蛭田瑞穂 11年11月6日放送
追悼スティーブ・ジョブズ①ロバート・ノイス
さまざまなIT企業が集まるシリコンバレーで、
「シリコンバレーの主」と呼ばれる伝説の起業家がいる。
彼の名はロバート・ノイス。
半導体の集積回路を発明し、
世界最大の半導体企業「Intel」を創業した。
その功績はあとに続く多くの起業家たちから敬われ、
スティーブ・ジョブズがアップルを追放された時、
まず彼のもとを訪れたという逸話が残っている。
追悼スティーブ・ジョブズ②デニス・リッチー
2011年10月5日、アップルの創業者
スティーブ・ジョブズが亡くなったその8日後、
同じくコンピュータの歴史をつくった偉大な人物が亡くなった。
彼の名はデニス・リッチー。
コンピュータの黎明期に「C言語」というプログラム言語や、
「UNIX」というPCのオペレーションシステムなど、
現在の情報化社会の礎となる技術を開発した。
彼がいなかったら、インターネットもスマートフォンも
生まれていなかったかもしれない。
わたしたちは世界を進歩させた偉人をまたひとり失った。
R.I.P.
追悼スティーブ・ジョブズ③
アメリカ合衆国大統領、バラク・オバマは言った。
スティーブ・ジョブズ、彼は私たちの生活を変え、
産業の在り方を変革し、歴史上少ない偉業を達成した。
私たちの世界観を変えたのだ。
マイクロソフト会長ビル・ゲイツは言った。
スティーブのように何世代にもわたって受け継がれる
強い影響を残す人物はめったに現れないだろう。
スティーブが去り、寂しくて仕方がない。
アップルの共同創業者、スティーブ・ウォズニアックは言った。
ジョン・レノンやケネディ大統領が死んだ時のような
衝撃を受けている。心に大きな穴が開いたようだ。
フェイスブックのCEO、マーク・ザッカーバーグは言った。
スティーブ、良き先輩、良き友人でいてくれてありがとう。
つくり出したものが世界を変えられるのだと、
教えてくれてありがとう。
2011年10月5日、アップル創業者のスティーブ・ジョブズが亡くなった。
世界中の人々が哀悼の意を表した。
追悼スティーブ・ジョブズ④ヒューレット・パッカード
ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカード、
ふたりのエンジニアが1939年に創業したヒューレット・パッカード。
IT企業の聖地シリコンバレーの草分け的な企業であり、
のちの起業家たちに多くの影響を与えた。
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
出会うきっかけとなったのも
ヒューレット・パッカードのインターンシップだった。
意気投合したふたりはガレージでコンピュータを自作する。
それがのちにアップルの誕生につながるのである。
追悼スティーブ・ジョブズ⑤リー・クロウ
“Here’s to the crazy ones”、
「クレイジーな人たちがいる」という一節から始まる
アップルコンピュータのCM。(日本語版)
ジョン・レノンやガンジー、モハメド・アリなど、
20世紀を代表するさまざまな有名人、文化人が現れる映像に、
詩のようなナレーションが重なる。
彼らの言葉に心を打たれる人がいる。
反対する人も、賞讃する人も、けなす人もいる。
しかし彼らを無視することは誰にもできない。
なぜなら彼らは物事を変えたからだ。
彼らは人間を前進させた。
彼らはクレイジーと言われるが、
わたしたちは天才だと思う。
自分が世界を変えられると
本気で信じる人たちこそが、
本当に世界を変えているのだから。
このCMを制作したのはクリエイティブディレクターのリー・クロウ。
スティーブ・ジョブズの盟友として数々のアップルの広告を手がけた。
“Here’s to the crazy ones”
今こそこの言葉を、スティーブ・ジョブズに捧げたい。
追悼スティーブ・ジョブズ⑥ダグラス・エンゲルバート
1961年、エンジニアのダグラス・エンゲルバートは
コンピュータのマウスを発明した。
しかし、その発明は時代の先を行き過ぎた。
当時はまだパーソナルコンピュータがなく、
マウスが製品化されることはなかった。
その23年後、アップルコンピュータがマッキントッシュを発表する。
このコンピュータの登場によって、
人々はマウスの直観的な操作性に初めて触れた。
マウスはコンピュータの標準デバイスとして世界中に普及した。
すでに特許が失効していたため、
ダグラス・エンゲルバートに巨額の富が転がり込むことはなかった。
しかし、現在彼は「マウスの父」と呼ばれ、歴史に名を残している。
追悼スティーブ・ジョブズ⑦ティム・バーナーズ・リー
1955年に生まれ、現在の情報化社会の発展に
大きな貢献をしたふたりの人物がいる。
ひとりはスティーブ・ジョブズ。
ご存じアップルの創業者。
もうひとりはティム・バーナーズ・リー。
「World Wide Web」の構造を考案した、
インターネットの生みの親のひとり。
