蛭田瑞穂 10年12月12日放送
ブシコーとボン・マルシェ①
世界で最初に生まれたデパート「ボン・マルシェ」。
1874年に完成した新しい建物の中には
1階から天井までが吹き抜けになった巨大なホールがあった。
昼間はガラスの天井から陽の光が降り注ぎ、
夜になると巨大なシャンデリアが、
豪華絢爛たる灯りでホールを照らした。
「ボン・マルシェ 」の創業者アリスティッド・ブシコーは、
パリ万博のパビリオンをヒントにこのホールをつくった。
日常と切り離された特別な空間で買い物を楽しんでもらいたい。
それが彼の狙いだった。
クリスマスが近づくこの時期、
世界中のデパートが華やかに彩られる。
ブシコーの思い描いた祝祭の空間がそこにはある。
ブシコーとボン・マルシェ②
世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」の創業者
アリスティッド・ブシコー。
彼には、消費者を豊かにするには、
まずデパートの従業員が豊かでなくてはならない
という考えがあった。
そのため利益はできるだけ従業員に還元し、
無料の社員食堂や独身寮、退職金制度など、
福利厚生を充実させた。
現在もパリに存在する「ボン・マルシェ」の入り口には
「アリスティッド・ブシコーの店」と書かれた
昔ながらの看板がかかっている。
それはブシコーがいかに
従業員に愛されていたかを示す証でもある。
ブシコーとボン・マルシェ③
19世紀のパリ市民にとって、日々の買い物は苦痛であった。
当時はまだ値札というものがなく、
価格はすべて店員との値段交渉によって決められた。
その上、商品を買うまで店を出てはいけないという
暗黙のルールさえ存在した。
やがて「マガザン・ド・ヌヴォテ」と呼ばれる
新しい形態の小売店が生まれ、その状況を劇的に変える。
しかし真の変化はアリスティッド・ブシコーと
その妻マルグリットがつくった世界初のデパート
「ボン・マルシェ」によって起こされた。
オペラ座のように美しい建物。
宮殿のように華やかな館内。
そして、百花繚乱の品ぞろえ。
「ボン・マルシェ」の誕生によって買い物は快楽へと変貌し、
店はモノを売る場から、夢を売る場へと昇華した。
「ボン・マルシェ」、
それはブシコー夫妻が起こした商業の革命だった。
ブシコーとボン・マルシェ④
19世紀の半ば、世界で最初のデパートをつくった
アリスティッド・ブシコーは、
商業の天才であると同時に宣伝の天才でもあった。
当時生まれたばかりの新聞広告に目をつけ、
大量の折り込みチラシをパリ中にばら撒いた。
そのチラシを制作するために、
彼はデパート内に専用の印刷所まで設けたという。
やがて大衆による爆発的な消費社会が来ることを
見抜いていたアリスティッド・ブシコー。
その慧眼には驚くしかない。
ブシコーとボン・マルシェ⑤
19世紀に創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは冬のある日、
ひとり物思いに耽っていた。
バーゲン期間が終わった後も、
売り上げを落とさないようにするには
どうすればいいのだろう?
その時、窓の外に降る雪を見たブシコーの頭に、
突然「白」という言葉が浮かんだ。
ワイシャツやシーツなど白い生地を使った商品を
集中的に売り出すというのはどうだろうか。
そう思いついた彼は、売り上げの落ちる2月に
「白の展覧会」と銘打ったセールを大々的におこなった。
店内は白い生地を使ったありとあらゆる商品に包まれ、
さながら白銀の世界と化した。
この「白の展覧会」が、現在も続く
デパートの大売り出しのはじまりである。
もしあの日、窓の外に雪が降っていなかったら、
デパートの大売り出しはなかったかもしれない。
ブシコーとボン・マルシェ⑥
今もパリに存在する世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは、
デパートの売り上げの鍵を握るのは女性客だと考えていた。
そのため「ボン・マルシェ」の1階には
女性向けの目玉商品を山積みにし、
女性客の人だかりが自然とできるようにした。
さらに、婦人服や生地などをあえて別々のフロアに配置し、
デパート全体を女性客の活気で溢れるように工夫をした。
現在、多くのデパートの1階には化粧品などの
女性向けの商品が並べられている。
19世紀に生まれたブシコーのアイデアは
こうして今も脈々と受け継がれているのである。
ブシコーとボン・マルシェ⑦
19世紀の半ばに創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは12月になると、
おもちゃと本を売り場に並べ、
店中をプレゼント一色に塗りつぶした。
これが現在のデパートでおこなわれる
大規模なクリスマスセールの先駆けといわれる。
さて、もうすぐクリスマス。
あなたのプレゼントはもう決まりましたか?
