坂本仁 11年4月10日放送
新たなスタートをきった新社会人のキミへ。
大工さんは、住む人をしあわせにしたいと思っている。
エンジニアは、使う人の毎日をゆたかにしたいと思っている。
警察官は、みんなを守りたいと思っている。
営業マンは、お客さんを笑顔にしたいと思っている。
レバノン出身の詩人、ハリール・ジブラーンは言う。
仕事とは、
「愛」を目に見えるかたちに表現することである。
と。
新たなスタートをきった新社会人のキミへ。
春は出会いの季節だけど、別れの季節でもある。
生活リズムが変わり、仕事が忙しくなって、
恋人と別れてしまう人もいるでしょう。
でもそんなときは、次の言葉を思いだしてください。
仕事頑張ったから損、なんてことないからね。
必ず、次の恋愛に生きてくるから。
安野モヨコは漫画「働きマン」の中でそう書く。
人を磨くのは、仕事なのかもしれない。
新たなスタートをきった新社会人のキミへ。
ひとたび映画制作がはじまると、
朝9時に出社して朝の5時まで黙々と仕事をする。
食事はアルミのお弁当箱にいれてきた白米といくつかのおかず。
それを半分づつ、昼と夜に食べる。
国民的アニメーション作家・宮崎駿はそんなストイックなワークスタイルを、
数十年もつづけている。
風の谷のナウシカ、隣のトトロ、崖の上のポニョなどの名作は、
そうした努力の上で生まれてきた。
宮崎駿は言う。
才能とは、情熱を持続させる能力のこと。
だと。
生まれながらにして、スゴイことを成し遂げる運命の人なんて
きっといない。
情熱を持続させられるかいなかが、明暗をわける。
そんなことを、いつも思いながら働いていってほしい。
新たなスタートをきった新社会人のキミへ。
仕事に愛情を持てれば、仕事には魂が入る。
魂が入るから人の心を動かせる仕事になる。
パッチギなどで知られる映画監督・井筒和幸はそう語る。
彼が人の心を動かせる映画をつくれる秘訣は、
どうやら、仕事への愛情にあるようだ。
キミはこれから、どんな仕事で、人の心を動かしていきますか?
佐藤理人 11年4月9日放送
19世紀の最も有名な女優であり、
世界最初のスター、サラ・ベルナール。
女性の脆さを巧みに表現した彼女の声は「黄金の声」と称され、
レストランのメニューを朗読しただけで観客を感涙させた、
という伝説があるほどだ。
サラは希代の美声を武器に、喜劇から古典悲劇まで幅広く活躍し、
まだマスメディアが発達していなかった時代にもかかわらず、
アメリカでも熱狂的に迎えられた。
そんなサラが初めてニューヨークに行ったときのこと。
彼女にインタビューした新聞記者が、
「この前、ブラジルの皇帝が来た時もこれほどの大歓迎ではありませんでした」
と告げたとき、サラはこともなげにこう言った。
だってあちらはただの皇帝でしょ?
