渋谷三紀 13年6月22日放送



夫婦の話(木村秋則さんと美千子さん)

絶対不可能と言われた
無農薬のリンゴ栽培を成功させた、
木村秋則(きむらあきのり)さん。

そもそもリンゴの木は病気や害虫に弱く、
年に十回以上農薬をまくのが常識だった。
無謀ともいえる挑戦のきっかけは、
妻の美千子さんの体調不良。
その原因が農薬だと知り、無農薬栽培を決意した。

毎日ひたすら害虫をとりつづけても、
花は咲かず、収入のない日々が続いた。
そんなぎりぎりの生活の中でも、
美千子さんは夫を笑顔で励ましつづけた。

八年目、一本の木に花が咲いた。
翌年には、畑中に白い花が咲き乱れた。
ふたりがつくったリンゴは、
「奇跡のリンゴ」と呼ばれた。

いまや公演で国内外を飛び回る、
ときの人となった秋則さん。
妻の美千子さんは笑ってこう話す。

 リンゴができなかった時のほうが
 いっしょにいられたから、
 そこだけはそのほうがよかったな。

topへ

渋谷三紀 13年6月22日放送


okinawa soba
夫婦の話(ジューンブライド)

ジューンブライド。
六月の花嫁は幸せになるという欧米の言い伝えが
日本に入ってきたのは、終戦後間もなく。

しかし、日本の六月は梅雨の真っただ中。
雨も湿気も多い季節に
わざわざ式を挙げるカップルは少なかった。

ときは昭和40年代。
落ちこむ梅雨時期の売り上げアップを狙い、
ジューンブライドに目をつけたのは、
ホテルの支配人たち。
「六月の花嫁は幸せになりますよ。」と
ロマンティックな宣伝をはじめた。

とき同じくして開催された、大阪万博。
日本中に冷房が普及するタイミングで、
ジューンブライドは飛躍的に広まったという。

ジューンブライド。
今日もどこかで新しい幸せが生まれている

topへ

伊藤健一郎 13年6月22日放送



夫婦の話(ゲーテとシュタイン夫人)

ドイツの文豪、ゲーテ。
数々の恋愛遍歴でも有名な彼が、
いちずに求愛しつづけた女性がいた。
彼女にゲーテは、こんな詩を贈っている。

 私たちはどこから生まれてきたか。
 愛から。
 私たちはいかにして滅びるか。
 愛がなければ。
 私たちは何によって自己に打ち克つか。
 愛によって。
 私たちも愛を見つけることができるか。
 愛によって。
 私たちを泣かせるのは何か。
 愛。
 私たちをつねに結びつけるのは何か。
 愛。

女性の名は、シャルロッテ・フォン・シュタイン。
彼女には、夫と3人の子供がいた。

ゲーテの熱心な求愛は、11年にも及んだが、
シュタイン夫婦の愛の結びつきを断ち切ることは、ついにできなかった。

topへ

伊藤健一郎 13年6月22日放送


ゼロ
夫婦の話(内田裕也と樹木希林)

ロックンローラーの内田裕也と、女優の樹木希林といえば、
芸能界でも異色な夫婦だろう。

もう、かれこれ四十年も別居生活。
墓参りの時期など、数ヶ月に一度しか、二人は顔を合わせないという。

とあるインタビューで樹木は、こんなことを語っている。

 「目も合わせない夫婦なんてのもありますが、
  うちはめったに会わないから(会うと)ずっと向き合ってますよ。
 『私に言わせろ』『いや、おれに先にしゃべらせろ』なんてね」

夫婦関係には、適度な距離感が必要だという。

別居というと、一般的には不仲に聞こえるが、
ロックな夫婦のベストな距離感は、
このぐらいビッグでちょうどいいのだろう。

topへ

高田麦 13年6月22日放送



夫婦の話(ヒッチコックとアルマ)

一人では天才になれないのかもしれない。

サスペンスの帝王、アルフレッド・ヒッチコックには、聡明な妻がいた。

脚本家として活躍していたアルマ・レヴィル。
よほど重要なことがない限り、
彼女は夫のセットへ姿を見せることはなかったが、
どの映画でも一番信頼できる意見を述べる相談役として、
ヒッチコックのキャリアで重要な役を果たした。

1959年、実在する殺人鬼エド・ゲインの伝記に
強い着想を得たヒッチコックは、
新作映画に取りかかろうとするが、
映画会社には残酷すぎる!と
ダメだしされ資金も集まらない。