ブシコーとボン・マルシェ⑧
世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」は
もとは小さな商店だった。
1835年にアリスティッド・ブシコーとその妻マルグリットが
「ボン・マルシェ」の共同経営権を買うと、
さまざまな改革を行ない、店を大きく成長させた。
大量に仕入れ安い価格で売る薄利多売方式。
季節のバーゲンセール。
カタログによる通信販売。
これらはブシコー夫妻がつくりだし、
現在でも多くのデパートで行なわれている事業である。
ブシコー夫妻の功績、
それは単に「ボン・マルシェ」というデパートを
つくっただけではない。
デパートという仕組みそのものを発明し、
消費の文化を創造したのである。
坂本仁 10年12月11日放送
若い頃の挑戦より、年をとってからの挑戦のほうが難しい。
もし失敗したら自分はどうやって生きていこう。
家族は食べていけるだろうか。
様々な不安が自分を襲ってくる。
けれど、スイスでブレゲの再来と言われ、
精密で美しい時計を製作しつづけているフランク・ミュラーは
次のように言う。
人生に挑戦するのに年齢なんて関係ない。
そもそもこの世に時間などない。
それは人間が勝手に作ったものだ。
私は時計師だからそのことがよくわかる。
今、何かをはじめようとしている人、
そして自分の年齢を考えて不安になっている人は、
時計をはずしてみると、
新しい一歩を踏み出せるかもしれない。
野球において、ホームランは時間を止める。
ピッチャーは肩を落とし、
野手はボールを見送ることしかできず、
ただ1人打った人だけが、
ゆっくりとベースランニングする自由を許される。
そのホームランを生涯で714本も打った世界のホームラン王、
ベーブ・ルースは次のように語る。
守備の甘いところへ打つのがコツだ。
だから俺は場外へ打つ。
ベーブ・ルースにとっては、
ホームランを打つのは、
ヒットを打つより簡単だったのか。
そんな風に思ってしまうほど
単純で説得力のある偉大な発言だ。
あなたが生まれてから何日たったことでしょう。
例えば、
20歳の人は7300日。
40歳の人は14,600日になります。
歌手、タレント、女優、声優など、
さまざまな活動を楽しむ中川翔子さんは言います。
人生は3万日しかない。と。
自分が重ねていく年月を、
何歳と数えるではなく、
何日と数えてみる。
そうすると私たちはもっと毎日を大事に生きていける気がする。
もっと今を大切にできる。
中川翔子さんはそう胸に刻むことで、
きっと毎日をギザ楽しんでいるのでしょう。
あなたは今、何日めですか?
人間性の暗い側面、わがまま、強欲、不幸、そんなものが、
私たちの空を汚し、空っぽの海にし、森を破壊し、
何万もの美しい動物を絶滅に追い込みました。
次は私たちの子供なのでしょうか。
、
1989年、ユニセフの親善大使に就任した
オードリー・ヘプバーンはそう語って
世界の痛ましい現実と戦いはじめた。
スーダン、ベトナム、バングラディシュ、南アメリカ。
安全な飲み水を確保する井戸の設置や地雷除去など、
子供たちを守るために世界中でユニセフの活動に身を捧げた。
ソマリアへは、自ら患っていた癌をおしてまで行ったという。
12月11日。今日はユニセフの創立記念日。
今もきっとオードリーヘップバーンは
天国で、世界の子供たちの未来を見守っている。
勉強は大切だ。
何か一つの道を決めて、
その世界を極めようと思ったら、
昼も夜も、寝ることも食べることも忘れて、
そのことを学びつづけなければならない。
けれど、それだけでは、足りないのである。
ジャズ界のピカソと言われ、
モダンジャズを牽引したトランペット奏者、
マイルス・デイビスはよいジャズを引く秘訣を問われて、
次のように言った。
学べ。そして忘れろ。
マイルス・デイビスは、
学ぶことの重要性を説いた上で、
その先に行くためには、
ルールや常識から自らを解放しなければならないことを、
知っていた人だった。
偉人とはなんだろう?
