大友美有紀 13年2月10日放送
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「オーロラ・神秘の言葉」日本
日本でも北海道で、オーロラが見えることがある。
残念ながら、荘厳なオーロラではない。
カーテンの上の部分がほんのり見える程度だ。
けれど藤原定家の「明月記」の1204年の記録には
晴れ。北の空に赤気あり。その根は月の出る方向。
白色が四、五カ所あり、赤い筋三、四カ所あり。
雲ではない。白色、赤色が交わり、奇妙、恐ろしい光景である。
とある。
オーロラなのか、どうか。
少なくとも天の恐怖の現象には違いない。
大友美有紀 13年2月10日放送
「オーロラ・神秘の言葉」表現者
突然夜空に現れる光の洪水。
ゆらめき、色やかたちを変え、ふっと消えていく。
オーロラの魅力を多くの芸術家が伝えようとしてきた。
ゲーテは、愛する人の姿をオーロラの光にたとえる。
おん身の姿は、永遠の星が
オーロラの定めない輝きの中にきらめくように、
親しげに変わることなく輝くのです。
オーロラを表現することは、
自然への愛を表現することかもしれない。
大友美有紀 13年2月10日放送
「オーロラ・神秘の言葉」宇宙
オーロラの謎は、さまざまな宇科学の力によって、
太陽のプラズマに関係していることがわかった。
その科学の最先端にいる宇宙飛行でさえ、
オーロラの前では無力になる。
アメリカの宇宙実験室「スカイラブ」から
オーロラを撮影したNASAの宇宙飛行士ガリオットでさえ。
宇宙空間から見たオーロラの
余りの雄大さに感動し、
夢中でシャッターを押していた。
オーロラがどういう状態であったかとか、
その位置についてとか、
くわしいことはすっかり忘れてしまった。
我を忘れるほどの感動だ。
2012年から13年は、オーロラの当たり年らしい。
忘我の境地が味わえるかもしれない。
澁江俊一 13年2月9日放送
Amarand Agasi
チョコと漫画家
「すみません、急病人がチョコを食べたがっているんです!」
そんな強引な理由で
深夜にお菓子屋を起こし
わざわざ売ってもらうほど
チョコレートを愛していた
漫画家・手塚治虫。
手塚の代表作「ブラックジャック」に
こんな話がある。
2月14日。
心臓の奇病の手術がうまくいかず
打ちひしがれるブラックジャックに
ピノコが渡すハートのチョコレート。
しかし「ハートなんぞいま見たくもない!!」と言われ
ピノコはがっくり…
そのラストシーン。
「ピノコ、バレンタインデーってなんだっけ?」
とつぶやくブラックジャック。
その言葉に安心したピノコは
まるでチョコレートのように
甘くとろけた顔をするのだ。
澁江俊一 13年2月9日放送
チョコと映画監督
「ギルバート・グレイプ」「サイダーハウス・ルール」
俳優の本当の魅力を惹きだす演出で知られる
映画監督ラッセ・ハルストレム。
斬新なカメラワークや
予想を裏切るストーリーではなく
人の心が動く瞬間を追いかける映画づくり。
その人生観は、彼の映画に登場する
ある飲み物にとてもよく現れている。
映画の名は「ショコラ」。
昔々フランスのとある村に
まだ見ぬお菓子「チョコレート」を広めるため
やってきた女性ヴィアンヌがつくる
唐辛子入りホットチョコレート。
ピリッとした刺激と、とろける甘さの絶妙なハーモニーは
かたくなな村人の心を、たちまち溶かしてしまう。
人生は甘いだけじゃない。だからいい。
それがラッセ・ハルストレムが思う幸福なのだ、きっと。
澁江俊一 13年2月9日放送
チョコと遊女
記録に残る日本最初のチョコレートは江戸時代、
寛政九年、西暦なら1797年。
長崎は丸山の遊女が
オランダ商人からもらった品物の目録に
「しょくらあと六つ」という文字がある。
これが実はチョコレートなのだ。
