岡安徹 11年01月29日放送
戦後の大ヒット曲『リンゴの唄』。
世の中をパァっと明るくした、と言われる
この曲も、レコーディングは決して
明るく楽しいものではなかったらしい。
歌い手並木路子は、終戦時
身内を失い、悲しみの底にいたからだ。
そこでスタッフがかけたコトバがある。
「君ひとりが不幸じゃないんだよ。」
並木は、ひととき悲しみを忘れて、歌った。
その唄はやがて日本中の悲しみをどこかへやってしまった。
暗い時こそ、小さな明かりが目立つのだ。
渋谷三紀 11年01月29日放送
文筆家、そして岡本太郎の母、岡本かの子。
彼女は、恋多き女性、そして恋深き女性。
若い頃のかけ落ちに始まり、
夫と恋人とが同じ屋根の下で
生活した時期もあったという。
人一倍傷つきやすく
誤解もされやすかったが
相手と真正面から向き合う生き方を
曲げようとはしなかった。
人間は悟るのが目的ではない。
生きるのです。
人間は動物ですから。
その言葉通り、本能のまま生きる
かの子の子として生まれたことは、
太郎にとって大きな幸運だったに違いない。
だって、子どもも子どもの感受性も、
母親に産み落とされ、育まれるものだから。
八木田杏子 11年01月23日放送
シューマンの妻、クララ・シューマンは
少女のころから天才ピアニストとして知られていた。
クララのプロデビューは1828年、9歳のときで
モーツァルトのピアノコンチェルトのソリストをつとめ
人気を博した。
そんなクララの家に
父の弟子としてシューマンが住むようになったのは
1830年のことだった。
20歳の大学生と11歳の天才ピアニストは
兄と妹のように仲が良かった。
その出会いが逃れられない運命の出会いだと
ふたりが気づくまでに、まだ数年の余裕がある。
クララの父の弟子としてやってきた
20歳のシューマンは、焦っていた。
大学を辞めて本格的にピアノを学び始めた彼は、
指の訓練のための練習曲を弾かされていた。
となりでピアノを奏でる11歳のクララは、
ソロコンサートのための曲を弾いていた。
やがてシューマンは、
演奏よりも作曲にのめりこんでいく。
1年ほど作曲理論を学んでから
書き上げた作品は出版され、独創的と言われた。
ピアニストとしては
シューマンが足元にもおよばなかったクララが、
彼の音楽に夢中になる。
彼女は自作の曲をシューマンに捧げて、
書き直してほしいとねだった。
シューマンの旋律に導かれて、
クララの初恋がはじまる。
婚約から3年。
シューマンとクララの結婚は長い道のりだった。
クララの父親が、結婚に反対したのだ。
すでにピアニストとして一世を風靡していた
クララのキャリアが
結婚によって終わってしまう。
父の心配にクララの気持ちは揺れる。
シューマンは辛抱強く待ちつづけ
愛を伝える手紙を書き送った。
父はシューマンをあきらめないクララを責めた。
やがて…
19歳になったクララは、父親の助けを借りずに、
パリの演奏旅行へ出発する。
独りぼっちの不安と負担で、不眠と頭痛に苦しんだけれど
ピアノの音色は澄み切っていた。
父親に見捨てられても自分の足で立てる。
その自信が、クララを自由にする。
1840年、やっとシューマンと結婚をしたクララは
次々と子供を生み育てながらヨーロッパをめぐって
演奏活動をつづけた。
忙しかった。
その忙しさはクララ自身の日記にも記されている。
それでも妻になる幸せは、クララの想像を超えていた。
この幸福を知らない人たちを、
わたしはどんなに気の毒に思うことか。
それでは半分しか生きていないと同じではないか。
ピアニストとして名を馳せ、
作曲家としても後世に名を残し
シューマンの妻であり、
大勢の子供たちの母だったクララの
忙しく幸せな日々をを喜びたい。
シューマンが亡くなったとき、
未亡人になったクララと残された家庭を支えたのは
ヨハネス・ブラームスだった。
家族の一員のようになっていたブラームスに
クララは夫の楽譜や蔵書を自由に使わせた。
ブラームスはクララを尊敬し