インターネットの仕組みをつくったティム・バーナーズ・リーと、
それを手軽に使うための道具をつくったスティーブ・ジョブズ。
あなたたちのおかげで、わたしたちの世界は大きく広がった。
追悼スティーブ・ジョブズ⑧アラン・ケイ
1973年、ゼロックス・パロアルト研究所の
科学者アラン・ケイが、
「パーソナルコンピュータ」という構想のもと、
「ALTO」という名前のコンピュータをつくった。
ひとつひとつコマンドを打ち込むそれまでのコンピュータと違い、
「ALTO」はグラフィカルなアイコンやウィンドウを
マウスで操作する画期的なコンピュータだった。
しかし、「ALTO」は試作機のまま、日の目を見ずに終わる。
それから十数年後、アップル・コンピュータがマッキントッシュを、
マイクロソフトがウインドウズを発表する。
いずれも「ALTO」の強い影響を受けて生まれたものである。
アラン・ケイの描いたパーソナルコンピュータの世界は
スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの手によって現実のものとなった。
佐藤延夫 11年11月5日放送
戸塚洋二さんの話1
ある少年が、ラジオを聞いている。
そのうち、聞くだけでは飽き足らず、
バラバラに壊し、
中身をじっくりと観察する。
どうやらエナメル線の巻いてある数には規則性がある。
蓄電池との関連も気になる。
これは奥が深いなと思う。
そしてラジオが聞けないと文句を言う親を尻目に、
真空管を買ってきて、もう一度組み立てる。
物理学者、戸塚洋二さんは
子供のころから物理学者だった。
戸塚洋二さんの話2
物理学者の戸塚洋二さんは、
不真面目な学生だった。
講義に出ることはほとんどなく、
空手部の部室にたむろしているか、
麻雀に出かけているか。
留年した彼を拾ったのは、
のちにノーベル賞を受賞する小柴教授だった。
その数年後、戸塚さんは奥様にこう言ったそうだ。
「もうさんざん遊んだから、遊びはもういい」
不真面目と大真面目は、紙一重。
戸塚洋二さんの話3
物理学者、戸塚洋二さんの業績といえば、
ニュートリノ振動を確認したことだ。
ニュートリノとは、物質を構成する最も小さい粒子、素粒子のひとつで、
宇宙の中や、人間の体の内部からも発生している。
戸塚教授は、このありふれた粒子、
ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて証明した。
そしてノーベル賞の受賞が目前と言われたころ、
ガンと闘いながらブログを開設した。
タイトルは、
A Few More Months
物理学者は、命のことを綴り始めた。
戸塚洋二さんの話4
「負の遺産」。
環境問題について議論されるときに、
必ずと言っていいほど登場する言葉だ。
「絶対に残してはならない」
「我々の世代で解決すべきだ」
専門家や知識人が口角泡を飛ばす中、
物理学者、戸塚洋二さんは、亡くなる前にこんなコメントを残している。
「僕が嫌いな言葉がひとつある。
それは子孫に負を残すなっていう言葉。
若い皆さんは、我々より頭が良くなってるはずなんだから、
彼らに任せれば簡単にやっちゃうよ。」
一見、無責任にも思える言葉は、
裏を返せば、人類への期待と優しさで溢れている。
それは、次の時代を生きる人に贈られたエールなんだ。
戸塚洋二さんの話5
ノーベル賞に最も近いと言われた物理学者、
戸塚洋二さんは、ガンと闘っていた。
病床では学者らしく、
死ぬことがなぜ恐ろしいかを考えた。
「自分の命が消滅したあとでも、
世界は何事もなく進んでいくからだ」
もちろん、恐怖を克服する方法も、考えた。
「宇宙や万物は、何もないところから生成し、
そして、いずれは消滅、死を迎える。
いずれ万物も死に絶えるのだから、恐れることはない」
この理論は、証明されたのだろうか。
戸塚洋二さんの話6
物理学者、戸塚洋二さんは
ブログの中で、いくつもの花の写真を取り上げている。
迫りくる命の終わりを感じながら、
一輪ずつアップで写真を撮り、
こんなコメントを残した。
「命が縮んでいくとき、
爆発的ないのちを見るのは素晴らしい」
今でもその小さな命は、ブログの中で輝いている。
戸塚洋二さんの話7
ノーベル賞に最も近いと言われた物理学者、
戸塚洋二さんがこの世を去って3年が経つ。
先生の本を開くと、
平成20年にこんな言葉を残している。
「大宇宙は数限りないニュートリノを住まわせるが、
大宇宙の中でニュートリノが果たしている役割は
その片鱗さへ分かっていない。」
今年、ニュートリノの速度が、
光よりも速いという実験結果が発表された。
その速度は、毎秒30万6キロで、
光の速度に比べて6キロも速い。
アインシュタインの相対性理論と矛盾する結果に、
戸塚先生ならどんなコメントを残し、
何を思っただろうか。
お話を伺いたかった。
名雪祐平 11年10月30日放送
監督 溝口健二1
好きな映画監督を3人挙げるとすれば
だれですか?
