大友美有紀 12年6月3日放送



「女流の言葉・有吉佐和子」イヤリング

昭和31年、25歳で「地唄」を発表し
デビューを飾った有吉佐和子。
それまでの日本近代文学の主流は、私小説。
けれども彼女は、社会性のあるテーマで物語を書いた。
その有吉がイヤリングに凝っている時期があった。
昭和30年代、身につけるものに愛着をもつのは、
おおむね愚かな女であり、見下されていた。

 小さな国の、敗戦のあとを生きている私たちだ。
 せめて気持ちだけでも豊かにくらしたい。
 私は誰にも迷惑をかけぬ範囲で、
 本当の意味の贅沢の精神を養っているつもりなのだ。

アクセサリーを楽しむ、その先の心を、
今に先駆けて伝えている。



「女流の言葉・有吉佐和子」花のかげ

有吉佐和子は、
「華岡青洲の妻」「恍惚の人」「複合汚染」など、
タブー視されていた社会問題を取り上げ
ストーリー性の高い小説へと昇華させた。
昭和33年に刊行された「ずいひつ」に
おさめられた「花のかげ」で
サクラの花の季節に新しい学年が始まるのは、
本当にいい、と書いている。
姪っ子と弟の入園入学に家族に笑顔の花が咲いた、と。
そして思いを寄せる。

 ふと入試に失敗した高校生や、
 中学卒業と同時に就職した子どもたち、
 幼稚園に行かせる余裕のない家の子たちを思い出した。
 花の下にも翳のあることに気がつくと、いたたまれない。
 だれにも遠慮せずに誇らかに幸福を酔うことの
 できる世の中は、いつ来るのだろう。

社会を、世の中を思う気持ちは、彼女を自由にしてくれないのだ。


Swami Stream
「女流の言葉・有吉佐和子」女流作家

 有吉さん、女流作家だと言われたら、
 恥辱と心得なさいよ。

昭和30年代25歳でデビューした有吉佐和子は、
小説を書きはじめた頃、方々でこう言われたという。
女だから甘い目で認められていては、情けない。
女で小説を書くのは容易なわざではなかった。
女のほうが楽に世に出られる時代だ。
「女流」に対する本質的な反感だった。
でも彼女は、ならばここから築くしかない、
女なのだから女流と呼ばれても仕方のないことだ、
と消極的な肯定という結論を出す。

 女を吹き切れ、とか、
 女でなくなった年齢から本当の文学が生まれるのだ、とか、
 男性たちはのたまうけれども、
 女にそんなことを言うのは勝手な話だ。
 女は、自らの女性(おんなせい)を突き抜けるとき、
 豊かな開花を見せることができ、
 このとき男性の追随を許さなくなる例を、
 岡本かの子が立証しているではないか。

そしてそんな世間の呼び名に気を散らしている暇があったら、
机にかじりついて原稿用紙と取り組んでいたほうが懸命だと考える。



「女流の言葉・岡本かの子」岡本一平

岡本太郎の母であり、歌人、小説家、岡本かの子。
天真爛漫、奔放な情熱家、恋多き女。
夫、岡本一平がありながら恋に落ち、破局し、精神を病んでしまう。
その危機的状況を乗り越えたあと、夫について客観的に論じる。

 主人一平氏は家庭に於いて、平常、大方無口で、
 沈鬱な顔をしています。
 この沈鬱は、氏が生来持つ現世に対する
 虚無思想からだ、と氏はいつも申します。
 それゆえに氏は、親同胞にも見放され、
 妻にも愛の叛逆を企てられ、
 随分、苦い辛い目のかぎりを見ました。

この冷静さが、かの子の凄みである。


Melissakis, H.
「女流の言葉・岡本かの子」太郎

岡本太郎の母、かの子。
彼女の創作にかける意欲はすさまじく、
太郎を柱に縛り付けて原稿を書いていたという
エピソードは有名である。
けれど彼女自身、そんな自分をよく知っていた。
ある日の日記である。

 太郎をうったあと、自分がいつでも一人で泣く。
 太郎をうつことは自分をうつことだ。
 正直だが一徹で弱気なくせに熱情家だ。
 私そっくりなあの子。それ故に可愛ゆい。
 それゆえにまた私を怒らす。

