名雪祐平 13年3月31日放送
遺言
フィラデルフィアとボストンの
2つの市にそれぞれ遺産5000ドルを寄付する。
ただし、この寄付金は200年間、
引き出すことを禁じ、投資し、運用し続けること。
途中100年後に1回、公共事業のために
50万ドルを引き出すことを認める。
ベンジャミン・フランクリン
1790年永眠。
寄付金は時を超えて増え続け、
100年後に50万ドル引き出され、
200年後に2000万ドルにもなった。
その額は5000ドルの、実に4000倍であった。
名雪祐平 13年3月31日放送
遺言
闘争の年月を通じて、
私は結婚の責任を負うことはできないと信じていたが、
今日わが生涯の終わりを目前にして、
私は長年真の友情を誓いあった一人の女性を
わが妻とすることに決意した。
彼女は私の妻として、
自身の意思で私とともに死ぬことを選んだ。
妻と私は、敗北や降伏の屈辱を免れるため、死を選択した。
われわれ二人の遺体は、私がこの12年間、
国家のために毎日の大部分を捧げて働いたこの場所で、
直ちに火葬にしてもらいたい。
1945年4月30日
アドルフ・ヒットラー
遺書を書き終わった深夜2時、
ヒットラーはエヴァ・ブラウンと
結婚式を挙げた。
名雪祐平 13年3月31日放送
遺言
私の骨いれて、
田舎の寂しい小さな寺に埋めてください。
私、死にましたの、知らせ、いりません。
もし人が尋ねましたならば、
はあ、あれは先頃なくなりました。
それでよいのです。
あなた、子供とカルタして遊んでください。
小泉八雲=ラフカディオ・ハーン
1904年永眠。
妻 節子への
たどたどしい日本語の、
思いやりあふれる遺言であった。
名雪祐平 13年3月31日放送
遺言
全財産はつぎの通り処理すること
遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、
毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、
その利子を賞金の形で与える。
右の利子は5等分し、
物理学の分野で最も重要な発見
または発明をした者、
化学の分野で最も重要な発見
または改善をした者、
生理学または医学の分野で
最も重要な発見をした者、
文学で最も傑出せる
理想主義的傾向の作品を書いた者、
諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・
または和平会議の開催および推進に
最も貢献せる者に、
それぞれ一部を与えること。
右の賞は、候補者の国籍を問わず、
最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である。
1895年11月27日
アルフレッド・ノーベル
その後、経済学賞が加わり、
ノーベル賞は6部門となった。
名雪祐平 13年3月31日放送
Destructive Compliments
遺言
1.われはローマ教会の信徒として死す。
50余年前、その胸に抱かれて生れたからである。
2.わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。
わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。
3.わが最愛の妻マリー・ルイズは常にわたしに満足を与えて来た。
そこで世を去るにあたって心からの愛情を捧げた。
わが息子は未だ幼少のため、
願わくば世のさまざまの誘惑に陥らないよう守りたまえ。
1821年8月15日
ナポレオン・ボナパルト
セント・ヘレナ島にて。
名雪祐平 13年3月31日放送
遺言
「ワールド」という新聞を維持し完全なものとし、
永続させる義務を申し付ける。
この新聞を保持し発行するために、
わたしは自分の健康と体力を犠牲にした。
そこで単なる金儲けより高い動機から、
これを公共機関として育成したわたしと
同じ態度でその経営に臨んでほしい。
ジョセフ・ピュリッツァー
1911年永眠。
その17年後、子孫に託した新聞「ワールド」は廃刊。
彼の遺志によって設立された「ピュリッツァー賞」は
世界的な賞として今もつづく。
名雪祐平 13年3月31日放送
Destructive Compliments
遺言
私は以前より俳優を希望していたが、
才能がないため望みがかなわなかった。
私は後年には市の実業界に重要な地位を占め、
舞台に立つことは不可能となった。
20万ペソ(500万円相当)を遣贈して基金とし、
才能ある若き俳優に毎年奨学金を与えることとする。
ただし、私の頭蓋骨を保存し、
シェイクスピアの『ハムレット』を上演する際には、
ヨリックの頭蓋骨として使用することを条件とする。
ホアン・ポトマーキ
1955年永眠。
アルゼンチンの実業家だった男の
怖い伝説。
渋谷三紀 13年3月30日放送
Destructive Compliments
チームワーク1 作家と編集者(高橋一生)
文藝春秋社で38年間、
名だたる文芸雑誌の編集者をつとめた高橋一生さん。
ある作家に雑誌への執筆を頼んだときのこと。
その雑誌の最新号を送るようにと言われ、
すぐに送ったところ、無事に承諾を得る。
何が決め手だったかという尋ねる高橋に、作家はこう答えた。
「新人の小説」を読んだ。
著名でない新人の作品は、
編集者が納得いくまで書き直しを求めるはずだ。
それを見れば、編集部の求める水準がわかる。
文学の世界では、助産婦に例えられる、編集者。
最高の文学を生み出すために。
優れた編集者は優れた作家を求め、
優れた作家もまた優れた編集者を求める。
出会いもまた才能のひとつ。
高田麦 13年3月30日放送
thefoxling
チームワーク2 クエンティン・タランティーノ
爽快な黒人西部劇、「ジャンゴ 繋がれざる者」が公開中の
クエンティン・タランティーノ監督。
いつだって、あふれる映画への愛を作品に込めてきた。
彼の撮影現場ではこんな言葉が飛び交う。
テイクを撮り直す時、
タランティーノが「もう1回!」と言うと、
スタッフは「なぜ?」と返す。
そうしたら、監督もスタッフもみんなで
「なぜなら俺たちは映画が好きだから!」と叫ぶ。
まるで、子供同士の合い言葉。
同じものを好きだからこそ、
信頼し合い、まっすぐにゴールへと走っていける。
これを完成まで繰り返すうちに、
タランティーノ組の結束はさらに強いものになっていく。
類は友を呼ぶという言葉があるが
純粋な「好き」を共有できる仲間の仕事は、
よりよいものになるようだ。
高田麦 13年3月30日放送
チームワーク3 ロバート・キャパ
世界で最高の戦場カメラマンと
称えられることも多いロバート・キャパ。
実は、「ロバート・キャパ」という名前の人間は存在せず、
これは元々、二人組のユニット名だった。
ロバート・キャパこと、
22歳のユダヤ人青年アンドレと3歳年上のゲルダ。
アンドレはゲルダに撮影技術を教え、
ゲルダはアンドレの作品作りにインスピレーションを与えた。
戦場に二人で赴き、写真を撮った。
スペイン内戦中、史上初めて兵士が撃たれる瞬間をとらえた
「崩れ落ちる兵士」という作品は
ロバート・キャパの名前を一躍有名にした。
残念ながらゲルダは内戦中、
27歳の若さで命を落とす。
彼女の死後、アンドレはキャパを名乗り、
より精力的に活動するようになる。
ふたりでひとり。ふたりだからできたこと。