ドラマティックな歌唱法で
ディーヴァ「女神」とまで呼ばれたソプラノ歌手、マリア・カラスは
無名時代から自分の歌に不遜なほどの自信を抱いていた。
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の
専属歌手オーディションに落ちたときも、
いつかきっとメトロポリタンの方からひざまずいて
私に歌ってくれと言う日がくるでしょう。
と言い放ったほどだ。
世界一のプリマドンナとして名声を博してからは、
公演を勝手にキャンセルする、記者をひっぱたくなどの行動が、
しばしばスキャンダラスに取り上げられた。
彼女の歌声は世界中で愛されたが
彼女の言動は愛されたとは言えなかった。
それでもマリアは平気だった。
歌いさえすれば、誰だって私のことを好きになってくれるわ。
マリア・カラスにとって
自分の性格など、才能の前では大した問題ではなかった。
グラミー賞を3度受賞し、
ビルボードで26週連続1位の歴代最長記録を持つ、
4人組のミクスチャーバンド、ブラック・アイド・ピーズ。
紅一点のヴォーカリスト「ファーギー」は、
いまや女優やファッションアイコンとしても大活躍だが、
ブラック・アイド・ピーズと出会ったときは
ドラッグ中毒から立ち直ったばかり。
一文無しで仕事をさがしている状態だった。
しかし彼女の加入後、バンドは次々とヒットを飛ばし、
大ブレイクを果たす。
後に7歳の頃からの夢だったソロアルバムを出したとき、
彼女はリリース記念パーティで他の3人のメンバーに、
感謝の言葉を述べた。
私を信じてくれてありがとう。
郊外に住んでるただの女の子から何かを見つけてくれて、
理解してくれて、本当にありがとう。
どんな才能にも、運と縁と理解者が必要だ。
赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」に登場する、
「シェー!」で有名な「イヤミ」というキャラクターのモデルは
コメディアンのトニー・谷。
レディース・アンド・ジェントルメン!
アンドおとっつぁん、おっかさん。
グッドモーニング、おこんにちわ。
グッドイブニング、おこんばんわ。
そろばんを楽器のようにかきならし、
「トニングリッシュ」と呼ばれる妙な英単語を混ぜた独特の言葉で、
世の中に毒を吐きまくった。
攻撃の矛先は共演者だろうと客だろうとおかまいなし。
ステージだけでなく、楽屋や普段の生活でも嫌われ者を演じ続けた。
彼は、敗戦ですべての価値観が崩壊した当時の社会を象徴する存在だった。
その異端の芸は人気を博したが、あくまでもキワモノ扱いで、
どう受け止めていいのかわからない人も多かった。
そんなある日、事件が起こった。長男が誘拐されたのだ。
営利目的であったが、犯人は犯行の動機を
「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語った。
谷はテレビで犯人に息子を返すよう涙ながらに訴えた。
最愛の息子の無事をただ無心で祈る父親の姿だった。
長男は無事救出されてから
トニー・谷が世間に毒を吐くことは二度となかった。
サスペンスとスリル。
「ハラハラドキドキ」を意味する、
この2つの言葉の違いをご存じだろうか。
サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックはこう考える。
乗るべき汽車の時間に間に合うかどうかと必死に駅に駆けつける。
これが、サスペンス。
フォームに駆け上がり、発車間際のその列車のステップにしがみつく。
これが、スリル。
なんと見事な答だろう。でも、それにはこんな続きがある。
ああよかったと一安心して座席に落ち着き、
ふと考え直してみると、
これは自分の乗るはずの列車ではなかった、と悟る。
その一瞬が、ショック。
さすが巨匠。見る人を「ドキドキ」させるだけでなく、
「衝撃」の結末までぬかりなく用意しているとは。
バンジージャンプとスポーツカーの違いを尋ねられたら、
あなたは何と答えるだろう。