 
太郎への愛情がわき上がるのを感じ、
かの子はじっとしていられなくなる。
けれど、露骨にいたわりにいくのは恥ずかしい。

 仕方がないので明朝のレコードをしらべにかかる。
 ルソーのリゴレットを抜いておくのだ。

レコードを選んでおくのは、次の朝、太郎の登校時に
音楽をかけるため。
気分を爽やかにしてやるための毎朝の習慣だった。



「女流の言葉・岡本かの子」美しいママ

岡本かの子の天真爛漫さ、
息子太郎への激しい愛情を、
恐ろしいほどに感じる散文詩がある。

 わたしは今、お化粧をせっせとして居ます。
 きょうは恋人のためではありません。
 あたしの息子太郎のためにです。
 わたしの太郎は十四になりました。

太郎がいつか美しい恋人を持つとしても、
ママが汚くては悲観する。
だから美しいママでありたい、と綴る。
それでなければ太郎の幸福は完全ではないと。
この激しさ、かの子以外には到達し得ない。


Ramon Masip
「女流の言葉・岡本かの子」手紙

岡本かの子の、息子太郎への愛情の強さと深さ、お互いの強烈な相似。
それゆえに母と子は遠く引き離されなければなかった。
かの子は、パリに住む太郎に手紙を書いてる

 えらくなんかならなくてもよい、と私情では思う。
 しかし、やっぱりえらくなるといいと思う。
 えらくならなくてはおいしいものもたべられないし、
 つまらぬ奴にはいばられるし、こんな世の中、
 えらくならなくてもよいような世の中だから
 どうせつまらない世の中だからえらくなって
 暮らす方がいいと思う。

複雑で正直な母の思い。



「女流の言葉・岡本かの子」素朴な子

昭和13年、岡本かの子は3度目の脳溢血に倒れる。
その直前に27歳の息子太郎に送った手紙は、
それまでの関係を詫びるようで、あわれむようで、切ない。

 太郎さんの喜んで貧乏しますという手紙を見て
 昨夜から私は泣き続けているのですよ。
 お前はやっぱりそんな可愛ゆい
 しおらしい素朴な子だったのね。
 この私の可愛らしい可哀そうな性質をうけた子だったのね。
 かわいそうでかわいそうで、
 私の身を刺し殺してしまいたいほども嬉しい悲しい
 自分の子の正体を見たものよね。
 日本へ帰ってきてそばで、わがままして暮らして下さい。

翌年、かの子は世を去る。享年49歳。激しい人生だった。

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佐藤延夫 12年6月2日放送


mkrigsman
ジム・ロジャーズ1

冒険投資家、と呼ばれる男がいる。
その名は、ジム・ロジャーズ。

26歳のとき、投資の世界に足を踏み入れた。
資金はたったの600ドル。
その後10年間で、4200%を超える驚異的なリターンを実現し、
37歳の若さで引退。
そして次に彼が向かったのは、世界だった。
2年間かけてバイクで地球を一周。
数年後には、クルマでまた世界を回った。
ジム・ロジャーズは語る。

  私は、人生を楽しむ自由を手に入れたかった。

この男は大枚をはたいて、自由を買った。


Backpack Foodie
ジム・ロジャーズ2

冒険投資家、ジム・ロジャーズ。
ファンドマネージャーを引退したあとも、
ビジネススクールの教授、
テレビの司会者として活躍した。
そして2度の冒険旅行を終え、
家族を連れてシンガポールに移住。
現在も悠々自適な毎日を送っている。

