三島邦彦 11年7月17日放送



ヨーロッパの芸術家/ カズオ・イシグロ

長崎で生まれたひとりの男の子が、
4歳の時、両親に連れられイギリスへと渡った。

男の子の名前は、カズオ・イシグロ。
約30年後、3作目の小説『日の名残り』が、
イギリス最高の文学賞、ブッカー賞を受賞し、
現代イギリス文学を代表する作家のひとりになった。

日本を舞台にした作品と、ヨーロッパを舞台にした作品。
その両方で、ヨーロッパや日本という地域性を超えて人間の奥深くを見つめる、
イシグロ独自の世界を展開する。

彼の作品を彼の作品たらしめるもの。
それを彼は、「声」だと言う。
「声」について、彼はこう語る。

本物の作家になるというのは、
本を出すかどうかなんてことではかならずしもなく、
一定の技巧を身につけるということでもない。
自分の声を見つけた時点で、人は本物の作家になるのです。



ヨーロッパの芸術家/モーツァルト

最も天才という言葉がふさわしい音楽家、モーツァルト。

自分の息子が天才だと気付いた父親は、
ウィーン、パリ、ロンドン、そしてイタリアへ、
息子を連れて何度も演奏旅行に出かけた。
6歳の時にはウィーンで7歳のマリー・アントワネットに出会い、
7歳の時にはフランクフルトでゲーテにその才能を認められる。

ヨーロッパの全てが、彼の才能を祝福し、彼を音楽家として成長させた。

音楽家にとっての旅の重要性について、彼はこう語る。

旅をしない音楽家は不幸です。
才能がある人も、一か所にとどまっているとダメになってしまいます。

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中村直史 11年7月17日放送



ヨーロッパの芸術家/パブロ・カザルス

歴史上最も偉大なチェロ奏者と
称えられるパブロ・カザルス。
彼が大切にしたのは
技術の先にある演奏者の「心」だった。

指揮者としても活躍したカザルス。
そのリハーサルに立ち会った人は、
楽団員に熱っぽく語りかける彼の姿を克明に覚えている。

 もっとあなたの感情を表現しなさい。
 提示しなければならないのは知識ではなく、ここだよ。

そう言って、カザルスは自分の胸に手を当てた。

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三國菜恵 11年7月17日放送



ヨーロッパにゆかりのある芸術家/ロートレック

この人は自分と同じだ。
そう思える人に出会えたとき、
人の運命は大きく動くのではないかと思う。

フランスの画家、ロートレックも
ある日、運命的な出会いを果たす。
モンマルトルのキャバレー、「ムーラン・ルージュ」で。

お金持ちの家に生まれた彼とは
無縁の世界を生きているように見える、娼婦や踊り子たち。
そんな彼女たちと、彼はなぜか仲良くなった。

彼女たちは、人の肩書や見た目を気にしない。
小人のような背丈のロートレックにとって、
それははじめてのことだった。

やっとぼくは、ぼくと同じ背丈の娘たちを見つけたよ。

彼女たちを描いた、たくさんのポスターは
やがてロートレックの代表作となる。

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小宮由美子 11年7月16日放送



どんな家で暮らそう① 立原道造

詩人、そして、建築家である立原道造(たちはらみちぞう)が
夢見たのは、小さな花のような家だった。

ひと部屋しかないシンプルな空間にあるのは、ベッドと机、
テーブルと腰掛け。台所はなく、照明はひとつだけ。
思索のための空間ともいえるこの家を
立原はヒアシンスハウスと名付け、芸術家たちの集った
浦和の沼の湖畔に建てようとした。

その家に彼が暮らす日は訪れなかった。
図面だけを残して立原道造は24歳で夭折。
遺志を継ぐ人々によって、ヒアシンスハウスは
65年の時間を経て、2004年に実現した。

繊細で、やさしくて、限りなく素朴。
沼の湖畔にたたずむ寡黙な家は、
今という時代に向かって多くのことを語りかける。



どんな家に暮らそう② 清家清

1952年。
建築家・清家清(せいけきよし)は両親のために家を建てた。
だが、「こんなへんてこな家には住めない」と両親は拒否。
どこを見渡しても段差のない家。それだけじゃない。
50平米のワンルームしかないその家には、間仕切りもなければ扉もなかった。
ありきたりを排除した斬新すぎるこの家には
清家本人と妻、そして子どもたちが住むことになった。
ひとつきりの部屋が、家族の集うリビングになり、
清家の仕事部屋になり、客室になり、寝室になった。
トイレと洗面所の間も扉はないから、
洗面所で髭を剃っている父と、トイレを使いながら話をするような暮らし。
でも、「居心地がいいんですよね」と子どもたちはいう。
家族が住み継ぎ、現在も事務所として使われ、60年近くも
空き家になったことがない。その事実が、いつまでも古びることのない
この家の魅力を証明している。

清家清の「私の家」。日本の住宅史に残る名作である。



どんな家に暮らそう③ 有元夫妻

有元利夫(ありもととしお)と有元容子(ありもとようこ)。
芸術家であるふたりにとっては、
自分たちの住む家も作品のひとつだった。
毎日のように工事現場へ通い、左官屋さんが呆れるほど
細々と注文を出して作ったこだわりの我が家。
だが、利夫が旅立った後、容子はふと考えることがあった。
ふたりが制作に没頭した1階のアトリエ。決して広くはない場所で、
ふたりが顔をつきあわせて四六時中、制作することが
どんなにお互いの平和を損なっていただろうか、と。