ドイツの自動車メーカーBMWの、
レース用車両を開発する「M」社の社長、
カイ・セグラーの考えはこうだ。
バンジージャンプなんて、退屈な遊びだよ。
そこには飛び降りるスリルはあっても、自分で操る楽しみはない。
でもスポーツカーには、真のスリルと、それを克服する歓びがある。
若い人たちのスポーツカーへの情熱にもう一度火をつけたい。
そう語るセグラーは今年56歳。
これまでに出版した本は100冊を超える人気漫画家、
西原理恵子は高知県の小さな漁村で生まれた。
最初の父はアルコール依存症で、彼女が生まれた直後に離婚。
二人目の父は、ギャンブルで多額の借金をつくり自殺。
貧しくギリギリの生活に疲れた母と
窓ガラスが割れた戦場のような家を見て彼女は思った。
男に頼るとロクなことがない。
自分で稼ぐ。そう決意した彼女は、
大学3年の時にはすでに連載漫画をスタートさせた。
貧しさへの恐怖から寝る間もなく働き続けた。
ある日、そんな彼女にも転機が訪れた。恋をしたのだ。
仕事で知り合った戦場カメラマンと、32歳のとき結婚。
しかしその夫もまた、
世界の過酷な現実を見つめ続けるストレスから、
重度のアルコール依存症に陥り、苦しんでいた。
結局、離婚はしたけれど
一度好きになった人を嫌うのは難しいと献身的に介護を続け、
回復の兆しが見えて復縁を果たしたその時、
夫はなんと癌のためこの世を去ってしまった。
しかし西原理恵子は
生まれ変わってもまた同じ人生がいいと言う。
誰かに幸せにしてもらえたらうれしいだろうけど、
でもそれって退屈でしょう。
いろいろあったけど、いろいろあるから人生楽しいんだから。
蛭田瑞穂 11年4月3日放送
俳優マーロン・ブランド。
1953年、29歳で出演した映画『乱暴者』で
暴走族のリーダーを演じ、
一躍若者たちのカリスマ的存在となる。
その不良的な演技はジェームズ・ディーンにも
大きな影響を与えたという。
その後、『波止場』『ゴッドファーザー』で
2度のアカデミー主演男優賞を受賞し、
戦後のハリウッドを代表する俳優となった
マーロン・ブランド。
彼は1924年の今日、
ネブラスカ州オハマに生まれた。
フランシス・コッポラの代表作『ゴッドファーザー』。
1972年にアメリカで公開されると、
当時の興行収入記録を塗り替える大ヒットになった。
人気を受けて、74年に続編『ゴッドファーザー・パートII』が公開。
この映画も大ヒットし、前作に引き続き
アカデミー作品賞を受賞した。
アカデミー賞の長い歴史の中で、
1作目と2作目が続けて作品賞を受賞した例は
『ゴッドファーザー』をおいて他にはない。
『ゴッドファーザー』。
それはフランシス・コッポラが
映画史に立てた不滅の金字塔である。
映画『ゴッドファーザー』の原作者マリオ・プーゾは
主人公のドン・コルレオーネを
ぜひマーロン・ブランドに演じてほしいと思っていた。
プーゾは意を決し、その思いを手紙にする。
「あつかましいことは承知しておりますが、
あなたはこの役を演じられる唯一の俳優だと思います」
プーゾの手紙に心を動かされたブランドは
自分がイメージするドン・コルレオーネをビデオで撮影し、
監督のフランシス・コッポラに送った。
そのビデオの中で彼は口に綿を詰めて頬を膨らませ、
貫禄のあるマフィアのドンという役づくりをした。
当初、別の俳優を主役に考えていたコッポラだったが、
このビデオを見てマーロン・ブランドの起用を決めた。
男たちの思いがつながって生まれた『ゴッドファーザー』。
映画はアカデミー作品賞に輝き、
マーロン・ブランドは主演男優賞に選ばれた。
1972年、マーロン・ブランドは
『ゴッドファーザー』で演じた
ビトー・コルレオーネ役で、
アカデミー主演男優賞を受賞する。
1974年、ロバート・デ・ニーロは
『ゴッドファーザー・パートII』で演じた
ビトー・コルレオーネ役で、
アカデミー助演男優賞を受賞する。
これは、ふたりの俳優が同じ人物を演じ、
それぞれがアカデミー賞を受賞した唯一の例。
マフィアのドンと、ドンにのしあがる青年。
