名雪祐平 13年8月31日放送



WANTED! アーネスト・シャクルトン

20世紀初頭、ロンドンの新聞に掲載された
広告が話題をさらった。

それは探検家アーネスト・シャクルトンが書いた
南極隊員の募集広告。

 求む男子
 至難の旅。わずかな報酬。
 極寒。暗黒の長い月日。
 絶えざる危険。生命の保証無し。
 成功の暁には名誉と称賛を得る。

この文面に奮い立った男たち5000人が応募し、
倍率200倍から合格したのは25人。

1914年、南極横断成功に向けて出発。

しかし船が厚い氷に阻まれ、座礁。
そこからまさしく募集広告のような
命の危機の連続だった。

危機は英雄を生む。

南極横断には失敗したが、
信じられないほどの苦難を乗り越え、
一人の命を落とすことなく全員が生還した。

失敗の暁に、名誉と称賛を得た。

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名雪祐平 13年8月31日放送


Stuck in Customs
WANTED! グーグル採用担当者

アメリカの就職人気企業の
あるランキング調査によれば。

第1位、グーグル。

何もしなくても応募殺到するような人気企業。

けれどもグーグルの採用担当者は
受け身で待っていない。

ビジネスエリートたちがあつまる
マラソン大会に、
「グーグル採用中」と書かれたTシャツを着て
参加したりする。

応募者をただ待つのではなく、
欲しい人材を獲りにいく。

人気抜群のIT企業は
アナログの出会いの強さも知っている。

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名雪祐平 13年8月31日放送



WANTED! ジェシー・ジェイムズ 

アメリカでは「銀行強盗の日」がある。

1866年、
世界初の銀行強盗に成功した2月13日がその記念日。

犯人は、西部開拓時代のガンマン、
無法者ジェシー・ジェイムズ。

銀行や列車を襲い、殺人を重ねた。
お尋ね者として当時1万ドルの懸賞金がかけられたことで、
子分に裏切られ、射殺された。

非常にハンサム。
数々の伝説と、悲劇的な最期をとげたことで。
アウトローとして英雄視された。

事実は、
強盗生活16年。
銀行強盗11回。
列車強盗7回。
強奪金20万ドル。
殺人16人以上。

極悪非道のジェシー。

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名雪祐平 13年8月31日放送


r.nial.bradshaw
WANTED! マッキンゼー・アンド・カンパニー採用担当者

大手コンサルティングファーム、
マッキンゼー・アンド・カンパニー

スイス支局の担当者が
面白い求人広告を考えた。

それは消しゴム付きの鉛筆。
ただし、消しゴムの長さが通常の10倍近くもあった。

鉛筆にはこんな1行が。

 どんな解決方法にも満足しない学生を募集

書いて、消して、書いて、消して、解決策を導く。
長い消しゴムがそれを表現していた。

1本の鉛筆のアイデアで
優秀な大学でのマッキンゼー社の認知度は
一気に高まった。

人は、アイデアのある企業で働きたいもの。

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名雪祐平 13年8月31日放送


Austronesian Expeditions
WANTED! ベン・サウスオール

世界最高の仕事

勤務地 :オーストラリア・ハミルトン島
仕事内容:ちょっとした島の雑務と
     グレートバリアリーフを周遊し、
     その様子をブログなどにアップすること。
期間:半年間
報酬:10万豪ドル/約1000万円
資格:世界中の誰でも可

2009年、こんな求人広告に
全世界から3万4000人以上が応募し、
イギリス人男性ベン・サウスオールさんが採用された。

半年間の勤務を終えた彼の感想。

 毎日新しい島に行って
 そこに何があるか探さなければならなかった。
 いままでの人生でもっともハードワーク。

彼はいま、どんな仕事をしているのだろう。

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名雪祐平 13年8月31日放送



WANTED! 指名手配犯

オウム真理教関係特別手配
高橋克也
菊池直子
懸賞金1000万円
2012年6月逮捕

世田谷一家4人強盗殺人事件
懸賞金300万円
私的懸賞金700万円
合計1000万円
犯人逃亡中

八王子スーパー強盗殺人事件
懸賞金600万円
犯人逃亡中

柴又三丁目女子大生殺人放火事件
懸賞金500万円
犯人逃亡中

犯人たちへ。
聞いていますか?

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古居利康 13年8月25日放送


k_oota
タルコフスキーの日記から ①1970年9月13日

『9月13日
 今日、大阪のエキスポ’70が閉幕した』

旧ソヴィエトの映画監督、
アンドレイ・タルコフスキーは、
1970年の日記にそう記した。

映画『惑星ソラリス』に登場する
未来都市の舞台に彼が選んだのは、
日本の大阪だった。

万博会場を未来都市に見立てた撮影を
ソヴィエト当局に申請していた。

しかし、待てども待てども許可がおりない。

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古居利康 13年8月25日放送



タルコフスキーの日記から ②1970年9月14日

『9月14日
 今日、日本のビザが送られてきた。
 また誰かが話をぶちこわしにしない限り、
 今週末に出発できる。』

映画監督タルコフスキーの日記から。
『惑星ソラリス』のための日本ロケを
ソヴィエト当局が許可したのは、皮肉にも、
大阪万博が閉幕した翌日のことだった。

『もちろんもうエキスポは終わってしまったが、
 もしかしたら夜明けの薄明かりの中で
 その建物を撮影することはできるかもしれない。』

しかし、タルコフスキーは結局、
日本に出発できなかった。
映画『惑星ソラリス』実現のためには、
海外ロケ以外にも山のような障害があった。

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古居利康 13年8月25日放送


Père Ubu
タルコフスキーの日記から ③1971年8月10日

『8月10日
 書く時間がまるでない。
「ソラリス」でへとへとになった。』

旧ソヴィエトの映画監督、
アンドレイ・タルコフスキーは、
1971年の日記にそう書いている。

2年前に企画提案し、採用された、
映画『惑星ソラリス』。
ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの
長編小説『ソラリスの陽の下で』を
原作とするこの映画企画に対し、
ソヴィエト当局の表現チェックは厳重を極めた。

宇宙開発の過程で遭遇した未知の天体。
人間の過去や記憶を、眼に見えるかたちで
再現する謎の物質。亡くなった妻と
瓜ふたつの女性に出会う主人公・・。

バラ色の未来ではない。
どこか閉塞的なモノトーンの未来。

1971年に入って、
ソヴィエト国内でのロケーション、
セット撮影は着々と進行した。

9月22日、タルコフスキーは、
ようやく日本へ旅立つことになった。

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古居利康 13年8月25日放送


matsuyuki
タルコフスキーの日記から ④1971年10月14日

『10月14日
 10日に日本から戻った。
 くたくたに疲れた』

映画監督タルコフスキーの日記より。

1971年9月24日から10月8日まで、
タルコフスキーは、『惑星ソラリス』の
撮影のために日本に滞在した。

大阪万博の閉幕から1年たっていた。
万博会場の跡地を訪ねたが、
イメージどおりの撮影はできなかった。
苦肉の策として、東京の首都高速道路を
疾走するクルマから見える風景を撮影した。

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