コートを着た1人の男が近づき、
スト破りをしようとした。

だが、10人近い男たちに袋だたきに合ってしまう。

デトロイト・ニュース社のカメラマン
ミルトン・ブルックスは忍耐の男だった。
絶好のシャッターチャンスをじっと待っていた。

1発必中。

当時、カメラに連写機能はなく、
1枚しくじれば7秒間も間が空いてしまう。

そっとシャッターを切ると、
ミルトンはすぐ、
カメラを隠して逃げた。

写真は
1942年ピューリッツァー賞受賞。
写真部門史上初の受賞作品となった。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送


dalangalma
一眼 ケビン・カーター

1993年2月。北アフリカ。スーダン。

10年以上の内戦。干ばつ。
深刻な飢餓状態。

痩せこけて、あばら骨が浮き上がり、
餓死寸前の少女。

地面にうずくまる。

死肉の匂いを嗅ぎとり、
少女の背後にハゲワシが舞い降りた。

写真家ケビン・カーターがその場面に遭遇した。
2、3回シャッターを押した。

写真は
1994年ピューリッツァー賞受賞。

しかし痛烈な批判も起きた。

少女を救うことより
撮影を優先するような写真家は
ハゲワシと同じだ、と。

ピューリッツァー賞授賞式の一カ月後、
カーターは愛車の赤いピックアップトラックに
排気ガスを引き込み、自殺した。

真実は。

カーターは写真を撮った後、
少女を狙うハゲワシを追い払っていた。

それから少女は立ち上がり、
よろよろと歩き出したという。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送


mobilene
一眼 ジャック・ソーネル

1966年6月6日。テネシー州メンフィスから
ミシシッピ州ジャクソンへ歩く男。

公民権運動で有名な
ジェームズ・メレディス。
350キロのデモ行進。

まだ仲間6人で歩いていた国道51号線。

突然、道沿いにいた狙撃犯が
ショットガンを3度放った。

発射されたうち63発の弾が
メレディスの後頭部から臀部まで
命中。

取材中だったAP通信カメラマン
ジャック・ソーネルは銃声を聞いて
車の影から撮影を始めた。

メレディスは這いつくばりながら助けを求めた。
ソーネルは救急車が向かっていると叫んだ。

幸運にも、致命傷になった弾は
1発もなかった。

写真は
1967年ピューリッツァー賞受賞。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送



一眼 ドン・アルタグ、ジョン・ロビンソン

1951年10月21日。
アメリカンフットボールの一戦。
オクラホマ農工大学対ドレイク大学

おぞましいプレイが起きる。

ドレイク大のキャプテンは
最高のハーフバックといわれた
ジョニー・ブライト。

試合開始後、ブライトはボールからずっと後ろで
プレイの状況をみていた。

そこへ
相手の選手がいきなり突進し、
拳と前腕でブライトの顔面を強打した。

顎を砕かれ、気絶。

すぐに立ち上がり骨折したままプレイ再開したものの、
暴力的なタックルはつづき、
審判もあまり問題にしなかった。

ブライトはその時代にはまだ珍しい黒人選手だった。

人種差別による悪質な反則。
うやむやになるところだった。

しかし、決定的な証拠写真によって
全米の注目を集めた。

撮影したのは地元新聞の
ドン・アルタグとジョン・ロビンソン。

二人は連続写真用に改造したカメラで
衝突の瞬間を記録していた。

写真は
1952年ピューリッツァー賞受賞。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送



一眼 ウィリアム・ギャラガー

1952年9月。アメリカ大統領選挙。

有力な候補者、アドレー・スチーブンソンは
実直で知的で、労働者びいき。

ミシガン州の労働者の街フリントでの演説前に、
舞台上の椅子に座っていた。

何気なく足を組んだ。

そのとき、地元新聞のカメラマン
ウィリアム・ギャラガーは、おやっと思った。

スチーブンソンの靴の裏に穴があいていたのだ。
選挙遊説の酷使で開いた穴に違いなかった。

これはいい写真を撮れるぞ。

他のカメラマンに気づかれないように
あらぬ方向を視ながらフラッシュを焚いた。

読者がほほえむような写真が新聞第一面を飾った。

写真は
1953年ピューリッツァー賞受賞。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送



一眼 アンソニー・ロバーツ

1973年。ハリウッド。
昼下がり。安売り店の駐車場。

女の悲鳴。

フリーカメラマン アンソニー・ロバーツは
カメラをつかみ、
悲鳴がしたほうへ急いだ。

男が女に馬乗りになり、殴っていた。

カメラ以外の武器を持たないロバーツは
今、カメラに収めたぞと怒鳴った。

男は殴り続けた。

拳銃をもった警備員が来た。
女を解放するよう命じた。

男は拒絶し、ナイフを女の喉元に近づけた。

警備員が発砲。弾丸は男の頭部に命中。

ハリウッドの映画ではなく、本物の事件だった。

写真は
1974年ピューリッツァー賞受賞。

topへ

名雪祐平 13年9月29日放送


Wiiii
一眼 長尾靖

1960年10月12日。日比谷公会堂。
演説一人目。社会党書記長 浅沼稲次郎
演説二人目。内閣総理大臣 池田勇人

毎日新聞カメラマン 長尾靖は
12枚撮りのフィルムパックを装填し、
11枚撮影。残るフィルム1枚。

浅沼稲次郎の演説。
客席最前列に陣取った右翼の学生たちがやじり倒す。

突然、詰め襟の学生服の若者が舞台に現れる。

手に日本刀。浅沼に突進。腹部に突き入れる。

二人がよろめき、離れる。

今度は心臓に再び突き入れる。引き抜く。

その瞬間を長尾は、
最後の1枚で撮った。

写真は
1961年ピューリッツァー賞受賞。
日本人受賞者第1号となった。

topへ

古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ①

1945年8月15日、
堀越二郎は日記にこう記した。

「戦は終わった。
 日本がすっかり消耗し尽くした後の、
 初めて経験する現実の敗戦。
 明日からわれわれは何をしたら
 よいのだろう」

堀越二郎。
太平洋戦争の初期、
無類の強さを誇った戦闘機、
零戦の設計者として知られるひと。

1939年4月の初飛行から、
改良型を含めて10430機という、
おびただしい数の零戦が
中国や太平洋の空を飛んだ。

そして、6年4ヶ月後、
零戦はその飛行を終えた。

topへ

古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ②

1945年、日本は
連合国の占領下に入った。

残存していた戦闘機や爆撃機は
占領軍の手ですべて破壊され、
航空機の設計、製造はもとより、
研究も禁じられた。

大学の授業からは、
航空力学の科目が削除され、
飛行機の製造会社は
ことごとく解体された。

いわゆる「航空禁止令」が
発令されたのだ。

堀越二郎が勤めていた
三菱名古屋航空機製作所も
例外ではなかった。

堀越二郎、
この時42歳。働き盛りの歳で、
飛行機づくりという天職を
奪われることになった。

topへ


login