熊埜御堂由香 11年02月20日放送


あの人の詩 谷川俊太郎と佐野洋子

谷川俊太郎の詩に
画家・佐野洋子が絵をつけた詩集「女に」。
その詩集はふたりが結婚した翌年に出版された。

その中の一節、
 もう何も欲しいとは思わないのに
 まだあなたが欲しい。

詩とはパーソナルな芸術だ。
この美しい詩集はそう教えてくれる。


あの人の詩

詩人、小池昌代(こいけまさよ)の代表詩集。
ババ、バサラ、サラバ

20篇ほどの詩がおさめられているが、
最後までその言葉の意味は明かされない。

読者すべてが抱くであろう
ババ、バサラ、サラバって何?という
問いの答えだろうか。
小池はこう言う。

 現代詩を書いていると唇が寒くなる。
 濁った音はあたたかい。
 唇の破裂と爆発を、そこに生じる摩擦熱を
 寒いわたしは求めていた。

ババ、バサラ、サラバ。
口だしてみると、不思議な呪文のように
ちょっと切ない、じわっと心が熱をもつ。
そんな感覚になるのはなぜだろう。

「意味」を伝えることを超えて
詩人、小池昌代は言葉と格闘する。

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佐藤理人 11年02月19日放送


ジョージ・マロリー

1923年のある日のこと。
人類初のエベレスト登頂が期待されるイギリスの登山家
ジョージ・マロリーに、ニューヨークタイムズの記者が尋ねた。

「あなたはなぜエベレストに登るのか?」

彼は答えた。

 Because it is there

そこに山があるからさ。

その翌年、マロリーは
エベレストの頂上をめざしたまま帰らぬ人となったが
Because it is there
この言葉は後につづく登山家の気持ちを代弁する言葉となった。

エベレスト初登頂の記録は
1953年のエドモンド・ヒラリーだが
ジョージ・マロリーも実は登頂に成功したと考える人は多い。


リンカーン

小学校は中退した。借金は15年かけて返済した。
妻には毎日文句を言われ、選挙に出れば4回も落選した。

いまならダメな奴のレッテルを貼られそうな人物が
アメリカの大統領になった。

彼の名は、エイブラハム・リンカーン。

 私は人の奴隷になりたくない。
 また奴隷の主人になりたいとも思わない。
 これが民主主義に対する私の考え方である。

「人民の、人民による、人民のための政治」で知られるゲティスバーグの演説や
「奴隷解放宣言」に貫かれる自由と平等、
何よりも人間に対する温かな目線は、
彼自身、毎日を生きることに必死な平凡なひとりの人間であることを、
誰よりも自覚していたからこそ生まれたのではないだろうか。

ちなみにアメリカで最も尊敬されている大統領は、
いつ調査しても、答えは決まって「リンカーン」だそうだ。


クサンティッペ

哲学者ソクラテスは結婚についてこう言った。

結婚はした方がいい。
良い妻を得れば幸せになるし、
悪い妻を得ても哲学者になれる。

「ソクラテスの妻」と言えば現在では悪妻の代名詞だが、
その妻クサンティッペは世界三大悪妻の一人に数えられている。

またソクラテスはすぐにカッとなっては夫を罵り、
時として暴力も奮う妻についてこんな言葉も残している。

あの女に耐えられれば、
誰にでも耐えられる。

しかし、妻の立場からすると哲学者ほど始末の悪いものはなかった。
定職にもつかず、毎日若い者を集めてはタダで講義をする。
まともな収入もない中で彼女は3人の子どもを懸命に育てた。

やがてソクラテスが無実の罪で死刑を宣告され
謝れば罰金で済む程度の話なのに、
自分を裁く者こそ間違いだと言い張ったあげく、
すんなり刑を受け入れてしまった。

この知らせを聞いたクサンティッペは、怒鳴りも罵りもせず、
ただソクラテスを思って泣いた。


スティーブン・キングとその母

「スタンドバイミー」「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」
などのベストセラーで知られる作家、スティーブン・キング。
モダンホラーの第一人者であり、作品の多くが映画化される人気作家の彼も、
小さい頃はSFやホラーの好きな普通の子どもだった。

ある日、お気に入りの漫画を描き写した彼のノートを見て、
母親のネリーがこう言った。

 「自分で書きなさい、スティーヴィー。
『コンバット・ケーシー』 の漫画なんてつまらないわ。
ケーシーはいつも乱暴をして人を 痛い目に遭わせるばかりでしょう。
もっと面白いことがあるはずよ。自分で書きなさい」

この言葉をきっかけに、彼は自らの創作を始める。
しかしその道は決して楽なものではなかった。

子供の頃は食べていくので精一杯な生活。
大学を卒業してからも妻と生まれたばかりの二人の赤ん坊を養うために、
昼は高校の英語教師、夜はクリーニング店でアルバイトをした。