しょくらあと。
これはこれで、素敵な響き。
同じ寛政九年に書かれた
『長崎見聞録』によれば、
「しょくらあと」は
お湯に削って入れ、
卵と砂糖を加え、泡立てて飲む。
当時は“薬”だったらしい。
長崎の遊女は、
どんな病をわずらっていたのか。
もしかしたら、恋、かもしれない。
松岡康 13年2月9日放送
チョコと裁判
世界でもっとも有名な
チョコレートケーキ。
それは、ザッハトルテだ。
1832年。わずか16歳の
フランツ・ザッハがつくるケーキが
ウィーンじゅうの話題になった。
フランツの息子エドヴァルドは勢いに乗り
「ホテル・ザッハ」を開業。
ザッハトルテはそこでも大人気だった。
そして世界恐慌。
「ホテル・ザッハ」も財政難に陥る。
この危機を救ったのはウィーン王室御用達ケーキ店
「デメル」の女経営者アンナだった。
彼女が援助の条件にしたのは、ザッハトルテの販売権。
当時のホテルの経営者エドヴァルド・ザッハーと
アンナは恋仲だとも噂された。
二人の死後、ホテル・ザッハはデメルに対し
ザッハトルテの名称の使用を禁じる長い裁判を起こした。
1962年、長期にわたった裁判にやっと判決が下され
どちらもザッハトルテを生産販売できることになった。
この裁判を、vision人は「甘い戦争」と呼ぶ。
礒部建多 13年2月9日放送
Peter from Perth
チョコと戦争
1965年の日本といえば
東京オリンピックを経て経済成長のまっただなか。
子供たちの目はテレビから流れる宇宙もののアニメに釘付けだった。
そんな1965年に出版されたのが
児童文学の傑作「チョコレート戦争」
舞台は、ある地方都市。
高級洋菓子店に飾られたチョコレートの城は
子供たちのあこがれだった。
ある日、そのショウウインドウのガラスが砕け散る。
たまたまそこにいた2人の少年は
ガラスを割った犯人にされてしまう。
そんな大人たちへ抗議するため
チョコレートの城を盗み出す計画がはじまる。
タイムマシンも空を飛ぶ乗り物も、光線銃も出て来ない。
登場するのは普通の子供と普通のオトナ。
でも、ドキドキするような
エンターテインメントになっている。
「童話だって、大人が読んでも
おもしろくなくては駄目であると思った」
と語るのは著者の大石真。
当時読者だった子供たちは今、
その子供たちに、この本を手渡している。
奥村文乃 13年2月9日放送
チョコと夢
チョコレートが大好きな子供だった。
作家ロアルド・ダール。
彼が通っていた学校のそばには、
イギリス王室御用達のお菓子メーカー、
キャドバリーの工場があって
生徒たちは新製品のチョコレートを試食する楽しみがあった。
チョコレート工場の発明室で働きたい。
ロアルドのそんな夢から、
代表作『チョコレート工場の秘密』は生まれた。
彼は作品の中で、夢を実現させたのである。
幼いころみた夢は、すべて叶うなんてことはない。
でも、大人になったとき
その夢は間違いなく
自分自身を動かす原動力になる。
奥村文乃 13年2月9日放送
チョコと告白
日本におけるバレンタインデーのはじまりは、1958年。
2月12日から14日にかけての3日間、
伊勢丹新宿本店に「バレンタインデー」にちなんだ
チョコレートがならべられた。
その年の売り上げは、板チョコ3枚とカード2枚。
たったの170円だった。
その翌年、1959年のバレンタインデー。
メリーチョコレートカンパニー2代目社長の原邦生は、
女性誌にこんな広告コピーを書いた。
「一年に一度、女性から愛を打ち明けていい日。」
当時の女性たちは、どれだけこの言葉に
胸をときめかせたことだろう。
いまや、国民的行事になったバレンタインデー。
このシーズンには国内で生産されるのチョコレートの
25%が売れるそうだ。
甘くて苦いチョコレートに託して、
あなたは誰に想いを贈りますか。