坂本仁 11年11月26日放送
ジョー・ストラマー
パンクとは何かという命題に、
答えてくれる言葉がある。
月に手を伸ばせってのが、俺の信条だ。
たとえ届かなくても。
ピストルズと並んでUKパンクの雄と称される
The Clashのボーカリスト、
ジョー・ストラマーの言葉だ。
来日コンサートの際には、
ファンからの膨大なプレゼントを、
多額の超過荷物料金を支払ってすべて持って帰った。
ファンを大切にする。
そんな彼の姿勢も、パンクだった。
ザック・デ・ラ・ロッチャ
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは、
政治的メッセージを歌う反体制のバンドだった。
搾取される先住民の悲劇、
画一的な教育の恐怖など、
そのメッセージはいつも過激で、
アルバムが合衆国政府の要注意著作リストになったこともある。
けれど、ボーカルのザックは次のように語る。
「全ての革命的行動は愛の行為。
俺がこれまでに書いた曲は全てラヴ・ソングだ。」と。
弱者への強い愛が彼らの、強烈なパフォーマンスの源泉だった。
ベン・E・キング
何かをつくることは、孤独な作業だ。
つらい暗闇の中で、もがき、苦しみ、
自分が納得する作品をつくりあげる。
「ダンスウィズミー」、「ラストダンスは私に」などで知られる
ミュージシャン、ベン・E・キングは、
曲作りに関して次のように語る。
「Good」が「Better」になるまで、
「Better」が「Best」になるまで、決して気を抜いてはいけない。
完璧になるまで妥協しない。
そんな自分を追い込む曲作りのつらい状況の中で、
キングは、彼のヒット曲、
「スタンドバイミー」を思いついたのかもしれない。
BONO
1971年、ジョンレノンは「イマジン」という名曲を書いた。
そして、わたしたちはみな、想像することで、世界は変わると信じた。
けれどそんなジョンレノンの「イマジン」に異を唱えるロックスターがいる。
全世界のアルバムセールスが一億三千万枚を超えるモンスターバンド
U2のリードボーカル、ボノ。
彼は言う。
夢見る時代は終わったんだ。
これからは行動する時代だ。
すべては夢見ることから始まるけど、
夢で終わるなら寝てる方がましだ。と。
数々のチャリティーコンサート、
貧困救済を目的とするOne Campaignへの参加、
売上げをエイズ救済基金にするREDの新設など。
そして、その功績から3度ノーベル平和賞の候補となった。
世界を行動で変えるロックスター、ボノ。
彼のような人がきっと21世紀をしあわせな世紀にしていく。
サーストン・ムーア
80年代のアンダーグランドシーンを牽引した、
ソニックユースのボーカル、
サーストン・ムーア。
パンクの概念をアメリカに植え付けた人だ。
新生児の泣き声。
これこそがバンクロックに対する僕の定義だ。
サーストン・ムーアに言わせれば、
僕らは皆パンクの魂を持って生まれてくる。
ポール・マッカートニー
イエスタデイ、
ヘイ・ジュード、
レットイットビー。
数々の名曲を残したボール・マッカートニーは言う。
「努力することより、しないことの方が、難しいんだよ」
彼にとって
あれほど多くの愛すべき美しいメロディを書くことは
むしろ努力をしないことだったのだろうか。
ちなみにポール・マッカートニーは
ポピュラー音楽史上もっとも成功した作曲家として
ギネスブックに認定されている
ベック・ハンセン
多くの成功したミュージシャンがそうであるように、
ベック・ハンセンも若い頃は経済的に貧しかった。
10代の頃はゲットー暮らし。
ロスの中学卒業後は、家具の運搬、芝刈り
衣料工場などなど仕事を転々としながら、
生計をたてた。
18歳の頃、ニューヨークへ。
ホームレスをしながら、曲をつくった。
けれど、ベックは若い頃を「昔は貧しかった」と
懐かしむようなことはしない。
むしろ、次のように語る。
ホームレスをやっていても悲惨だと思ったことはない。
僕には音楽があったから、いつも裕福だった。と。
人からみたらつらい時代も、
彼には音楽性を育んでくれたハッピーな時代だったのである。
三國菜恵 11年11月20日放送
言葉のはじまり/ある映画の翻訳チーム
1953年公開のハリウッド映画『Terminal Station』は
恋愛映画の名作として知られている。
この作品が日本で公開になる際、
原題の雰囲気にふさわしい日本語が当時見あたらなかった。
そこで翻訳チームの面々が頭をひねって、
こんなことばをつくりだした。
Terminal Station.