果たして、彼の人生の優先順位とはなんだろうか。
それを示した言葉がある。

  まず最も大事なことは、殺されないようにすること。
  二番目が、人生を楽しむこと。
  三番目は、世界を知ること。

これが悔いのない人生に必要な、3つのルール。


winkyintheuk
ジム・ロジャーズ3

冒険投資家、ジム・ロジャーズ。
彼の投資には、わかりやすい哲学がある。

他人が目を向けないところに投資をし、
まだ注目されていない市場を発掘して利益をあげる。

たったそれだけのこと。
しかし彼の言葉を借りるなら、こうだ。

  絶望が支配している場所に、信念を持って投資をする。

そしてこんな言葉も残している。

  私ががっぽり儲けたのは、決まって人の群れと逆に向かったときだ。

大切なのは、先見の明。そして決断力。


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ジム・ロジャーズ4

19世紀は、大英帝国の時代。
20世紀は、アメリカの時代。
そして21世紀は、中国の時代だと
伝説の投資家、ジム・ロジャーズは語っていた。

そのとおり、彼はマンハッタンにある高級住宅を売り払い、
シンガポールに移住した。
アメリカドルが、世界の基軸通貨の地位を追われると予想したからだ。

さらに今後、世界の中心が中国とアジアになることを見据え、
2人の娘には中国を習わせている。

世界旅行で何度も中国を横断し、
その目で、その足で、アジアのエネルギーを感じたのだろう。
ジム・ロジャーズは、こんな手記を残している。

  上海は、オズの国のように現れた。
  この街は、私たちが生きている間に、21世紀資本主義の
  エメラルドシティになるかもしれない。

果たして彼の目に、現在の日本はどのように映っているのだろうか。


Michael Aston
ジム・ロジャーズ5

伝説の投資家、ジム・ロジャーズ。
彼は投資対象を徹底的に調べることで
数々の成功を収めてきた。
株に投資する場合は、全ての財務諸表に目を通し、
見通しについても必ず裏をとって確かめる。
そして自分の頭で納得がいくまで突き詰める。

  I think ではなく I know なのだ。

もちろん投資は、人に任せるものではない。
だからこんな極論が出てくる。

  自分で調べた会社の株を買いなさい。
  さもなければ、家で映画を見ているほうがいい。


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ジム・ロジャーズ6

伝説の投資家、ジム・ロジャーズ。
彼は成功するための、
いくつかのルールを持っている。
ルールといっても、それはごく当たり前のことばかり。

メールの返信を早くする。
懸命に働く。
他人のために正しい行いをする。

そのほかに、興味深い言葉も残っていた。

  専門家と称する輩は、いつもだいたい間違っている。

つまりは他人をあてにしてはいけない、ということ。


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ジム・ロジャーズ7

伝説の投資家と言われた、ジム・ロジャーズ。
人生の前半は、ファンドマネージャーとして巨万の富を得て、
後半戦は世界冒険旅行に身を捧げた。
そして、興味のなかったものに目を向けた。

大変な時間とエネルギー、注意、お金、献身が必要となるもの。
それは家族だった。
これまで、子どもがいるのは哀れなことだと公言していた男は、
60歳にして初めての育児を経験し、
その考えを覆すことになる。