すごい発見をした科学者のこと?
すごい成績を残したスポーツ選手のこと?
それとも、すごい商品を作ってお金持ちになった人のこと?
カトリック教会の修道女、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは、
次のように言った。
大きなことを出来る人はたくさんいますが、
小さなことをしようとする人はごくわずかしかいません。
小さなことをしつづけたアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。
いつしか彼女は、マザー・テレサと呼ばれるようになった。
高価な靴を履いてる営業マンより、
歩き回って擦り切れた靴を履いている営業マンの方が素敵だと思う。
流行の服をいつも着ているクリエイターより、
一心不乱に絵を描く、
絵の具で汚れた服を着ている画家の方がクリエイティブだと思う。
美しく流暢な言葉で愛を告白するより、
言葉は拙くても誠実に大声で愛を告白する方が伝わると思う。
生涯で40を超える作品を残したアメリカの大衆作家、
ノーマン・メイラーは次のように言う。
本当に大事なことのうち、
格好をつけたままでやれることは、一つもない。
ノーマン・メイラーが、格好をつけることを忘れて打ち込んだ大事なこと。
それは、人々の記憶に残る数多くの小説を世に送り出すことだった。
中村直史 10年12月05日放送
つくる人のことば/國中均さん
2003年5月に地球を飛び立ち、
7年を経て地球に帰ってきた
惑星探査機「はやぶさ」。
60億キロメートルを旅し、
全長わずか500メートルの小惑星に降り立ち、
そのかけらを持ち帰った。
技術者たちの快挙に、
「奇跡」との声もあがったが、
開発担当者の一人、國中均さんは
奇跡とは言いたくない、と言った。
努力です。とても「おもしろかった」ので、みんな一生懸命努力したんです。
人間の努力が成し遂げられることは、
宇宙くらい大きいのかもしれない。
つくる人のことば/はやぶさの若き技術者たち
太陽系の星たちが
どんな風に生まれたのか。
その謎を解き明かす使命の下、
地球から遠く離れた小惑星「イトカワ」に降り立ち、
そのかけらを持ち帰った惑星探査機「はやぶさ」。
7年にも及んだその旅は、
「はやぶさ」にたずさわった技術者たちにとって
立ちはだかる困難との格闘の日々だった。
内之浦(うちのうら)宇宙センター元所長の
的川泰宣(まとがわ やすのり)さんは、
「はやぶさ」を小惑星へ着地させる世界初のミッションを回想し、
次のように記している。
5回にわたる「イトカワ」への降下オペレーションは、
思い出しても目頭の熱くなるような感動的な光景だった。
そこでは、繰り返し襲ってくる人生で初めての試練と難題に、
懸命に取り組む若い技術者たちの美しい姿があった。
困難の末に手にした
その小惑星のかけらは、
10ミクロン以下という微細なものだったけれど、
宇宙の秘密を解き明かす大きな存在となりえる。
その解明は、まだ始まったばかりだ。
三島邦彦 10年12月05日放送
つくる人のことば/フランク・ロイド・ライト
20世紀建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト。
彼の建築の手本は、毎日の散歩で観察する自然だった。
彼は言う。
自然という教科書があるのです。あるページには、成長の成果、豊かさ、
ゆとりが記されています。自然には、建築家に確信や力を与えてくれる、
素晴らしく単純で基本的な形態があるのです。
机での考えごとに行き詰ったら、
ちょっと、散歩はいかがでしょう。
つくる人のことば/オスカー・ニーマイヤー
アメリカ、ニューヨークにある国連の本部ビル。
この建物を設計したのは、オスカー・ニーマイヤー。
今年102歳にして、
今も現役を続けているブラジルの建築家である。
とあるインタビューで彼はこう言っている。
建築はそれほど重要ではない。
大切なのは、むしろ仲間や友人、家族、そして人生そのものだ。
世界をよりよくするための議論の場。
その設計者として、
国連はうってつけの人を選んだようだ。
つくる人のことば/アントニオ・ガウディ
1882年、スペインのバルセロナで、
とある教会の工事が始まった。