そんな妻の思いに対する答えは、夫のエッセイの中に
ちゃんと残されている。

しんと静まりかえったアトリエでひとり静かに絵筆を走らすといった
図は僕には無縁で、ほぼ常に誰かそばにいてくれないと落ち着いて
仕事が出来ない。「誰か」といっても、むろん誰でもいいわけではなく、なるべく僕の気持も絵のことも分かってくれて、いろんな意味でそばに
居やすい人がいいから、必然的にその「誰か」は僕のオクさんと
いうことになる。

ふたりの多くの作品は、ふたりのアトリエから生み出された。



どんな家で暮らそう④ 内藤ルネ

夢のある少女の絵で知られる画家・内藤ルネ。
雑誌『ジュニアそれいゆ』を舞台に注目を集め始めた頃、
彼が住んでいたのは、先輩から紹介されたボロボロの長屋だった。
3畳半の部屋には畳などなく、敷かれているのは板。
壁も板だから、隣の声がまる聞こえ。
ふるさとからルネの様子を見に来た父は、無言になった。
お前さんのことではいろいろ驚かされたけど、あそこは泣けた
と、後に息子に打ち明けた。
だがそんな部屋の壁に、ルネは綺麗な紙を貼り、
拾ってきた箱を黄色に塗って戸棚にし、空き瓶や石を美しく飾った。

その後、時代の先端をゆくマンションや家に移り住んだが、
「ルネ君が住んだ家の中で、(あの長屋こそが)一番素敵だった」と
ある画家に言わしめた。

限られた空間が、内藤ルネの美意識を逆に際立たせた家だった。



どんな家に暮らそう⑤ 西村伊作

1919年に出版された『楽しき住家』。
日本人向けの洋風住宅と、新しいライフスタイルを紹介し人気を博した
この本の著者・西村伊作は、家族が集う居間や食堂は
南向きの、日当りのよい、快活な、窓の大きな」部屋がいいと提案した。
江戸時代以来、武家住宅の流れを汲んだ日本の家の間取りは
主人と客のための座敷を、庭園を望むおもて側に、
家族の部屋はその裏に、と考えられていた。
西村の発想に新しい時代の到来を感じとった人たちは、
こぞって彼に設計を依頼した。

じつは、西村は建築家というわけではなかった。
家族への、そして家族との暮らしへの愛が
日本の住宅史に名を残す、独学の建築家を生んだのだった。



どんな家に暮らそう⑥ 植田正治

鳥取県境港市。
砂丘を舞台にした美しい作品で知られる
写真家・植田正治(うえだしょうじ)は、生涯
生まれ育ったこの街に暮らした。
植田と妻と4人の子どもたちの生活の場であり、
ある時は、仲間が集う「梁山泊」であり、そして
植田の写真館にもなったのが築百年近くになる町屋。
さあ、撮るぞ
晩年、家にいることが多くなった後も、
家の棚いっぱい並んでいるオブジェを撮り、
窓から見える雲の流れをおもしろがった。
「何かもうひとつ、何かないか」とせがまれて
被写体となるものを探した長女・和子は、
家にあるもで植田が撮らないものはなかったと述懐する。
家は、父にとって、おもちゃ箱ね」と。



どんな家に暮らそう⑦ シューベルト綾

カナダへの留学を終えて、日本に帰国した17歳のシューベルト綾。
東京での都会生活に戻り、タレントとして芸能界に復帰しようと
していた彼女に転機が訪れたのは、その冬のことだった。

家族旅行でハワイへ旅立った彼女は、帰りの飛行機に乗らなかった。
何かに導かれるように、東京での生活からかけ離れたマウイ島での暮らしを、彼女は選んだ。

奥深いジャングルの中に、テントと虫除けの蚊帳を建て、
ハンモックをぶら下げただけで、すぐに「家」ができあがる。
そのことに、彼女自身が驚いた。
火を起こして炊いたごはんは、その苦労の分だけおいしく、
野菜やフルーツはどこまでも瑞々しかった。毎日の重たい水汲みは、
体力作りに加えて、美しい滝に出向く癒しの時間になった

くすぶっていた本能が目覚めていく。
あの頃の内面にあった葛藤や乾きが、知らないうちに道しるべとなって
自分をいざなったのかもしれない、シューベルト綾は、そう振り返る。

心のままに
彼女は、9年間のマウイ島での暮らしの中で、大切なメッセージを受け取った。

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蛭田瑞穂 11年7月10日放送



印象的な冒頭① 太宰治

メロスは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決心した。

という一文から始まる太宰治の小説『走れメロス』。

国王の悪政に逆らい、処刑を命じられたメロスは、
妹の結婚式のため、3日間の猶予を与えられる。
ただし国王は、3日以内に戻ってこられなければ、
代わりにメロスの友人を処刑する、という条件を出した。

友の命を救うため、そして自分の誇りのため、
メロスは走り続ける。

小説で描かれる青年メロスの燃えるような正義。
太宰はそれを冒頭の一行で見事に表現した。



印象的な冒頭② ヘミングウェイ

かれは年をとっていた。
メキシコ湾流に小舟を浮べ、
ひとりで魚をとって日をおくっていたが、
一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。

