坂本和加 10年12月25日放送


モーリス・ユトリロ(1883.12.26生まれ)

画家、モーリス・ユトリロ。
その人気とは裏腹に、
ユトリロの生涯は、
なんと不幸だったのだろうと
ひとは、思うことだろう。

母に愛されず、
10代でアルコール依存症になり、
治療のために始めた絵画が、うけた。
その後、ユトリロは
母に言われるがまま
軟禁状態で画を描くことになる。

クリスマスの画も描いている。
きっと、母親に乞われるままに。

けれどユトリロは
母が、世界のすべてだった。

「シュザンヌ・ヴァラドンと呼ぶわが母は、
 気高く、美しく、善良な女である」

幸福か不幸か。それは他人が決めることではない。


クララ・バートン(1821.12.25生まれ)

アメリカでは
戦場の天使と呼ばれた
クララ・バートン。
その肖像はみな、
シンプルな黒いワンピース。
彼女に、一度でも
華やかなクリスマスが
あったのだろうか。

そう思わせるほどクララは、
その生涯を「人を救うこと」に費やした。

30代で南北戦争に赴き
負傷者救済の経験から後、
アメリカ赤十字の創始者となる。

引退後は、応急手当協会を設立。
自宅を改装してまで
応急処置法と救急箱の普及進めた。
90歳で亡くなるまで。

クリスマスに生まれた
彼女の職業は、慈善事業家。
生き方そのものが、
サンタクロースだった。


アイザック・ニュートン(1642.12.25生まれ)

忘年会にクリスマス、
12月は、なにかとお酒を
飲む機会が多いけれど、
「12時までには寝た方がいい」
と、客観的に自己分析し実行していた
18世紀の自然科学者がいる。

アイザック・ニュートンが、そのひとだ。

それは、12時以降に起きていると
一日中研究をしていた日よりずっと
翌日の疲れが残っていると、
ある日気づいたため。

朝は、紅茶の代わりに
オレンジの皮を煮出した湯に
お砂糖を入れたものを飲むことが
ニュートンのもうひとつの健康法で、
実際、彼は、85歳まで生きた。

きょうは、クリスマス。
ニュートンの誕生日でもある日です。


カール・ユーハイム(1886.12.25生まれ)

クリスマスの
ドイツ菓子といえば、
シュトレン。けれど
日本人にもっと馴染みのある
ドイツ菓子は、バームクーヘンだろう。

それを日本に広めたのは、
ドイツ生まれの菓子職人
カール・ユーハイム。
洋菓子メーカー、ユーハイムの創業者。

戦前にやってきたバームクーヘンが
日本で長く愛されつづけたのは、
あの切り株の年輪のような見た目に
縁起を担いだからに違いない。

けれど残念ながら、
本国ドイツには、そういった
縁起のいい「いわれ」はない。

平和を作り出す人たちは、幸いである。

神戸にあるユーハイムの墓石には、
日本語で、そう書かれている。


クリスマス生まれ

とある占いによると、
12月25日に生まれたひとは、
さっぱりとオープンな性格で、
責任感も強く、直感力があり、
ひとづきあいが得意なひとだそうです。
向いている職業に、医者や公務員、
研究職など。恋愛は、調和や平和を
強く求める傾向にあるのだとか…。

同じ日に生まれた偉人には、
乃木希典、植木等、
コンラッド・ヒルトン、
ハンフリー・ボガードなどがいます。

きょう、12月25日に生まれた方、
おめでとうございます。

そして、メリークリスマス。


コンラッド・ヒルトン(1887.12.25生まれ)

海外のヒルトンホテルの客室には必ず、
聖書と一緒に「be my guest」という
一冊の本が置いてあるのだそうだ。

それは、ホテル王、
コンラッド・ヒルトンの自伝。
ビジネスマン必読の書、
ということになっているらしい。

ところで、この本、
日本でも翻訳され
書店で手に入るのだが、
そのタイトルは、
『ホテル王の告白』。

商売がうまいとは、このことか。

きょうは、クリスマス。
東京のヒルトンは、
ほぼ満室だそうですよ。


金子光晴(1895.12.25生まれ)

