佐藤理人 12年12月15日放送
力道山③「空手チョップ」
もっと思い切り叩け
そう言って力道山は子供たちに、
木槌で自分の手を叩かせた。
硬くなった掌と怪力自慢の張り手。
相撲時代の得意技をプロレスに応用したのが、
トレードマークの「空手チョップ」だ。
厳しい修行を終え、
アメリカ巡業に出かけた力道山は、
その必殺技で勝利の山を築く。
260戦中、負けたのはわずか5回。
しかし最大の収穫は、
プロモーターの資格を手に入れたこと。
彼はアメリカのレスラーを
日本に呼べるようになった。
力道山はプロレスラーであると同時に、
有能なビジネスマンでもあった。
佐藤理人 12年12月15日放送
力道山④「シャープ兄弟」
その夜、新橋駅は異様な空気に満ちていた。
2万もの人々が集まって、
一台の街頭テレビを見つめている。
1954年2月、日本初のプロレス国際試合の生中継。
日本代表は相撲出身の力道山と柔道王木村政彦。
対するアメリカ代表は、
世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟。
まず小柄な木村がシャープ弟に痛めつけられると
怒った力道山が空手チョップで反撃。
見かねて助けにきた兄もそのまま返り討ちにする。
2m近いアメリカ人を
日本人がコテンパンにやっつける。
敗戦のコンプレックスを抱えた人々に
その姿は大いにウケた。
肉弾戦なら日本は負けなかった。
そんなことを言う者までいた。
派手な投げ技。場外乱闘。タッグマッチ。
相撲とも柔道とも違う面白さ。
プロレスは一夜にしてブームになり、
テレビの急速な普及に大きく貢献した。
日本戦は視聴率がとれる。
力道山の読みは今も当たり続けている。
佐藤理人 12年12月15日放送
力道山⑤「昭和の巌流島」
柔道王木村政彦は怒っていた。
全日本柔道選手権13年連続優勝、
木村の前に木村なく、木村の後に木村なし
と謳われた自分が力道山の引き立て役に甘んじている。
彼は朝日新聞に「真剣勝負なら負けない」と語った。
1954年12月22日、日本プロレス選手権。
通称「昭和の巌流島」と言われた戦いで、
二人は決着をつけることになった。
結果は力道山の完勝。
木村は気絶し、マットは血に染まった。
しかし当時の映像を見ると、
木村はどこか油断しているように見える。
それもそのはず。試合は事前の了解で
引き分けに終わる予定だったのだ。
互いに勝ち負けを繰り返して巡業を盛り上げ、
多額の収益をあげる、はずだった。
力道山はなぜ裏切ったのか。
プロレスは八百長だという噂を払拭し、
名実ともに頂点に立つためか。
それとも真剣勝負では敵わないと思ったのか。
真相は未だプロレス史最大の謎である。
佐藤理人 12年12月15日放送
力道山⑥「ビジネスマン・リキ」
力道山は有能な実業家だった。
独学で英語をマスターし、
外国人レスラーとの交渉は全て自分で行った。
大相撲における国技館のような場所が欲しいと、
現在の複合施設の先駆けとなる
日本初のプロレスホール、
通称「リキパレス」も建設した。
その後もプロレスで得た資金を元に、
高級マンション、レジャーランド、
ゴルフ場、マリンリゾートなど、
時代を先取りした数々の事業に乗り出した。
そこには、
国境も過去も関係なく
どこでもヒーローとしての役割を
果たせるようになりたい
そしていつか
日本と祖国の架け橋になりたい
そんな願いがあった。
佐藤理人 12年12月15日放送
力道山⑦「最後の酒」
「日本国、力道山様」
そう書くだけで
本人に手紙が届く時代があった。
どこへ行っても常に
国民的英雄でいなければならない。
重圧のあまり力道山は酒に溺れた。
ある日のこと。大相撲協会から
初の海外巡業に参加して欲しいと頼まれた。
かつて自分に冷たくした奴らが頭を下げている。
久々に上機嫌で酒を飲んだその夜、