という一節から始まる、ヘミングウェイの『老人と海』。
餌も残り少なくなったある日、
老人の針に想像を絶するほど巨大なカジキマグロがかかる。

4日間にわたる死闘が繰り広げられ、
ついに老人はカジキマグロを釣り上げる。

しかし、その帰路、
舟にくくりつけてあった獲物がサメに襲われ、
みるみる食いちぎられていく。

大魚と闘う老人の姿を、渇いた筆致で描いたヘミングウェイ。
全編に流れるそのハードボイルドな雰囲気は、
冒頭からすでに漂っている。



印象的な冒頭③ トルストイ

幸福な家庭はどれも似たものだが、
不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。

という一節からはじまるトルストイの小説『アンナ・カレーニナ』。

この冒頭が生まれたのにはこんなエピソードがある。

ある日、トルストイは叔母の病室で
ページが開いたままになっている本をみつけた。

それは10歳の長男が叔母のために読んでいたプーシキンの小説。
物語は「客人たちは別荘へ集ってきていた」という冒頭で始まっていた。

余計な描写をせず、読者をいきなり物語に引き込む書き出しに、
トルストイは「小説の書き出しはこうでなくてはいけない!」と感激し、
すぐに書斎に籠って『アンナ・カレーニナ』を書き始めたという。

1875年の発表当時から高い評価を受け、
現在では世界文学の最高峰とも讃えられる『アンナ・カレーニナ』。

主人公アンナの不穏な運命をわずか一行で暗示させるその書き出しも、
文学史に残る冒頭と言っていい。



印象的な冒頭④ スコット・フィッツジェラルド

「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、
父は言うのである。
「この世の中の人がみんなおまえと同じように
恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」 

スコット・フィッツジェラルドの小説、
『華麗なるギャツビー』の冒頭にはこのような一節がある。

たしかに、人はとかく、自分と誰かを比べたがる。
そして羨んだり、嘆いたりする。
しかし結局のところ、人は人、自分は自分。

どんな人生だって捨てたもんじゃない。
フィッツジェラルドがそう言っているような気がする



印象的な冒頭⑤ ロンゴス

レスボスの島で狩をしていたわたしは、
ニンフの森でこれまで目にしたこともない、
世にも美しいものを見た。
それは一枚の絵に描いた、ある恋の物語であった。

という一節で始まる古代ギリシャの小説『ダフニスとクロエー』。
エーゲ海のレスボス島を舞台に、
山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエーとの恋模様が綴られる。

この小説が書かれたのは2世紀の後半から3世紀の前半という遥か昔。

そのため作者のロンゴスという人物についても、いつどこで生まれ、
どのようにしてこの物語を書いたのか、詳しいことはわかっていない。

それでも、ひとつだけはっきりしていることがある。
小説の冒頭にも書かれているように、
古代ギリシャの時代から、恋は美しいということである。



印象的な冒頭⑥ 三島由紀夫

長いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を
見たことがあると言い張っていた。
それを言い出すたびに大人たちは笑い、
しまいには自分がからかわれているのかと思って、
この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、
かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。

こんな一節から始まる、三島由紀夫の『仮面の告白』。
小説の主人公である「私」の生い立ちから青年期までが
「告白」という形式で語られる。

『仮面の告白』は三島由紀夫の自伝的小説ともいわれる。
たしかに主人公の人並み外れた洞察力は、
三島由紀夫そのものという気もする。



印象的な冒頭⑦ 江戸川乱歩

「あの泥棒が羨ましい」
二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、
そのころは窮迫していた。

という一節から始まる、江戸川乱歩の『二銭銅貨』。
貧乏のどん底にあるふたりの青年が、
強盗が盗み隠した大金のありかを推理する話。

江戸川乱歩の処女作にして、
日本で最初の本格推理小説ともいわれる。

『二銭銅貨』の執筆当時、江戸川乱歩は失業中だった。
「あの泥棒が羨ましい」という冒頭の言葉は、
乱歩の本心が表れているのかもしれない。



印象的な冒頭⑧ 夏目漱石

こんな夢を見た。

という書き出しで、すべての短編が始まる
夏目漱石の連作小説『夢十夜』。

第一夜から第十夜まで、十篇に渡って、
さまざまな夢の話が語られる。

死んで百合の花に生まれ変わる女と
その百合を100年待ち続ける男を描いた、幻想的な「第一夜」。
自己の存在の不条理な恐怖を描いた「第三夜」。
明治文化への絶望と批判を語る「第六夜」。

夏の夜、漱石の描いた夢を一緒に見てみませんか?

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坂本仁 11年7月9日放送



ジャック・リヴェット

長回しの手法を使って、
人間の動作や心理を細かく丹念に描きつづける
フランスの映画監督ジャック・リヴェット。
カンヌ映画祭審査員特別グランプリを受賞した、
「美しき諍い女」は約4時間、
代表作である1970年の「アウトワン」は
およそ13時間にもおよぶ作品である。

リヴェットの盟友で映画監督のゴダールは、
その13時間にもおよぶ「アウトワン」を鑑賞した後、
次のように言った。

「素晴らしい作品だ。
しかし、彼の才能を発揮するには短すぎる」と。

その破壊的な長さのために
未公開のままだった「アウトワン」が日本で公開されたのは
フランスでの初公開から38年後
2008年のことだった。



井上円了

机の上の十円玉に指を置き、
霊をよびだして質問する。
子供の頃、「こっくりさん」で不思議な体験をしたことある人は
多いのではないでしょうか?