若かりし頃は反戦の、
晩年では、家族愛の詩人。
金子光晴は、
クリスマスギフトに
ぴったりな詩集を出している。

題名は「若葉のうた」。
生まれたばかりの孫娘、
若葉ちゃんのために、
72歳の金子が書き下ろした。

そこには、
まるで恋する若者のような、
みずみずしく繊細なことばがある。
けれどそれは、
長く言葉と格闘しつづけた
老齢の詩人だからこそ
出会えたことば。

クリスマスにことばを贈るなら。

あなたは、家族に
どんなことばを贈りますか?

topへ

石橋涼子 10年12月19日放送



ヴィクトル・ユゴーの手紙

作家、ヴィクトル・ユゴーは、
恋人との間に、生涯で2万通にも及ぶ
手紙を交わしたというくらい筆マメだけれど、
一方で、世界一短い手紙を書いたことでも有名だ。

それは、「?(クエスチョンマーク)」が
一文字書かれただけの手紙。

「レ・ミゼラブル」の売れ行きを
出版社へ問い合わせる手紙だった。

返事は、「!(ビックリマーク)」が一文字だけ。

つまり、驚くほど売れてますよ、ということ。



野口英世の母の手紙

野口英世が研究のためにアメリカに渡ったとき、
読み書きのできない母が手紙を出せるように、
住所を刻印したスタンプをプレゼントした。

特に便りのないまま数年が経ったが、
ある日、一通の手紙が届いた。

息子の出世を喜ぶあいさつから始まる手紙は、
やがて、息子に一目会いたいという母の願いに変わる。


 はやくきてくだされ
 いつくるとおせてくだされ
 このへんじをまちておりまする
 ねてもねむられません

早く帰ってきてほしいという願いが
たどたどしいひらがなで綴られた手紙に
英世は激しい衝撃を受け、
忙しい研究の合間を縫って、すぐに帰国したという。

手紙は、文章の上手さではなく、
伝えたい気持ちの強さでしか、伝わらない。



斎藤茂吉の手紙

歌人として、精神科医として、
名を馳せた斎藤茂吉は、50歳を過ぎて恋をした。

相手は、アララギ派に参加したばかりの
若手歌人、永井ふさ子24歳。

茂吉は、この親子ほど歳が離れた恋人に夢中になり、
会えない時はひたすらラブレターを書いて過ごした。
それは、1年余りの交際期間で150通以上にのぼり、
一日に7通も書いた日もあった。

手紙で茂吉は、
ふさ子の写真がほしいと懇願し、
ふさ子の体をすばらしいと誉めたたえ、
愛の歌を惜しみなく詠み贈った。

人々の尊敬を集める歌人が書いたラブレターは、
恥ずかしいくらいウブで赤裸々で、
まるで初めて恋をした若者のようだった。

手紙の最後にはいつもこのような内容が書かれていた。


 読み終わったらただちに焼き捨ててほしい。
 そうすれば次々と心のありたけを申し上げられる。

妻子ある茂吉の立場を考えたふさ子は、
30通ほどを素直に焼いたが、
手紙が灰になった後の言いようのない寂しさから、
つい、残り100通余りを焼かずに手元に残してしまった。

それらの手紙が茂吉の死後に公表され、
物議をかもしたのは少し先の時代のこと。



サンタクロースへの手紙

もうすぐクリスマス。
この時期は、世界中の子どもたちが
サンタさんにせっせと手紙を書く季節でもある。

日本の子どもたちの手紙は、プレゼントのお願いだけでなく
「サンタさん」へのメッセージが多いという。

たとえばこれは、5歳の男の子の手紙。


 サンタさんへ
 ぼくはおとうさんとおかあさんと
 カレーライスのつぎに
 サンタさんがだいすきです

プレゼントのリクエストを書くのも
忘れてしまうくらい子どもに好かれるなんて、
さすがはサンタさんです。



プリニウスの手紙

あの人に手紙を書こう。
そう思っても、何を書いたらいいのかわからず
筆を置いてしまうことがある。

そんなときは、ローマ時代の文人、
プリニウス2世の言葉を思い出そう。
彼は、友人・知人・果ては皇帝までに書き送った
200通余りの手紙をまとめた書簡集の中で
こう語っている。