マーロン・ブランドとロバート・デ・ニーロは、
それぞれの役を見事に演じきった。
セリフを覚えてこない。
すぐに女優に手を出す。
撮影スタッフに怒鳴り散らす。
そんな撮影現場での態度から
トラブルメーカーの悪評もあるマーロン・ブランド。
だが一方で彼には、生涯に渡って人種差別と闘う
人道主義者としての側面もある。
マーティン・ルーサー・キングが導いた歴史的なデモ
「ワシントン行進」に参加し、
人種差別撤廃を訴えたこともある。
『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞に選ばれた際には、
ハリウッド映画におけるネイティブアメリカンの
差別的な描かれ方に異議を唱え、受賞を拒否した。
あらゆる面で型破りな俳優、マーロン・ブランド。
こんな男はもう2度とあらわれない。
フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』。
ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』。
フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』。
数々の映画音楽を手がけ、
その哀愁に満ちた旋律で映画ファンを魅了した
イタリア人作曲家ニーノ・ロータ。
フランシス・コッポラに請われ、
『ゴッドファーザー』全3作の音楽も担当した。
主題曲『愛のテーマ』は、
映画音楽の代名詞ともいえる名曲。
ニーノ・ロータ。
その名は永遠に映画史に刻まれる。
2005年、ニューヨークの
クリスティーズで行われたオークションで、
マーロン・ブランドが所有していた
『ゴッドファーザー』の台本が31万2千800ドルで落札された。
日本円にして約3000万円。
それは映画の台本につけられた史上最高の額。
俳優マーロン・ブランドと映画『ゴッドファーザー』。
その人気は不滅である。
映画『ゴッドファーザー』3部作の主人公、
マイケル・コルレオーネ。
マフィアのドン、ビトー・コルレオーネの
三男として生まれた彼は、
無口でインテリ風の青年であったが、
ファミリーを守るために激しい抗争をくぐり抜け、
やがてドンにのしあがる。
映画でこの役を演じたのはアル・パチーノ。
当時、彼はまだ無名の役者だった。
映画会社は起用に反対したが、
監督フランシス・コッポラは譲らず彼を抜擢する。
アル・パチーノのその後の活躍は誰もが知るところ。
『ゴッドファーザー』の成功により、
俳優アル・パチーノもまた、
映画界の頂点にのしあがったのである。
佐藤延夫 11年4月2日放送
1901年、ひとりの少年が手にしたのは、
浅草の露店で見つけた
おもちゃのボックスカメラだった。
当然のように少年はその魅力に取り憑かれ、
写真を撮ることが生業となる。
カメラはコンパクトで粋なものがいい。
その理由でライカを選んだのは
写真家、木村伊兵衛(きむらいへい)。
粋なもんです。
オツなもんですよ。
写真という魔法を手に入れた少年は、
こんな口癖を携え、
洒脱な写真家になっていた。
画家を目指していたひとりの少年は、
あるとき才能の限界を見た。
また、これからも続くであろう貧しさへの不安を感じた。
そして選んだ写真家という職業は、
土門拳という男の場合、万策尽きたあとの道でもあった。
だからこんな言葉が残されている。
写真というものを全然知らないし、
なんの興味もなかった。
人生なんて思い通りに行くものではない。
だけど思い通りに行かないほうが
案外うまくいったりするものだ。
この世には、生き方の器用な人がいる。
本当は苦労をしているんだろうけど
そんな素振りは微塵も見せない。
人懐っこい笑顔で
酒を飲み、冗談を言い、
純粋に人生を楽しんでいる。
それが写真家、木村伊兵衛という人物。
実際に、木村の写真は軽やかだ。
ひょいと行って、パチリと撮ってくるだけなのに、
今にも動き出しそうな写真が浮かび上がった。