“終着駅”。
映画らしい情感あふれるその言葉は、
のちに歌謡曲や小説のタイトルとしても
多く使われるようになる。
言葉のはじまり/吉田松陰
自分のことを“僕”と呼び、
相手のことを“君”と呼ぶ。
この“僕”と“君”ということばを最初に使ったのは、
松下村塾をつくった吉田松陰であると言われている。
「下僕」ということばがあるように、
“僕”は自分のことをへりくだって言う表現。
いっぽう“君”は、
「君主」ということばがあるように、相手を立てた表現。
松下村塾出身の高杉晋作は、
奇兵隊を結成した際、この考え方を導入した。
ひとりひとりがどんな身分であろうと、
自分のことを“僕”と呼び、相手を“君”と呼ぶことでお互いに敬意を表す。
武士と町人、農民が
身分にとらわれず共に戦う奇兵隊にとって
身分を超えた呼びかたはぜひとも必要なものだった。
中村直史 11年11月20日放送
言葉のはじまり/池田菊苗
「うま味」という言葉を英語で言うと・・・?
答えは、UMAMI。
世界には、UMAMIに相当する言葉がない。
そもそも旨味という概念がなかった。
帝国大学理学部教授 池田菊苗(いけだきくなえ)が、世紀の大発見をするまでは。
いまから100年以上も前、
甘味、酸味、塩味、苦味以外に、
味覚の基本となる物質があると信じ、探し求めた池田。
日本で長らく「ダシ」として使われてきた昆布に着目し、
ある物質を分離することに成功した。
物質の名は、グルタミン酸ナトリウム。
この発見に日本中が驚いた。
けれど、池田のすばらしい仕事は、成分の発見にとどまらなかった。
それは「うま味」というネーミング。
たった3文字のこのすばらしい名前が生み出されたために
この発見は、科学界だけでなく、みんなのものとなったのだ。
わたしたちがおいしい料理に舌鼓をうつとき、
何気なく使ってる「うま味」という言葉。
そこには、味わい深いストーリーがかくされていた。
三島邦彦 11年11月20日放送
言葉のはじまり/ 伊東忠太
建造物の造に、家と書いて、造家(ぞうか)。
明治のはじめ、今でいう建築には
この造家という言葉が使われていた。
その時代、伊東忠太(いとうちゅうた)という一人の若者がいた。
造家学の研究で博士課程を満了したエリートだったが、
ひとつだけ不満があった。
それは、造家という言葉に、美意識が感じられないこと。
画家を志したこともあった伊東にとって、
美意識は何よりも大切なものだった。
伊東は、建築という言葉にその思いを込め、
造家をすべて建築と言い換えることを訴えた。
建築は世のいわゆる純粋芸術に属すべきものにして、
工業芸術に属すべきものにあらざるなり。
この若き伊東の宣言は、大きな波紋を生み、
学会や大学の学科の名前はやがて、
建築学会や建築学科へと変わっていった。
それまでの仏教建築とは一線を画す築地本願寺の建立など、
伊東はそれからも日本の建築界に新しい美意識を打ち出し続けた。
日本の近代建築の出発点。
それは、「建築」という言葉そのものだった。
中村直史 11年11月20日放送
言葉のはじまり/鈴木昭
「激辛」という言葉はあるお店から生まれた。
そう聞くと、カレー屋かラーメン屋を想像する。
けれど激辛の発祥はせんべい屋だった。
東京の老舗、神田淡平(かんだあわへい)。
店主、鈴木昭(すずき あきら)がつくりだした新しいせんべいは
まるで唐辛子の塊のようだった。その名も「激辛」。
ネーミングのインパクトもあり、いつしか激辛せんべいは大ヒット。
その後の激辛カレーや激辛ラーメンへとつながり、
1986年には流行語大賞銀賞にも選ばれた。
激辛せんべいの燃えるような味とネーミングが、
まさに、ブームに火をつけたのである。
三島邦彦 11年11月20日放送
言葉のはじまり/ 大宅壮一
クチコミという言葉の生みの親は、
昭和を代表するジャーナリスト大宅壮一(おおやそういち)。
もともとは、ラジオとテレビをクチコミュニケーション、
略してクチコミといい、
新聞と雑誌を手コミュニケーション、
略して手コミといったのが始まりだった。
クチコミという言葉は人々の口を介して広まるうちにもとの意味を離れ、
大宅が意図していなかった意味が、まさにクチコミによって生まれた。
これは、その大宅が残した言葉。
最終のそしてもっとも有力な審判者は、目に見えない大衆だと信じている。