近代的な妖怪研究で知られる井上円了は、
「こっくりさん」を科学的に分析し、
十円玉を動かしているのは、霊ではなく、
無意識の筋肉運動であることを実験で証明してみせた。

妖怪や化け物は人が生み出すもの、
迷信を恐れることはない。
けれど、不思議な現象を知的に楽しむことを
否定するわけではない。

井上円了の研究の目的は、
人の暮らしの幸福にあったと思う。



B・C・フォーブス

学校のテストの点が悪かったり、
仕事で結果がでなかったり、
好きな人にフラレたり。

生きることは、失敗の連続かもしれない。
けれど、アメリカの作家B・C・フォーブスは言う。

ゴルフにバンカーやハザードがなければ、単調で退屈に違いない。
人生も然りだ。
と。

あなたにとって面白くないことは、
あなたの毎日を面白くしてくれるもの。
そう思えれば、きっと毎日はもっと楽しくなる。



サミュエル・ジョンソン

辞書を引くのは一瞬で終わるが、
辞書をつくるのはそうはいかない。

1755年、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンは、
4万語を超える単語を収録した A Dictionary of English を刊行した。
その内容は極めて詳細に記述され、
世界初の本格的な辞書とも評されている。
単語の意味を説明するために、
シェイクスピアやミルトンの文書を引用し、
その後の辞書の編集に多大な影響を与えた。

サミュエル・ジョンソンは言う。

大偉業を成し遂げるものは、
体力ではない、耐久力である。
元気いっぱいに3時間歩くことができれば、
7年後には地球を一周できる。



エジソン

いま、多くの人の毎日は、時間に追われている。
細切れに組まれた予定は
人から集中力を奪っていく。

けれど、世界の発明家・エジソンは言う。

決して時計を見るな。
これは若い人に覚えてもらいたいことだ。 

若いうちは時間を忘れるくらい何かに没頭しなさい。
発明に夢中になりつづけ、数々の偉業を成し遂げたエジソンは、
そう私たちに教えてくれる。

時間を守ることも大切だけど、
時間を忘れることも大切にしたい。



森本泰輔(たいすけ)

涙の出ない仕事をするな。
それが嬉し涙でも、悔し涙でも。
たくさん失敗してもくじけなかったらいいんです。

音楽プロデューサー森本泰輔はそう語る。

彼にとっての涙を流した仕事とは、
人気バンド・ウルフルズを育てたことだった。
本気で愛して本気で駆けずりまわって、本気で泣いた。

そうだ、「涙」を言い換えると
「本気」というコトバになるのかもしれない。



野村克也

いまTwitterで流れている野村克也楽天イーグルス名誉監督の言葉を
拾い出してみた。

 思考が止まれば、進歩も止まる

 アンパイアは、ピッチャーの女房役のキャッチャーにとって、
 言ってみれば夫の上司 みたいなもの

 捕手は目配り、気配り、思いやりと危機管理のマイナス思考

 「失敗」と書いて「せいちょう」と読む

データ重視のID野球で知られる、名監督・野村克也。
ヤクルト、阪神、楽天で監督を務め、
結果をだせる監督としてその手腕は高く評価されている。

しかし彼の野球哲学はデータ重視なだけではなく、
人間重視でもある。
選手の性格をよく考えて指導すること。
人の心理を考えつくした配球理論をキャッチャーに教えること。
人間をみつめつづけてきた野村克也は言う。

コンピューターがどんなに発達しようとしても、
仕事の中心は人間だ。
ならばそこには「縁」と「情」が生じる。
それに気づき、
大事にした者がレースの最終覇者となるのだと思う。 
と。

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古居利康 11年7月3日放送



高峰秀子が乱れるとき その1

映画『乱れる』は、1964年1月15日、
東宝の正月番組として封切られた。
監督、成瀬巳喜男。
主演、高峰秀子、加山雄三。

昭和39年。
秋に東京オリンピックの開催を控えたこの国の、
町のかたちや家族のありようが
大きく変わろうとしている頃。

11歳年の離れた兄嫁と弟が交わす、
ゆるされない愛を描いた映画だ。



高峰秀子が乱れるとき その2

『秀子の車掌さん』
『稲妻』
『浮雲』
『口づけ』
『妻の心』
『流れる』
『あらくれ』
『女が階段を上る時』
『娘・妻・母』
『妻として女として』
『放浪記』

そして、『乱れる』

監督・成瀬巳喜男は、その生涯に、
高峰秀子を主演に17本の映画をつくる。
とりわけ1950年代半ばから、
その主要な作品のことごとくに
高峰を起用するさまに、
ひとりの女優に取り憑かれた、
ひとりの映画監督の、
執念にも近い惑溺が見てとれる。



