佐藤延夫 12年10月6日放送
ハッピーナイン
ショートショートの神様2
ショートショートの神様、星新一。
彼が初めて世に出したSF小説は、「セキストラ」。
電気性処理器がもたらす世界平和を描いた作品だ。
新聞記事の切り抜きや雑誌の記事、
電報などを切り貼りして繋ぎ合わせた実験的な小説で、
その評判は、ある男の耳にも届くことになる。
先生、ついに天才がひとり出ました。
その先生というのは、江戸川乱歩。
星新一は、ミステリーの天才を味方につけた。
佐藤延夫 12年10月6日放送
masaaki miyara
ショートショートの神様3
ショートショートの神様、星新一は、
言葉に対して、独特のポリシーを持っていた。
ことわざのような常套句や駄洒落を嫌う。
固有名詞や流行言葉、時事用語を避ける。
登場人物は、エヌ氏、エフ氏など架空の名称にする。
名前らしいものにすると、読者によってイメージが変わってしまうからだ。
もうひとつ大切なもの。
それは、彼が繰り返し語っていた言葉に現れている。
健全な常識があってこそ、
常識の枠を取り外した意表を突くアイデアが生まれる。
ただの変人では、数々の名作は生まれないのかもしれない。
佐藤延夫 12年10月6日放送
ショートショートの神様4
ショートショートの神様、星新一。
製薬会社の御曹司であり
将来は半ば約束されていたが、
経営者向きの性格ではなかった。
社長に就任した一年後、
彼はすべての権利を譲り渡すことになる。
それからは、毎日のように有楽町の碁会所で碁を打ち
映画を見て、親友たちと酒を飲んだ。
女性とデートすると、天体の話をした。
そうは言っても、地球と火星の距離はどれくらいか、というような
ロマンチックとは無縁のこと。
そんなある日、一冊の本に出会う。
そのときの興奮は、彼の日記に残されていた。
ハレ カゼヒイテウチニネテイル 火星人記録ヨム コンナ面白いのはめつたにない
レイ・ブラッドペリのSF小説「火星人記録」。
実業家としての道を閉ざされた青年は、
きっと心が洗われるような思いで、ページをめくったのだろう。
佐藤延夫 12年10月6日放送
Mavroudis Kostas
ショートショートの神様5
ショートショートの神様、星新一。
彼の代表作のひとつに、「ボッコちゃん」が挙げられる。
ボッコちゃんは、バーのマスターが気まぐれで作った女のロボット。
あらゆる美人の要素を取り入れた完全な美人、という設定で、
客に対して、一切お世辞を言わない。
会話は基本的に、おうむ返し。
この物語を書き終えたときの感覚を、
星新一は、克明に覚えていた。
あれだけは、なんかほんとに神様が耳元で囁いてくれたという、
よく書けたという感じがしますね。
神様からのご褒美は、不意に天から降ってくる。
佐藤延夫 12年10月6日放送
ショートショートの神様6
ショートショートの神様、星新一。
日本の小説家の中で
彼が最も影響を受けたのは、太宰治だった。
百年に一人の天才と称え、こんな言葉を残している。
ぼくの場合は、できるだけ乾いた文章を書いている。
それも、考えてみれば、太宰治と逆の方向に走らなければ
気が気じゃないからかもしれません。
誰かの真似ではなく、逆方向に走るという発想。
それが星新一を、SFの頂点に導いた。
佐藤延夫 12年10月6日放送
ショートショートの神様7
ショートショートの神様、星新一は、
1997年、71歳でこの世を去った。
彼の遺品からは、単語や短い文章だけが書かれた小さなメモや、
言葉の断片を組み合わせた下書きが大量に見つかっている。
幽霊と催眠術。友情と動物園。月賦と殺し屋。ドラムと鬼。
チョウチンとツリガネ。まばたきと変装。左利きのサル。
裏返しの憲法。やとわれた怪物。
もちろん、これらの単語を小説にするために、
彼なりの方法論があった。
1、知識の断片を、できるだけ多く、広く、バラエティに富んでそなえていること。
2、その断片を手際よく組み合わせ、検討してみること。
3、その組み合わせの結果がどうなるかを、すぐに見透かしてみること。
ひとつひとつの物語を紡ぎあげ、
いつしか、1001編ものショートショートが生まれた。