翌年、意見の対立から建築家が辞任し、建設は振り出しに戻る。
二代目の建築家に選ばれたのは、
まだ無名だった31歳のアントニオ・ガウディ。
ガウディは構想を練り直し、
自分が生きているうちには完成しない壮大な建築計画を立てる。
教会の名前は、サグラダ・ファミリア。
100年以上の時が経った今も未完成ながら、
世界で最も独創的な教会建築として多くの人が訪れる。
その後、いくつもの創造性に富んだ建築を作ったガウディは、
独創性についてこう語っている。
独創性を追い求めるべきではない。
追い求めると突飛なものに行き着いてしまうからだ。
普段なされていることを見て、それをより良くしようと努めるだけで十分なのだ。
ガウディにとっての独創性は、追い求めるものではなく、ついてくる結果だった。
三國菜恵 10年12月05日放送
つくる人のことば/菊池敬一
こんな本屋、アリなんだ。
そんな声が聞こえてきそうな本屋、
ビレッジバンガード。
創始者である菊池敬一さんは、
自らの店を「遊べる本屋」と称する。
棚を作っていくことを「編集」と呼んでいます。
SFマンガのとなりに、星座の本。
その隣には、地球儀。
連想ゲームのような本棚に、最初は拒絶を示す人もいた。
けれど、今では全国に300店舗。
誰かのルールで並べるのではなく、
自分のルールであたらしくつくる。
そんな本棚は、みんなの心をたのしませた。
つくる人のことば/萩尾望都
「ポーの一族」などで知られる
少女漫画家・萩尾望都(はぎお・もと)。
彼女は、漫画についてこんな考え方をしている。
少年漫画のほうが、比較的ドラマの起伏、事件が起こることが大事。
でも、心理が細かくないと女の子は読んでくれない。
彼女はきっと
男女の違いに気づいてるからこそ、
女の子のための漫画が描ける。
つくる人のことば/藤牧義夫
その人は、東京を描いた。
毎日のように、同じ場所から。
群馬県・館林生まれの版画家、藤牧義夫。
故郷を離れ、出てきた東京で
いくつかの版画を残している。
鉄橋、給油所、沈む夕陽。
その多くは、隅田川からの景色ばかり。
彼は、こんな言葉を残している。
強烈な光が、音響が、色彩が、間断なく迫るその中に、
不安な気持ちで生存する事実
それを唄いつつ 自分は常に強く行く。
生きていることを実感できる景色。
それは、故郷を出てはじめて出会うものなのかもしれない。
佐藤延夫 10年12月04日放送
スヌーピーとチャーリー・ブラウンの生みの親、
チャールズ・シュルツ。
自分の描いた絵が初めて褒められたのは、
幼稚園の初日のことだった。
白い紙と黒いクレヨンを渡されたので、
雪かきをしている男の絵を描いた。
ただ、思うままに。
みんなの絵を見て回っていた先生が、
彼の前で止まり、こう言った。
チャールズ、あなたはきっと絵描きさんになるわ
この優しい予言は、少年の心に永遠に残る。
チャールズ・シュルツの漫画「ピーナッツ」には、
ひとつのルールがある。
スヌーピー、チャーリー・ブラウン、ルーシー、ウッドストックなど
登場人物は多いが、作品の中に大人を出すことは一度も無かった。
その理由は、いたって単純だ。
場所がないから。
子供の視線で描かれた子供サイズの構図に、
大人が入りこむ隙はない。
読者は知らず知らずのうち、
子供のひとりとして漫画に参加している。
ここでは、子供になることがルールだ。
漫画「ピーナッツ」の作者、チャールズ・シュルツは、
幼いときに犬を買っていた。
名前は、スパイク。
漫画にもスパイクという犬が登場する。
スヌーピーの兄という設定で。
雑種で気性が荒かった本物のスパイク。
漫画の中ではビーグル犬になり、
孤独を愛し、砂漠で穏やかに暮らしている。
漫画家は、うらやましい。
自分の思い出に、命を吹き込むことができるんだから。
作者曰く、普通の人の代表。
これが、ピーナッツに登場する丸顔の少年、チャーリー・ブラウンだ。
好きな女の子の顔も見られないシャイな性格だけど、
ときどき、ものごとの核心を突く。
たとえば「安心」という意味について聞かれたとき。
安心感ってのは、車の後ろの席で眠ることだよ。
前の席にはパパとママがいて、心配事はぜんぶ引き受けてくれる。
そしてチャーリー・ブラウンは興奮して続ける。
でも、それはいつまでも続かない!