その人が歩いてた街の様子とかなんとかいうことが
一緒に溶けこんで来なきゃいけないと思うんですよ
そんな難しいことを簡単にやってのけるには、
いったい何年修業すればいいんだろう。
昭和初期に使われていたアンゴーというカメラは、
重いうえに面倒な代物だ。
それに照明係と呼吸を合わせて撮影しなければならない。
目測を計るのが難しく、
ピントを合わせるのも一苦労で、
一流の新聞カメラマンしか扱えない、と言われていた。
当時、素人だった土門拳は、
このカメラを使ってスナップ写真の練習をした。
重いカメラで腕を鍛え、
構図がブレないように
撮影の一連の動作を毎日千回続けたという。
アマチュアカメラマンのように、
楽しみながら巧くなっていくのではない。
それは生きる術として残された一本道だった。
土門拳はこんな言葉を残している。
ぼくの場合は、いわば最初からプロだったのである。
そのころ、彼の部屋には
「打倒木村伊兵衛」と書かれた紙が貼ってあった。
ストイックという言葉は土門のためにある、と思う。
昭和を代表する写真家、
木村伊兵衛と、土門拳。
ふたりは、その生き方も、
写真に対する考え方でさえも、対称的だった。
軽々と写真を撮ってくる木村と、
丹念に下調べをする土門。
写真の中に真実を求めた木村と
社会的なリアリズムを求めた土門。
情緒か、思想か、ヒューマニティか。
独自の価値観を突き詰める土門に対し、
「銀座は月夜ばかりじゃねえぞ」と木村は吠えた。
ふたりの写真をじっと眺めると、
その息遣いまで聞こえてきそうだ。
1941年のある日、
写真家、土門拳は
画家の梅原龍三郎を撮影することになった。
念入りにピントを合わせていると、
梅原はしびれを切らし、苛立ち始めた。
そして立ち上がるやいなや、
座っていた籐の椅子を持ち上げ
アトリエに叩きつけたという。
それでも土門は、写真を撮り続けた。
背筋が寒くなるような無言の闘いは、どちらが勝ったのか。
写真家、木村伊兵衛が晩年に撮った一枚の写真。
自宅の部屋でフォーカスを合わせたのは、
11時23分を示す時計だった。
なぜ時計を撮ったのか。
それは彼の人生を表しているのか、
ただの自由人らしい遊び心なのか、
その瞬間が意味するものは、誰にもわからない。
一方、土門拳は
もう撮るに足る人間はいない、花を撮りたい
と語っていたそうだ。
周りからは、鬼の土門が仏に変わった、と噂された。
ふたりの人生は唯一の共通点、カメラを軸にして
正反対の方向に広がっていった。
遺品となったカメラが、それぞれの生き様を伝えている。
木村のライカは、まるで新品のように新しく
土門のニコンは、幾多の修羅場をくぐったあとのように
傷だらけだったという。
カメラを体の一部のように使いこなした木村。
カメラは道具にすぎない、と豪語した土門。
どちらが正しいか、なんてナンセンス。
ふたりの写真には、ふたりの心が宿っている。
名雪祐平 11年3月27日放送
フランソワーズ・サガンは、
孤独というものは、
平等に訪れる。
という。
優雅な人にも、優しい人にも、
恐ろしい人でも、鬼のような冷たい人にも、
孤独は、平等に訪れる、と。
その孤独と向き合うのは、
たったひとりの自分。
だから、その自分だけは
けっして裏切らないように、と。
『愛と同じくらい孤独』
というサガンの本のタイトルのように、
孤独と同じように、
愛も、平等に、今夜世界中に訪れますように。
石橋涼子 11年3月27日放送
勉強が苦手だった少女は、
働けば学校に行かなくていいと考え
児童劇団に入ることにした。
これが、吉永小百合・松原智恵子とともに
日活三人娘と呼ばれた女優、和泉雅子のはじまりだ。
歌も演技も下手だったが、
顔がきれいだからという理由で採用され、そして売れた。
人気がでると今度は自由がなくなった。
どこへ行くのにも母親か付き人が着いてくる。
20代になってもデートをしたこともなければ、
女友だちと会うことすら難しかった。
あるときテレビ番組のレポーターとして南極に行き、
大自然の広大さと自由の魅力にとりつかれた。