言葉のはじまり/ 福地源一郎
社会という言葉は
明治時代、society(ソサエティ)の翻訳として生まれた。
最初に使われたのは新聞記事。
書いたのは東京日日新聞の主筆、福地源一郎。
新聞記者の地位を劇的に高めた人物である。
これは福地が新聞社に入った時の決意の言葉。
新聞記者が戯作者なみというのなら、
私の手によってそこから引きあげてみようではないか。
三國菜恵 11年11月20日放送
言葉のはじまり/城戸四郎
映画会社「松竹」の元社長・城戸四郎(きどしろう)。
小津安二郎や山田洋二らを映画界におくりだした彼は、
まさに映画の黄金時代を築きあげた、名プロデューサー。
いわゆる、先見の明がある人物だった。
1928年、城戸はアメリカへ渡り
「トーキー」をはじめとするたくさんの映画を目にする。
そのとき、こんなことを思ったという。
これからの女優は顔だけではなく、
からだ全体のプロポーションがよくなくてはいけない。
なかでも脚がポイントだ。
城戸は帰国後、女優のオーディションを開催。
こんなことばで呼びかけた。
“脚線美女優”募集。
“脚線美”ということばがこのとき生まれた。
ミニスカートブームが起こる、はるか30年も前に
城戸は「女性の新しい魅力」について見ぬいていた。
厚焼玉子 11年11月19日放送
王妃マルゲリータとピザ
マルゲリータというピザがある。
トマト、モッツァレラチーズ、バジリコのトッピング、
赤、白、緑の配色が美しいピザだ。
このピザが生まれたのは1889年のことだった。
ナポリを訪れたイタリアの王妃マルゲリータのために
ピザ職人のラッファエーレ・エスポジトが3種類のピザをつくり
そのなかで王妃がいちばんお気に召したピザに
マルゲリータという名前をいただいたのだ。
マルゲリータの誕生日は明日11月20日
この日はピザの日になっている。
王妃マルゲリータと真珠
イタリアの王妃マルゲリータの名前は
ギリシャ語で真珠という意味をあらわす言葉
「マルガリータリ」に由来している。
真珠のように美しくという願いが込められているのだ。
王妃マルゲリータの写真を見ると
頭に月桂樹のティアラを飾り
首には10本ではきかない真珠のネックレスを
巻いている。
その真珠は夫である国王が浮気をするたびに
増えていったらしい。
夫が浮気をして…
などと国民に愚痴をこぼしたりはなさらないけれど
ネックレスを見ればわかる人にはわかる。
賢明な王妃マルゲリータの名前は
イタリアのピザの名前にもなっている。
明日11月20日はピザの日
王妃マルゲリータとピザの店
ブランディというナポリのピザの店には
1889年6月の日付の古い手紙が
いまも残っている。
それは手紙というよりは感謝状で
王妃のためにつくったピザがおいしかったと書かれ
とくにトマトとモッツァレラのピザがおいしいと
つけ加えられている。
その「とくにおいしかった」ピザは
王妃の名前であるマルゲリータと呼ばれ
やがて世界中に知れ渡る。
ナポリのピザの店ブランディには
日本語のホームページまである。
明日11月20日はピザの日
王妃マルゲリータともうひとつのエピソード
本当かどうかは知らないけれど
イタリア王妃の名前をつけてもらったピザ、マルゲリータには
もうひとつのエピソードがある。
イタリア王妃のためにピザをつくるように命じられた
ピザ職人ラッファエーレ・エスポジトが
とりどりのピザをつくって王妃の前に並べた後に
エスポジトの妻が新しいピザをひとつ焼いて持ってきた。
王妃はそのピザがたいへん気に入り名前をたずねたけれど
気紛れに妻が焼いたピザに名前のあろうはずはなく
エスポジトはひたすら恐縮するばかり。
そこに妻が助け舟を出した。
「王妃さま、このピザは王妃さまと同じ名前で
マルゲリータと申します。
トマトの赤、モッツァレラの白、バジリコの緑は
イタリアの国旗をあらわします」
それが評判となって店は大繁盛。
でも気の毒なエスポジトは、それ以来妻に頭が上がらなかった。
明日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日でもある。
王妃マルゲリータと自転車
世界でもっとも古い自転車メーカーは
1885年創業のイタリアのビアンキ。
ビアンキの自転車の色はチェレステという緑色に近い青色で