あるとき突然、きみはおとなになって、
もう二度と同じ気持ちは味わえないんだ!
私たち読者は、なるほど、と感心する。
でも、そういった言葉の多くは、ガールフレンドに軽々と切り返されてしまう。
女の子って、男の子に哲学的な話をされるのは好きじゃないのよ。
私たち読者は再び思う。なるほど。
1960年代初頭に始まった、アメリカのアポロ宇宙計画。
数年後、そのキャラクターに任命されたのが、スヌーピーだった。
アポロ10号の月面着陸船の名前は、「スヌーピー」。
司令船は、「チャーリー・ブラウン」と名付けられた。
もちろん当時の漫画にも、宇宙服を着たスヌーピーが登場する。
ここは月。
やった!月に立った最初のビーグル犬だ!
ロシアに勝ったぞ・・・
みんなに勝ったぞ・・・
隣に住んでる馬鹿な猫にも勝った!
スヌーピーは、アメリカの象徴。
この小さな犬には、世の中の全てを巻き込むほどの力があった。
スヌーピーは、よく寝ている。
犬小屋の上で。
テントの上で。
ときには岩を枕にして。
そうかと思えば、タイプライターで何かを打ち込んでいる。
あるとき、犬小屋から落ちたあと
スヌーピーは呟いた。
世の中、厳しい現実に満ちている。
スヌーピーは、哲学者なのだ。
チャーリー・ブラウンは独り言を言う。
精神科医によれば、ピーナッツバターサンドイッチを食べる人は孤独なんだって。
その通りだと思うよ。
スヌーピーは呟く。
先生にあてられて「ミシシッピー」のスペルを聞かれたら、困ったことになるな。
リランは、ぼやく。
初日から「戦争と平和」を読まされるんじゃないだろうね。
ペパーミント・パティは愚痴をこぼす。
わたしは、人生の歩道の敷石の間から
必死で伸び上がろうとしている、みじめな、みにくい雑草なの!
シュローダーは、ピアノを弾きながら叫ぶ。
お金なんて関係ない!これは芸術なんだ。
ルーシーは、小言を言う。
世界が抱える様々な問題を知ったら、そんな嬉しそうな顔はしていられないわよ!