それでも彼は書きつづけた。27歳のとき、
超能力を持つ少女が自分をいじめたクラスメイトを皆殺しにする
ホラー小説「キャリー」でついにデビューを果たす。

後に彼は成功の秘訣についてこう語る。

 才能は食卓塩より安い。才能ある人と成功者の差は、努力の量だ。


ゲーリー・マルカ

1970年9月13日。29歳の消防士ゲーリー・マルカは
15時間の夜勤明けだった。
しかしせっかくの日曜の朝。
妻と子供を連れてセントラルパークへ遊びに行った。

着くと、何やら騒がしい。そうか、今日はマラソンがあったっけ。
何を思ったか、マルカは出走15分前に参加を申し込んだ。

結果は堂々の1位。

今では4万人以上のランナーが参加する、
ニューヨークシティマラソンの
記念すべき初代チャンピオンは、なんと徹夜明けの消防士だったのだ。

マルカは70歳の今も現役のランナーで、
前回大会も3時間46分の好タイムで見事完走し

 3時間半を切る予定だったが、
 忙しくて調整が足りなくてね。

と涼しい顔でひと言述べている。


ヘンリー・フォード

20世紀初めのある日。
ひとりの男が食肉工場の前を通りかかった。
そこでは、作業員が上から吊るされてスライドしてくる肉を
自分の分担する部分だけ切り取っていた。

これだ、と男はひらめいた。

その男は、自分の自動車工場に
このベルトコンベア式流れ作業を取り入れた。
組立て作業の分業化によって、製造スピードは500倍にあがり、
一台作るのにたった93分しかかからなくなった。

その男はフォードモーターの創始者、ヘンリー・フォードだった。
フォード社の「T型フォード」は、
他社の車が1000ドルの時代に290ドルまで値段を下げ、
車を裕福な人の贅沢品から、一家に一台の庶民の足に変えた

フォードはこんなことを言う。

 できると思えばできるし、できないと思えばできない。
 どちらにせよ、君は正しい。


和田智(わださとし)

かつてアウディには、一人の日本人デザイナーがいた。
彼の名は、和田智。
37歳のとき、日産からアウディに移籍した。

和田はある日、上司に呼ばれた。
上司の名はワルター・デ・シルバ。
アルファロメオのデザイナーとして
数々の名車を世に送り出したイタリアの鬼才である。

シルバは思わぬことを語り始めた。
子どもの頃に見たミラノの街の景色。
その中に美しく溶け込む60年代の名車たち。
その光景にいかに自分が胸をときめかせたか。

和田はやがて、話の核心に気づき始めた。

自分たちがデザインしているのは単なる車ではない。
ヨーロッパのエレガンスや文化を創造しているんだ。
そのバトンをいま彼は日本人である自分に託そうとしている。

シルバの想いを完全に理解したとき、もう和田は迷わなかった。
彼がデザインした「A5クーペ」は、「プロダクトデザインのオスカー」と呼ばれる
ドイツ連邦デザイン賞の2010年度のゴールドメダルに輝いた。

いま、彼は確信を持ってこう言う。

 デザインとは、過去と今、そして未来をつなぐこと。

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古居利康 11年02月13日放送


浜松の男、本田宗一郎。

浜松の中心部から北へ25キロ、
天竜川をさかのぼった、
山あいの村に生まれた本田宗一郎。

1917年。11歳のとき、
町に飛行機がやってくる。
少年は、父の自転車に
無断でまたがって、
夢中でペダルを漕いだ。
飛行機見たさの一心だった。

こうして、本田宗一郎は、
自動車より先に飛行機を見た。


浜松の男、本田宗一郎。

浜松の男は、前のめりだ。
独立心。挑戦心。負けず嫌い。
やってみもせんで何がわかる。
という本田宗一郎の口癖を、
短く言い直せば、
やらまいか、という浜松弁になる。

京と江戸を結んできた東海道。
木曽の山から遠州灘に注ぐ天竜川。
陸の道は文化を伝え、
川の道は豊富な木材を運ぶ。
ふたつの道が交差するところに
浜松という町がある。

