藤本宗将 13年8月11日放送
帰りたくなる話 帰りたくなる話 デニー友利
日本名は「友利 結」。
アメリカ名はローレンス・フランクリン・デニー。
しかしその投手のことは、「デニー友利」という
登録名で覚えている人のほうが多いかもしれない。
沖縄県で生まれた彼は、1986年のドラフト会議において
横浜大洋ホエールズからドラフト1位指名を受けた。沖縄からはセリーグ初。
ハーフという生まれによってつらい思いもしてきた少年が、
突如として地元の期待を背負うことになった。
しかし、なかなか芽がでない。初勝利は9年目。
そんな彼を支えたのは、「このままでは沖縄に帰れない」という思いだった。
大洋からトレードで西武ライオンズへ。そしてふたたび古巣・横浜へ。
中継ぎ投手として活躍したが、2004年には自由契約となる。
それでも彼はまだ故郷に帰れないと感じていたのだろうか。
アメリカに渡り、ボストン・レッドソックスとマイナー契約する。
しかしメジャーには昇格できないまま彼の挑戦は終わった。
その年の秋、沖縄に帰省していたデニーのもとに、
一本の電話がかかってきた。声の主は、落合博満。
当時、沖縄でキャンプを張っていた中日の監督だった。
「キャンプを見に来いよ」
軽い調子で誘われて出かけたところ、
いきなり「この中から好きな数字を選べ」と背番号を選ばされた。
普段着のまま、そこで即席の入団会見。
つらい思い出も多い場所。けれどそこは、野球と出会った場所。
そして最後のチャンスをつかんだ場所になった。
村山覚 13年8月11日放送
帰りたくなる話 室生犀星
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの」
これは、室生犀星の詩の有名な一節。
彼のペンネームは、金沢を流れる犀川の西で
生まれ育ったことに由来している。
冒頭の詩のとおり、ふるさとと疎遠だった犀星は
犀川についてこんな詩をのこしている。
「うつくしき川は流れたり そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの 花つける堤に座りて
こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
いまもその川ながれ 美しき微風ととも 蒼き波たたへたり」
あなたのふるさとには、
どんな花が咲き、どんな風が吹きますか?
村山覚 13年8月11日放送
帰りたくなる話 野口英世
「志を得ざれば 再び此地を踏まず」
野口英世が上京する時に、実家の柱に刻んだ言葉。
東京からニューヨークに渡り研究に没頭していた彼に、
日本の母から一通の手紙が届く。
「はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちち(返事を)まちてをりまする。ねてもねむられません」
これを読んだ野口英世は、15年ぶりに故郷の土を踏んだ。
母はどのような表情で、息子を出迎えたのだろうか。
村山覚 13年8月11日放送
帰りたくなる話 少女ドロシー
アメリカ映画協会・AFIが選出した
名セリフベスト100というランキングがある。
第4位は、こんなセリフ。
「トト、ここはカンザスじゃないみたいよ」
映画『オズの魔法使い』。
主人公の女の子ドロシーが、竜巻に飛ばされた後に
犬のトトに言ったセリフだ。
「ここはカンザスじゃない(We’re not in Kansas anymore)」
という言葉は慣用句になっていて、
他の映画でもしばしば引用される。
知らない街でびっくりした時や、
状況ががらりと変わった時に使う。
『オズの魔法使い』のエンディング、
カンザスに帰れることになったドロシーが言うセリフは
名セリフランキングで23位に選ばれている。
「やっぱりおうちが一番だわ」
あなたにとって、一番の場所はどこですか?
佐藤理人 13年8月10日放送
ルーブル美術館①「フィリップ2世」
パリをいかに守るべきか
12世紀のフランス王、
フィリップ2世は悩んでいた。
自分が十字軍に参加している間に、
もしもイギリスが攻めてきたら?