質問されたフランスの
ヌーベル・ヴァーグの旗手、
ゴダールはこたえた。
ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ。
日本映画界の巨匠、溝口健二は
クロサワ、オヅとともに、
海外の映画作家たちに多大な影響をあたえた
世界的監督であった。
ゴダールは、来日した折、
京都満願寺にある溝口の墓を訪れ、
お参りしたという。
監督 溝口健二2
1952年、『西鶴一代女』でベネチア国際映画祭監督賞。
翌年は『雨月物語』で、翌々年も『山椒大夫』で
ベネチア国際映画祭銀獅子賞。
映画監督・溝口健二は、
3年連続受賞という快挙を手にした。
白黒の映像美は、抜きんでて素晴らしく、
カラーより美しいモノクロ映像がこの世にあると
評価された。
そのモノクロは、真っ赤な血のにじむような執念から
生まれたものだった。
完璧な撮影を徹底的に追求する、
それが溝口の真骨頂であった。
監督 溝口健二3
映画監督・溝口健二は、スタッフに対し、
小道具、セット、衣装のすべてに完璧を求めた。
「文句を言う、ゴテるばかり」だと
“ゴテ健”とあだ名が付くほど、非常にうるさい監督だった。
女優・田中絹代は、
やせ衰えた感じを出したいからと、なるべく食べないように
監督から命じられた。
痩せた姿で出番を撮り終え、
あとは別室でセリフを吹き込むだけ。
田中はこれでひと安心と、
内緒でお昼にステーキを食べた。
そして田中のせりふを聞いたとたん、
監督は首を振った。
肉を食べましたね。声につやがある。ダメです。
容赦ない完璧主義は、溝口自身にも向けられた。
撮影の空気が中断されるのを嫌い、
休憩になっても撮影セットから出なかった。
溲瓶をもちこんで、用を足した。
「監督の溲瓶」は
映画人の語り草になっている。
監督 落合博満1
2007年、
プロ野球日本シリーズ第5戦、
9回表にそれは起こった。
8回まで一人のランナーも許さず、
完全試合という大記録達成を目前にしていた
中日・山井投手を
落合監督はあっさり
おさえのエースに交代させてしまった。
結果、中日は日本ハムに勝ち、
じつに球団創設以来53年目で初の
日本一の栄冠を手にした。
でもなぜ、落合はあれができたのだろう。
タブーともいえるピッチャー交代が。
監督 落合博満2
2007年プロ野球日本シリーズ。
中日・落合監督が決断した
完全試合目前のピッチャー交代劇。
試合後も賛否両論を巻き起こした。
もし交代したピッチャーが打たれ、
試合に負けてしまったら、
大批判が監督に集中していただろう。
それでも落合は
けろりと、勝負に出た。
なぜ?
ノンフィクション作家・山際淳司は、
かつて落合をこう評したことがある。
どこへ行ったって一人前以上の仕事をしてみせるという
自信のあわられでもあるけれど、それだけじゃない。
彼は、いつか、どこかで一度、
自分を放り投げてしまったことがあるのではないか。
どうだっていいのさ、と。
だから、世間も自分も、野球をも、冷たく見つめている
もう一つの目が彼の中に棲んでいる。
監督 落合博満3
中日ドラゴンズ・落合監督。
そう呼べるのも、あと何日もない。
9月、首位ヤクルトとの決戦を前に、
落合監督は本社に呼ばれた。
乗り込んだ新幹線の始発は満席。
2時間立ったまま、名古屋に向かったという。
そして、解任を告げられた。
この件でチームが一丸となり、
逆転優勝の原動力となったのかもしれない。
でも、ある選手はこう言った。
普通にやれているのがいい。
監督解任が決まっても、優勝争いをしていても、
こんな平常心で野球ができることが、
落合が育ててきた強さかもしれない。
監督 杉山登志1
1971年、高度経済成長のまっただなか、
こんな詩のCMが大ヒットした。
気楽に行こうよ おれたちは
あせってみたって 同じこと
のんびり行こうよ おれたちは
なんとかなるぜ 世の中は
CMディレクターは、
天才と呼ばれた杉山登志。
発想も、技巧も、ズバ抜け、
現場では全部門の最終権限を握り、
部下を育てることができる
絶対的リーダーだった。
すべてが杉山を中心にまわっている。
時代さえも。
しかしこのCMからわずか2年後、
あまりにも衝撃的に終わりは来るのだった。
監督 杉山登志2
1973年、一人のCMディレクターが自殺した。
37歳という若さだった。
テレビ草創期から500本以上のCMを制作し、
国内外の賞も数多く受賞した
伝説のCMディレクター・杉山登志。
机の上に、原稿用紙の遺書があった。
リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは・・・・・・とても
嘘をついてもばれるものです。
これは38年前の過去の話だけれど、
いま、CMは何をうっているのだろう。
厚焼玉子 11年10月29日放送
新秋の七草 葉鶏頭と長谷川時雨
昭和10年、東京日日新聞の主宰で
新しい秋の七草を選ぼうという試みがなされた。
当時の著名人が1種づつ推薦した七つの秋の花のうち
ひとつだけ、花ではなく葉を鑑賞するものがある。
長谷川時雨が選んだ葉鶏頭だ。
葉鶏頭は熱帯アジアからやってきた。