作品ができあがるとまずクララに見せるのを習慣にした。
クララはブラームスの楽譜を、心待ちにしていた。
彼の音楽を誰よりも深く愛し、
美しく奏でられることを誇りにしていた。
音楽家としても人間としても
ふたりは支えあいながら、年を重ねていく。
クララが70歳までピアニストでいられたのも、
ブラームスが60歳を超えても作曲を続けたのも、
ふたりの親密な友情があったから。
60歳になったブラームスは、
「ピアノのための6つの小品」を作曲して、
74歳のクララに捧げた。
叙情的でおだやかな
長い友情にふさわしい曲である。
クララ・シューマンは、
100マルク紙幣の顔になっている。
彼女は、夫であるロベルト・シューマンが入院したときも
病院で息をひきとったときも
友人からの援助はすべて断り、苦境に立ち向かった。
ピアニストとして演奏活動をつづけながら
シューマンの作品を世に出すことにつとめ
シューマン全集の編纂にもあたった。
ピアノを弾いていると、
過度の苦しみを背負ったわたしの心が、
まるでほんとうに大声で泣いたあとのように、
軽くなるのです。
ドイツはクララ・シューマンの生涯をたたえて
その肖像を100マルク紙幣に残した。
20歳のヨハネス・ブラームスは、
自分の作品とシューマンの曲は似ていると感じた。
ためらいがちに自宅を訪ねていくと、
ブラームスの曲を、まずシューマンが絶賛し
その妻クララも、若き才能に惚れこんだ。
シューマンは華々しくブラームスを紹介し
それがきっかけになって
やがてベートーベンの後継者とまでいわれるブラームスの
大作曲家への道がはじまる。
若いみずみずしい感受性は、
シューマン夫妻の刺激になっただろうけれど
ブラームスがシューマン夫妻に被った恩もまた大きい。
シューマン夫妻は、
伝えきれない想いを、交換日記につづった。
ピアニストである妻のクララと共に
ロシアの演奏旅行に出かけたとき、
シューマンは発熱やめまいに苦しんでいた。
一方クララは演奏会の拍手を一身に受け、
華やかな貴族の夜会に出かけていく。
シューマンは何も言わずに、ひとこと日記に書いた。
この苦痛とクララの行動にはもう我慢ができない。
それを読んだ彼女も書いた。
わたしはしばしば、あなたを怒らせていたようだ。
ただわたしの至らなさと鈍感のせいだ。
シューマンが忙しくなったときは
クララが寂しさを日記にぶつけた。
そのとき夫は、妻への愛を書きしるした。
やわらかく傷つきやすい心は
口に出す言葉より日記の文字をラクに受け入れるのだろうか。
小宮由美子 11年01月22日放送
4回にわたってイギリスの首相をつとめたグラッドストン。
彼は、責任の重みに押し潰されそうなとき、
次の3つの気晴らしの方法のうちのどれかを実行した。
大きな木を斧で切り倒すか。
ロンドンの町を歩き回って売春婦と話をするか。
本の整理をするか。
中でも本の整理は、お気に入りだった。
彼はいつも大量に本を買い、その本を本棚におさめる作業に没頭した。
「心から本を愛するものは、命あるかぎり
本を家へおさめる作業を人まかせにはしないだろう」
グラッドストンの遺作となったエッセイのタイトルは
『本とその収納』。1898年、彼が世を去った直後に出版された。
明治の末から、大正、昭和のはじめにかけて活躍した
寄席芸人、一柳齋柳一。
九代目團十郎に似た、苦み走った渋い男前。
偉い人間がキライで、筋っぽい若手の噺家をかわいがった。
彼は皿回しの名人だったが、非凡な記憶力に恵まれ、
ときおり寄席で記憶術を演じ、拍手喝采を浴びた。
本が好きで博学、楽屋では「先生」と呼ばれていた柳一。
しかし意外にも、柳一は蔵書というものを持たなかった。
一度読むと、内容のことごとくを覚えてしまったから、だという。
かつて本は、人の手によって
何年もかけて書き写されることで作られた。
そのため非常に高価で、購入には一財産が必要だった。
「本を盗むべからず」
持ち主たちが、蔵書に有名な呪いの言葉を書き留め