高峰秀子が乱れるとき その3

女優・高峰秀子は、5歳のとき、
子役でデビュー。
10歳までに30本以上の作品に出て、
『デコちゃん』の愛称で
戦前の日本に愛された。

一種のアイドル映画として企画された
『秀子の車掌さん』で成瀬巳喜男と出会った
17歳の年は、山本嘉次郎監督の『馬』に出演して、
演技に目覚めた年でもあった。

成瀬は、高峰秀子が大人になるのを
待っていたのか。
戦後7年を経て、『稲妻』という作品で
28歳になった彼女と出会い直す。

その3年後、成瀬にとっても、高峰にとっても
それぞれのキャリアのピークとも言える
『浮雲』が完成する。相手は、森雅之。
高峰秀子が演じたのは、年上の妻子持ちとの
破滅的な愛に身を焦がし、愛に果てる女性。

このモノクロフイルムに漂う
生々しい息づかいと肌ざわり。ただごとではない。

このとき、高峰秀子、31歳。



高峰秀子が乱れるとき その4

そして、1964年、成瀬巳喜男監督の『乱れる』。

高峰秀子演じる兄嫁、森田礼子は37歳。
19の年に嫁に来たが、半年後、夫は戦争にとられ、
帰らぬひととなる。独身のまま酒屋を切り盛りし、
18年の歳月が過ぎた。

加山勇三演じる弟、森田幸司は25歳。
高峰が嫁に来たとき、まだ7つのこどもだった。
大学を出て就職するが、転勤を拒んであっさり退職。
自堕落な毎日を送っている。

義理の姉と弟…
そのままの関係がつづけばホームドラマ  
しかしそうではないことを
「乱れる」という映画のタイトルが告げている。



高峰秀子が乱れるとき その5

映画『乱れる』の舞台は、
静岡県の清水という地方都市。
駅前に店を構える森田酒店が、
新たに進出してきたスーパーマーケットに
圧迫され、時代の変化に巻き込まれていく。

結婚して家を出た2人の妹たちは
店をスーパーマーケットにする計画を立てるが、
兄嫁・高峰秀子の存在が邪魔になり、
再婚話をもちかける。

体のいい追い出し工作とも思える
家族の企みに、ひとり猛反対する弟・加山雄三。
事情をぜんぶ飲み込み、
みずから身を引こうとする兄嫁。

思いあまった弟が告白する。
ねえさんのことがずっと好きだった、と。
義理の弟のあまりにまっすぐな思慕に、
義姉はうろたえ、取り乱す。

映画の空気は、ここで一変する。

ほかの登場人物は、もう、ほとんど出てこない。
義姉と弟、ふたりだけを追いかけ、追いつめる。



高峰秀子が乱れるとき その6

夕食のとき、
じぶんの食べかけのおかずに
箸を伸ばす弟をたしなめる。

大雨の日、
配達からずぶ濡れで帰ってきた弟の
雨合羽を脱がせようとして、
気がつけば抱擁のようなかたちになって、
思わず後ずさりする。

じぶんのサンダルを平気で履く弟に、
壊れちゃうからやめて、と抗議する。

成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」

義理の弟とはいえ
家族と思っていたときはなんでもなかった
さりげない身体の触れあいが
愛の畏れを喚び覚ます。

義姉・高峰秀子の、
弟・加山雄三への過剰な意識が、
映画『乱れる』を
思いもよらない方向へ導いていく。



高峰秀子が乱れるとき その7

これ以上、
ひとつ屋根の下に暮らしていると、
きっとまちがいが起きる。
そんな予感に苦しみ、
じぶんの気持ちの乱れを畏れる
義姉・高峰秀子は、とうとう家を出る。

清水の駅から準急に乗って、
故郷・山形県新庄に向かう列車のなかで。

ふと見ると、弟・加山雄三が乗っている。

成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」
物語は、姉と弟という安定した関係をつづけようとする女と
それを拒否する男の結末に向かって進む。



高峰秀子が乱れるとき その8

映画『乱れる』、最後の21分間。

清水発14時35分。
弟・加山雄三の姿におどろき、とまどう
義姉・高峰秀子。空席はない。通路に立つ弟。

小さな川を渡る列車。3つ前の席に坐っている弟。
目が合って、かすかに微笑む義姉。

大きな川に架かった鉄橋を渡る列車。
斜め後ろの席にいる弟。

列車の疾走をカットバックし、
車内の映像に戻るたびに、 義姉の席に近づいていく弟。

上野着23時50分。

東北本線に乗り換えたふたりは、
もう、向かい合わせの席に坐っている。

やがて夜が明けて、目の前で眠る弟の寝顔に、
義姉は静かに涙を流す。そして言う。
「幸司さん、次の駅で降りましょう。」

義姉と弟が二日目の夜を過ごす場所は、
列車の中ではなかった。

残酷な結末に向かって、
映画は北へ北へと疾走しつづけて、
ついにその動きを止めない。

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佐藤延夫 11年7月2日放送



忍びの者/出浦対馬守盛清(いでうらつしまのかみもりきよ)

戦国時代、多くの忍者を召し抱えた武将といえば
武田信玄と毛利元就が双璧をなす。
甲斐の忍び集団は「三ツ者」と呼ばれ、
出浦対馬守盛清という男が頭領を務めた。

盛清の場合、怪しげな妖術を使うわけではない。
敵の動静を窺う斥候を得意とし、
軍勢や将兵の配置、城の弱点などを調べ上げた。
そのおかげで武田軍は、勝ち戦を重ねていく。

戦国時代も、マーケティングが重要だったのである。



忍びの者/中西某(なかにしなにがし)