  私が生まれてからやってきたすべての冒険の中で、
  これこそが究極の冒険になるだろう。
  子どもは、私が見たことのない世界へ連れて行ってくれるだろう。

そして、こうも言っている。

  まだ子どものいない人は、ぜひさっさと家に帰って、しかるべく励まれよ。

今年70歳になるジムは、幼い娘たちの送り迎えを日課にしている。
伝説の投資家は、伝説のイクメンでもある。

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名雪祐平 12年5月27日放送



最期にこう言った 大宅壮一

テレビばかり見て、
自分の考えをなくしていく国民たち。
それを男は、「一億総白痴化」と指摘した。

地方の個性のない国立大学が
むやみに増えていく。
それを男は、「駅弁大学」と風刺した。

歳を重ねれば生き方が顔に表れる。
それを男は、「男の顔は履歴書である」と書いた。

男は、社会評論家、大宅壮一

世の中を斬る新語をつぎつぎに生み、
毒舌でならした大宅が死ぬ直前、
妻に最期にこう言った。

 おい、だっこ。



最期にこう言った マーク・トウェイン

『トム・ソーヤの冒険』が有名な
アメリカの作家、マーク・トウェイン

死ぬ1年前に彼は、

 私は1835年ハレー彗星とともに地球にやってきた。
 来年はまた彗星が近づく。
 私は彗星と一緒に去っていくだろう。

と周囲に語っていた。

はたして来年が来た。
ハレー彗星が75年ぶりにやってきた日の翌日、
彼は突如狭心症の発作を起こし、絶命した。

最期に、こう言った。

 じゃあまた、
 いずれあの世で会えるんだから。



最期にこう言った 一休

室町時代の禅僧、一休さんこと、
一休宗純は自由を貫いた。

禁じられていた
酒を呑み、
肉を食べ、
女と寝た。

戒律、形式に縛られない人間的な禅。
権威を否定し、悟りさえも否定し、
生涯をほぼ定住することなく、
各地を巡り、相手の身分の差別なく平等に
布教していった。

そんな一休に民衆は共感し、
生き仏とあがめられた。

応仁の乱後、
天皇の勅命により京都大徳寺に落ち着くまで
80歳まで全国を歩いた。

87歳、高熱が襲う。
ぎやく、といわれたマラリアにかかり、
とうとう臨終の時。

座ったままの姿で、眠るように死ぬ際、
一休は人間臭く、最期にこう言った。

 死にとうない。



最期にこう言った 葛飾北斎

生涯に発表した作品数 3万点以上
弟子・孫弟子の数 200人
絵師の名前を改号すること 30回
引っ越しすること 90回

葛飾北斎の熱量は異常である。
熱しられた意志が絵となり、世界に伝わり、
北斎はゴッホやドガ、マネ、セザンヌが
こぞって憧れる存在となった。

向上心に燃える執念は、
自己評価の厳しさになった。

希代の絵師は88歳の時、
死の床で、まだまだまだまだという思いで、
最期にこう言った。

 あと10年生きられたら
 本当の絵師になれるのに。

 いや5年でいい。



最期にこう言った 樋口一葉

五千円札の中に、若い女がいる。
貧困のまま生涯を終えた樋口一葉である。

お金がない自分が、
お金になっている。
なんて、思いもしなかったろう。

晩年というには早すぎる22歳~23歳にかけて、
『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』といった
優れた作品群を発表、絶賛された。
その期間は「奇跡の14カ月」と呼ばれる。