その中のひとつ、「天国からの道」という作品は、こんな出だしで始まる。
天国は長いあいだ独占企業だったので、天使たちはしだいに役人臭を帯びてきた
今ごろはきっと、シニカルな眼差しで天国を眺めているのだろう。
名雪祐平 12年9月30日放送
パラリンピックの父、子 ルートヴィヒ・グットマン①
戦争は、殺す。
そして、障害を負わせる。
第二次大戦中、爆撃で脊髄を損傷し、
下半身不随になった兵士たち。
彼らが次々と運び込まれる病院が、
ロンドン郊外にあった。
ストーク・マンデビル病院
国立脊髄損傷センター。
責任者は、ナチスの迫害から逃れ、亡命した医師、
ルートヴィヒ・グットマン。
ベッドで身動きとれないまま床ずれになる
若者たちの姿勢を変える作業を夜通ししながら、
グットマンは一つの信念をもつ。
やがて戦争は終わる。
そのとき、この若者たちは自分で生活を送れるように
なっていなければいけない。
その信念によって、グッドマンは
やがてパラリンピックの父となっていく。
名雪祐平 12年9月30日放送
パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン②
第二次大戦のせいで下半身不随となり、
入院してくるイギリス人兵士たち。
人生に自信を失っていた。
医師ルードヴィヒ・グットマンは、
病室に女性ラインダンサーを招待し、
若者たちを奮い立たせた。
失ったものを数えるな。
残されたものを最大限に活かせ。
そうグットマンは訴えつづけた。
若者たちは車椅子に乗り、
病院の庭に出て、遊び始める。
ポロ、バスケットボール、やり投げ、アーチェリー。
車椅子でスポーツに打ち込むことで
身体的に、精神的にだんだんと自信がついていった。
スポーツこそ、最適なリハビリテーション。
そう考えたグットマンは、
入院患者が参加するスポーツ競技会を始める。
これがパラリンピックの起源となる。
名雪祐平 12年9月30日放送
パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン③
64年前も、ロンドンオリンピックだった。
1948年。つい3年前までの第二次大戦で国のために戦い、
下半身不随となった若い障害者たちに、
イギリス社会は目を閉ざし、
華やかなオリンピックのほうばかり見ようとしていた。
若者たちの医師であった
ルードヴィヒ・グットマンは真剣に企んでいた。
世界が戦後初のオリンピックに沸く。
車椅子の若者にも参加する資格がある。
そう考え、自分たちのストーク・マンデヒル病院で
車椅子の患者による競技会を開催した。
それはまさしく1948年7月28日。
ロンドンオリンピック開会式と同じ日だった。
参加選手はわずか16人。
それでも、その後も毎年開催された。
4年後の1952年。オランダを加えた国際大会となった。
12年後の1960年。オリンピックが開催されたローマで、
23カ国400人が参加。
これが実質、第1回パラリンピックとなった。
64年後の2012年。
発祥の地に戻ってきたロンドンパラリンピック。
史上最大の164の国と地域、4280人の選手が参加した。
すでに他界していたパラリンピックの父、
グットマン医師はいなかった。
けれども、16人で始まったパラリンピックのふるさと、
ストーク・マンデヒル・スタジアムには
グットマン医師の娘エバさんが姿があった。
名雪祐平 12年9月30日放送
パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン④
障害者のスポーツ競技会を提唱し、
パラリンピックの父といわれる
ルードヴィヒ・グットマン医師。
グットマン医師が生前、
戦争や交通事故で下半身不随になった
患者たちに向かってよく言った言葉。
もう一度、税金を納めるようになれ。
そう口癖のように励ました。
その励ましのなかに、
障害者が普通に暮らしていく社会を実現させたい
というグットマン医師の強い情熱があふれる。
パラリンピックが発祥した
ストーク・マンデヒル病院の隣にあるスポーツ施設では
障害がある人も、ない人も
一緒にスポーツを楽しんでいる。
子どもたちが自然に、
車椅子と過ごして育っている。