佐藤理人 13年5月11日放送
数学者のスイッチ②「ハミルトンと橋」
1843年のある日。
数学者ウィリアム・ハミルトンが
近所の橋を渡っていると突如天啓が訪れた。
四元数
という新しい代数の概念を思いついたのだ。
感動のあまり彼は、
数式をナイフで欄干に刻みつけた。
しかしこの理論は難解すぎて、
理解できる人は誰もいなかった。
10歳で10ヶ国語を話し、
ニュートンの再来
と呼ばれた彼は
残りの人生をその研究に費やしたが、
ついに理解されることなくこの世を去った。
彼の理論が役立ったのは、
それから150年も後のこと。
ロボットや宇宙船を制御する
コンピュータグラフィックスに欠かせない、
遥か未来のアイデアだったのである。
佐藤理人 13年5月11日放送
数学者のスイッチ③「コワレフスカヤと文学」
ロシアが生んだ世界初の女性教授、
ソフィア・コワレフスカヤ。
彼女は、フランス最大の科学賞に輝く
優れた数学者である一方、
ヨーロッパ中で翻訳が出版されるほどの
ベストセラー作家でもあった。
数字に飽きると文字へ。
そしてまたその逆へ。
数学者は詩人でなければなりません
そう言ってコワレフスカヤは、
解釈がただ一つしか許されない世界と
無数に存在する世界を自由に行き来した。
彼女が得意としたもの。それは、
楕円関数
通常の円とは異なり、
楕円には焦点が2つある。
数学と文学。
両方に軸足をおいて活躍した、
実に彼女らしい選択だった。
佐藤理人 13年5月11日放送
V. Ganesan
数学者のスイッチ④「ラマヌジャンと神様」
インドのマドラス大学には、
数学の公式で埋め尽くされた3冊のノートが
大切に保管されている。
今もなお世界に衝撃を与え続ける、
シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの
「ノートブック」だ。
15歳で数学を学び始めた彼は、
6000個の公式を独学で理解しただけでなく、
新しい公式を見つけると、
次々とノートに書いていった。
しかし26歳でケンブリッジ大学に招かれると、
ある問題が起きた。
それらの公式を証明できなかったのだ。
人間離れした直観力と計算力を持ち、
南インドの魔術師
と呼ばれた彼の頭脳には、
初めから「証明」という概念が欠けていた。
どうして思いついたのか聞かれると彼は、
神様が夢の中で教えてくれた
と答えた。
過度の菜食主義による栄養失調と
研究の無茶がたたり、
ラマヌジャンは32歳の若さでこの世を去る。
それから100年近くたった今もなお、
彼が遺した3254個の公式は
解き尽くされていない。
佐藤理人 13年5月11日放送
Bob Lord
数学者のスイッチ⑤「チューリングとエニグマ 1」
かつてチャーチルは言った。
私が本当に恐れたのはUボートだけだ
第二次大戦でイギリスは、
ドイツが誇るこの世界最強の潜水艦に
何十万トンもの輸送船を沈められた。
島国のイギリスにとって、
食糧や燃料を絶たれることは死を意味する。
しかしどれだけ通信を傍受しても、
Uボートの位置がつかめなかった。
ドイツの通信はすべて
エニグマ
という機械で暗号化されていたからだ。
一兆の一万倍もの暗号を作成できる
この機械を破るため、
国中から数学者が集められた。
リーダーはケンブリッジ大学のエース、
アラン・チューリング。
計算の天才 対 解読不可能な暗号機
世界を賭けた対決の火蓋が切って落とされた。
佐藤理人 13年5月11日放送
On Being
数学者のスイッチ⑥「チューリングとエニグマ 2」
かつて「コンピュータ」は
「計算を仕事にする人」を意味した。
第二次大戦中、
イギリスを苦しめたドイツの暗号機「エニグマ」。
その解読にあたった数学者
アラン・チューリング自身が、
正に人間コンピュータだった。
問題解決の手順を形式化する
という彼の研究は、