一葉は近代文学史における奇跡だったのだ。
そこにはお金にかえられない意味を持つ、命があった。

いったい一葉は何になっていただろう。
どこまで大きくなれただろう。

しかし、絶望的に、結核が一葉を襲う。
24歳の11月、見舞いに来た恩師が

冬休みにまた上京しますから、
そのときまた参りましょう。

と言うと、
一葉は苦しそうな声で切れ切れに、こう言った。

 その時分には、私は何になっていましょう。
 石にでもなっていましょうか。



最期にこう言った ヴィクトル・ユゴー

フランスの詩人であり、
小説『レ・ミゼラブル』で有名な
ヴィクトル・ユゴー

80歳で亡くなる時の様子は
こう伝えられている。

ベッドで横たわるユゴーが
付添人に訊ねる。

 きみ、死ぬのはつらいね。

死んだりなさるものですか。

 いや、死ぬね。

そして、しばらくすると

 ここで夜と昼が戦っている。

と、つぶやいた。

200年後の今日まで
燦然と光り輝いている作品を書いた一人の老人は、
一行の詩のように、最期にこう言った。

 黒い光が見える。



最期にこう言った 徳川夢声

徳川夢声は、元祖マルチタレントである。

大正時代、無声映画の弁士として人気者となった。

40歳で妻を亡くしたが、
縁あって親友の未亡人となっていた女性と
おたがい再婚。

戦後も漫談家、俳優として
舞台、映画、ラジオ、テレビなどジャンルを
軽くとびこえて活躍した。

77歳で、病に倒れた時。
妻に爪を切ってもらうと、夢声がその手をじっと眺めた。

妻は、病人が自分の手を見つめるようになると
死が間近という話を思い出し、
疲れますよ、と、夢声の手を下ろさせた。

その3日後、夢声は亡くなった。
妻に、最期にこう言った。

 おい、いい夫婦だったなあ。



最期にこう言った 小津安二郎

映画監督、小津安二郎。

12月12日生まれ。
12月12日死去。
還暦60歳の誕生日が命日となった。

鎌倉の円覚寺の墓にはただ一字
「無」と刻まれている。

がんセンターに入院し、
手術後、一度退院したが、
亡くなる2カ月前に再入院。

 何も悪いことをした覚えはないのに、
 どうしてこんな病気にかかったんだろう。

ともらしたという。
突然ともいえる自分の死に、
どこまで「無」と意識できたのだろうか。
最期にこう言った。

 右足がどっかに行っちゃったのかね。
 ベッドの下に落っこちているんじゃないかね。

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藤本宗将 12年5月26日放送



ロベール・ウーダン 1

近代マジックの父と呼ばれる、ロベール・ウーダン。

彼はもともと腕のいい時計職人だった。
ウーダンのつくった機械仕掛けの人形は、
1844年のパリ産業博覧会で入賞も果たした。

産業革命の波が押し寄せた時代。
才能ある技術者には、
華々しい活躍が約束されていたはずだ。

しかしウーダンは、
40歳でマジシャンに転身する。

彼はきっと、こう思っていたのだろう。

「ただ、世の中をびっくりさせたかった。それだけさ」

そういえば、スティーブ・ジョブズも
iPadを「magical device」と呼んでいた。

テクノロジーは、いつだってマジックに憧れる。



ロベール・ウーダン 2

燕尾服にシルクハット。

マジシャンとしてはじめてこの服装を取り入れたのが、
近代マジックの父、ロベール・ウーダン。

彼はあやしげな衣装ではなく正装に身を包み、
舞台の照明を明るくして
それまでの黒魔術的なイメージを払拭した。

マジックを、純粋なエンターテイメントへと進化させたのだ。

この革新的なスタイルはたちまち世界中に広がり、
今まではマジシャンの代名詞となった。

ウーダンは、こんな言葉を残した。

「マジシャンは、魔法使いの役を演じる役者である」

役者としてのウーダンはもういないが、
彼の演出はいまも生き続けている。



ロベール・ウーダン 3

近代マジックを確立したロベール・ウーダン。

もともと時計職人だったウーダンは、
その経歴を活かしたトリックを得意としていた。

たとえば、「パレ・ロワイヤルの菓子職人」というマジック。

人形に向かって注文をすると
いったん店の中に入り、
そのお菓子を取って戻ってくる。

19世紀の人々はその精巧な動きに驚いただろうが、
カラクリはきわめて単純。
ウーダンの息子が、中に隠れて操作していたのだ。

高名な技術者でもあるウーダンが、
まさかそんな子供だましをするとは誰も思わない。

トリックは、いつも観客の心の中に仕掛けられている。



チャン・リン・スー

マジックの歴史上最も有名な死亡事故は、
1918年3月23日、ロンドンで起こった。

犠牲となったマジシャンの名は、チャン・リン・スー。

きらびやかな中国服に、長く垂らした弁髪。派手なメイク。
彼の異国情緒あふれるショーは、その日も盛況だった。

しかし悲劇は突然訪れる。
弾丸を受け止めるマジックで、銃が暴発。
銃声とともに倒れるスー。
事情を知らない観客は拍手喝采。
それがそのまま、彼の人生の幕引きになった。

だが、本当の結末はそのあとに待っていた。
運び込まれた病院で、スーが白人であることが発覚したのだ。

本名はウィリアム・ロビンソン。
いつも通訳をそばに置き、
中国人として生活していた彼のことを
誰も白人とは思わなかった。

彼の中にあったのは、
人生をかけて騙そうという覚悟だったのか。
それとも、
自分なら騙し通せるという自信だったのか。



ハリー・フーディーニ 1

死後80年以上たった今もなお
アメリカで最も有名なマジシャンと言われる
ハリー・フーディーニ。

彼が活躍した時代には、
まだスピリチュアリズムが信じられていた。

あるときフーディーニは
亡くなった母親と話したいと願い、
霊媒師のもとを訪ね歩いた。

しかし、どの霊媒師もインチキばかり。

裏切られた彼の思いは、怒りに変わる。
マジシャンとしての鋭い観察眼で
霊媒師たちのトリックをあばき、
生涯をかけて彼らを否定し続けた。

ところが死の直前、
フーディーニが妻に言い残したのは
意外にもこんな言葉だった。

「死後の世界があったなら、必ず連絡するよ」



ハリー・フーディーニ 2

数々の脱出マジックで名を馳せた、
ハリー・フーディーニ。

「脱出王」と呼ばれた天才マジシャンにも、
逃れられない運命がある。

彼の死は、1926年10月31日のこと。

フーディーニは不死身だと信じた客に
不意打ちで腹を殴られ、
急性虫垂炎を起こしたのだ。

葬儀の日、参列者のひとりはこう言った。

「賭けてもいいが、彼はこの棺の中にもういない」

マジックは、人を信じる力でできている。



ジャスパー・マスケリン

第二次世界大戦中、ひとりの男がイギリス軍に志願した。
自分の持つ技術によって、ドイツ軍を打倒できると信じて。

男はジャスパー・マスケリン。職業、マジシャン。

西アフリカ戦線に配属されたマスケリンは、
マジックを応用したカモフラージュの専門部隊を組織する。
集められたのは画家、大工、電気技師など14名。
通称「マジックギャング」。