赤、黄、臙脂に染まる葉のあざやかさに較べて
花は目立たず、小さくひっそりと咲く。
そしてそれを選んだ長谷川時雨は
日本初の女流劇作家だったが
三上於菟吉の才能に惚れ込み、
三上を支えることを第一として人生の後半を過した。
華やかな葉と地味な花
しかしその花、長谷川時雨は
4年にわたって出版しつづけた雑誌「女人芸術」で
林芙美子、佐多稲子をはじめとする多くの女流作家を
育て上げている。
新秋の七草 コスモスと菊池寛
昭和10年、新しい秋の七草を選ぼうとする試みがあったとき
菊池寛が推薦したのはコスモスだった。
恋人同士のプレゼントに使われることもない
ありきたりな花だから、というのがその理由だ。
菊池寛は文壇の巨人だったが
同時に優れた生活者、経営者でもあった。
出版社を成功させ、芥川賞・直木賞を創設し
著作権保護同盟の会長をつとめた。
彼の日常道徳を読んでみる。
「約束は必ず守りたい」
「人への親切は義務としてはしたくない」
どれもありきたりなこと、あたりまえのことだが
それをずっと貫いて生きるのは
当たり前でなくむづかしいと気づくとき
コスモスのありきたりを好む菊池寛の強さを思う。
奥新秋の七草 彼岸花と斎藤茂吉
秋のかぜ 吹きていたれば 遠(おち)かたの 薄のなかに 曼珠沙華赤し
新しい秋の七草にふさわしい草花を選ぶように頼まれたとき
斎藤茂吉は曼珠沙華を選んだ。
昭和10年のことだった。
曼珠沙華はヒガンバナともいう。
緑の葉もなく、
茎のてっぺんに大きな花を無遠慮につけるヒガンバナは
幽玄な儚いものを好む人からすると
好みに合わないだろうがとことわりを入れて
「そこが可愛い」と茂吉は主張している。
なんだか女性のことを語るような口ぶりでもある。
新しい秋の七草にヒガンバナを選んだ前年の秋、
斎藤茂吉はやがて愛人になる美しい弟子
永井ふさ子と出会っている。
まだ結ばれてはいない。
けれどお互いの気持ちはわかりあっている。
そんな時期のヒガンバナを
斎藤茂吉はどれだけいとしく思ったことだろう。
新秋の七草 赤まんまと高浜虚子
赤まんまの正式な名前はイヌタデという。
秋になると小さな赤い花がたくさん集まった穂をつける。
空き地や道端、どこにでも咲く。
子供たちはその花を集めて
お赤飯に見立て、ままごとをした。
赤まんまと呼ばれるのは赤いご飯という意味だ。
昭和のはじめ
新しい秋の七草の推薦をたのまれた高浜虚子は
赤まんまを選んだ。
当時の虚子は俳句の世界に君臨する人だった。
まだ文化勲章は授与されていないが
文化庁の芸術院会員はすでに目の前にあった。
しかし一方で虚子は8人の子の父親であり
19人の孫のいるおじいちゃんでもあった。
この辺の道はよく知り赤のまま
虚子が50年住んだ鎌倉の家は
由比ヶ浜の波音が聞こえ、すぐそばを江ノ電が走る。
秋になると赤まんまの花が咲く。
新しい秋の七草に赤まんまを選んだ虚子の目は
子煩悩な父親の目だったかもしれない。
新秋の七草 永井荷風と秋海棠
はらわたがちぎれるほどの悲しみを
断腸の思いというが
断腸花という名前を持つ花もある。
秋海棠、別名「断腸花」
日陰にうなだれて咲くその花を永井荷風は気に入り
庭に植え、自宅を断腸亭と名付け
また自分の日記も断腸亭日乗(にちじょう)と呼んだ。
昭和10年
荷風は新しい秋の七草としてこの花を選んでいるが
その名前を断腸花ではなく秋海棠としたのは
断腸という言葉の悲しい響きを避ける思いやりかもしれない。
新秋の七草 与謝野晶子とおしろい花
おしろい花は夏から咲きはじめる。
けれど、与謝野晶子は
この花を新しい秋の七草として選んだ。
なぜだろう。
夏のおしろい花は夕方から咲いて
昼間はしぼんだ花しか見られないけれど
夏の終わりから秋には花の時間がずれて
昼間でも花の姿を見ることができるのだ。
女性らしくこまやかな観察をする歌人の眼が
こんなところにも生きている。
新秋の七草 菊と牧野富太郎
昭和10年
新しい秋の七草を選ぼうというこころみで
植物学者牧野富太郎先生は菊を選んだ。
菊とひとくちに言っても
観賞用から食用まで日本には多種多様の菊がある。
さて、牧野富太郎先生の菊はどの菊だろう。
皇室のご紋章にもなっている菊は
一文字という品種だが
これを七草とするのはちょっと恐れ多い。
ハキダメギクは牧野先生が見つけて命名した菊で
名前も名前だが、みんなが思う菊の花とは
ちょっとおもむきが違う。
では、ノジギクはどうだろう。
ノジギクは1884年、
牧野先生が高知県の山中で見つけた。
野の路の菊という名前も美しいが
残念なことに東日本には自生しない。
植物学の権威がただ「菊」といったのだから
きっとその土地土地に咲く菊のことだろう。
庭の菊、道端の野菊
そこに咲く花をながめて秋を思えばいいのだろう。
菊の花の時期は幸いに長い。
厚焼玉子 11年10月23日放送
CMの音楽 1 剣と女王(サントリーローヤル「ランボオ」)
マーク・ゴルデンバーグのソロアルバム
「鞄を持った男」の8曲めを聴くと
なつかしいメロディが流れてくる。
1980年代にテレビを見ていた人なら知らないはずのないこの曲
「剣と女王」は