戦国時代、上杉謙信は
優れた忍者部隊を擁していた。
甲斐の忍び集団「三ツ者」に対し、
こちらは「軒猿(のきざる)」と呼ばれた。

その忍者の一人が、中西某。
名前こそわかっていないが
変装術の名人だったという。

とある豪族が寝返ったという嘘の書状を携え、
百姓に化け、武田方の陣屋に届けた。
その身なりや話しぶりに、誰も疑うものはいなかったそうだ。

役者になるのも、忍者の仕事。



忍びの者/加藤段蔵(かとうだんぞう)

「飛び加藤」の異名を持つ
戦国時代の忍者、加藤段蔵。
塀や堀を軽々と飛び越える飛翔術のほかに、
幻で牛を呑み込んでみせるという呑牛(どんぎゅう)の術を得意とした。

最初は上杉謙信に重用されようと試みたが、
あまりにも腕がたちすぎると恐れられた。
今度は武田側に接近したが、
その魂胆を怪しまれ殺されてしまう。

実力がありすぎると干されるのではなく、
消されてしまう業界なのである。



忍びの者/風魔小太郎(ふうまこたろう)

その昔、相模の国に風間(かざま)という山間の小さな村があった。

村に暮らす一族は、
大陸から移住した騎馬集団という説もあるが、
その由来は謎に包まれている。
普段は狩猟や杣(そま)仕事をして細々と暮らし、
戦になると散り散りに消えていく。

小田原の北条氏が召し抱えた忍者部隊、風魔一族。
頭目は代々、風魔小太郎と名乗った。

彼らが得意としたのは、奇襲攻撃。
手当たり次第に将兵を生け捕りにし
火を放ち、武器や食料を略奪する。

二百人を超える大所帯であったが、
紛れ込んだ忍者を見分ける術も持っていた。

それは「立ちすぐり居すぐり」と呼ばれ、
不意に出される号令に合わせて
立ったり座ったりする符牒のようなものだった。
動きに合わせられない者は敵方の忍者と見なされ、
ことごとく斬り捨てられてしまったという。

一流の忍者は、リスクヘッジも万全なのである。



忍びの者/下柘植木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる)

伊賀の国に、二人の忍者がいた。
兄弟なのか親子なのか定かではないが、
名前を下柘植木猿・小猿という。

その名の通り、猿のように身軽だった。
木の葉を揺らすことなく
枝から枝へ飛び移る秘伝の技、
忍法「浮足」を得意にした。

刀の鍔に足をかけて飛び上がり、
枝に取り付いたら刀をするすると引き上げる。
その姿はまるで漫画のようだが、
なるほど、木猿は猿飛佐助のモデルにもなっている。



忍びの者/松之草小八兵衛(まつのくさこはちべえ)

ドラマ水戸黄門に登場する忍者と言えば
風車弥七だが、そのモデルは実在する。

名前は、松之草小八兵衛。
元々盗賊の頭であったが、
捕縛され打ち首になる寸前、
光圀公に見いだされ無罪放免となる。

その後は密偵として働き、
光圀公に他国の情報を知らせたという。

諸国漫遊をしたのは、小八兵衛なのかもしれない。



忍びの者/割田重勝(わりたしげかつ)

真田の忍者、割田重勝は、
武芸兵法に優れた忍びだったという。

いくつかの逸話も残っている。
上杉謙信の館に忍びこみ
秘蔵の刀を盗み出し手柄を立て、
また、大豆売りに扮すると
小芝居をうち敵方の駿馬を騙し取った。

しかし時代は変わる。
大坂夏の陣が終わり、徳川の世になった途端、
忍者の需要は極端に減った。

大名家に雇われる忍者は、ほんの一握り。
その役目と言っても隣国の諜報活動が主流となり、
忍び本来の持ち味を出す機会はなくなった。
職にありつけない忍者は、
割田重勝のように盗賊に身を落とす。
そして名も無き武士に討ち取られてしまう。

泰平の世では生きられない、
哀しい忍者の末路である。

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名雪祐平 11年6月26日放送



北原白秋 1

二歳の男の子が
腸チフスにかかり、高熱にうなされた。

忙しい母の代わりに、
乳母がつきっきりで必死に看病した。

男の子の命は助かったけれど、
乳母が腸チフスに感染し、
亡くなった。

自分から出た、凄まじい熱で、
代理の母親を焼き殺してしまった。

いつか、
本当の母親にもそうしてしまうのか…。

母殺しの恐怖とコンプレックスを抱えた男の子、
北原隆吉は、やがて、
北原白秋となる。



北原白秋 2

文学に熱中する息子を
父親はけっして許さなかった。

酒造りの商売を継がせるために、
商業高校に進学させなくてはならない。

文学書を読むことを一切禁じてしまった。

それでも息子は、
石垣のすきまや砂の中に
本をかくして読んだ。

けれども、限界はくる。
父親に無断で卒業間近の中学を退学し、
福岡の柳川の家を出たのだった。

行き先は、東京。

北原白秋、十九歳の旅立ちだった。



北原白秋 3

二十二歳の北原白秋が、
師事する与謝野鉄幹、晶子夫婦を訪ねた。

便所を借りたとき、
信じられないものを見た。

自分たち若手の没原稿が、
落とし紙として箱に積まれていたのだ。

人が心血をそそいた原稿で、
あの夫婦は尻をぬぐっていたのか!