戦争は、騙し合いだ。

マスケリンたちは
偽の戦車部隊を自在に出現させ、敵を撹乱した。
偽の建物や灯台で港をつくり、
敵の爆撃機を惑わせたこともあった。

彼らのマジックは、ドイツ軍を翻弄し続けた。

しかし終戦となったのちも、
その功績が公式に認められることはなかった。
マスケリンは酒に溺れ、失意のうちに死んだという。

戦争は、騙し合いだ。
プロのマジシャンさえ欺かれるほどの。

そこには勝者など、いなかった。

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茂木彩海 12年5月20日放送


B.B
植物のはなし カレル・チャペック

4月に生まれた私の母は、50歳の誕生日を迎えたその日に、
突然ガーデニングに目覚めた。

真っ白な植木鉢に
真っ黒な腐葉土。
そこにお気に入りのピンクの花の苗を
大事そうに植えるその姿を見て、
ああ、そろそろ春だな、と娘は思う。

趣味が園芸だった劇作家、カレル・チャペックに言わせると、
4月はこれこそ本格的な、恵まれた園芸家の月」であり、
とにかく、自身でふかふかした土を指でほじくってみるといい」らしい。

母はきっと、その魅力を知ってしまったのだろう。


jiroh
植物のはなし 塚本こなみ

はじめて診察したのは、700歳の松の木だった。

日本ではじめて、木のお医者さんになった女性。塚本こなみ。

造園家の夫を支えるかたわらで、
男性が多い現場を不思議に思い、
女性の目で植物と向き合うべく15日間の長い試験の末に、
樹木医となった。

そんな塚本は、
人間が植物を守ろうとか、おこがましいことを言わないでほしい
と、語る。

自然を守ろう。その言葉が使われれば使われるほど、
私たちは木に守られている、という事実が薄れていく。

もの言わぬ樹木が相手だからこそ、その無言の声を受け止める。
その言葉のない会話こそが、樹木医の原点なのかもしれない。

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小野麻利江 12年5月20日放送


Jude Doyland
植物のはなし 狐野扶実子 春のニンジンのスープ

切れない包丁で皮をむしりとったように切っては、
ニンジンが、かわいそう。

出張料理人として世界の要人たちをうならせ、
<フォション>のエグゼクティブシェフを
つとめたこともある料理人・狐野扶実子。

人間にとって心地のいい料理をつくるためには、
食材も心地よくいられるよう
やさしく扱わなくてはいけない。
それが彼女の、料理のやり方。

少しだけミルクの香りがする、春の赤ちゃんニンジン。
その皮をそっとむいて、
玉ねぎの薄切りといっしょに、大切に大切に、火を通す。
沸騰させると味が抜けてしまうから、
その直前くらいの、火加減で。

ニンジンがやわらかくなったら、
バターを加えて、煮汁ごとミキサーへ。

仕上げとしてスープの上に、
バニラの香りをうつしたオリーブオイルを、たらり。

彼女がつくる春のニンジンのスープは、
食べる人間と、食べられるニンジンのことが
同じくらい大切に、想われている。


うちのポチ
植物のはなし 高橋順子 よもぎの葉をつむ時間

よもぎの葉の裏は白い

詩人の高橋順子は子どものころ、
よもぎの葉をつみにいくたびに
くりかえしくりかえし、祖母にそう言われた。

よもぎの葉の裏は白い

そう教えてくれた祖母も、今はもう亡く。
子どもの時間が二度とこないことを
高橋は、ひとりの野原で感じとり、こううたう。

もう間違えることができない
よもぎの葉は白い裏

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熊埜御堂由香 12年5月20日放送


さんたす
植物の話 大江健三郎の生まれた森

なぜ学校に行かなければならないのだろう。
そう思い、10歳の少年は学校の裏門を抜け森へ入って
毎日を過ごしていた。

ノーベル賞作家大江健三郎は愛媛県の森林の村で生まれた。
大江が不登校になった年。日本は戦争に負けた。
世の矛盾を敏感な少年は感じていた。
森の中で樹木の性質を学べばひとりで生きていける。
林業を営む父の姿をみてそう考えた。

しかしある日、
森で強い雨に打たれ生死の境をさ迷う。
僕はもう死ぬの?うなされ尋ねると
母親がこう答えた。
私がもういちど産んであげるから、大丈夫。

わけがわからないと思いながらも
静かな心になった少年はこんこんと眠り
回復したら自然と学校に通いはじめた。

それ以来こう思うようになった。
今生きている自分は母にもういちど産んでもらった
新しい子供なのではないか?