大人でもドキッとするような言葉は、
漫画「ピーナッツ」の中で、財宝のようにきらきら輝いている。
このめまぐるしく美しい台詞を訳しているのは、谷川俊太郎さんだ。
名雪祐平 10年11月28日放送
星野哲郎
11月15日、
作詞家・星野哲郎が亡くなった。
85歳だった。
告別式で、
歌手の水前寺清子は、
生前に星野から託された
未発表の詩を読み上げた。
詩の冒頭は、こう始まる。
あけみちゃんてば あけみちゃん
再婚しようよ 天国で
それは16年前に先に亡くなった
妻へ伝える、
情感あふれる詩だった。
アーネスト・シャクルトン1
20世紀の初め。
ロンドンの新聞に載った広告が
話題をさらった。
探検隊員求む。至難の旅。
わずかな報酬。極寒。暗黒の長い月日。
絶えざる危険。生命の保証無し。
ただし、成功の暁には名誉と賞賛を得る。
これは、探検家アーネスト・シャクルトンが掲げた
南極探検隊員の募集広告。
この文を読んで、
心を熱くした者だけが
苦難を乗り越えられる資格をもつ。
この広告で、
シャクルトンの卓越したリーダーシップが
すでに発揮されていたのだった。
アーネスト・シャクルトン2
アーネスト・シャクルトン隊長は、
隊員27人を率いて
南極横断の探検に出発した。
そこは一夜にして
数十キロの海が氷るような極寒地。
南極を目前に巨大な氷に阻まれ、
船が座礁してしまった。
ついに沈没した船から脱出し、白い地獄を彷徨う。
それから20カ月も氷の上を漂流し、
耐え続けることになろうとは…。
絶望的な危機に、
隊長は考えた。
全隊員に生きる希望を与え続けよう。
希望とは仕事だった。
毎日時間割で仕事を担当させ、
使命と責任、緊張を維持した。
人は命令では動かない。
人は階級では動かない。
机上のリーダー論では命を守れない。
生きるんだ。
そしてシャクルトン隊長は、
素晴らしいリーダーシップで
一人も犠牲者を出すことなく、全員生還させたのだ。
ロッシーニ
tournedos rossini
牛ヒレ肉のロッシーニ風
この“ロッシーニ”とは
イタリア最高の作曲家ともいわれる
ロッシーニのこと。
フォアグラやトリュフを使ったレシピを考え、
料理に自分の名がつくほどの
美食家であった。
ある日、知人の家でご馳走になった後、
「また食べにいらして」と言われて、こう返した。
今でもいいのですが…。
古今東西、食いしん坊はどこか憎めない。
ラブレター1 カフカ
過去にもらった、
あのラブレターは、
いまどこにあるだろう。
作家カフカは、
恋人ができると情熱的に、
短期間に何百通も手紙を送った。
恋人たちは、まだ無名だったカフカからの
手紙を捨てずに、
別れてもずっともっていた。
きっと、カフカの手紙には言葉に命があった。
捨てられない。大切に残したい。
そんな魅力でいっぱいだったに違いない。
カフカの死後、多数の手紙は、
受け取った恋人の名前がつく本となった。
『フェリーツェへの手紙』は700ページ、
『ミレナへの手紙』は400ページを超えた。
逆にカフカ自身は、恋が終わると
女性から受け取った手紙は処分していたという。
だから、まさか自分が書いたラブレターが
世の中に公開されるとは。
天国で顔を赤くしたかもしれない。
三船敏郎
映画俳優、三船敏郎は、
『スター・ウォーズ』と
『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』
の出演依頼を2度とも断った。
いろいろな理由があったにしろ、
『七人の侍』の菊千代そっくりと言われる
一本気な性格が、どこかで影響してしまったのか。
それにしても…
仮面をかぶらないダースベイダー、
三船がライトセーバーを振り回す姿。
ぜひ観たかったもの。
映画ファンとして、
ほんとうに惜しいエピソード。
江戸川乱歩
平井太郎は、
貿易会社で働き始めたが
1年しか続かなかった。
それから、いろいろな仕事に手を出した。
古本屋、新聞記者、ポマード工場の支配人。
チャルメラを吹いて夜泣きそばを
売り歩いたこともあった。
そして、何度目かの失業のとき、
賞金目当てで小説を書き始める。
2週間で書き上げた処女作『二銭銅貨』は