 汝は書くことがないという。
 ならば「書くことがない」ことを書け。

たしかに。
大切な人からの手紙は、
ポストに入っているだけでもう、立派なギフトなのだ。



一休さんの手紙

とんちで有名な一休和尚は、死の直前、
本当に困ったときに見るように、と
弟子たちに一通の手紙を残した。

やがて、今こそ一休和尚の知恵が必要だという事態になり、
弟子たちが手紙を開けると、そこにはこう書かれていた。


 大丈夫。心配するな。なんとかなる。

topへ

熊埜御堂由香 10年12月19日放送



恋文代筆業フィッシュ兄弟

19世紀のおわりごろ、パリの街で
小さな芝居小屋の劇作家をしていたフィッシュ兄弟は
食うに困ってある商売を思いついた。
恋文代筆業….
それはのちに彼らをまねて恋文横丁という代筆業者が
机をならべる小道ができたほど、繁盛した。

たとえば、初々しい恋のはじまりに、2通の手紙を用意する。
1通目は、引き裂さかれた紙に、乱れた文字で想いが綴られる。

ああ、この気持ちをどうすれば・・・
そして直後にもう一通の手紙が届く。
今度は上等な便箋に丁寧な文字で謝罪の言葉が綴られている。

誤って、日記の一部を投函してしまいました。破棄してください。
こんな具合に彼らのラブレターには、さまざまな恋の罠が仕掛けられていた。

ここで、彼らが、恋文の効果的な書き出しと結びを
一覧化したリストから、おすすめの締めの句をひとつ。
君がうなじに、接吻の雨。

ちょっと吹き出してしまうほど情熱的な言葉が並んでいて、
再出版すれば、今どきの淡白な男の子たちに、
つけるいい薬になるかもしれない。



おしゃべりな手紙 向田邦子

数々の会話の妙で、ひとを惹きつけてきた脚本家、向田邦子は嘆いた。


 男の手紙が、とくに若いひとの手紙が、
 おしゃべりになってきた。字や文章だけでは男か女かわからない。

しゃべりすぎの時代を、ホームドラマのせいだど自省する。

さらにメール時代の現代。
中性的なメールが飛び交う。
そっけないと思われると、
みんな気遣いで賑やかな絵文字を散らす。

おしゃべりは虚飾。
沈黙が味わえるようになったとき、
男と女の時間がはじまるのかもしれない。

topへ

宮田知明 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士1 毛利衛

日本人宇宙人飛行士の応募条件の中に、
「美しい日本語」という項目がある。

人類を代表して宇宙に行く以上、
ミッションを達成するのはもちろん、
その稀有な宇宙飛行体験を伝えることも大事な役割。

宇宙飛行士、毛利衛は言う。

僕は2回、宇宙へ行かせてもらった。
その経験を広く伝える役割を担っていると思うんです。
僕自身の言葉を発することで、
より多くの人たちにメッセージを届けることができますから。

そんな毛利が宇宙から帰ってきて、最初のインタビューで伝えた言葉。

「地球には、国境線はありませんでした。」

その言葉の、何と美しいことか。

topへ

渋谷三紀 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士2 向井千秋

宇宙に行って感動したことはなんですか?