チェレステは空を意味すると同時に
イタリア王妃マルゲリータの瞳の色ともいわれている。
1895年、ビアンキの創始者であるエドアルド・ビアンキは
女性用自転車を制作して王妃に献上し
その乗りかたも指導したと伝えられるので
王妃の瞳の色というのも本当かもしれない。
自転車に乗る王妃さま、ピザの名前の王妃さま
国民に愛された様子が目に浮かぶ。
明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日。
王妃マルゲリータとティアラ
1867年のパリ万国博でゴールドメダルを獲得した
月桂樹のティアラは
イタリア国王エマヌエーレ二世が買い求め
やがて息子の嫁になるマルゲリータへの贈り物にした。
花嫁はこのとき16歳と5ヶ月。
金とダイヤモンドの超豪華版のティアラを身につけた
王妃マルゲリータが
庶民に愛されるピザの名前になったのは
それから22年後のことだった。
明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、
そしてピザの日
王妃マルゲリータのフルネーム
ピザの名前にもなっているイタリアの王妃マルゲリータの
フルネームは長い。
マルゲリータ・マリア・テレーザ・ジョヴァンナ・ディ・サヴォイアが
その正式な名前だ。
マリア・テレーザは父かたの祖母の名前だが
ジョヴァンナは17世紀までさかのぼる。
マリーア・ジョヴァンナというしっかりもの王妃さまが
一族のなかにおいでになるのだ。
マリーア・ジョヴァンナは
当時王さまや貴族が独占していたチョコレートを
一般に販売することを許し
チョコレート文化をヨーロッパに広めた。
さらにグリッシーニというクラッカーのようなパンの発明も
マリーア・ジョヴァンナの手によるものらしい。
食べることが大好きなイタリアでは
王妃さまも食文化に貢献する。
我々がいまマルゲリータというピザを食べられるのも
王妃マルゲリータのおかげだ。
明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日。
古居利康 11年11月13日放送
①ジーン・セバーグのベリーショート
ひとつの髪型が、
世界を変えることもある。
1957年、『悲しみよこんにちは』という
アメリカ映画に登場した
ジーン・セバーグのベリーショートが、
世界中の女の子に、ブームを巻き起こす。
女の子だけではなかった。
映画を見て彼女に魅了された
ジャン=リュック・ゴダールは、
長編デビュー作『勝手にしやがれ』に、
セバーグを起用する。
世界の映画の流れを変えた
ヌーヴェルヴァーグの第一波は、
ジーン・セバーグの髪型と共にやってきた。
②アンナ・カリーナの時代
「ほれぼれするほど美しい女を出演させ、
その相手役に『あなたはほれぼれするほど美しい』
と言わせること。これが映画なのだ」
と、ジャン=リュック・ゴダールは言った。
美しい女に出会うこと。
それがかれの映画最大のモチベーションだった。
1960年代のゴダールは、アンナ・カリーナという
女性との出会いぬきには語れない。
『小さな兵隊』、
『女は女である』、
『女と男のいる舗道』、
『はなればなれに』、
『アルファビル』、
『気狂いピエロ』、
『メイド・イン・USA』。
これら7本の映画は、
アンナ・カリーナという女性の、
ハタチから27歳までの、
美しいドキュメンタリーのように見える。
③アンナ・カリーナの誕生
コペンハーゲンで生まれたアンナ・カリーナは、
17歳の冬、パリに出る。ほぼ一文無しだった。
あるとき、〈カフェ・ドゥ・マゴ〉のテラスに
坐っているところを写真に撮られる。
その写真が縁でココ・シャネルに出会う。
「ハンヌ・カリン・ブレーク・バイヤー」
というデンマーク語の本名をもっていた彼女に、
「アンナ・カリーナ」という名前をつけたのも
ココ・シャネルだった。
アンナ・カリーナとなった彼女に、
雑誌やコマーシャルの仕事が入る。
石けんの広告にセミヌードで出演していた彼女を見て、
この娘なら服を脱がせてもよかろう、と思った
ゴダールが、『勝手にしやがれ』の出演を打診する。
「きみには脱いでもらう」
黒眼鏡の男ゴダールがぶっきらぼうに言う。
「いやです。脱ぎません。」