日本のウイスキーのテレビコマーシャルのバックに流れ
そのコマーシャルとともに一躍有名になった。
サーカスのジンタのようでもある。
ジプシーのダンスのようにも聞こえる。
強いて言うならば
ヨーロッパの湿った風土、
陽の当たらない土地の悲しみのようなものが
匂い立つ曲だ。
作者のゴールデンバーグは
この曲がおさめられているソロアルバム「鞄を持った男」を
作曲から演奏までひとりで制作したという。
「剣と女王」を使ったサントリーローヤルのCM
CMの音楽 2 夢街道(サントリーオールド「夢街道」)
日中平和友好条約が結ばれた1978年から
中国ブームがはじまった。
そこには見たことのない形をした山や川や砂漠と一緒に
日本が失ってしまったふるさとの風景があった。
1980年、あるウイスキーのコマーシャルで
中国のシリーズがはじまった。
シルクロードを夢街道と名付けたシリーズ。
そのテレビコマーシャルの音楽をつくったのが
服部克久だった。
赤い砂煙の町、ロバに乗る老人…
人々はテレビに写る初めての風景を目に焼き付け
流れる音楽を記憶に留めた。
あのコマーシャルの音楽は
日本人が思い描く中国そのものだった。
サントリーオールドの「夢街道」
CMの音楽 3 Boom(九州新幹線)
2011年3月9日、コマーシャルが放送開始。
そして3月11日、東北大震災
わずか3日の放送で自粛してしまったそのテレビコマーシャルは
大反響を呼んだ。
線路沿いに集まった人々が手を振っているだけなのに
どうしてこんなにうれしくなるんだろう。
こんなに泣けてくるんだろう。
わかるような気がする。
大勢が同じ喜びを共有している様子を見ることが
うれしいのだ。
そして、その雰囲気を盛り上げている音楽があるのだ。
コマーシャルは自粛しても
youtubeにアップされた動画のアクセスは増え続けた。
コマーシャルに使われた音楽も話題になり
問い合わせが殺到した。
その音楽は、マイヤ・ヒラサワの「Boom!」
そのとき
コマーシャルに使われた音楽はまだCDになっておらず
ファンをやきもきさせたが
5月18日の発売され
5月30日付けのBillboard JAPAN「Hot Top Airplay」で
早くも第一位になっている。
待ち望んでいたファンの気持が手に取るようにわかる。
Boom!
九州新幹線の開業CM
CMの音楽 4 ロミオとジュリエット(ソフトバンクモバイル)
テレビドラマ、フィギュアスケート
そしてあるCMでもさまざまに編曲して使われてから
一躍有名になったこの曲。
メロディはおなじみでも正式なタイトルをご存じないかたが
多いのではないかと思う。
バレエ「ロミオのジュリエット」の13曲め、
第一幕4場で流れるこの曲は「騎士たちの踊り」というタイトルがついており
その名の通り、舞踏会に集った騎士と貴婦人が
威圧的なダンスを繰り広げるシーンに使われる。
予想外でしたか?
ソフトバンク「予想GUY」
CMの音楽 5 ジタンの香り(ダーバン)
そのブランドの顔は全盛期のアラン・ドロンだった。
トップスターの日常を切り取るようなテレビコマーシャルを
長年にわたって展開していた。
美しい映像だった。
あるときはヨーロッパのセレブの世界を
そしてあるときは男同士の友情を
そして孤独な男のドラマを
映画のワンシーンのように見せてくれた。
そのコマーシャルを支えた音楽があった。
あの曲はきっとなにかの映画音楽に違いないと思った人も
当時は多かったが
実は日本の作曲家であり、なおかつ作詞家、タレント、歌手など
たくさんの顔を持つ小林亜星その人だった。
この曲は1977年の曲で
「ジタンの香り」と名付けられている。
ダーバンCM
CMの音楽 6 結詞(JR東日本「その先の日本へ」)
山形新幹線が開業した1992年、
そのコマーシャルの映像に乗って
テレビからはこの歌が流れてきた。
作詞作曲、井上陽水。「結詞(むすびことば)」
そのCMのためにつくった歌ではなかったが
あまりに映像のイメージに合っていたために
コマーシャルソングと思った人も多い。
それはたぶん
井上陽水が60秒のコマーシャルのサイズに合わせて
結詞を録音し直しているからだ。
おかげでこの歌は
60秒のCMにピッタリはまり、気持ちよく終る。
JR東日本「山形駅長」CM
CMの音楽 7 約束の地(資生堂 ’77年秋のキャンペーン)
コマーシャルがきっかけで
人気のでる曲やミュージシャンは多い。
1977年、化粧品会社の秋のキャンペーンに使われたこの曲は
リー・オスカーというデンマーク生まれのハーモニカ奏者のアルバムが
日本でヒットするきっかけをつくった。
リー・オスカーは、少年のころ
ハーモニカひとつをポケットに入れてアメリカに渡った。
そのときの高揚した気分から生まれたこの曲のタイトル「約束の地」と
コマーシャルのキャッチフレーズ「うれしくてバラ色」という
言葉と言葉がなんとなく結びつくのが面白い。
資生堂77年秋のキャンペーン
CMの音楽 8 cocoroni utao(ユナイテッドアローズ)
あるコマーシャルのバックに流れるこの曲が話題を呼んだのは
1998年のことだった。
CMソング?それともタイアップ曲?