多くの宇宙飛行士が「宇宙から見た地球の美しさ」と答えるこの質問に
日本人初の女性宇宙飛行士、向井千秋は「地球の重力」と答える。

宇宙から戻った夜は、驚きの連続だった。
無重力に慣れたからだは、一枚の名刺にさえ重みを感じた。
上下左右のない空間では見られない
ものが落ちていく姿や描く放物線の美しさに目を奪われた。

彼女はいう。

 私たちは、物が落ちること、雨が降ることを
 当たり前だと思ってしまいますが、
 実は地球で起こるこの現象のほうが不思議なのです。

私たちが常識と呼んでいるものの多くは、
広い宇宙に浮かぶ小さな惑星でしか通用しない
ちっぽけな常識にすぎないのかもしれない。

topへ

宮田知明 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士 3 土井隆雄

宇宙飛行士試験に受かっても、
誰もがすぐに宇宙に行けるわけではない。

毛利衛、向井千秋と一緒に、
最初の日本人宇宙飛行士試験に合格した人、土井隆雄。

毛利や向井が宇宙へ行くのを、土井は地上でサポート。
そして向井のサポート中に、
後輩である若田光一が先に宇宙へ旅立ち、
土井に初フライトのチャンスがめぐってきたのは
試験に合格してから12年めのことだった。

土井が宇宙から帰還したときのインタビューの言葉。

わたしは、すでに宇宙ステーションを恋しく思っている。
明日にでも宇宙に戻りたい。

地上にいても
土井が宇宙を愛する気持は誰よりも強い。

topへ

渋谷三紀 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士4 若田光一

宇宙飛行士、若田光一。

宇宙ステーションでの長期滞在を終えた若田は、
138日ぶりの地球の印象をこんなことばで表現した。

 スペースシャトルのハッチが開くと、
 草の香りが入ってきて、
 地球に優しく迎えられたようでした。

その瞬間、どんな詩人にも書けないような詩が
宇宙飛行士から生まれた。

topへ

宮田知明 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士5 野口聡一

宇宙飛行士、野口聡一。
宇宙への初フライトまで29日に迫ったその日、
彼の耳に飛び込んできたのは、衝撃的なニュースだった。

2003年2月1日、7名の搭乗員を乗せたスペースシャトル、
コロンビア号が宇宙から帰還する途中、
テキサス上空で空中分解、
乗員全員が死亡するという大事故だった。

NASA全体が、ショックに覆われた。
その後のシャトル計画に「待った」がかかり、
野口のフライトも白紙になった。

本当に自分は宇宙に行けるのか。
そんな不安を抱えながら、
普通の人が100時間かける訓練を、
彼は400時間行い、その時を待った。
それは訓練時間の新記録だった。

野口聡一は言う。

長い間がんばって、しっかりと能力を高めて、
あきらめずに食らいついて、あとは運を信じる。
書いてしまうとあっけないことですが、それだけのことです。

topへ

渋谷三紀 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士5 山崎直子

ママさん宇宙飛行士、山崎直子。

職業人として、女性として、
誰もがうらやむ幸せを手に入れた彼女を
メディアは華々しくとりあげた。

そんな中、一冊の本が出版される。
直子の夫、山崎大地の著書「宇宙主夫日記」。

そこには宇宙飛行士訓練にかかりきりの妻と
仕事に子育てにと苦悩しつづける夫の姿が
生々しく描かれていた。

この本をいったいどんな思いで直子は手に取るのだろう。
そんな心配も、「宇宙主夫日記」の隣りに
平積みされた本を見れば、吹き飛んでしまう。

そのタイトル「何とかなるさ!」。
著者は山崎直子その人だった。

topへ

宮田知明 10年12月18日放送


日本人宇宙飛行士7 星出彰彦

星出彰彦は宇宙飛行士になるまで、
3度も宇宙飛行士試験を受けた。

1回目は学生時代のこと。実務経験が必要という、
条件を満たしていないことを承知での応募。
彼曰く、「意欲を見せるためだった」。

2回目の試験は最終選考まで行った。
でも受かったのは野口聡一、ただ一人。
3回目の試験でようやく採用され、
2007年3月23日、ついに彼は宇宙へ旅立った。

星出には、こんなエピソードもある。
「宇宙飛行士になりたい」と、
小学4年生の時に書いた文集のタイトルは、「きぼう」。
宇宙ステーションの、日本が保有する実験棟の名前も、「きぼう」。

それはきっと、偶然の一致。
でもなぜか、運命のように思わせる、
合格した時を振り返っての、彼の言葉。

たとえこのとき落ちても、 
また次に応募しようと思っていました。

topへ


login