情報と物資が忙しく往来する
この町で、
本田宗一郎は大人になった。


浜松の男、山葉寅楠(やまはとらくす)。

ペリー来航の2年前。
紀州の武士の家に生まれた山葉寅楠が、
明治の世になって、日本で初めての
ピアノづくりに成功する。

山葉寅楠は、浜松の地で、
のちにヤマハとなる日本楽器を立ち上げる。
この町には、ピアノ製造に欠かせない
良質の木材が豊富に集まってくるからだ。

和歌山生まれのこの男を、
浜松は決して排除しなかった。
よそものをよそものと呼ばない、
おおらかに開かれた気風が、
この町の風通しを良くしている。

徳川幕府260年のあいだに、
浜松城主は24人を数える。
将軍が15人だから、この数は少なくない。
家康のもとの本拠地だったこともあって、
松平、水野、青山、井上、太田など、
三河以来の譜代大名が、かわるがわる着任し、
そのつど、家臣団も入れ替わった。
殿様の交代に慣れっこになった
町人百姓のなかに、
新参者に寛大なメンタリティが
根をおろしていったのか。

寅楠は、そういう町でピアノに出会った。


浜松の男、河合小市(かわいこいち)。

江戸時代からつづく
職人の家に生まれた河合小市は、
10歳にして、大人を驚かせるほどの
腕前だった。

山葉寅楠は
35歳年下のこの少年に
ピアノづくりの基礎をたたきこむ。
わずか半年で、
ピアノが1台、できあがる。
すばらしい音だった。

のちに河合楽器をつくる
河合小市は、
このとき、まだ12歳だった。


浜松の男、高柳健次郎。

1918年、この町に
浜松高等工業という学校が生まれる。
全国で13番目に創設された、
国立の高等工業学校だ。
校門も塀もない自由な校風と、
進取の精神に富んだユニークな授業で、
あまたの人材を世に送り出した。

浜松の男は、ときに、
独創的な機械をこしらえたり、
驚くような大発明をやってのける。
そのことと、この学校の存在は、
決して無関係ではない。

一時期、本田宗一郎も学んだこの学校に、
1924年、ひとりの若い教師が着任する。
高柳健次郎。浜松生まれ。
その2年後、世界で初めて、ブラウン管による
テレビ画像の受像に成功する。
映したのは、カタカナの「イ」の文字。
高柳は、1937年の時点で、
当時の世界最高水準の走査線441本
という本格テレビをすでに完成させていた。
戦争にその後の研究を阻まれた高柳の才能は
戦後、いっきに花開いていく。


浜松の男、古橋廣之進(ひろのしん)。

浜名湖のほとりにある、
雄踏町(ゆうとうちょう)で生まれた古橋廣之進は、
みずうみで泳ぎを覚えた。

「私は毎日、魚に負けるものか、と、
自分が魚になったつもりで泳ぎました」
と、少年時代を振り返っている。

1949年、
全米水泳選手権に遠征した古橋は、
1500メートル自由形で、
当時の世界記録を40秒近くも更新して
優勝する。

あまりの圧勝に驚いたアメリカは、
彼を「フジヤマのトビウオ」と呼んだ。


浜松の男、本田宗一郎。

「日本人はアメリカに負けて
すっかり自信をなくしている。
けれど古橋は裸一貫、がんばった。
オレも世界一になる!」

古橋廣之進の快挙に興奮し、
わがことのように喜んだのが、
本田宗一郎だった。


浜松の男、河島兄弟。

兄・喜好(きよし)は、
水泳の名門、旧制浜松二中で
古橋廣之進の一級上にいた。
浜松高等工業にすすみ、本田技研に入社。
1973年、2代目の社長になる。

その4年後、
ふたつ下の弟・博が日本楽器の社長になる。

戦争中、飛行機のプロペラ製造に
事業を広げていた日本楽器は、
戦後、二輪車の分野に進出していた。
博が社長になったとき、
ヤマハは、世界市場で、
ホンダを猛追する
ナンバーツーの位置にいた。

ホンダとヤマハの、
シェア争いが激しくなる。
世界をまたにかけた兄弟喧嘩だった。
浜松の男どうしの、
ヤケドするような戦いだった。

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小宮由美子 11年02月12日放送


お腹がすいてきた① 水上勉

幼い頃、京都の禅寺で暮らした作家・水上勉は、
精進料理の作り方を叩き込まれた。
食べ物を粗末に扱うことはゆるされない暮らし。
毎朝、畑と相談して、何もない台所から作れるものを絞り出した。

ある日、台所の隅に、ほうれん草の根っこの部分を
切り捨てたのを老師に見つかった。
叱られるでもなく、拾い集めた根を渡されて、水上少年は赤面する。

「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」
老師の言葉に、禅の教えが重なった。
ほうれん草の柔らかい葉も、固い根っこも、平等のいのち。
どっちを尊び、どっちをさげすむことがあってはならない。