力道山はナイフで腹を刺された。
きっかけは足を踏んだ踏まないの、
本当につまらないケンカだった。
49年前の今日、「日本プロレス界の父」
力道山は39歳の若さでこの世を去った。
戦後最大のジャパニーズドリームを体現し、
天皇の次に有名な男
と呼ばれた男の悲しすぎる最期だった。
高田麦 12年12月9日放送
偶然を集める人 赤瀬川原平
世の中には、
意味のないものを愛でる人がいる。
ただ昇って降りるだけの意味不明な階段、
何を仕切っているのか推察不能なガードレール、
色あせて文字の一部が読めなくなっている看板など…。
70年代、これらの美しさを発見した赤瀬川原平は、
トマソンと名づける。
そして、街中で自分の感性が反応したものに
次々とカメラを向け、採集していった。
今も散歩を続ける赤瀬川の言葉。
この世は偶然に満ちている。
街はいづれ老朽化し、その隙間から、
追い出された偶然がまた顔をのぞかせる。
カメラにはそれが美味しい。
何の変哲もない風景も、
見る人間次第でまったく違うものとなるらしい。
岡安徹 12年12月9日放送
靴を集める人 イメルダ・マルコス
フィリピン共和国第10代大統領夫人、
イメルダ・マルコス。独裁者の妻として、
また驚くべき靴コレクターとして
その名を世界に轟かせた美女。
総数3000足と言われたコレクションは
壁一面のクローゼットを埋め尽くし、
ハイヒールから乗馬用ブーツまで
一生かかっても履ききれないほどを集めた。
ある時、華やかな生活を皮肉られ言われた
「3000足もお持ちとはさぞやご満足でしょう」と。
イメルダはこたえた。
「3000足なんて持っていません。1060足です」と。
一見、皮肉に言い返しただけとも思える一言。
しかしそこに、独裁者という悪名に隠された彼女の素顔が見えた気がする。
それは、靴の一足一足にまで愛着を持って接し、
人生を賭けて美を追究した健気ともいえる姿勢だった。
岡安徹 12年12月9日放送
人を集める人 坂本龍馬
日本の歴史が大きく動いた、幕末期。
多くの若者が新時代の幕開けを期待し
動乱の渦中に身を投じていた時代。
居並ぶ傑人の中でもひときわ多くの者に影響を与え、
心を惹きつける男がいた。その名は坂本龍馬。
なぜ、龍馬の周辺には多くの人は集まったのか。
その答えに近づく言葉がひとつ残されている。
龍馬曰く
事は十中八、九まで自らこれを行い、
残り一、ニを他に譲りて功をなさしむべし。
花道を譲ること。
簡単そうで難しい、功名心にとらわれない生き方を貫いたからこそ
明治維新という険しい道の真ん中を、龍馬は歩いて行けたのもしれない。
宮田知明 12年12月9日放送
集めるひと 松下幸之助
経営の神様、と言われた男、
松下電器産業、
現Panasonicの創業者、
松下幸之助。
いかにして、良い人材を集めるか、
という問いに、彼はこう述べている。
一流の人材ばかり集めると、会社はおかしくなる。
世の中、賢い人が揃っていれば
万事うまくいくというものではない。
むしろ、うまくいかないことの方が多い。
松下は、優秀な人材を集めるというより、
集まった人を育てる、という考え方をもっていた。
松下曰く、
松下電器は、人をつくる会社です。
同時に、電化製品もつくっています。
宮田知明 12年12月9日放送
集めるひと 野村克也
再生工場、と言われたプロ野球の名監督、
野村克也。
伸び悩む選手や、他球団で戦力外となった選手、
トレードで獲得した選手を、
コンバートや起用法を変えて活躍の場を与えたことから、
そんな異名がついた。
選手たちを、どうやってうまく導くのかを
聞かれたときの、彼の言葉。
監督業とは、気づかせ業である。
活躍している選手を集めてくるのは、
強いチームだからできること。
そうではないチームだからこそ、
野村の、選手の素質を見抜く力が、
いい選手を集めることにつながった。