泥棒よけとしたのも、無理のないことだった。
やがて印刷技術が生まれ、図書館が全盛期を迎えると
本に添えられる言葉も変わった。
ヴィリバルト・ピルクハイマーのコレクションの
蔵書票には、次のような言葉を見つけることができる。
<私および友人たちに>
文学という宝物を公開し、みなで分かち合うという思想は、
イタリアから始まり、やがて世界に広まっていく。
少年が、美しく彩られた中世の彩飾写本のとりこになったのは
15歳のときだった。
「手持ちの小遣いは5ポンドあります。彩飾写本を売ってください」と、彼はロンドンの古書店に片っ端から手紙を出したが、返ってくるのは
当然のことながら、そっけない、ないしは慇懃なお断り。
その中で、ただひとりの古書店主が、長い手紙を少年に送った。
「5ポンドでは何ほどのことも出来ないが、がっかりすることはない」
古書店主が同封してくれたカタログのコピーは、
少年の写本への興味と憧れを掻き立てるには十分なものだった。
この古書店主は、アラン・トマス。
世界中に顧客を持ち、自分の好みに徹したコレクションを
残したことでも知られる深い学識の持ち主。
そして少年は、クリストファ・ド・ハーメル。
のちのロンドンのオークション会社、サザビーズの
中世写本部門の責任者となる人物である。
本という存在は、人を楽しませ、人をとりこにし、
そして、人を正す。
江戸時代を生きた儒学者、中井履軒(なかいりけん)は
晩年、視力を失ってからも、
常に論語をひらき、机の上に置いていた。
不思議に思った人がその訳を尋ねたところ、
たとえ目が見えなくとも、聖なる教典が置かれてあると思えば、
自ずから心がひきしまるからだ、と履軒は答えたという。
知人の珍しい苗字を拝借して「太宰治」。
エドガー・アラン・ポーにあやかって「江戸川乱歩」。
極めつけは、
目をつぶって電話帳を開き、
鉛筆で突いたら里見とあったので、「里見弴」。
後世に名を残す作家たちのペンネームの付け方は軽妙で
遊び心が効いている。
小説を書いてみたいと思って、なかなか筆をとれないときは
ペンネームから考えてみるのはどうだろう。
分身のもつ筆のほうが、なめらかに滑り出すかもしれない。
17世紀、ロンドンで本屋を営んでいた男、
ジョン・ダントン。
幸せな結婚生活を送っていたが、その期間はあまりにも短かった。
妻が若くしてこの世を去ってしまったのだ。
だが、ダントンは半年後には再婚。
心変わりの早さをこんなふうに表現した。
「ただ人を代えたというだけなのだ。
それで我が家における女性の徳の質に変わりがあったわけではない。
二人目の妻は、最初の妻のいわば増補改訂版であり、
新装版であるとも言えようか」
ユーモアがあるというのか、正直すぎるというのか。
意見が分かれるところではある。
小山佳奈 11年01月16日放送
「今日、ママンが死んだ。」
有名な一節から始まるカミュの「異邦人」は
あるひとつの友情から生まれた。
カミュの友人、パスカル・ピア。
彼はこの原稿を一目でほれこみ
ありとあらゆる伝手を使って
出版社に売り込んだ。
フランスでダメなら
アメリカまで持っていった。
なぜこの無名な作家に
そこまで力を入れるのか。
ピアはこう答えた。
「僕は彼が大好きです」
その一言で、十分だった。
貧しい家庭に育ち
将来は親戚の肉屋を継ぐはずだった
作家、アルベール・カミュ。
彼のただならぬ文才を見いだしたのは
小学校のジェルマン先生だった。
彼はカミュに文学の素晴らしさを教え、
根気づよく家族を説得し続けた。
それから30数年後の
ノーベル文学賞の受賞式で
壇上に立ったカミュのスピーチ。
「受賞の知らせを聞いて私は
母のこと、それから、
ジェルマン先生のことを思いました。
いまでも私は先生に感謝する
小さな生徒です。」
私たちも先生に感謝しなければならない。
今こうしてカミュの作品を読むことができるのだから。
読み聞かせ、
という言葉がもてはやされているけれど。
20世紀初頭のアルジェリアの