後年、水上は『土を喰う日々』の中にこう書いている。

ぼくはそれ以来、今日にいたるまで、たとえば、料理屋や、
呑み屋などで、ほうれん草のひたしが出ると、根をさがすのだ。


お腹がすいてきた② 藤田嗣治

女優・高峰秀子が、
パリに暮らす画家・藤田嗣治を訪ねたときのこと。
長く祖国を離れている嗣治に、秀子は聴いた。

「日本の何が食べたいな、と思いますか?」

「根三つ葉、しその葉、みょうが、ふきのとう、
柚子に筆しょうがにくわいに納豆、…」

たちどころに十品ばかりを口にした嗣治のことを、
秀子はエッセイの中でこんなふうに言っている。

レオナルド・フジタなんて名前になって、すっかりフランス人に
なっちゃったけれど、藤田先生ほど「日本人」だった人はいない。


お腹がすいてきた③ 向田邦子

作家・向田邦子は料理を作るのが好きだった。
作った料理を食べてもらうことは、もっと好きだった。

よく家に人を招いてもてなした。
メニューの多くは、気取りのない「いつものおかず」。
不意の来訪にも、心づくしの品が並んだ。
たとえば、寒い夜に訪れた来客には熱いほうじ茶と、
冷蔵庫に作りおきしてあるさつまいものレモン煮を。
夕食を食べはぐれた若いディレクターには、
有り合わせを工夫したお腹の足しになるものを。

「善はいそげ。私はつくりたい料理をつくるとき、
原稿の締切が迫っていて、本当は料理に励むより
字を書かねばならないとき、自分にこう号令をかける」

そんな邦子だから、気づくと原稿用紙にお品書きなどを
連ねてみたり、作ってみたいレシピを書き留めたり。

いつ原稿が出来上がるのかと気を揉んだ人もいたろうが、
温かいもてなしに心満たされた人もまた、大勢いたことだろう。


お腹がすいてきた④ アーン・バックストロム

アルプスの山々に囲まれたスキーリゾート、シャモニー。
フリースキーヤーとして、輝かしいキャリアを築いていた
アーン・バックストロムは、
仲間とともにこのシャモニーの凍りついた岩山を自力で登り、
命の危険をはらんだ伝説的なラインに挑もうとしていた。

辿り着いた岩の峰から、アーンは遂に滑り出す。
烈しい斜面。延々と続く雪の急カーブ。
スピ―ドをあげ、ターンを刻みつづけるアーンの中に、やがて
「山が与えてくれる力強い感情」が生まれる。
「自分がどんなに些細な存在であるかを再確認」し、同時に
「自分の存在を強烈に」感じる瞬間。

この冒険について語ったエッセイ「重力にまかせて」を
締めくくるのは次の一文だ。

2,700メートルの標高を下り、着込んでいたレイヤーを
剥ぐように脱ぐと、Tシャツ姿でバーに行く。美しい春の午後、
ビールとエスプレッソがこれまでにないほど美味しく感じられた。


お腹がすいてきた⑤ ジョエル・ロブション

私の母は、夜の食事にもしばしばクレープを作ってくれました。
そして、ちょっとしたいたずらをして遊ぶのです。
母は、2枚のクレープの間に適当に糸を隠し入れておく。
すると、誰かがそれを間違って口に入れてしまう。口をもごもご
しないわけにはいかず、それを見て、皆で大笑いするのです

ジョエル・ロブションの幼いときのエピソード。
「地球上で最も有名な料理人」のひとりとうたわれる彼の<食の喜びは>、
慎ましくあたたかな家庭の食卓で、こんな風に培われた。


食のよろこび⑥ クロード・オスカール・モネ

画家・モネは、庭づくりを、そして、食べることを愛した。

理想の食卓を実現するため、
家族や料理人に、材料や調理法を厳しく指示し、
美味しいタルトを目当てに小旅行を企画することもあった。

「例のジロール茸のレシピを送ってもらえると嬉しいのですが。
 今ちょうどこのキノコがたくさん生えていて、
 私の中の食いしん坊が、あなたにレシピを聞けと催促するのです」

友人の家で気に入った料理と出会えば、モネは手紙で
作り方をたずね、6冊にも及ぶレシピノートを残した。

夕食はいつも19時半。
食事の時間を知らせる銅鑼(どら)が鳴らされると、
大家族でテーブルを囲んだ。
モネにとって、一日のうちの至福のひとときだったに違いない。


お腹がすいてきた⑦ 高峰秀子

早春の味の楽しみは、「蕗の薹(ふきのとう)」のホロ苦さに始まる。

とはじまる女優・高峰秀子のエッセイは、読んでいるだけで美味しそう。

ぐらぐらと煮え立つお湯に多めの塩をふり、蕗の薹を入れ、
サアーッと緑が冴えるのを見る。茹で上がったら水でさらして
こわれないようにそうっと絞る。あとは、酒とみりんと薄口醤油に
だし汁を加えて、ふんわりと煮るだけ。お椀に3個ほど盛って
食卓に置けば、さわやかな匂いの漂う春のお膳の出来上がり。