憤慨したアンナ・カリーナは席を蹴って帰ってしまう。
主演はジーン・セバーグに決まっていた。
アンナ・カリーナに依頼したのは、
ほんの小さな役にすぎなかった。
④アンナ・カリーナと赤いバラ
『勝手にしやがれ』を撮り終えた
ジャン=リュック・ゴダールから、
アンナ・カリーナのもとに再び出演依頼がくる。
「こんどはヒロインの役だ」と、ゴダール。
「また脱ぐの?」と、アンナ。
「いや、こんどは脱がなくていい」と、ゴダール。
数日後、黒眼鏡には不似合いの、
真っ赤なバラを50本抱えた
ジャン=リュック・ゴダールが、
アンナ・カリーナのアパートにやってくる。
こうして、ゴダール2本目の長編映画、
『小さな兵隊』への出演が決まる。
⑤ドルレアック姉妹
姉、フランソワーズ・ドルレアックは、
1942年にパリで生まれた。1年7ヶ月後、
妹、カトリーヌ・ドルレアックが生まれた。
父は映画俳優、母も舞台俳優
という芸能一家に生まれた姉妹だった。
姉は、10歳のとき、子役でデビュー。
あるとき、ある映画で、じぶんの妹役に実の妹を推薦し、
妹をデビューさせてしまう。
姉、フランソワーズは、
1963年、フランソワ・トリュフォーの長編第4作、
『柔らかい肌』に主演。
妹、カトリーヌは、母の旧姓だったドヌーヴを名乗り、
カトリーヌ・ドヌーヴとして、
ジャック・ドゥミ監督のミュージカル、
『シェルブールの雨傘』で主演。
そして、そのジャック・ドゥミの次の作品、
『ロシュフォールの恋人たち』に双子の姉妹役で共演。
姉妹は、フランス映画の最前線に立った。
しかし、姉、フランソワーズ・ドルレアックは、
1967年、不慮の交通事故で、その短い生涯を終えた。
妹、カトリーヌ・ドヌーヴは、その後大成し、
ヌーヴェルヴァーグの枠におさまらない女優として、
いまもなお現役で輝きつづけている。
⑥ベルナデット・ラフォン・18歳
25歳のフランソワ・トリュフォーが
つくった短編映画、『あこがれ』。
18歳のベルナデット・ラフォン演じる
美しい年上の娘にあこがれ、
あとをつけまわす、5人の悪戯っ子たち。
真っ白なシャツにスカートをなびかせ、
自転車で疾走するラフォン。
彼女が自転車を降りた隙に、
サドルの残り香をかいでうっとりする少年。
若い生命の輝きと、思春期のめざめを、
白という色で表現した作品。
それは、フランソワ・トリュフォーという
映画監督がもっていた
無限の可能性の色でもあった。
⑦ベルナデット・ラフォン・33歳
『勝手にしやがれ』は、もともと、
フランソワ・トリュフォーが発案した
ストーリーだった。
じぶんで監督するつもりでいたが、
事情があって盟友ゴダールに譲った。
もし実現していたら、主役は、
ベルナデット・ラフォンになるはずだった。
その穴埋めに、
トリュフォーは、短編映画『あこがれ』から
15年後、33歳のラフォンを主役に映画を撮る。
『私のように美しい娘』
というのが、その映画の題名だ。
⑧男と男とジャンヌ・モロー
『大人は判ってくれない』、
『ピアニストを撃て』につづく、
フランソワ・トリュフォー3本目の長編映画、
『突然炎のごとく』。
21歳のとき、
原作となった小説を読んで以来、
映画にしたかったが、
ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』で
強烈な存在感を示した
女優ジャンヌ・モローとの出会いが、
10年越しの構想に道を開いた。
男と、女と、男。
女が複数の男を同時に愛しつづけることは可能か。
説明してしまえばただの俗っぽい話。
自堕落に見えても不思議はないこの女性の役を、
ジャンヌ・モローの知性と美しさが救った。
この作品に刺激されて、
ゴダールは『気狂いピエロ』という映画をつくる。
ヌーヴェルヴァーグは、
かくのごとく、波となって連鎖する。
宮田知明 11年11月12日放送
グレースケリー①
幼い頃のグレース・ケリーは、
病弱で内気な女の子だった。
オリンピックのボート競技の
金メダリストである父は、
スポーツのできる姉や兄の方をかわいがった。
「グレースにできることは、
姉のペギーならもっとうまくこなせる。」
と、父に言われつづけた。
尊敬する父に認められたい。
その想いが、グレースを動かす力になった。
1955年3月30日、