見事雑誌に掲載されたのだった。
こうして平井太郎は、江戸川乱歩になった。
就職できても、
天職にめぐりあうまで
シューカツは続くのかもしれない。
乱歩のように。
ラブレター2 短い告白
一枚の便せんに
太宰治が書いた、
たった4文字のラブレター。
「こひしい」
はるか遠く、
南極越冬隊の夫にあてた妻からの、
たった3文字のモールス信号。
「あなた」
日本中で
送受信されているかもしれない、
たった2文字のメール。
「すき」
たったそれだけの、
すばらしい言葉。
さて、1文字だったら…
と考えながら、
夜は深まって。
蛭田瑞穂 10年11月27日放送
アメリカ人作家エドガー・アラン・ポーが
1841年に発表した小説『モルグ街の殺人』。
これが史上初の推理小説と言われる。
今日、推理小説で使われるさまざまなトリックは、
そのほとんどがポーによって発明されたと言ってもいい。
密室殺人、暗号のトリック、
探偵自身が犯人だったというドンデン返し。
探偵の活躍を探偵自身ではなく、
友人役が語るというシャーロック・ホームズでお馴染みの手法も
ポーが最初に使った。
エドガー・アラン・ポー。
彼こそが推理小説の父である。
ミステリーの巨匠ヴァン・ダインがつくった、
推理小説を書く上で作者が守らなければならない20のルール。
通称「ヴァン・ダインの二十則」。
たとえば、
「事件の謎を解く手がかりは、
すべて明確に記述されていなくてはならない」。
あるいは、
「探偵は論理的な推理によって
犯人を決定しなければならない」。
それからこんなことも。
「占いや心霊術、読唇術などで
犯罪の真相を告げてはならない」。
推理小説とはいわば、作者と読者の謎解きゲーム。
ゲームをおもしろくするには厳格なルールがなければならない。
1882年、スコットランドの若い医者が
眼科を専門とする診療所を開いた。
しかし、客足はさっぱりだった。
暇をもてあました彼は、
小遣い稼ぎのために小説を書き始める。
探偵が主人公の推理小説だった。
小説を書き上げると原稿をいくつかの出版社に送った。
しかし、出版社からはことごとく掲載を拒否され、
数カ月後にようやく採用されたものの、
原稿料はたった25ポンドだった。
その小説が『緋色の研究』。
アーサー・コナン・ドイルのデビュー作にして、
探偵シャーロック・ホームズを生み出した作品である。
まったく、人生には何が起きるかわからない。
かの名探偵シャーロック・ホームズは一度殺害されたことがある。
犯人は誰あろう、作者のコナン・ドイルである。
ホームズの一連の作品によって
人気作家となったコナン・ドイルだが、
彼が本来書きたかったのは推理小説ではなかった。
そこで、ドイルはシリーズに終止符を打つべく、
『最後の事件』という小説を執筆し、
水煙を上げる滝壺の中にホームズを突き落とした。
ところが、事の顛末はドイルの目論見どおりに進まなかった。
シャーロック・ホームズの死に納得のいかない読者から、
抗議の手紙が出版社に殺到する。
その声におされてドイルはホームズの復活を決心するのである。
作者に殺され、読者に命を救われる。
名探偵の人生はじつに波乱に満ちている。
作家レイモンド・チャンドラーが生みだした探偵、
フィリップ・マーロウ。
古今東西、さまざまな探偵がいるけれど、
彼ほど魅力にあふれる探偵はいないだろう。
貧しいけれど、誇り高い。
男らしく正義感が強いが、
女性らしい繊細さも持ち合わせている。
そんな彼だけに、粋なセリフがよく似合う。
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」
「タフでなければ生きて行けない。
優しくなければ生きている資格がない」
フィリップ・マーロウ。
その名はハードボイルドの代名詞。
くたびれた背広に、着古したレインコート。
櫛の通っていないボサボサの髪の毛。
いつも安物の葉巻を持ち歩き、
ところかまわず吹かそうとする。
口癖は「うちのカミさんがねぇ」。
テレビドラマから生まれ、
俳優ピーター・フォークが演じた刑事コロンボ。
風貌は冴えないが、
鋭い推理で知能犯の犯行を暴き、人気を博した。
あのー、ちょっといいですか?