初めて自ら何かを望み、成し遂げたいと思ったのが、
北極点到達だった。
女性冒険家・和泉雅子が生まれた瞬間だった。
日本人女性初の北極点到達を成し遂げ、
今も毎年のように北極への旅を続けている。
マイナス40度の寒さに耐えるために脂肪を蓄えている彼女の容貌は
女優時代とはだいぶ異なるが、
和泉雅子はいつも笑顔でこう語る。
昔はキレイだったと言う人もいるけれど、
私は今の方がいい顔をしていると思うの。
熊埜御堂由香 11年3月27日放送
寒いです。とても寒いです・・・
その冒険家は、よく泣き。よく弱音をはいた。
登山家・栗城史多(くりきのぶかず)。
登山をはじめたきっかけは、失恋だった。
高卒でフリーターの栗城から彼女は去った。
彼女が求めていたのは、「大卒、公務員、車持ち」そんな男だった。
彼女の気持ちがわからなかった。そのショックから、
彼女の趣味だった登山をはじめる。
そのとき20歳。寒いし、辛いし最初は冬山が嫌いだった。
けれど、1週間ほどかけて冬山を先輩と登ったとき。
その背中を泣きそうな思いで追いながら
不可能を超えていく自分に
気づいた。
それから栗城は小型カメラを背負い
インターネット中継しながらエベレストなど世界の山々に挑みはじめた。
そこにいる栗城は、冒険家というより、ひとりの素直な若者だった。
多く同世代がリアルタイムで応援の言葉を返した。
栗城は言う。
悔しかったら悔しがるし、泣いて弱音を吐いてもいい。
それが頑張る力になるから。
地図のない時代。
ミクロネシアの人々は星の位置を頼りに
数千キロの海を渡った。
その航海術の後継者、マウ・ピアイルグ。
勇猛という名をもつこの老人に憧れ、
ある日本人が、突然会いにきた。
冒険家の石川直樹。
当時21歳の石川にマウは星を覚えろと言った。
そして一緒に海へでた。
4日の予定だった航海は6日を過ぎ、飲み水はつきた。
それでもマウは動じない。
星を見つめ、波や風を全身で受け止めながら指示を下した。
そして9日目、波の向こうに島が見えた。
マウは別れ際に石川に言った。
心の中に星が見えるか?
心のなかに星が見えたら
自分の位置を見失うことはない。
それは冒険家にとっていちばん大切な教養かもしれない。
三國菜恵 11年03月27日放送
弟子だった人も、
ひとり歩きをしなければならない時がくる。
現代短歌の歌人・山本かね子は心細かった。
師匠、植松壽樹(うえまつ・ひさき)がこの世を去ってから
アドバイスしてくれる人が
いなくなってしまったから。
でも、彼女は思いだすことができた。
困ったときに先生から言われる、いつものことばを。
自分の歌は見えにくいものです。
毎日眺めていてもなかなか良くならない。
そこで、四、五日見ずに置くこと。
師匠のことばを一生の宝に
弟子は今日も、確かな一歩を踏み出していく。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の
モデルになったといわれる人物がいる。
彼の名前は、斎藤宗次郎。
『非戦論』をとなえた内村鑑三の愛弟子にあたる青年だ。
雨にも負けず、風にも負けず
毎日新聞配達をつづける彼のポケットには
いつもすこしの小銭とお菓子が用意されていて
それを、行く先々でこどもたちに与えていた。
師匠が晩年、床に伏した時も
必要な薬を駆けまわって探し、
最後まで看病の手を休めることはなかった。
そんな斎藤を弟子に持った内村は、
彼の人柄について、こんな言葉をのこしている。
彼の澄める眼眸(ひとみ)に我等は無量の平和を読めり
八木田杏子 11年03月26日放送
「エリーゼのために」という曲は、もともと
「テレーゼのために」だったという説がある。
エリーゼとは誰かについてはいろいろ取り沙汰されているが
ベートーベンの主治医の姪である
テレーゼ・マルファッティという説が有力だ。
ベートーベンは40歳のときに
18歳のテレーゼに結婚を申し込んでいるし
なによりその楽譜を所持していたのが
テレーゼ・マリファッティなのだから。
ではなぜ、テレーゼがエリーゼに?