少年は森で、もういちど生まれた。
そして森をでて社会の中で生きはじめたのだ。

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石橋涼子 12年5月20日放送



植物のはなし 牧野富太郎の情熱

最終学歴、小学校中退。
独学で研究を続け、
植物学の父と呼ばれるまでになった牧野富太郎。

東京帝国大学の講師になっても、
理学博士号を授かっても、
野山をかけずり回って標本採集をするのが趣味だった。

どんなに貧しくても、珍しい植物を求めては旅に出た。
借金取りが押しかけて来ても、平然と植物の標本をつくっていた。

95歳で亡くなるまで少年でありつづけた植物博士の残した言葉。

草をしとねに 木の根をまくら 花に恋して90年



植物のはなし 牧野富太郎の感謝

植物博士、牧野富太郎の名付けは明快だ。
どこにでも生える図太い植物だから、ワルナスビ。
むじなの尻尾に似ているから、ムジナモ。
わかりやすさこそが、学問に必要なこと。

ただ一度だけ、例外がある。
貧しい生活を支え続けてくれた妻が亡くなったとき、
発見した笹にこの名を付けずにはいられなかった。
命名、スエコザサ。

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薄景子 12年5月20日放送


Jaanus Kalju
植物のはなし 斉藤吉一

花に逆らわず、花に従わず、花のするように生きる。

庭師であり、作家である
斉藤吉一(よしかず)はそう語る。

植物も生きているのだから、思いどおりには育たない。
だからこそ、肩の力を抜いてガーデニングを楽しもう。
そんなメッセージをこめた著書、
「ものぐさガーデニングのススメ」は、
園芸書を超えた“人生の書”としてベストセラーになる。

しかし出版後、書いた本人が、
肩の力の抜き方がわからなくなってしまう。
自分自身を見失い、やがて廃業寸前に。
歳月をかけて立ち直った庭師は、
木について、こう語る。