立派な塔と
城門を備えた城壁で
街を囲え
彼はパリ市民に命じた。
しかしそれにはひとつ問題があった。
街のまん中をセーヌ川が流れているため、
城壁が分断され、
防御が手薄になってしまうのだ。
そこで彼らは、
防衛上最も重要なセーヌ下流の右岸に
出城をつくることにした。
それが後に
世界一有名な美術館になる
ルーブル城
である。
「ルーブル」の語源には
「要塞」や「偉大な」など諸説あるが、
現在でもよくわかっていない。
佐藤理人 13年8月10日放送
ルーブル美術館②「フランソワ1世」
フランス・ルネサンスの父
と呼ばれ、
レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロン
としても知られる、
16世紀のフランス王フランソワ1世。
彼は、
国王の権力は
神から授けられたものである
という王権神授説に基づき、
自分が住むルーブル城も
権力の象徴でなければならない
と考えた。
1546年、城を宮殿に改築するよう
建築家ピエール・レスコに命じるが、
完成を待たずに翌年急逝してしまう。
宮殿は完成後、
ローマ神話を題材としたたくさんの彫刻と、
彼自身が集めた厖大な美術品で飾られた。
その中にはあの
モナ・リザ
も含まれていた。
佐藤理人 13年8月10日放送
ルーブル美術館③「サロン」
太陽が沈んだ後に現れたのは、
もうひとつの太陽だった。
フランス王ルイ14世は母を亡くしてから
すっかり元気を失ってしまった。
失意のあまり彼は
母の思い出が残るルーブル宮殿を離れ、
ヴェルサイユ宮殿に居を移した。
72年というフランス史上最長かつ、
ギネス記録になるほどの在位期間を誇り、
太陽王
と呼ばれた男の勢いは
もうそこにはなかった。
国王にかわり、
宮殿の新しい主となったのは、
フランス王立の絵画・彫刻アカデミー。
彼らは宮殿内にアトリエを設け、
2年ごとに
サロン
と呼ばれる大展覧会を開催した。
その余りの盛況ぶりを聞きつけた
ルイ14世も隠遁先から駆けつけ、
活動の成果に目を輝かせた。
やがてルーブルの中や周囲には
大勢の画家や彫刻家が住みつき、
宮殿は自由な創作活動の中心地となった。
芸術は確実に特権階級から
大衆の手に移り始めていた。
佐藤理人 13年8月10日放送
ルーブル美術館④「革命」
「暴動か?」
王が聞くと、側近は答えた。
「いいえ、革命です」
1789年7月14日、
バスティーユ牢獄の襲撃を皮切りに
フランス革命が勃発。
国王ルイ16世と
妃マリー・アントワネットは投獄され、
フランスは王から国民のものになった。
それは同時に、
宮殿に収められた美術品の数々も
国有の財産となったことを意味する。
議会はルーブル宮殿を
学問と芸術における
あらゆる記念碑的な作品を集めた場所
と定め、内部を美術館に作り変えた。
かくして今から220年前、
1793年の今日、
ルーブル美術館が誕生した。
それは、
世界で最も美しい
国民主権の象徴
だった。
佐藤理人 13年8月10日放送
ルーブル美術館⑤「ナポレオン」
オーストリア王女
マリー・クルーズとの結婚式場に
ナポレオンが選んだのは、
ルーブル美術館だった。
当時、
ナポレオン美術館
と改名されていた建物の中は、
ヨーロッパ各国から略奪した
厖大な美術品で溢れかえっていた。
大いなるものは常に美しい。
そう言ってナポレオンは、
急増する戦利品を収めるために
宮殿の大増築を始めた。
彼はルーブルを
世界一の美術館にしようと目論んだ。
しかし1815年、ワーテルローの戦いで
イギリスやドイツの同盟軍に大敗すると、
元の持ち主たちは、
美術品の返還をフランスに求めた。
ところが美術館の上層部は
要求に応じなかった。
それどころか彼らは美術品を
自分のコレクションに紛れ込ませて
隠匿しようと試みた。
おかげでいくつかの傑作は
そのまま美術館に留まり、
今も私たちの目を楽しませ続けている。
大いなる美はすべてを正当化する。
佐藤理人 13年8月10日放送
ルーブル美術館⑥「美術館学」
戦争で略奪するだけが、
美術品の入手方法ではない。
19世紀から20世紀にかけて、
ルーブル美術館はその作品数を
爆発的に増やした。
その多くが寄贈品だったことは、
ルーブルが真に
民衆のための美術館だった証である。
所蔵品の増加に伴い、
美術館学
が生まれた。
それまで所狭しと並べられていた作品は
年代・地域・流派ごとに分類し直された。
国民に正しい美術教育を施すことも
美術館の使命である、
と考えられるようになったのだ。
作品を解説する鑑賞ツアーが組まれ、
日曜には家族連れで賑わった。
そこにはフランス革命が掲げた
自由と平等
の精神が確かに生きていた。