生きている内に、あと何回、蕗の薹に会えることかしら?
ふっと、そんなことを考えながら口に含むと、
ホロ苦さがいっそう身にしみるようだ。

秀子の言葉に、食と人とも、一期一会だということを気づかされる。

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坂本仁 11年02月06日放送


サルヴァトーレ・フェラガモ

世界有数のファッションブランドの創設者、
サルヴァトーレ・フェラガモ。

足を痛めない靴をつくるために大学で解剖学を学び、
その履き心地とデザイン性で多くのハリウッドスターのお気に入りになった。

彼は言う。

美しさに限界はない。
デザインに飽和点はない。
そして靴屋が製品を飾るために使う素材に終わりはない。

サルヴァトーレ・フェラガモ。
画期的な靴をつくるために歩みつづけた人だった。


アンドレ・マルロー

「人間の条件」で知られる作家アンドレ・マルロー。
彼は、机の上で文筆活動をするタイプの作家ではなかった。

スペイン内戦では、共和国派の義勇軍にパイロットとして参加。
第二次大戦ではレジスタンス運動に身を投じ、
その功績を認められ、レジスタンス勲章も受賞している。

危険を顧みず、自らが正しいと思うほうに進んだ人、マルローは言う。

勇気というやつは、生き物なんだ。
だから鉄砲の手入れをするのと同じ理屈で勇気も手入れをしなくてはならないんだ。

勇気はキープすべきもの。
そうマルローは教えてくれる。


ギー・ラリベルテ

カナダのケベックシティの路上でアコーディオンを弾いたり、
ファイアーパフォーマンスをしていた大道芸人は、
いつしか世界有数のエンターテインメント集団の代表になった。
その芸人の名はギー・ラリベルテ。
文化・芸術・アクロバットを融合し独自の芸術表現に高めた
シルクドソレイユをつくった人。

2009年ラリベルテは3500万ドルの費用をかけて
民間人の宇宙旅行者になった。
そのときのことを、
「エンターテイナーの自分にとって素晴らしいショーだった。
 アドレナリンが放出され大いに刺激になった」
と語っている。

多くの人の心を動かすのが得意なギー・ラリベルテは、
自分の心を動かすことにも積極的だ。

さらに国際宇宙ステーションに滞在中の彼の写真を見ると
ピエロの赤い鼻をつけている。
ラリベルテは世界初の宇宙ピエロになって
水資源の大切さを訴えるメッセージを地球に送ったが
そんなときでもみんなを喜ばせることを忘れてはいない。

家族とテレビ電話をしたときも
赤い鼻をつけ、家族を楽しませていた。


マーク・ザッカーバーグ

世界中で5億人が利用する、
ソーシャルネットワーキングシステムFacebookを作った
マーク・ザッカーバーグは現在26歳。

5年前、彼は当時のYAHOO!のCEOテリー・セメルから、
10億ドルでFacebookの事業を買収したいと申し込まれた
ザッカーバーグは次のように語り、その話を断ってしまう。

 値段じゃないんだ。これは僕の赤ん坊なのさ。
 ずっと面倒をみていきたいんだ。
 自分で育てたいんだ。

26歳の若者が育てているFacebookは
まだまだ大きくなりそうだ。


伊東一雄

野茂英雄よりも早くメジャーリーグへの道を切り拓いた人、伊東一雄。

パンチョ伊東の愛称で知られる彼は、
まだ日本人の海外渡航が制限されていた20代の頃から
単身アメリカに渡ってメジャーリーグの試合を観戦。
パリーグの広報部長になってからは
仕事の合間を縫ってはアメリカの球場をまわるのが
趣味だった。