『喝采』でアカデミー主演女優賞を獲得した時の、
彼女の語った言葉。
これで、やっとケリー家の一員になれました。
ハリウッド女優から、モナコのプリンセスへ。
今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。
グレースケリー②
「背が高すぎ。痩せすぎ。
顎ががっちりしすぎ。」
若き日のグレース・ケリーは、
自分の容姿に
コンプレックスを感じていた。
しかし、それこそが
オードリー・ヘップバーンや、
マリリン・モンローと違う、
彼女らしい、全く別の魅力を放っていた。
その美しさを一言で表した言葉が、
「クールビューティー」。
もし、グレースが、
背がちょうど良くて、痩せてなくて、
顎ががっちりしていなかったら、
同じ成功は得られなかったのかもしれない。
今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。
グレースケリー③
「嬉しくて、この喜びを何て
言葉にしたらよいか分かりません。
この受賞を可能にしてくださった皆様に、
心から感謝を述べたいと思います。」
映画『喝采』でアカデミー主演女優賞を
獲得したグレース・ケリー。
しかし彼女は、その時の気持ちを
こうも語っている。
オスカーを受賞した日、
それは私の人生の中で一番寂しい時間でした。
受賞後、宿泊先のホテルの
部屋に戻ったグレースは、たった一人きりだった。
いくら成功しても、
分かち合える人がいなければ幸せではない。
一人彼女は、そう感じていた。
しかしその1ヶ月後に、
まさか運命の出会いが待ち受けていることなど
知る由もないグレース・ケリー。
このとき25歳。
11月12日は、グレース・ケリーの誕生日です。
グレースケリー④
ハリウッドのスター女優グレース・ケリーと
モナコのプリンス、レーニエ三世
華やかな世界に住む2人の交際の手段は
文通だった。
カンヌ映画祭で出会い、
ほんのひととき、交わした会話。
それ以来、2人は手紙のやりとりを欠かさなかった。
後にグレースはこう語っている。
女性がある程度の成功を果たすと、
結婚することで自分を失わず、
尊敬できる男性を見つけるのは大変なこと。
そのことを考えたら、
ふたりを隔てる距離などは
問題ではなかったのかも知れない。
11月12日は、グレース・ケリーの誕生日。
グレースケリー⑤
そして、お姫さまは、
幸せに暮らしましたとさ。
おとぎ話ならそこでハッピーエンドだが
モナコのプリンセスになったグレース・ケリーの現実は
その先があった。
本音を話せる友人がいない。
自由に出かけることもできない。
フランス語も流暢に話せない。
公務や生活に慣れて、
安定した毎日を送れるようになるには、
女優になってからアカデミー賞を取るまでより
ずっと長い時間を要した。
グレースは言う。
私は、女優に挑戦したように、
結婚にも挑戦したんです。
今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。
グレースケリー⑥
ただ月を眺めるためだけに
竹で縁側を作るとは、
なんと素敵なセンスなんでしょう。
大の親日家、グレースケリーが、
京都の桂離宮を訪れたときの言葉。
いつかモナコにもこのような庭園を造りたい。
そんな願いをかなえたのは、
他ならぬ夫のレニエ公。
グレースが亡くなって12年後に完成した日本庭園。
その茶室は、GRACE GARDENと名付けられた。
そんなグレースが、日本に送った言葉。
優しさ、礼儀、美、敬愛といった美徳を
日本が失わずにいることを、
世界中が切望しています。
今日は、日本を愛した
グレースケリーの誕生日。
グレースケリー⑦
「出産おめでとう(グレース公妃より)」
病院で出産があると、自ら病院へ出かけ、
お祝いの言葉と自分のサインを入れたカード、
そして花束を届けた、グレース公妃。
少しでも国民とのつながりを深めたい。
そう考えてのアイデアだった。
アメリカABCテレビのインタビュー中に
語った彼女の言葉は、
そのまま人柄や生き方を象徴している。
慎ましく、思いやりのある人間だったと、
みんなの記憶に残しておいてほしいのです。
今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。