悪筆で名高いベートーベンが書いた作品のタイトルは
ドイツで筆跡鑑定をしてみた結果
エリーゼともテレーゼとも読めるそうなのだ。
ベートーベンは悪筆に屈することなく
女性に手紙を送り、曲をささげている。
ところで、ベートーベンの生涯にはもうひとりのテレーゼがいる。
こちらは伯爵令嬢のテレーゼ・フォン・ブルンスウィク。
美しく才気にあふれ多くの人々を魅了したといわれる女性だ。
こちらのテレーゼに捧げられた曲は
「ピアノソナタ24番 テレーゼ 作品78」というタイトルで
幸いに名前も読み間違えられずにテレーゼのままだ。
のびやかでエレガントなその曲は女性が弾くのにふさわしいが
少女たちの人気はエリーゼに傾いている。
ひとりぼっちにならないために、
ケータイを握りしめる、
孤独にならないようにしても、
ふと一人になったときに、不安はこみあげてくる。
劇作家の鴻上尚史は、
孤独と向き合う方法を教えてくれる。
人間は、一人でいるときに成長するのです。
一人は少しも悪くない。恥ずかしくない。みじめじゃない。
一人になりたいと思って一人でいることは、
とても快適なことだ
とあなたは、胸を張って、自分自身に言えばいいのです。
そう思うことで、
無理に話を合わせて愛想笑いをしなくなり、
30人に一人の本当の味方に出会えると、鴻上は語る。
明日は日曜日。
携帯電話を忘れて、
一人でふらっと出かけてみませんか。
60歳を越えてから、
ピアニストとして活躍のときを迎えたフジ子・ヘミング。
天才少女と呼ばれ、
日本で脚光を浴びていた彼女は
留学のときに国籍がないことが発覚。
その後、難民としてベルリンに留学し
優秀な成績をおさめたが
最大のチャンスを前にして聴覚を失ってしまう。
突然中断されてしまった演奏家としてのキャリア。
しかしフジ子はあきらめなかった。
働きながら耳の治療をつづけ
ピアノ教師の資格を得た後は、
ピアノを教えながら演奏活動を再会するようにもなった。
一流演奏家への道は
二度と開かれることはないはずだった。
しかし、1999年
フジ子・ヘミング67歳のときにチャンスがやってきた。
数年前に日本に戻っていた彼女のドキュメントが
テレビ番組として放送されたのだ。
その番組のなかでフジ子・ヘミングはピアノを弾いた。
その姿にも音にも
フジ子・ヘミングの人生がにじんでおり
それ見て涙した多くの人がフジ子のファンになった。
中村直史 11年03月26日放送
「裸の島」「午後の遺言状」など、
世界に誇る作品を送り出してきた
映画監督、新藤兼人(しんどうかねと)。
彼には、師と仰ぐひとりの映画監督がいた。
その名は溝口健二。
巨匠と呼ばれるその映画監督の人となりを描きだそうと、
新藤は関係者にインタビューを重ね、それを一本の映画にする。
映画に入りきらない分は、一冊の本となった。
タイトルは「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」。
女優やカメラマンなど
親交の深かった36人の証言から
浮かび上がる溝口健二像は、一言では言い表せない。
崇拝され、恐れられ、親しまれ、嫌われ、喜ばれた。
そんな、一言では言い表せない人だったからこそ、
型にはまった、安易な人間の描き方を決してよしとはしなかった。
溝口はこんな言葉を残している。
悲しくて滑稽で、それでほほえましくて、しかもそれでいて
どこか腹だたしい話を、その人間を通してまるごと描くんだ。
そうして撮られた溝口のフィルムに、
若き日の新藤兼人が見たものは、
「映画」ではなく
「真実としかいえないもの」だった。