独学で学んだ英語でメジャーリーグの事務局や球場に入り浸り、
ついにはマイナーリーグクラスの選手でも
「パンチョ」の名を知らない者はいないと言われるまでになった。

ちなみにパンチョという愛称は、
メジャーリーグの関係者が親しみを込めてつけたものだという。

パリーグを退職してからは
メジャーリーグの取材活動はいっそう活発になり
プロ野球ニュースではメジャーリーグの解説を受け持った。

メジャーリーグを愛したパンチョ伊藤は、
メジャーリーグに愛された人だった。

癌に倒れたその告別式は
男の涙が多い告別式だったと伝えられている。


今西錦司

動物の生態を研究することから出発して
独自の動物社会学や進化論を提唱した今西錦司。

「ワシは好きなことしかせん」が口癖で、
日本の霊長類学を世界最高レベルまで育て上げた人だった。

晩年、岐阜大学の学長に招かれた際、
今西はこんなことを言って、その依頼を引き受けた。

 そこに山があるから、私は岐阜大学に行くのである。

生態学も動物行動学も
要は自然とそこに棲む生き物と向き合うことだ。
登山家でもあった今西は岐阜の山々が好きだったらしい。


清水幾太郎

「私はあなたの意見に反対だ」より、
「違う考え方もあるよね」と言うほうが、
目の前にいる人の意見を変えることができる。

戦後を代表する社会学者の清水幾太郎は、
著書「論文の書き方」で次のように語る。

無闇に烈(はげ)しい言葉を用いると、
言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう。
言葉は相手の心の内部へ静かに入って、
入ってから爆発を遂げた方がよいのである。

彼の慎ましい言葉で書かれた数々の著作を読むと、
彼の言いたいことが心の内部に静かに入って伝わってくる。


小島秀夫

ピカソがゲルニカを描いたように、
そして、ジョンレノンがイマジンをつくったように、
小島秀夫はメタルギアソリッドをつくった。

反戦・反核のメッセージが込められたメタルギアソリッドシリーズは、
全世界で2700万本以上を売り上げた。
第3作のメタルギアソリッドはアメリカフォーチュン誌から
「20世紀最高のシナリオ」とまで賞賛されている。

ゲームデザイナー小島秀夫は言う。

ゲームは単なる暇つぶしの剣玉であってはならない。
消費したプレイ時間分の見返りが、
ユーザーの人生に還元されるモノが、
何かしら内包されていなければならない、と。

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佐藤延夫 11年02月05日放送


遠い春/石田波郷(いしだはきょう)

大正生まれの俳人、石田波郷は、
病室の窓から外を眺めていた。
昭和42年のことだ。
戦争で体を悪くしたあとは、
病気と付き合いながら数々の句を詠んだ。

   春雪三日 祭の如く 過ぎにけり
   (しゅんせつみっか まつりのごとく すぎにけり)

関東地方では、真冬よりも春先に雪が降る。
水分を多く含んだ牡丹雪で、
地面に触れた途端、はかなく消えてしまう。
残るのは、祭りのあとのような寂しさだけで。

立春を過ぎても、春はまだ遠い。


遠い春/宇佐美魚目(ぎょもく)

岐阜の郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、
長良川と吉田川、小駄良川(こだらがわ)の
3つの川に挟まれた小さな城下町だ。

ここには宗祇水(そうぎすい)という湧水の名所があり、
全国名水百選の第一番に選ばれている。

大正生まれの俳人、宇佐美魚目は
父を亡くしたあと郡上八幡を訪れ、六つの句を詠んだ。

   なお寒く 水菜浮きをり 宗祇(そうぎ)の井

奥美濃の早春。
水と風、心の中も、まだ寒々としている。


遠い春/加藤楸邨(しゅうそん)

長生殿(ちょうせいでん)、福徳、いがら饅頭というのは
金沢の代表的な和菓子であり、
明治時代の俳人、加藤楸邨もこの菓子を愛した。

母の故郷、金沢に住み始めたのは16歳のとき。
雪の降りしきる中、母が食べさせてくれた
いがら饅頭の味は、生涯忘れなかったそうだ。

   いがら饅頭 黄なり雪ふる 母の国
   (いがらまんじゅう きなりゆきふる ははのくに)

楸邨が詠む金沢の冬は、包まれるように深く優しい。


遠い春/松本たかし

愛知県の蒲郡は、文人たちに愛された土地だ。
高浜虚子も志賀直哉も、
穏やかな三河の海が好きだった。

明治生まれの俳人、松本たかしは
立春を過ぎたばかりのある日、
宿泊したホテルの庭で小さな発見をした。

   暖房の 外の日向の 梅早し

ぽかぽかした陽射しの中、
もう梅の花が咲いている。

三河湾にぽつんと浮かぶ竹島と
遠くにかすむ知多半島、渥美半島を眺めたら、
また言葉が生まれてきた。

   夕霞む 桃色の海 紺の島

色とりどりの風景に染まる蒲郡には、
ひと足早い春がやってくるのかもしれない。


遠い春/臼田亜浪(うすだあろう)

漂泊の旅人と呼ばれる俳人、臼田亜浪。
自然とのやりとりの中で
独自の世界をつくりあげた。

信州小諸に生まれた亜浪は
折に触れ故郷に戻り、句を詠んだ。

  雪散るや 千曲の川音(かわと) 立ち来たり

目を閉じると、木々に積もった雪が崩れ、
千曲川の流れが耳に飛び込んでくる。
それが幼き日の思い出の音だった。

あなたの故郷の音は、何ですか?


