三國菜恵 11年01月09日放送
「わたしがいちばんきれいだったとき」で知られる、
詩人・茨木(いばらぎ)のり子。
彼女はこんなふうに二十歳を実感したという。
鏡見たら、目が真っ黒に光っててねえ。
今が一番きれいなときかもしれないっていうふうに思ったのね。
毎日見てる自分が、
ある日ちょっと違って見えたなら
大人になれてるサインなのかもしれません。
がんばりすぎるとカッコ悪い。
適当なくらいがちょうどいい。
作家・金原(かねはら)ひとみは
そんな価値観で育った若い世代のひとり。
「蛇にピアス」で芥川賞を獲った二十歳のとき、
彼女はこんな受賞のことばを残した。
がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃうし、
何でも流せる人っていいなあ、と思う。
私はそんな適当な人間だから、小説にだけは誠実になろうと思う。
適当でいいや。
そう思えなかった、ただひとつのものが
彼女の人生を支えるものになった。
三島邦彦 11年01月09日放送
『堕落論』などを残し、太宰治と並ぶ無頼派作家として知られる坂口安吾。
彼は二十歳の一年間を、中学校の分校の教師として過ごした。
教師が全部で5人しかいないその小さな学校で、
安吾は優等生にも落第生にも慕われていた。
後に小説でその頃のことを、
自身が人生で最も人間的に成熟していた時期だとし、こう語っている。
あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、
太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。
青年期を過ぎ年を経るにつれ、体は弱り、利害にまみれて
人は青年の時の成熟を失っていく。
安吾はその後も、大人の利害にまみれる前の、
青年という時期を賛美し続けた。
これは、そんな安吾が青年たちへ贈った言葉。
大人はずるく、青年は純潔です。君自身の純潔を愛したまへ。
中村直史 11年01月09日放送
人気作家、赤川次郎は
二十歳のころ、自分の時間を守るのに必死だった。
実家の家族を支えるために、
高校を出てすぐに勤めに出たけれど、
小説を書く時間まで奪われたくない。
飲み会をはじめとする
会社の行事を断るのは
今よりずっとタブー視された時代だった。
つきあいが悪いと幹事やらされるんですよ。
その時だけやって、次からまた行かないんです。
自分を守り抜いた先には、500にも及ぶ作品と
新作を心待ちにするたくさんの読者が生まれた。
それは、宇宙戦艦ヤマトが
宇宙へと飛び立つずっと前のこと。
九州から700円を握りしめ上京してきた若き漫画家、松本零士は、
二十歳のころ、貧乏アパートの一室で
自分の個性を探していた。
個性は、ふつう、自分の中にあるもの。
けれど松本さんの場合、
彼の下宿に集まるゆかいな仲間たちが運んできてくれた。
喧嘩っぱやいやつ、
寡黙なやつ、
一年お風呂に入らないやつ、
いろんな仲間がいたけれど
わかったのは、「結局みんな同じ」ということ。
さまざまな個性の奥にある「同じもの」の発見が、自分の個性になると思った。
友人がいっぱいいたから、友人抜きの自分って存在しないんです。
だから松本さんの漫画には、みんなで旅をする話が多い。
ヤマトの乗組員たちも
得意、不得意を補いながら旅をしている。
明日、大人の社会へと旅立つみなさんも、
ぜひ、素敵な旅を。
三島邦彦 11年01月09日放送
夏目漱石は大学を卒業した後、
東京、松山、熊本で教師をしていました。
これは、愛媛県の松山中学に赴任していた頃の漱石が
学生たちに向けて書いた一節です。
教師に叱られたとて、己れの値打ちが下がれりと思う事なかれ。
また褒められたとて、値打ちが上がったと、得意になるなかれ。
教師からの評価を気にするより、
自分自身の本当の値打ちを考えることが大事だと、
漱石先生は言います。
明日は成人の日。
さあ、新成人のみなさん、
これからますます、自分を磨く人生を。
ノーベル賞作家、川端康成が作家志望の若者に向けて書いた文章があります。
そこで川端は、素質や才能をいかに伸ばすかという質問に対して、こう答えています。
それは結局、いかに生くべきかという問題に他ならない。
文学修業は所詮人間修業である。
書くものをよくするためには、人間をよくするしかない。
新成人のみなさま、何を目指していても、
生きるすべてが修業のようです。
三國菜恵 11年01月09日放送
お風呂つきのアパートに引っ越した。
赤坂見附の近くのラーメン屋さんに寄るのがたのしみだった。
女優・樋口可南子(ひぐち・かなこ)の二十歳は、
はんぶん学生で、はんぶん女優。
ある仕事で、彼女は脚本家の先生に
こんな思いきったことを言ったという。
このヒロイン、もっと悪くなりませんか?