白秋は激しく怒った。

鉄幹に対しては、
ほかの疑惑もふくらんでいた。

若手が身を削って表現した中心部分が、
いつのまにか鉄幹に流用されているのではないか。

もう、冒涜されるのはたくさんだ。

白秋ら7人の若手は
鉄幹が主宰する文学雑誌から
一気に脱退したのだった。

世の中の、
師匠と呼ばれるみなさまへ。

こんな
紙のリサイクルと、表現のリサイクルは
最低です。

つつしみましょう。



北原白秋 4

 母の乳は枇杷より温く
 柚子より甘し

という出だしから、

 母はわが凡て

と結ぶ最終行まで。

北原白秋の詩『母』には、
母の愛を求める情熱が示される。

けれども、白秋には
トラウマがあった。

幼い日、自分の病気が伝染し、
愛する乳母を死なせてしまったトラウマ。

自分の情熱によって、
相手を破滅させてしまうのではないか。

白秋にとって、恋愛の相手もそうだった。



北原白秋 5

明治時代、東京・原宿に
松下俊子という人妻がいた。

その隣りに暮らしていた、
独身、北原白秋。

憧れの美しい人妻と、
新進気鋭のハンサムな詩人。

恋に堕ちないわけがない。

けれど俊子の夫から、姦通罪で告訴され、
逮捕されてしまう。

輝く文壇から、
暗い牢屋の中へ、まっさかさま。

あとで示談が成立し、
二人は正式に結婚することになるが、
事件後の白秋は半狂乱になり、死まで考えたという。

 雨は降る降る 城ヶ島の礒に

白秋作詞の『城ヶ島の雨』は、
俊子との新生活を
三浦半島の三崎でおくっていたころのもの。

雨のなかで、
失意と希望が混じり合う。

白秋の心情が浮かぶ。



北原白秋 6

 君と見て
 一期の別れする時も
 ダリアは紅し
 ダリアは紅し

不倫スキャンダルの直後、
北原白秋は歌集『桐の花』で
再び評価をえる。

けれど、正式に結ばれた
松下俊子との結婚は長く続かなかった。

自分の情熱は
相手を破滅させてしまうものなのか。

いや自分のほうも
相手に疲れ果てていたのだった。

それは、相手にさめる
という破滅の1種。

もう、ダリアは紅くない。



北原白秋 7

二度失敗した北原白秋の
三度目の正直。

その相手が、
佐藤菊子だった。

童謡『ゆりかごのうた』は、
二人の間に生まれてくる
わが子を思って
作ったとされる。

数々の童謡の傑作をのこした白秋。

菊子夫人の温かい人柄や
2人のこどもに恵まれたことが
動機ともいわれている。



北原白秋 8

青より白。
春より秋。

北原青春より、北原白秋。

白秋とは、
青春の逆の方位、逆の境地を
意味するといわれる。

ものすごく早熟な中学生は、
青春まっただ中で、
自分のペンネームとして
白秋とつけたのだった。

そして晩年に、
青春前の
童謡をたくさん書いた白秋。

五十七歳という若さで亡くなったが、
最期の言葉は、

「ああ素晴らしい」

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佐藤理人 11年6月25日放送



タツィオ・ヌヴォラーリ① Who is Nuvolari?

ドリフト走行の発明者にして、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリに、

 「史上最高のレーシングドライバー」

と言わしめた男、タツィオ・ジョルジオ・ヌヴォラーリ。

彼は1892年イタリアのマントヴァで生まれた。
162cmと小柄ながらその勇猛果敢なレーススタイルから
人は彼を生まれ故郷にちなんで「天翔るマントヴァ人」、
または

「悪魔と契約した男」

と呼んだ。

ヌヴォラーリがフェラーリにもたらした32勝という勝ち星は、
いまだ誰にも破られていない。



タツィオ・ヌヴォラーリ② 1924年 エンツォとのドリフト

ヌヴォラーリのドライビングは独特だった。
頭をハンドルに近付け肘を動かしながら操縦する姿は、

 速いが品がない

と評された。そんな彼の天性をいち早く見抜いたのが、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリだ。

1924年のある日、
エンツォはヌヴォラーリに助手席に乗せるよう頼んだ。

ピンチは早くも最初のコーナーで訪れた。
速すぎて曲がれない。このままでは土手に落ちてしまう。
エンツォが最悪の事態を覚悟した瞬間、
テールがなめらかに滑り向きが変わり、車は再びまっすぐ走りだした。

今で言う「ドリフト走行」だが、
当時そんな走り方をするドライバーは誰もいなかった。

驚いたエンツォがヌヴォラーリを見ると、
その横顔は汗一つかいていなかったという。



タツィオ・ヌヴォラーリ③ 1930年 ミッレミリア

イタリア全土を1000マイルに渡って走破する伝説のレース「ミッレミリア」。

1930年、ヌヴォラーリはこのレースにアルファロメオチームとして参戦した。
しかしチームメイトには宿敵アキーレ・バルツィがいた。

資産家の息子、端正なルックス、几帳面で安定したドライビング。
自分とは全てが正反対なバルツィにヌヴォラーリはライバル心を燃やした。

レースは折り返し地点でバルツィがトップ。
チームの勝利を優先した監督はペースを抑え完走を目指すよう
ヌヴォラーリに指示を出す。
しかしそんな指示を素直に受け入れるヌヴォラーリではない。
タイムも完走も関係ない。彼の頭にはバルツィに勝つことしかなかった。