貧しい家庭に生まれた少年には
読んでもらう本もなかった。
戦後史上最年少でノーベル賞を受賞した、
アルベール・カミュ。
彼の母は文字も読めず耳も聞こえない。
父は一歳のときに戦死していない。
身の周りには生活するのに最低限のものしかなく
本棚なんて学校に入るまで見たことがなかった。
それでもカミュは
作家になろうとし、成功をつかんだ。
「意志もまたひとつの孤独である」
カミュのこの言葉に漂う悲しみは
彼の描く人間の悲しみでもある。
作家、アルベール・カミュは、
おそらく文学史上もっとも
自信のない作家だった。
44歳という若さでノーベル賞を取りながら
死ぬまで自分の才能に自信が持てなかったカミュ。
俳優に転向しようと考えたり、
スター女優を愛人にして
なんとか箔をつけようとしたり。
「もう書けなくなりました」と
友人に泣きながら手紙を送ったり。
「書けなければ、私はせいぜい面白い傍観者だったにすぎない。
書ければ、私は本当のクリエーターだったということだ。」
彼ほどの作家が自信を持てないとしたら
わたしたちはどうすればいいんだろう。
作家、アルベール・カミュ。
彼はとにかく苦労人だ。
家が貧しかった彼は、
働きながら小説を書き続けた。
その職業も多岐にわたる。
自動車部品のセールスマンから
船舶仲買人、公務員、はては測候所員まで。
あるときの勤め先は、新聞社だった。
新聞社といっても
彼の担当は、割付けや校正といった
いわゆる技術職。
最後までその文才を職場の人に
見せることはなかった。
それから数年のち、
「異邦人」でカミュの名前が世間に知れ渡ったとき、
新聞社の人たちはみな腰を抜かした。
「あの影の薄い校正係が。」
人を驚かせることが
小説のあるひとつの役割だとしたら
カミュはまさにしてやったりだったろう。
不条理をテーマにした「異邦人」で
戦後最年少でノーベル賞をとった
アルベール・カミュ。
彼はどんなにか才能はあったかもしれないが、
女性の眼から見ると問題は多い。
愛人が何人もいるのは当たり前。
ずっと好きだったフランシーヌが、
ようやくプロポーズを受けてくれたそばから
結婚なんて人生の終わりだと別の女性に泣きつく。
口癖は「君なしでは生きていけない」。
わかってはいるのに
好きにならずにいられない。
彼の気持ちは
彼の小説以上に
不条理だ。
いまから51年前の1月。
作家、カミュは、
あっけなく死んだ。
友人が運転するクーペが
130キロで走行中にタイヤがパンクして
道路脇のプラタナスに激突。
助手席にいたと思われるカミュは即死だった。
死期を悟っていたのだろうか、
亡くなる直前
字の読めない母親に
手紙を送っている。
「あなたがその心と同じように
若く、美しくありますように。」
読めない手紙を
母親は死ぬまで
大切に持ち続けた。
作家、アルベール・カミュが亡くなって
50年後の2009年。
フランスのサルコジ大統領が
カミュのお墓をパリのパンテオンに
移すと言い出した。
パンテオンといえば
国家の英雄が眠る場所。
これに、フランス国民は激怒。
死ぬまで反体制を貫いたカミュを
政府の人気取りのために利用するなんて。
国中が感情的になる中
スピーケルという一人の研究者が
こう言った。
「私が口をはさめることではありません。
けれども彼ならば
冷たい大理石よりも
あたたかな日差しに包まれた
故郷のラベンダー畑を好むでしょう。」
そしてカミュは無事
故郷のルールマランに
眠りつづけている。
石橋涼子 11年01月15日放送
先日、86歳で息を引き取った女優 高峰秀子は
5歳で天才子役としてデビューしてからずっと
日本映画界の黄金期を支え続けた。
その輝かしい経歴に比べて私生活には恵まれず、
子役として売れると、親戚中から収入を頼られ続け
学校にも満足に通うことができなかった。
30歳になるまで引き算ができず、
辞書の使い方も知らなかったという。
そんな彼女が書くエッセイは瑞々しく潔い文章で、