暗号解読にピッタリだっただけでなく、
現代のコンピュータプログラムの原型を作った。
彼は見事、暗号を解読。
ドイツのUボート作戦を中止に追いやる。
科学と違い、
数学なんて役に立たないと言われた時代。
チューリングは計算で祖国を救い、
世界とコンピュータの歴史を書き換えた。
今日(こんにち)彼は、
人工知能の父
と呼ばれ、世界中で愛されている。
佐藤理人 13年5月11日放送
数学者のスイッチ⑦「チューリングとエニグマ 3」
ドイツの暗号機「エニグマ」を解読し、
イギリスを救った数学者、
アラン・チューリング。
しかし暗号解読は国の最高機密なため、
彼の功績はひた隠しにされた。
同性愛者であることを理由に、
逮捕され職もうばわれた。
絶望したチューリングは
41歳のとき自ら命を絶つ。
政府がその不当な扱いを謝罪したのは、
55年も後のこと。
人類の進歩を妨げるものは、
いつだってくだらない無知と偏見だ。
大友美有紀 13年5月5日放送
「父と息子」北原白秋
北原白秋は、完璧な父だった。
父はこのうえなく寛大だった。
どんなときでも慈愛ぶかくあった。
そう書く長男、隆太郎は一度だけ
白秋に厳しく叱責された。
叔母が亡くなった時、あまりの悲しさに
追悼文が書けなかったのだ。
白秋は、自分はそんな理由で
義理を欠かしたことがないと叱った。
その夜、白秋は再び隆太郎を呼び、
母と妹、家族全員で
伯母の追悼録をつくろうと提案する。
厳しさと優しさの父だった。
大友美有紀 13年5月5日放送
「父と息子」ディケンズ
病気や悲しみも人にうつるが、
笑いと上機嫌ほど、
うつりやすいものもこの世にはない。
「オリバーツイスト」「クリスマスキャロル」、
イギリスの国民的作家、チャールズ・ディケンズ。
幼い頃、
のんだくれで賭け事が好きな、でも気のいい父と
その友人たちの気をひくために、
酒瓶の散乱したテーブルにのぼり、
滑稽なジェスチャーとダンスを披露した。
後に父は破産し、チャールズたちを苦しめることになる。
それでも、酔っぱらいの前の卓上で味わった
喝采と注目、人を楽しませることの喜びが、
のちのディケンズをつくった。
彼の弱者への視点は、父から生まれたものだった。
大友美有紀 13年5月5日放送
「父と息子」ルノワール
「どん底」「大いなる幻影」「ゲームの規則」
1930年代、トーキー映画の幕開けの時代、
次々と傑作を世に送り出した映画監督。
ジャン・ルノワール。
父親は、印象派の巨匠、オーギュスト・ルノワール。
映画は芸術か?と問われれば、映画も庭いじりも
ヴェルレーヌの詩やドラクロワの絵と同等に芸術だという。
父は私に芸術の話などしたことがない。
この「芸術」という言葉に我慢がならなかったのだ。
こどもたちが絵をやろうと、芝居か音楽でも
まったく勝手だった。
ただし、それをやりたいという気持ちが
限りなく強くなって、
どうしてもやらずにいられないようにならなければ、
駄目なのだ。
ジャンの一生は、オーギュストが与えた影響を
確定しようとする試み費やされた。
抜け出そうとしたり、学んだことを実行したり、元に戻ったり。
彼の映画は、父の影響を隠せば隠すほど、
父を感じるものになった。
大友美有紀 13年5月5日放送
「父と息子」中原中也
近代詩人・中原中也は、
人並みはずれた子煩悩だった。
長男を2歳で亡くした時、
悲しみのあまり屋根を歩き回った。
窓から暗い月夜を見ていると
瓦屋根のうえに白蛇が横たわっていて
それが確かにこどもを奪ったヤツなので、
踏み殺そうと思って屋根へ上った。
その1年後、
中也の通夜の席で、11ヶ月の次男が、
カステラを手でつかんでもみくちゃにしてしまった。
それを見た客がこんどは杯を持たせてみると
次男は小さな手でそれを受け取り、
生前の中也そっくりの手つきで杯を持った。
弔問客は、どっと笑い、悲しみの涙を絞った。