コロンボにそう声をかけられたが最後、
犯人はもう落ちるしかない。
サスペンスの神様、アルフレッド・ヒッチコックは、
「サスペンス」と「スリル」と「ショック」の違いについて、
こう説明している。
乗るべき汽車の時刻に間に合うかどうかと必死に駅に駆けつける。
これがサスペンス。
ホームに駆け上がり、発車間際の列車のステップにしがみつく。
これぞスリル。
座席に落ち着き、ふと考えなおしてみると、
自分が乗るはずの列車じゃなかった、と悟るその一瞬がショック。
夜の長いこれからの季節。
ヒッチコックの映画を観て、ドキドキしてみませんか?
薄景子 10年11月21日放送
あの人の暮らし チャールズ・M・シュルツ
世界中で愛されているスヌーピーの生みの親、
チャールズ・モンロー・シュルツ。
彼の作品に、幸せとは何かを綴った絵本がある。
しあわせは落ち葉の山。
しあわせは自分のベッドで眠ること。
30にわたる幸せの定義は、
何気ない毎日の中の、ささやかなことばかり。
小さな幸せは、
気づいてあげると
かけがえのないものになってくれる。
あの人の暮らし 松浦弥太郎1
今日のランチはどこへ行く?
将来はどっちの道に進む?
人生は選択の連続といってもいい。
大切なのは、そのときどき、
自分の判断を信じられるか。
暮らしの手帖の編集長、松浦弥太郎さんは
日々、選ぶ訓練を続けているという。
電車に乗れば、あたりを見回して考える。
この車両で一人友だちをつくるとしたら誰がいいだろう?
あのおばあさんの話をじっくりききたい。
この男性とは映画の趣味があいそうだ。
毎日、選ぶ訓練をかさねると、
直感力と想像力がきたえられ、
数ある中から、コレというお宝が
瞬時に見つけられるという。
さっそく、野菜売り場で考える。
今晩は、舞茸をてんぷらにするのと
大根をおでんにするのは、
果たしてどっちが幸せだろう。
選ぶ訓練は、
暮らしを楽しくする訓練でもある。
あの人の暮らし 松浦弥太郎2
雑誌編集長であり、
古本屋を営む松浦弥太郎さん。
彼のエッセイを読んで、
ハッとしたことがある。
いつくしむ方法は、1日1回、さわること。
松浦さんはお店の商品や椅子の脚に
毎日一度さわるという。
家でも、さわれる量以上の服や本は
できるだけもたない。
たしかに、何年も着ていないスーツには生気がない。
人の行かない別荘はすぐに悪くなる
という話もよく耳にする。
ものに命を吹き込むのは人。
ていねいに暮らす人は、
もちすぎない豊かさを知っている。
熊埜御堂由香 10年11月21日放送
あの人の暮らし 佐野洋子とシズコ
絵本「100万回生きたねこ」で
知られる作家、佐野洋子は、
母親、シズコとの親子関係に悩み続けた。
高校の担任に、母は長女との関係をこう言った。
女同士ということで嫉妬、かもしれません。
洋子は自分にどこか近い父にだけ、なついた。
終戦後、シズコは未亡人になるが、
めそめそせず、いつもばっちり化粧していた。
そんな母を、下品だ、と洋子は思っていた。
シズコが80歳近くになる頃、洋子と二人で暮らし始める。
シズコには痴呆の症状がではじめていた。
自身も60代にさしかかり、苦しかった。洋子は、
結局、母を施設に預ける決意をする。
子どもの頃は、手をつなぐことさえ、嫌悪し合ったのに。
洋子は、施設でシズコの体をさすり、
1つの布団へ一緒に入り話をした。
それは母と娘の暮らしの、最後の形だった。
シズコさんは、洋子さんに、無邪気に言った。
私とあなたの間には、いることも、いらないこともあったわねぇ。
あの人の暮らし 佐野洋子
作家、佐野洋子。
今月5日、72歳で、静かに息をひきとった。
彼女は言った。
余命2年と云われたら
人生が急に充実して来た。
毎日が楽しくて仕方ない。
余命2年をゆうに超えて、
洋子さんは、暮らした。生きた。