文豪・谷崎潤一郎が驚いたというほどだった。
どう書くのかと問われると、本人は軽やかに
文章というよりも、恥をかくつもりで書いたの。
と答えるのだった。
熊埜御堂由香 11年01月15日放送
日本人離れした顔立ちで、神秘の女優といわれた原節子。
大女優まで登りつめながら、43歳で静かに引退する。
もっとも信頼した監督、小津安二郎の葬儀以降、
ふっつり公の場から身を引いてしまったのだ。
復帰を願う署名活動や、鎌倉の実家に
押し掛けるマスコミにも沈黙を続けた。
原節子は言った。
生まれつき欲が少ない性格なんです。
好きなものを順に言えば、まず読書、次が泣くこと、
その次がビール、それから怠けること。
彼女は、誰かの人生を演じることよりも
自分の暮らしを味わうことに
人生の後半を捧げたのだ。
21歳の女優の卵に、与えられた芸名は、
菅井きんだった。
おばあさんみたい・・・と思いつつ、
尊敬する演出家の前ではイヤだと言えなかった。
女優、菅井きんの初舞台はトメという農家の娘役。それ以降も
地味な役が続いた。
芸名のせいだわ。そう思っていた。
そして数十年。
年齢とともに、芸名が
自身に寄り添ってきたと感じるようになる。
だから、今、自信を持って言える。
得意な役どころは、
わき役、ふけ役、いびり役。
女優は美人がなるものだ。
そう父親に猛反対され、家を飛び出すように女優になった
菅井きんの素顔は、朗らかで力強い。
石橋涼子 11年01月15日放送
女優、原田美枝子は
3人の子どもの母親でもある。
38歳で3人目を出産した直後に、
映画の出演依頼がきた。
小さな村に住む双子の母親役だった。
脚本には、入浴シーンがあった。
原田美枝子は10代の頃から
作品のために裸になることをためらうことはなかった。
しかし、3人の子どもを産んだ体で
スクリーンに映ることに、初めて不安を覚えた。
一週間悩んだ結果、こう考えることにした。
現実に、子どもを産んだ母親なのだから
このままの自分でいいじゃないか。
低予算で製作されたこの映画は
ベルリン国際映画祭などで
高い評価を受けることになった。
薄景子 11年01月15日放送
どんな女優になりたいか。
若いころ、記者たちに聞かれると
岸恵子は言った。
私は、私になる。
海外旅行がまだ自由化されていない時代に、
トップ女優の座を捨てて、パリに移住。
フランス人の映画監督との結婚は18年で終わり、
その後も、政情が不安定な国をめぐっては
民族紛争や人種差別と向き合った。
危うく刑務所に入れられそうになったことも、
過激派に襲われたこともある。
そんな事態に遭遇しても、彼女は度胸を据えて、
世界の現実から目をそむけることはなかった。
そこに知るべき何かがあるかぎり、
岸恵子の旅に終わりはない。
拠点はどこかと聞かれれば、
国は関係ありません。
魂の在り処は自分です。
何かあったら、この人に相談したい。
女優、江波杏子にはすべての女性を包み込む
姉御的なオーラがある。
一番苦しかったのは、仕事と男だと公言し、
苦しんだ人は、あとで絶対幸せになれると断言する。
感情を抑制することに慣れた現代女性に、江波は言う。
泣きなさい。
涙だって血なんだから。
熊埜御堂由香 11年01月15日放送
厳しい監督の先生にたたかれ続けてきたから、
私、身長が止まってしまったのね。
身長150㎝の彼女はわらって言った。
数々の名監督に愛された女優、田中絹代。
役作りのストイックさでは、逸話にことかかない。
監督の注文どおり、太ったり、痩せたり、「風船」とあだ名された。
おば捨て山を題材にした木下恵介監督の楢山節考では役作りのため
若いころにした差し歯を4本、医者に無理やり抜いてもらった。
49歳のときだった。
小さな体で女優として成長を続けた。
一生独身だった彼女はこういった。
私は映画を夫として選んだのです。
そして、私が映画を捨てなかったのではなく
映画が私という女を見捨てないでいてくれたのです。
素顔が、女優である。田中絹代はそんなひとだった。