タイアップ曲ならCDが発売されているはずだ。
でもCDはどこにもなかった。
この曲のCDがようやく発売されたのは2005年。
「ナカガワトシオ ソングブック」というそのCDには
中川俊郎のCMソングが14曲収録されており
知らずに聴いた人は、
耳慣れたCMソングのあれもこれも同じ人がつくったことを知って
ずいぶん驚いたものだった。
「cocoroni utao」というこの曲のタイトルは
アルファベットの小文字で記されており
はじまりはKではなくCだ。
シーオーシーオーアールオーの「こころ」は
見た目がそれはかわいらしく
はずむような、踊るようなオタマジャクシにも見える。
CMソングの天才中川俊郎は
さすがに人の笑顔を引き出すコツを知っている。
ユナイテッドアローズCM 「cocoroni utao」
佐藤理人 11年10月22日放送
ゴールデンラズベリー賞とハル・ベリー
最高の映画にアカデミー賞が与えられるように、
最低の映画に与えられる賞もある。それがゴールデンラズベリー賞。
2001年「チョコレート」で
アカデミー主演女優賞に輝いたハル・ベリーは、
2004年「キャットウーマン」で
ゴールデンラズベリー最低主演女優賞に選ばれた。
つまらない役を演じたスターや失敗した話題作に与えられる
この不名誉な賞のトロフィーを受取りに来る人はまずいない。
しかし彼女は違った。
授賞式では自分のアカデミー賞受賞スピーチのパロディを完璧に演じ、
さらに涙まで流してみせ観客から大喝采を浴びた。
式に来た理由を聞かれた彼女は、
胸を張って負け犬になれない者は勝者にもなれない
と子供のときママに言われたの、と答えた。
山口百恵と三浦友和
今から約30年前のこと。
人気絶頂にして21歳の若さで芸能界から寿退職し、
日本中の話題をさらった女性がいる。
山口百恵。
13歳の時、オーディション番組で準優勝し、翌年デビュー。
普通のアイドルと違い笑顔で媚びることなく、
少女のような外見で早熟な歌をうたう彼女は、
「女性の時代」と呼ばれた時流に乗って瞬く間にトップアイドルとなった。
そんな彼女が映画の共演で知り合った俳優
三浦友和との交際を宣言したのが弱冠20歳の時。
今でこそ珍しくない芸能人の交際宣言。彼女はそのパイオニアでもあった。
二人は翌年婚約、そして結婚。
たった7年半の芸能活動にもかかわらず、彼女は人々の記憶に強烈な印象を残した。
後に自伝「蒼い時」の中で結婚の理由を彼女はこう綴った。
私は彼のためになりたかった。
外へ出ていく夫に向かって『いってらっしゃい』『おかえりなさい』
と言ってあげたかった。愛する人が安らぎを感じる場所になりたかった。
そして30年後の今。「夫婦」について夫の三浦友和はこう語る。
よく妻や夫を空気のような存在と表現するけど、
それはいてもいなくてもいいのではなく、
いないと死ぬという意味なんですよ。
運命の人同士を結ぶ赤い糸は、この世に確かに存在する。
奥山清行とフェラーリ
その日、カーデザイナー奥山清行は焦っていた。
フェラーリ・エンツォ。
イタリアの自動車メーカーフェラーリが
創業55周年を記念して作る車の最終プレゼンを控えていたのだ。
フェラーリにとっては21世紀最初のスーパーカーであり、
名前に創始者エンツォの名を冠したことからも窺えるように
その思い入れの強さは並大抵のものではなかった。
2年間のデザイン開発期間を経て、奥山は何度もフェラーリ社にプレゼンした。
しかし、なかなかOKは出なかった。そして、ついに最終プレゼンの日。
この日失敗すれば受注を逃すことは明らかだった。
ホンダ、GM、ポルシェと渡り歩き、
カーデザインの最高峰であるイタリアのピニンファリーナ社に
ようやく籍をおけるようになった彼にとって、
これは絶対に失敗できない正真正銘のラストチャンスであった。
しかし、無残にもプレゼンは失敗。
帰ろうとするモンテゼーモロ社長を軽食のサンドイッチで
半ば強引に15分だけ引き止めることに成功した奥山は、
その間に死に物狂いで一台のスケッチを描きあげる。
それまでの2年間、自分の中に溜まっていたものが堰を切って溢れ出てきた。
出来上がったスケッチを見て社長はこともなげにこう言った。
やればできるじゃないか
こうして奥山清行は、イタリア人以外で初めて
フェラーリをデザインした男になった。
水野和敏と日産GT-R
2008年4月17日。
世界一過酷なサーキット、ドイツニュルブルクリンクで、
日産GT-Rは7分29秒3の市販車最速ラップを記録した。
するとポルシェがこのタイムに抗議。
市販車とは違うレース用タイヤを履いていたのではないかと言うのだ。
GT-Rの開発責任者水野和敏はこう答えた。
GT-Rはいつ誰がどんな状況で運転しても最高の性能を発揮する。