遠い春/飯田龍太

俳人、飯田蛇笏の四男として生まれた飯田龍太は、
父親のように俳句の世界に入った。
父親のように山梨を愛し、
ふるさとの情景を言葉にした。

  雪の日暮れは いくたびも読む 文(ふみ)のごとし

いとおしい時間は、
しんしんと降る雪のように
ゆっくりと流れていく。


遠い春/秋元不死男(ふじお)

伊豆の風景。

山葵田(わさびだ)の清らかな水。
青く光る滝壷。
つづら折りの峠道。

そしてシダ植物のひとつ、ハイコモチシダは
別名ジョウレンシダとも呼ばれ、
本州では伊豆、浄蓮の滝付近で自生が確認されている。

明治生まれの俳人、秋元不死男は
この場所がたいそう気に入ったようで
何度も訪れ、多くの句を残している。

これは昭和49年2月11日の作。

   葛折の 東風の峠に 影日向
   (つづらおりの こちのとうげに かげひなた)

秋元不死男は語る。
俳句とは、ものに執着し、もので終わる、沈黙の文芸である。

そのとおり、早春の伊豆天城には、ものたちの優しい光が溢れている。

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名雪祐平 11年01月30日放送


長谷川町子1

14歳の少女が、
飴をしゃぶりながら寝ころがって、
つぶやいた。

田河水泡の弟子になりたいな。

漫画のらくろで
当時、日本一人気だった大漫画家の
弟子になりたい、と
ぽろっと言っただけ。

すると、母がすぐこう言ったのだ。

それはいい。早速頼みに行きなさい。

未来を変える一言だった。

やがてサザエさんを描く少女、
長谷川町子が、
夢をつかむまで、あとすこし。


長谷川町子2

のらくろで有名な漫画家、
田河水泡は編集者に言った。

うちには女の子の弟子がいるよ。
珍しいでしょう。

そう聞いて
興味が湧かない編集者はいない。

少女の名前は、長谷川町子。
わずか15歳で、
雑誌・少女倶楽部に『狸のお面』
でデビューする。

漫画家人生が順調に
はじまった。

けれど、
どんなに才能があっても、
紙が不足しては描けない。

戦争が激しくなっていた。
サザエさん誕生は、戦争のあと。


長谷川町子3

サザエさんのふるさと。
それは福岡県百道(ももち)の海。

戦争で疎開した漫画家、長谷川町子が
よく散歩したことから、
海にちなんだ名前ばかりの
サザエさんのアイデアは生まれたという。

それから新聞の四コマ漫画を28年。
ほぼ休まなかった。

長谷川は、いつもこう言っていた。

漫画は面白くなくては駄目なのよ。

このあたり前のような言葉は、
マンネリに陥らないための
自分への戒めだったのかもしれない。

サザエさんは、戦わない。
宇宙を飛ばない。
お城に住まない。

それでも1回1回
シャキッと見事に終わらせる。

長谷川が胃を壊しながら、
格闘して描き続けたのは、
ごくごく普通の主婦が主人公という
画期的漫画だった。

その主婦が、
戦後日本を代表する大ヒロインになったのだ。


長谷川町子4

サザエさんで国民的人気を得た
漫画家、長谷川町子。

健全な漫画。
ヒューマニズム…。

そんな作風に自分で飽きてしまい、
まったく違うヒロイン像を
考えつく。

それが『いじわるばあさん』。

いじわるを漫画にするのは、
いたずらを考えるようなもの、
かもしれない。

だから、毒があっても、辛辣でも、
いじわるばあさんは、
人々の気持ちをとらえ、ヒットした。


長谷川町子5

1920年の今日、1月30日。
漫画家、長谷川町子は生まれた。

終戦直後、
26歳で『サザエさん』を発表。

以来、新聞連載で、単行本で、テレビで
ずっと愛され続けている希有な漫画である。

60年間以上、サザエさんは28歳のまま。
でも、作者は歳をとる。

生涯独身だった長谷川は、
70歳になって姉と3つ約束する。

 どんな病気にかかっても入院しない

 手術は受けない

 葬儀・告別式はしない
 また死後、納骨が済むまでは公にしない。

もう、覚悟があったのかもしれない。
1992年、長谷川は72歳で永眠し、
約束通り、納骨式の翌日まで
その死は公表されることはなかった。

人見知りな、最期だった。

人見知りなど縁のなさそうな、
サザエさんが
今週もテレビで笑っている。


田河水泡1

ちょっと間抜けで、ユーモラス。

田河水泡の漫画『のらくろ』シリーズは、
戦前に大人気になった。

主人公、のらくろは、日本軍の二等兵。

天涯孤独の野良犬が、
軍隊で失敗ばかりしながら、成長していく物語。

しかし。

犬の分際で、兵士とは何事か!