今ある姿が、その木らしさ。
経験と傷こそが個性です。

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蛭田瑞穂 12年5月19日放送

 
チャンピオンズリーグFINAL①トニー・ブリテン

ヨーロッパチャンピオンズリーグでは試合前に
「チャンピオンズリーグ・アンセム」を流すことが習わしになっている。

スタジアムにアンセムが流れると、それは決戦が始まる合図。
古代ローマのコロッセオに戦士が入場するように、
勇壮な選手たちがピッチにあらわれる。

このアンセムを作曲したのはイギリスの作曲家トニー・ブリテン。
ヘンデルが作曲した「司祭ザドク」のメロディをベースに、
曲をアレンジし、歌詞をつけた。

今シーズンのチャンピオンズリーグの決勝は
ドイツのミュンヘンで今日5月19日に行なわれる。
舞台となるアリアンツアレーナに間もなくアンセムが響き渡る。


papemix
チャンピオンズリーグFINAL②ユルグ・シュタデルマン

ヨーロッパチャンピオンズリーグの優勝トロフィーは、
2つの取っ手が大きな耳のように見えることから
「ビッグイヤー」と呼ばれる。

このトロフィーをデザインしたのは
スイスの職人ユルグ・シュタデルマン。
ヨーロッパ各国の好みを考慮し、この形に仕上げたという。

彼は語る。

 芸術的な傑作とは言えないかもしれない。
 でもヨーロッパのすべてのサッカー選手が
 手にしたいと思うのは確かだと思います。

2012年のチャンピオンズリーグの決勝は今日5月19日、
ドイツのミュンヘンで行なわれる。ビッグイヤーを掲げるのは、
バイエルン・ミュンヘンか、チェルシーか。


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チャンピオンズリーグFINAL③クラレンス・セードルフ

プロサッカー選手にとって、
ヨーロッパチャンピオンズリーグの優勝トロフィーを掲げることは
一生に一度叶えたいと願う、大きな夢。

その夢を4度も叶えてしまった選手がいる。
現在ACミランに所属するオランダ人ミッドフィールダー、
クラレンス・セードルフである。

95年にオランダの名門アヤックスで。
98年にレアル・マドリードで。
2003年と2007年にACミランで。

チャンピオンズリーグの優勝を複数経験した選手は他にもいる。
だが3つの異なるクラブで、というのは史上ただ一人、
セードルフだけである。


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チャンピオンズリーグFINAL④リオネル・メッシ

FCバルセロナに所属するリオネル・メッシは10歳の時、
医師から成長ホルモンの異常による発育不全と診断された。

高額な治療費が足かせとなり、複数のユースチームが獲得を見送る中、
FCバルセロナだけはメッシの将来性を見抜いた。
治療費を全額負担することを約束し、彼をチームに加えた。

その後の治療とトレーニングにより
身長もサッカーの技術も着実に成長したメッシ。

メッシは今シーズン、ヨーロッパチャンピオンズリーグで
ふたつの記録を打ち立てた。ひとつは史上初の1試合5ゴールという記録。
もうひとつは1シーズンの最多得点記録。

メッシは言う。

 まわりより小さかったからこそ、
 すばやく動けてサッカーがうまくなれた。
 最悪な状態でも良い方向に変えられるってことを
 僕は学んだんだ。


さんたす
チャンピオンズリーグFINAL⑤アリゴ・サッキ

1980年代に「ゾーンプレス」という戦術を編み出し、
サッカーに革命を起こしたイタリア人監督アリゴ・サッキ。

1989年と1990年にはACミランを率いて
ヨーロッパチャンピオンズリーグの連覇を達成した。

理論家として知られ、サッカーを熟知するサッキだが、
意外なことにプロサッカー選手としての経歴はない。

独学でサッカー理論を学び、少年サッカーのコーチから
キャリアをスタートさせ、やがて世界の頂点まで登り詰めた。

その経歴についてサッキは自らこう語る。

 優れた騎手になるために、馬に生まれる必要はないのです。


choudoudou
チャンピオンズリーグFINAL⑥ジネディーヌ・ジダン

ペレは言う。

 もしジダンがチームメイトにいたら、
 わたしは2倍の得点を叩き出したかもしれない。

ミシェル・プラティニは言う。

  サッカーの技術に関してはジダンが王様。誰も真似できない。

ジネディーヌ・ジダン。
多くの名選手が口をそろえて史上最高の選手と呼ぶ、
現代サッカーのマエストロ。

2002年のヨーロッパチャンピオンズリーグ決勝で、
ジダンの決めたボレーシュートは
チャンピオンズリーグ史上もっとも美しいゴールとも言われる。


Okko Pyykkö
チャンピオンズリーグFINAL⑦アレックス・ファーガソン

1999年5月、バルセロナのカンプ・ノウスタジアムで行なわれた
ヨーロッパチャンピオンズリーグの決勝、
マンチェスター・ユナイテッド対バイエルン・ミュンヘン戦。

試合はバイエルン1点リードのまま90分が経過した。
疲労の見える主力をベンチに下げ、勝利を手中に収めつつあるバイエルン。
しかし、ここからドラマが始まる。

ロスタイムに、デビッド・ベッカムのコーナーキックから
マンチェスターが立てつづけに2ゴールを決め、まさかの逆転劇を起こす。

「カンプ・ノウの奇跡」と呼ばれるこの勝利によって、
チャンピオンズリーグを制したマンチェスター・ユナイテッドは、
国内リーグ戦とカップ戦と合わせて三冠を達成した。

この功績により、監督のアレックス・ファーガソンには
エリザベス女王からサーの称号が贈られた。


Jaanus Kalju
チャンピオンズリーグFINAL⑧マルコ・バロッタ

スポーツ選手にとっての最大の敵。それは年齢である。
この難敵と闘って勝った選手は誰ひとりいない。

その意味でヨーロッパチャンピオンズリーグ史上最強の選手は
イタリア人ゴールキーパーのマルコ・バロッタともいえる。

彼が2007年に記録した43歳と168日での出場は
チャンピオンズリーグにおける最年長出場記録。

キャリアの晩年、現役を長く続ける秘訣として彼はこう語っている。

 若い頃は成長するために努力しろと言われた。
 年齢を重ねた今は歳なんだからもっと努力しろと言われるよ。

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