最終区、ついにバルツィを視界にとらえたヌヴォラーリは
スピードを上げ間隔を詰める。それに気づきペースを上げるバルツィ。
猛スピードで闇夜を切り裂いていく二台のヘッドライト。

その時突然、バックミラーからヌヴォラーリのヘッドライトが消えた。
戸惑うバルツィ。後ろを振り返っても何も見えず、
排気音も自分の車の音でかき消され聴こえない。
しめた、ヌヴォラーリのマシントラブルだ!
バルツィが油断してペースを落とした隙に、
その横をヘッドライトを消した車が鮮やかに走り抜けた。

バルツィが気づいた時にはすでに手遅れだった。
彼の眼に映るのは再びヘッドライトを灯して
道路を煌々と照らしてゴールするヌヴォラーリの後ろ姿だった。



タツィオ・ヌヴォラーリ④ 1935年 ドイツグランプリ

1935年ドイツグランプリ。
会場のニュルブルクリンクは40万人の観客で埋め尽くされていた。

世界で最も長く、最も過酷なこのサーキットで優勝することは、
すなわち自国の工業技術の優位を全世界に誇示することである。
そう考えたドイツは膨大な資金を投入、モンスターマシンを開発してきた。

対するイタリアチームは技術力では全く歯が立たず、
マシンの能力差は歴然で、ドイツ勢の優勝を疑う者は一人もいなかった。

レースは終止メルセデスベンツがリード。
それでもヌヴォラーリはアクセルを踏み続け、
神業のようなドリフトを駆使し、全身全霊でハンドルを握り続けた。

残り1周の時点でついに2位にまで浮上するも、
1位のメルセデスのブラウチスチとはまだ30秒もの差があった。

猛烈に追い上げるヌヴォラーリ。必死で逃げるブラウチスチ。
ところが最終コーナー直前、無理なペースアップが災いし、
ブラウチスチのタイヤが破裂。
コーナーから先に飛び出しフィニッシュラインを越えたのは、
ヌヴォラーリの深紅のアルファロメオだった。

マシンを降りたヌヴォラーリは、

 イタリア国旗を買って来い!

と叫んだ。自国の勝利を確信していたドイツは、
国旗はおろか、
イタリア国歌のレコードすら用意していなかったのだ。

その日流れたイタリア国歌は
自らの勝利を信じ続けたヌヴォラーリが持参した
レコードによるものだった。



タツィオ・ヌヴォラーリ⑤ 1936年 ヴァンダービルトカップ

アメリカ最古の国際レース「ヴァンダービルトカップ」。
この1936年の参戦にあたりヌヴォラーリは迷っていた。
最愛の息子ジョルジュが長期入院中だったのだ。
悩んだ末彼は

これまでに無い大きな 優勝カップを持って帰ってくるよ

と旅立った。

結果、彼は2位に大差をつけて優勝を果たす。
優勝カップは体が丸ごと入るほど大きかったと言う。

翌年再び参戦の依頼を受けたが、ジョルジュの病は更に重くなっていた。
しかし父親が誰よりもレースを愛していることを知っている息子は、

 勝ってきて

と懇願。その最後の頼みを叶えるため
ヌヴォラーリはニューヨーク行きの船に乗る。

渡米後のある晩、食事中に小さな紙が差し出された。
ジョルジュが息を引き取ったとの連絡だった。



タツィオ・ヌヴォラーリ⑥ 1950年 最後のレース

ある日イタリアの自動車ライター、
ジョヴァンニ・カネストリーニがヌヴォラーリにこんなことを尋ねた。

君はいつレースから引退するつもりなんだい?

するとヌヴォラーリは怒って答えた。

俺がレースをやめるよりも、君がレースの記事を書かなくなる方が先さ

事実、彼は現代でも信じられない年齢で現役を続けていた。
1948年には56歳でフェラーリチームに起用、
1950年にはシシリーで行われたヒルクライムレースでクラス優勝を飾る。

しかしこの時すでに病が彼の体を蝕んでいた。

 どんな車でも意のままに操った私が、自分の体をコントロールできないとはな

激しい咳の発作や吐血に襲われ、
このレースを最後にヌヴォラーリが二度とコースを走ることはなかった。



タツィオ・ヌヴォラーリ⑦ 1953年 ベッドの上で

不世出の天才レーサータツィオ・ヌヴォラーリは、
1953年8月11日、自宅のベッドの上で

 ユニフォーム姿で埋めてくれ

と妻に言い残し息を引き取った。

「TN」のイニシャルの入った黄色いシャツと淡い青色のズボン、
襟には縁起をかついでつけていた亀のブローチ。

その裏には友人の詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオから贈られた

 忠実な機械の力を極限まで駆使し、
勝利への道に横たわる死の陰に最後までその生命を与えぬ者

というメッセージが彫られていた。
また墓碑には牧師が新約聖書から引用した

 天国にあっても汝は速く走らん

の文字が彫られた。
文字通り人生を駆け抜けたヌヴォラーリらしいひと言であった。

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