そのひと言で、
旅館のおかみさん役の彼女に
お客さんと不倫するシーンが加わった。
強気な性格がそうさせたのか、
それとも、若さのせいか。
いずれにせよ、
若者のひと言が、
物事を思いきった方向に運ぶことってあるみたいです。
坂本和加 11年01月08日放送
粘菌研究の一人者、南方熊楠。
50年間毎日続けた日記には、
ときどき猫も登場する。
熊楠は、大の猫好き。
漫画家 水木しげるが、
「熊」でなく、「猫楠」という
伝記を描いたほど。
留学先では、冬の寒さを
猫を抱いてしのぎ、
帰国後は、猫が妻との縁を
とりもつようなこともあった。
けれど猫の名前は、みなチョボ六。
研究用の粘菌が
チョボ六たちによって
なめくじから
守られたこともあったという。
後に、本人曰わく。
ちょっとしたつづきものより、
予の伝の方が面白かろうと思うが、如何。
アメリカの奴隷解放の父とされる
アブラハム・リンカーンには、
猫好きならではのエピソードがある。
南北戦争時代、
軍の本部に迷い込んだ
3匹の子猫を偶然みつけて、
「猫くん、君たちは猫でよかった」と話しかけ、
その後も母猫のいない
その子猫たちを見かけるたび足を止め、
戦争で息子を失った母親もいるんだから、
君たちも元気を出さなければと
声をかけていたらしい。
ユーモアと深い慈悲と情愛にあふれた
リンカーンは、ホワイトハウスで
4匹の猫と暮らした。
大統領官邸で、
はじめて猫を飼った大統領でもある。
解剖学者、養老孟司先生は、
6才になるオスの
スコティッシュフォールドを
飼っている。名前は、まる。
体重は、まるまると、7キロ。
まるは、鎌倉にある養老先生のお宅で、
猫の営業部長をやっているらしい。
天気のいい日は、縁側にデデンと座って、
ひなたぼっこや毛繕いをする。
それを養老先生が、にこにこと見ている。
そんな、まるの本が、もう2冊も出た。
帯のコピーは、養老先生が書いた。
まるを見ていると、働く気が失せる。
なるほど。それでまるが、営業部長なんですね。
画家でもある作家、赤瀬川源平は
熊谷守一の描いた猫をみたとたん
「猫だ!」と思った。そして、
たいへんなひとがいたものだ。
この画は、神秘に近いと絶賛する。
熊谷守一は、
どんなに貧しくても、
画を描いて金にかえる
ということができない画家だった。
それゆえ
遺した作品は多くはない。
しかし、描きたい想いに忠実だからこそ
画にはにじみ出るような迫力があり、
見る者の琴線に触れるのだろう。
生きものは、ひとと違ってウソがない。
そういって、
とりたてて猫を愛した清貧の画家は、
96才まで生きた。
猫好きは、マゾヒスティック。
そんなイメージをつくったのは、
もしかしたら
谷崎潤一郎かもしれない。
西洋猫をこよなく愛した谷崎は、
わがままで気品があり
媚びることも緩急自在で、
動物の中でいちばん美しいと
猫を絶賛する。
猫を題材にした作品も遺したが、
猫が登場せずとも、
美少女や妖婦に翻弄され隷属する男など
その作風を、
猫と谷崎の関係に見立てると
なるほど腑に落ちる。
さて。では、あなたは。
猫派ですか? 犬派ですか?