とうとう軍部の圧力がかかり、
連載中止へ追い込まれた。

娯楽作品であり、また
戦争の風刺などとんでもない時代に
生まれた意義深い作品だった。

一人の漫画家の勇気が
そこにあった。


田河水泡2

『のらくろ』シリーズの漫画家、
田河水泡には、多くの弟子があつまってきた。

でも実は田河先生は、教えない先生だった。
だから、大きく育ったのかもしれない。

『サザエさん』の長谷川町子。
『あんみつ姫』の倉金章介。
『猿飛佐助』の杉浦茂。

弟子たちはいつも、こう言われていた。

漫画はね、
人の言うことを聞いたりしちゃだめだよ。
強烈に自分の個性を発揮しなくちゃ。
下手でもいいんですよ。
人まねはいけない。

昨今、何でも教わりたがる
風潮にいる現代人には
耳が痛いお言葉。


漫画家の墓

思わず、微笑みたくなるお墓がある。

漫画家たちのお墓がそう。

田河水泡のお墓には、
のらくろが笑って寄り添っている。

藤子・F・不二夫のお墓にも
ドラえもんがいる。
四次元ポケットに名刺を入れられる。

石ノ森章太郎のお墓には、
サイボーグ009や仮面ライダーが
オールカラーでりりしい。

さすが、漫画家。
亡くなっても、キャラクターの墓守が
サービス精神を発揮している。

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岡安徹 11年01月29日放送


千葉すず

天才と呼ばれたスイマー。千葉すず。
中学記録、高校記録を塗り替えた。
大きな期待を背負いオリンピックに出場するも、
メダルに手は届かなかった。

バッシングにさらされ、1度は引退。
しかし、3年後に現役復帰し、日本選手権で優勝した。

「がんばる」という言葉は、
私はあまり好きではありませんでしたが、
結局、振り返ってみれば、
がんばりっぱなしでした。

もがいた分だけ、進んできた。
天才と努力家は、結局ほとんど区別がつかないのだ。


弁護士 大平光代

弁護士 大平光代の一生は、波瀾万丈。
少女時代はいじめをうけ、割腹を図る。
一命は取り留めるも非行にはしり、
16歳で極道の妻となる。

そんな人生を一転させたのは、
後の養父となる男性のコトバだった。

あんたが道を踏み外したのは、
あんただけのせいやないと思う。
親も周囲も悪かったろう。
でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、
あんたのせいやで。甘えるな!

この出会いを転機に、猛勉強の末
難関の司法試験に1回で合格した。

人生に迷ったら、本気で叱ってくれる人に会いに行こう。


北林谷栄

「メイちゃ~ん」。
映画『となりのトトロ』で迷子になったメイを捜す声。
これぞ日本のおばあちゃん、というその声を担当したのが、
北林谷栄。

30代という若さで
老婆役を数多くこなした名女優。
その役づくりは徹底していた。

生活感がしみこんだ服が必要と思えば、
案山子の服を買いとる。
老婆の表情に真実味が必要と思えば、
健康な歯を抜き、入れ歯にして顔と声を変えた。

女優という人生を、演じきった。
その心意気は若々しく、老いなかったのだろう。

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岡安徹 11年01月29日放送


水木しげるの妻/武良布枝

ゲゲゲの女房こと、
漫画家水木しげるの妻、武良布枝さん。

ふたりは見合いの席で出会い、5日で結婚。
売れない漫画家だった水木さんとの暮らしは、
食べものの心配と質屋通いが日課だった。

土手の野草をつんで食卓に並べたこともあれば、
ペンを握りアシスタントをこなしたこともあった。
お金はいつもなかったけれど、
夫の才能を疑ったことはいちどもなかった。

水木さんのとなりに布枝さんがいなかったら、
鬼太郎も悪魔くんも生まれていなかった。
というのも十分ありえるお話。

漫画を描くのが才能なら、
その才能を開花させるのもまた才能。

水木さんは言う。

家内は「生まれてきたから生きている」ような人間です。

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宮田知明 11年01月29日放送


オノ・ヨーコ

人の何倍もの、困難な経験をしながらも、
強い女性として生きてきた人、オノヨーコ。

気丈に見える彼女だが、
本人が自分自身を分析しているとおり、
人には想像もつかないような弱いところがある。

その一端を垣間見せた、
近年のジョンレノン スーパーライブでの、
大勢の人の前で泣きながら語った、彼女の言葉。

彼は私にたくさんアイラブユーを言ってくれた。
私ももっとたくさん言えばよかった。

そこには、アーティストでも、シンガーでも、
フェミニストでもない、
1人の男性を愛する、だた1人の女性がいた。

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