自己資産を投入し、ようやく完成した映画は
最初の試写会でも散々酷評されるが、
妻だけが「あなたは編集の天才なんだから、
もう一度やり直せばいい」と励まし続けた。

開始30分でヒロインを殺すというセンセーショナルな展開、
有名なシャワーシーンへの印象的な音楽の挿入、
映画の最終的な編集は、彼女の助言によるものだ。

映画史に残る不朽の名作「サイコ」は、夫婦でつくりあげた映画だったのだ。

topへ

奥村広乃 13年6月16日放送



天文学の父

天文学の父、ガリレオ・ガリレイ。

彼が、地球は太陽の周りをまわっていると主張し、
宗教裁判にかけられたのは有名なお話。

結果にはすべて原因があると考えたガリレオ。
実験や観察を通じて、
様々な「なぜ」を解き明かしていった。

インターネットが普及した今、
ちょっとした疑問はネットで検索することが
当たり前になった。
そのぶん、「なぜ」と考えることが減ってしまった気もする。

君は、報告を信じるだけで、自分で確めないのか。

ガリレオが残したといわれるこの言葉は、
現代のビジネスマンにも少し耳が痛い。

topへ

礒部建多 13年6月16日放送


Amakuha
テクノポップの父

1978年、「人間解体」のアルバムと共に
日本に強い衝撃を残した、クラフトワーク。
後に、テクノポップという新しいジャンルを確立させた。

シンセサイザーなどの電子楽器で作り上げられる
単一的なメロディーで、無機質な世界観。
彼らが、その音楽に込めたこだわりは
徹底的にシンプルに。無駄を削ぎ落し、
音楽から人間らしさをなくす事。

ボーカルをロボット声に変換するなど、
今までの音楽の常識を逸脱した実験的な音楽は
大きな反響を呼んだ。

今や、
多くの人に愛されるテクノポップは
当時とは、印象も大きく変わっている。
しかしいつまでも実験的であってほしい。
テクノポップの本質はそこにあるのだから。

topへ

澁江俊一 13年6月16日放送



宇宙開発の父

小惑星イトカワをめざして
宇宙を旅した探査機はやぶさの活躍は
多くの日本人に夢を与えた。

その小惑星の名前は
日本の宇宙開発の父・糸川英夫にちなんでいる。

若い頃、空に憧れていた糸川は
戦時中の名機とうたわれた、
ある戦闘機の設計にも関わった。
その名もまた、隼。

戦後日本の宇宙開発を
大きく飛躍させたのは糸川がつくった
わずか23センチのペンシルロケットだ。
アメリカやソ連のような大型の実験機がない日本で
小さな物で実験し、それを巨大化して実用にするという
「逆転の発想」だった。

当時日本には
レーダーでロケットを追跡する技術がなかったが
糸川は上空ではなく、水平に発射することで
ペンシルロケットの実験を可能にした。

まさに探査機はやぶさのように
果てしなく遠い夢をめざし
アイデアと実行力で一歩ずつ近づいてゆく。

糸川の業績と、無限の好奇心は
今も日本の宇宙開発者たちの、
大きな目標になっている。

topへ

礒部建多 13年6月16日放送



ヘアヌードの父

和製英語「ヘアヌード」
それは、編集者・元木昌彦が生んだ言葉。

元木は早稲田大学を卒業後、講談社に入社。
やがて、週刊現代の編集長となる。
挑戦的な姿勢から
様々な業界のタブーを記事にしていった。

裸体を紙面に掲載することも、
当時は絶対的なタブーとされていた。
しかし、元木にとってそれは好都合だった。

新聞記者がとりあげない領域を
とりあげることにこそ
僕らの存在理由がある。

今も編集に携わっている元木。
次はどんなタブーを狙っているのか。

topへ

澁江俊一 13年6月16日放送


hobby_blog
怪獣の父

地球の平和を守るウルトラマンが
次々と倒す怪獣たち。
その怪獣たちが
誰が見ても愛せない存在だったら、
ウルトラマンはこんなに
人気者になっていただろうか。

レッドキング、ピグモン、ジャミラ、ゼットン…
主役のウルトラマンより
ファンが多いかもしれない
怪獣たちの着ぐるみを数多く手がけ、
怪獣の父と呼ばれている高山良策(たかやま りょうさく)。

デザイナーの成田亨(なりた とおる)とともに
日本中の子どもたちに恐れられながらも
どこか憎めない怪獣たちを生み出した高山には
恐さではなく、やさしさがあった。

結婚後すぐに入院した妻を
献身的に介護したやさしさ。
怪獣の造形にもこだわりながら
軽さ、安全性を重視し
着ぐるみを着る演技者が怪我しないよう
自由に怪獣を演じられるよう気を配った。

そんなやさしさが
どこか、にじみ出てしまうから
今もみんな高山が生んだ怪獣たちが
大好きなのだ。

topへ


login