世に発表されたときは、
少女漫画として。けれど、
その作品のクオリティの高さから、
男性が読んでも恥ずかしくない少女漫画に
なったものに「綿の国星」がある。
「綿の国星」は
漫画家、大島弓子の代表作で
擬人化された子猫が世の中を学んでいく物語。
30年以上前に発表されたものなのに、
世代を超えたファンがいる。
それはきっと、
美しさやはかなさといっしょに、
世界のほんとうが、宿っているから。
「綿の国星」こそ
クールジャパンではないか。
特に猫好きじゃあないんだ。
けれど昔、子猫を死なせてしまったから。
作家、稲垣足穂は
猫を可愛がる、その理由を
生前そんなふうに言っている。
銭湯にいけば、
なまり節を買ってくる。
書き物の上に猫が座れば、どくまで待つ。
12月半ばに、猫一匹救うために
古井戸に飛び込んだこともあるという。
トラ猫のカアは、
ずいぶん永く、足穂と暮らした。
名作も生まれた。
黒猫のしっぽを切った話
ある晩黒猫をつかまえて
鋏でしっぽを切ると
パチン!
と黄色い煙になってしまった
頭の上でキャッ!
という声がした
窓をあけると、
尾のないホーキ星が
逃げていくのが見えた
厚焼玉子 11年01月02日放送
詩家晴景在新春(しかのせいけいは 新春にあり)
詩人が愛でるべき晴れやかな景色は新春である、と
うたったのは中国の詩人、楊巨源(ようきょげん)。
花の頃になると人でいっぱいになってしまうから
わずかな春のきざしを愛でようという意味だ。
なるほど、言われてみると
葉を落とした木々はもう新しい芽をつけている。
はこべの緑も鮮やかだ。
春はもうそこにある。
年賀葉書というアイデアを思いついたのは
大阪で洋品雑貨の店を経営していた林 正治(まさじ)さんだった。
戦争以来の苦しい生活のなかで
手紙のやりとりも途絶えてしまった人たちがいる。
もし年賀状が復活すれば
お互いの消息を知らせることができるのではないだろうか。
このアイデアは郵政省に持ち込まれ、実現した。
昭和24年の12月には「お年玉くじつき年賀葉書」が売り出され
日本の年賀葉書の第一号になる。
ちなみにそのときのお年玉賞品は
特等がミシン、1等が純毛洋服地だった。
いまはすっかり定着した年賀状、
俳句や短歌の自信作を挨拶代わりに書く人も多い。
万葉集を編纂した大伴家持は
そのいちばん最後をみずからの新春の歌で締めくくっている。
あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
大伴家持は少年時代に父を失っている。
そのせいだろうか、
若いときは出世の糸口をつかみかけては
地方に飛ばされることが多かった。
富山に鳥取、九州…それから関東にも下った。
それが幸いだったのだ、という意見がある。
万葉集におさめられた多彩な地方の歌は
家持の左遷がなければ
きっと集まっていなかったのだから。
あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重け吉事
新年に降り積もる雪のように
良いことがかさなりますように。
そんな願いを込めて詠まれた歌の通り
晩年の家持は順調に昇進していった。
あたらしい年に良いことがかさなりますように。
蛭田瑞穂 11年01月02日放送
明治の作曲家、滝廉太郎。
15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。
「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。
お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。
1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。
敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。
そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。
それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。
そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。
最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。
アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。
ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。
1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。
1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。
1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。
その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。
『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。
作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。
旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。
その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。
琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。
8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。
この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。
この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。
その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。
宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。
佐藤延夫 11年01月01日放送
酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。
芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。
そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。
新しい年に、福が来るように。
誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。
俳人、高浜虚子は長生きだった。
三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。
揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ
酒もすき 餅もすきなり 今朝の春
斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな
最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。