つまり市販車と違う車でテストすることは無意味だと言うのだ。
彼は言う。
日産GT-Rというより、まさしくニッポンGT-Rなの。
ブランドって僕はナショナリティだと思ってる。
土地と、そこに住む人の智恵なんだよ。
GT-Rの価格はポルシェの約3分の1。
水野はポルシェを本気にさせただけでなく、
日本のものづくりの底力を全世界に示してみせた。
オードリーとジバンシー
「ローマの休日」で世界中の人気者になった
オードリー・ヘップバーン。
彼女には大きなコンプレックスがあった。
それは意外にも、外見。
子供の頃から自分の見た目に自信が持てず、
人前に出るとどうしようもなく緊張してしまったという。
彼女を変えたのが「麗しのサブリナ」の撮影で出会った
若きフランスのクチュリエ、ユベール・ド・ジバンシー。
コンプレックスである細すぎる身体を
優雅に見せてくれるこの若者を
オードリーは自分のスタイルの最良の理解者と認め、
以後二人は8本もの映画でタッグを組んだ。
ジバンシーの服についてオードリーは言う。
彼の作った服を着ていると、守られているような気がするの。
服とは現代の鎧である。
ロバート・ダウニー・Jrとアイアンマン
アカデミー主演男優賞にノミネートされる演技力がありながら、
薬物問題で逮捕歴6回、リハビリ施設に入退院を繰返し、
拘置所から撮影所に通った逸話を持つ俳優、ロバート・ダウニー・Jr。
彼がスクリーンに還ってきたのは2003年、38歳の時のこと。
薬物とアルコールをきっぱり断ち、地道に仕事を続けた彼は、
2008年チャンスをつかむ。「アイアンマン」の主役、トニー・スタークだ。
天才科学者がテロリストに瀕死の重傷を負わされ、
自らの肉体を改造しスーパーヒーローに生まれ変わる。
そしてこんなセリフを言う。
自分が生き残ったのには理由があるはずだ。
その姿はまるで、長年のどん底生活から見事復活を遂げた
彼自身の心の叫びのようだった。
マイケル・チミノ
映画「ディアハンター」でアカデミー賞を総なめにし、
一躍ハリウッドの寵児となった映画監督、マイケル・チミノ。
次にメガホンをとった「天国の門」は、
製作費80億、上映時間5時間半という意欲作だったが、
試写会の反応の悪さから無茶な短縮を慣行、暗いテーマも災いし、
たった一週間で打切りが決定。
史上最悪の赤字を出した映画
としてギネスブックに載ってしまった。
チミノにとって「天国の門」は、まさに地獄への入口だった。
小野麻利江 11年10月16日放送
すすきの秋 飯田蛇笏
故郷・山梨の自然風土に根差した
句を詠みつづけた、飯田蛇笏。
なにげなく手折った、枯れすすき。
その意外な存在感にはっとした一瞬を、
こんな風に、切りとった。
をりとりて はらりとおもき すすきかな
いのちを終えた秋の自然にも、
豊かないのちが、つまっている。
どんぐりの秋 青木存義
明治時代の、宮城県松島。
どんぐりが実るナラの木があるお屋敷で
母親が庭の池に、どじょうを放した。
朝寝坊な男の子が、どじょうが気になって
早起きできるようにと。
その男の子は、のちの作詞家・青木存義(ながよし)。
大人になって、幼い日の思い出を
童謡の中の物語に、昇華させた。
どんぐりころころ どんぶりこ
お池にはまって さあ大変
どじょうが出てきて こんにちは
坊っちゃんいっしょに 遊びましょう
秋とノスタルジーは、
どんぐりとどじょうくらい、仲が良い。
流星の秋 松任谷由実
「女心と秋の空」とは言うけれど、
男心だって、移ろいやすいもの。
10月初旬にみられる、突発的な流星群。
松任谷由実がこれを
気まぐれな男心に重ねて唄ったのが、
名曲「ジャコビニ彗星の日」。
72年10月9日
あなたの電話が少ないことに慣れてく
「今年は流星の雨が降る」と
マスコミが騒然としていた、1972年。
女は男との別れを予感しながら、
オペラグラスで、夜空をのぞく。
淋しくなれば また来るかしら
光る尾をひく 流星群
男からの電話を期待しなくなった女が、
結局訪れなかった流星群に
期待を失わないのは、
うつくしい思い出にすれば、きっと忘れられる。
無意識のうちにそう感じていたから、だろうか。
茂木彩海 11年10月16日放送
すず虫の秋 海野和男
秋の街を、イヤホンなしで歩いてみる。
耳を澄ませば聞こえてくる、その小さくとも確かな歌声は、
かえって都会のほうがよく目立つ。
小さな環境をみていくと、大きな世界が見えてくる。
昆虫博士、海野和男の言葉。
なるほど。
この小さな虫たちの恋のうたが聞こえなくなったころ、
きっと冬は近いのだろう。
落語の秋 三遊亭金馬
お殿さまがある日目黒にお出かけし、
庶民の魚、秋刀魚を初めて食べたからさあ大変。
なんだこの美味い魚は!