源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」
そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。
正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。
弟子のひとりは、のちにこう語っている。
食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。
なるほど、世間は難しい。
生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。
普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。
武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。
その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。
そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。
命が縮まるのに、なにがめでたいか。
なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。
食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。
民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。
正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。
鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
ここに食物分配の本来の意義があるとする。
なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。
日本人は立派な文明を持っていながら、
好んで野蛮人の真似をしたがる。
明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。
日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。
明治時代の思想家、幸徳秋水。
日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。
昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。
家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。
幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。
弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
僕は始終、粥ばかり食ってる。
この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。
名雪祐平 10年12月26日放送
チャールズ・M・シュルツ1
子どもの頃の自分をモデルに、
ストーリーを作り続けることは、
楽しいだろうか。
苦しいだろうか。
それを50年間続けた漫画家がいる。
チャーリー・ブラウンと
スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツ
描き続け、
彼自身が老人になればなるほど
どんどん子どもに戻って
漫画の中で遊んでいたのだとしたら、
やっぱり、なんだか楽しそうだ。
チャールズ・M・シュルツ2
スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツは、
内気でダメな子どもだった自分を
忘れていなかった。
漫画に登場する
小学生チャーリー・ブラウンたちは、
やれやれ。
お手上げだよ。
と、よく愚痴や弱音をこぼす。
でも必ず、
困った問題を乗り越えようと悩んだり、
一歩一歩進もうと、がんばるのだ。
スーパーマンはいない。
でも、内気だった漫画家だけが描ける
主人公たちは、
世界中のアイドルになった。
ムハマド・ユヌス1
バングラデシュの大学教授が、
貧しい農村に調査に行った。
42人の村人の話を聞き、
いま必要なお金はいくらかを
訊ねてみた。
合計、たった27ドル。
竹のカゴをつくる材料を買うための、
わずかな現金さえなかったのだ。
教授はポケットマネーから
27ドルを貸した。
少しずつ返してくれればいい、と。
のちに全額きれいに返済された。
お金を借り、貧しい人たちは
自分の仕事と活力を手に入れた。
食料を買った。
石鹸や鉛筆も買えたかもしれない。
これはとても良いことだ。
貧困を救うための画期的な銀行を作ろう。
ムハマド・ユヌスは大学教授を辞め、
グラミン銀行を創設した。
ムハマド・ユヌス2
そんなもの、誰も見向きもしない、
ということに世界で初めて取り組む人がいる。
ムハマド・ユヌスはグラミン銀行を作り、
ほんの少ないお金を貧困に苦しむ人たちに
無担保で貸すことを始めた。
どうせ返せっこないさ。
そんな偏見も、見事にひっくり返った。
返済率は99%に達するほどだった。
グラミン銀行は
世界の貧困で苦しむ人々の向上心を信じ、
救い続けている。
誰も見向きもしなかった事業に、
いま、世界中が注目している。
ムハマド・ユヌス3
世界一尊敬されている銀行家は誰か。
数百億円という年収をふところに入れた
アメリカの銀行家より、
数ドルがなくて困っている人たちを救った
この人かもしれない。
ムハマド・ユヌス
グラミン銀行総裁。
彼の言葉がある。
どんなことでもいい。
きみのすぐ目の前にある問題から
はじめればいいんだよ。
どんなことでもいい。
きみの手の届く範囲ではじめればいい。
目の前の貧しい人たちに自分の27ドルを貸したこと。
その小さな一歩が、
グラミン銀行のきっかけとなり、
いま、約10万カ所に上る相談センターで
貧しい人たちにお金を融資している。
ハーブ・リッツ1
ある日、無名の2人の若者が
ドライブに出かけた。
途中、タイヤがパンクしてしまった。
修理中のひまつぶしに
1人がもう1人を撮影した写真が
全米の雑誌に掲載されることになった。
写真に写った若者、リチャード・ギア
写真を撮った若者、ハーブ・リッツ
俳優としてギアが成功するにつれ、
リッツも大人気のプロカメラマンとなった。
タイヤのパンクから、
運が走り始めた。
ハーブ・リッツ2
クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。
アメリカの写真家ハーブ・リッツが
50歳で他界した。2002年のこと。
エイズだった。
「最も写真を撮ってもらいたい写真家」
そう呼ばれた。
ずばり、それは
自分を美しく撮ってくれるから。
マドンナを筆頭に、
セレブたちからオファーが殺到した。
逆にリッツが
「最も写真を撮りたかったモデル」は、
誰だったのか。
未発表の彼の傑作を
モデルとなった恋人だけが、
眺めているかもしれない。
ゴルバチョフ
クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。
ソビエト連邦は崩壊した。1991年のこと。
蒔けるだけ種を蒔いておきたい。
その言葉の通り、
国家改革ペレストロイカを進めていた
ゴルバチョフだったが、
ソ連崩壊前日には大統領を辞任した。
それが本望でなくても
怒濤の時代の真ん中に彼はいた。
40年以上続いた冷戦を終結させた
その名前は、
とっくに教科書に載っている。