その日から、お殿さまの頭の中は寝ても覚めても秋刀魚のことばかり…。
鯛しか食べたことのないお殿さまが
秋刀魚の美味しさに取り憑かれてしまう、
古典落語、「目黒のさんま」。
この噺を得意としたのが、3代目三遊亭金馬。
とにかくわかりやすい落語で人気を博した彼は、
大の釣り好きとしても有名だった。
ところがある日の釣りの帰り道、
汽車の事故で左足を不自由にしてしまう。
体長10センチのタナゴに、気を取られていたのだった。
ぼくは、この小さなタナゴに魅せられて半年も入院したのだから、
実にあっぱれなものと自分でも思っている。
魚に魅せられ、魚で客を笑わせつづけた男。
秋刀魚の美味しい季節になると、
脂ののった金馬の落語を思い出す。
ファッションの秋 川久保玲
コム・デ・ギャルソン。
フランス語で、「少年のように」を意味するブランド。
コレクションの度に世界中を虜にしてきた
ファッションデザイナー、川久保玲。
彼女の作る服の定義は、美ではなく、メッセージ。
これから出来あがる服にどんな思いを込めるか。
そこに全ての熱が注がれる。
川久保は言う。
ファッションは着る人の人間性を包含するもの。
言いたいことは全部、洋服の中にあるのです。
着る服が、今日の心を映すなら。
この秋は、少年のように
自由な服を楽しみたい。
薄景子 11年10月16日放送
食欲の秋 サン=テグジュペリ
星の王子様の作者であり、
パイロットでもあったサン=テグジュベリの言葉。
たくさんの星があっても、
夜明けに香り高い食事の碗を
用意してくれるのはたったひとつしかない。
さあ、食欲の秋。
料理を味わえる星に生まれた幸せを
ゆっくりかみしめたい。
コラムの秋 山本夏彦
読書の秋というと、小説が主役になりがちだが、
この季節にこそ読みたいコラムがある。
昭和から平成の日々を、ばさりと切り続けた随筆家、
山本夏彦。
馬鹿は百人集まると、百倍馬鹿になる。
痛快で、辛口で、思わずニヤリ。
本質をついた言葉は、いつ読んでも新しい。
その日まで私のすることといえば、
死ぬまでのひまつぶしである。
そう自ら語った山本のコラムには、
一寸の無駄もなく。
研ぎ澄まされた剣そのもの。
同じひまをつぶすなら。
自分のかわりに
世の中をずばずば切りさばいてくれる、
そんな言葉とともに、秋の夜長を楽しみたい。
岡安徹 11年10月15日放送
正岡子規と夏目漱石
近代文学の礎を築いた文人、正岡子規と夏目漱石。
二人は日頃から、俳句や漢文などをつくっては見せ合う仲でもあった。
しかし年上の子規は、漱石の作品を見るたびに
辛口の批評をあびせたり添削したりする。
よしそれならと、今度は漱石、英語で詩を綴り子規に見せた。
「さすがの彼も英文にはお手上げだったらしい。
ただ、“VERY GOOD”と書いてもどしてきたよ」
と笑いながら後々まで人に語ったという。
英語の苦手な正岡子規に対するこの勝負は
技あり1本、漱石の勝ちだった。
マイケル・ジョーダンと1人のファン
この世には、まれに“神”と喩えられる人がいる。
バスケットボールの神様と呼ばれた「マイケル・ジョーダン」
もそのひとり。
スーパースターとして多くのファンに囲まれていた彼も、
あるファンのひと言には、「まいったね」と苦笑いする。
ある日、ジョーダンが家に帰ると
そのファンが待ちかまえていてこう言った。
「お父さん、今日ね、テレビでマイケル・ジョーダンを見たんだよ!」
そう言いながらおもちゃのバスケットボールを投げてよこす。
「ねえ、マイケル・ジョーダンごっこをしようよ」
目の前の人がテレビの中のジョーダンなんだと理解できるのは、
小さなファンがもう少しおおきくなってから。
神様も、家に帰れば、お父さん。ですね。
ドカベン作者水島新司と葉っぱのイワキ
野球漫画「ドカベン」の作者水島新司。
彼が描くキャラクターは、皆が個性をもち、
イキイキとしている。
その中でもひときわ元気で、「絶好球や!」が口癖の
葉っぱをくわえた無頼漢、岩鬼正美。
豪快なバッティングが取り柄の彼も、
ストーリー上、三振することだってある。
しかし事件は、その三振を描くシーンで起こった。
空振りする岩城を下書きし、ペンで原稿を仕上げていた時のこと。
「あ!打ってもうた!」
なんと、気づいたらホームランをかっ飛ばすシーンになってしまったという。
「あいつら、たまに、作者の言うこともきかん」
作者の手に負えないほど強烈な個性のキャラクターが活躍した「ドカベン」は
連載終了後も根強い人気を維持しつづけた。