小山佳奈 10年10月24日放送
「ビート・ジェネレーションの肖像」
ジャック・ケルアック、
アレン・ギンズバーグ、
ウィリアム・バロウズ。
1944年.ニューヨーク118丁目のアパートメントに
集まった若者たちがいた。
彼らはみんな未来に対する前向きな姿勢を失っていた。
華やかなアールデコの時代から
ウォール街の大暴落、
それに続いて起こった世界恐慌。
大人たちによって引き起こされた転落は
社会に対する不信感となってあらわれたのだ。
彼らは社会ではなく自分自身に興味を持った。
後に彼らは
「ビート・ジェネレーション」と呼ばれ
世界中の若者たちに
熱狂的に迎えられる詩や小説をかきはじめる。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
「路上」というたった一冊の本で、
20世紀のアメリカの若者に神とあがめられた作家、
ジャック・ケルアック。
彼の夢はそもそもフットボールの選手だった。
しかし鳴り物入りで入ったコロンビア大学で、
コーチと大げんか。
鬱屈した想いでニューヨークを歩きまわると
そこは生まれ育った田舎町では見たことのない
まぶしさに溢れていた。
酒と、女と、ドラッグ、そして、
そのどれよりも刺激的な友人たち。
彼はあっさりドロップアウトし
狂ったように小説を書き始めた。
もしも彼がその時、コーチに気に入られていたら、
ヒッピーもロックも生まれていなかっただろう。
運命は、だいたい、ちょっとしたことで決まる。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
孤高の詩人、アレン・ギンズバーグ。
1950年代のアメリカを席巻した
ビート・ジェネレーションの中で
いち早く売れたのが彼だった。
彼は同性愛者で、
同じくビート世代の作家、
ケルアックに一目ぼれ。
自由なケルアックに振り回されながらも
彼を出版社にせっせと売り込み続け、
それがケルアックの成功につながる。
それは「ケルアック」という名の
ギンズバーグ最高の作品だった。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
作家、ウィリアム・バロウズ。
妻を間違えて射殺してしまったり、
幻のドラッグを求めてチベットまで旅をしたり
逸話には事欠かない戦後文学の奇才。
彼は博学だったし頭もよかったけれど、
作家になりたいなんて
これっぽっちも思っていなかった。
そんなバロウズの才能を
誰よりも惜しんでいたのは
親友のケルアックだった。
彼はバロウズが床に書き散らした文章を
拾い集めてタイピングしタイトルまでつけて
本に仕立て上げた。
友情。
陳腐な言葉だが、
誰かに対する使命感と翻訳すればうなづける。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
かのカート・コバーンが憧れ、
今なおアメリカの若者のカルト・ヒーローで
ありつづける男。
ニール・キャサディ。
彼自身が書いたものは一篇もない。
だが彼の無軌道な生き方に、
ビート・ジェネレーションの仲間たちは
憧れ、嫉妬した。
ガムのようにたやすく車を盗んだかと思えば
ショーペンハウアーを諳んじ女をくどくニール。
それは小説のヒーローとして申し分のない素材で
ケルアックは彼との旅を一冊の本に記した。
それが「路上」
無軌道なヒーローに世界中の若者は酔い
ケルアックはスター作家になった。
そんな成功とはまるで無関心に
ニールはあっけなく死んだ。
メキシコの道の上で裸で倒れていた。
まさに「路上/オン・ザ・ロード」
ニール・キャサディは自分自身が作品だったのだ。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
若さとは実験である。
作家、ジャック・ケルアックは、
タイプライターの紙を交換する手間が
どうにも許せなかった。
浮かんだ言葉がその瞬間に
逃げていくからだ。
かくして彼は、
トレーシングペーパーを何百枚もつなぎ
40メートルもの巻物を作った。
ケルアックは
わずか20日で17万5千字の小説を書き上げたけれど
そんな面倒くさい巻物を読む出版社はどこにもなかった。
2001年、その巻物にタイピングされた
「オン・ザ・ロード」の原稿には
240万ドルの値段がつけられている。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
作家にとって
世に出ないことは
存在しないも同然である。
作家、ジャック・ケルアックは
ほぼ10年間、
無名であった。
先の見えない毎日の中
彼がそれでも書き続けられたのは
友人たちのおかげだった。
ギンズバーグはダリや知識人と引き合わせ、
バロウズは乞食同然の彼に
執筆できる部屋とタイプライターを用意した。
ケルアックは
世界で一番幸せな無名作家だった。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
1967年、
ビートの作家、ジャック・ケルアックは
アルコールの過剰摂取で死んだ。
若者のカリスマとまつりあげられた彼も
晩年は忘れ去られた存在になっていた。
しかし葬式当日。
町の人は異様な光景を目にする。
何百人という若者が全米中から集まり
献花の列をなした。
それから半世紀。
ビートルズ、
ボブ・ディラン、
コッポラ。
みんなみんな、
ビートに憧れて育った。
ケルアックは言う。
「若者よ、狂え。」
Jack Kerouac by photographer Tom Palumbo from New York, NY, USA
名雪祐平 10年10月23日放送
自分の絵は、売るためのものではない。
描きたいときに描くもの。
画家、熊谷守一はそう考えていた。
けれど、絵が売れなければ、貧しい。
4歳の息子が肺炎になっても十分な治療ができず、
命をなくした。
その死に顔を、
画家は描いたのだった。
絵を描かずに死なせた息子の亡骸を
描く自分に愕然とした。
それでも、
売るための絵は描けなかった。
画家は筆をおいた。
絵が描けない画家、熊谷守一。
貧しさから
次々と子どもたちを病で失ったが、
売るための絵は描けなかった。
ようやく60歳近くになって、
書や墨絵にめざめ、
こんどは娘の死をきっかけに
再び“絵を描く画家”に生まれ変わったのだ。
この後、画家は自宅の門から外へは
30年間出なかった。
小さな庭が画家の宇宙になり、
そこに息づく草花や虫、
生き物たちの命とたわむれ、
一日中眺め、
画家は唯一絶対の画風を
獲得していった。
熊谷守一の絵は、
独特である。
単純な色と線で、
対象物の内面まで表現する。
なにしろ、対象物への
愛情にあふれている。画家は言う。
絵でも字でも
うまく描こうなんて
とんでもないことだ。
名誉やお金にはまったく無頓着。
文化勲章も
「これ以上人が来るようになっては困る」
と辞退した。
97歳の死の直前に描いた名作『猫』は、
その自由で、のびやかな猫の表情が
まるで熊谷の自画像のようにも
思えてくる。
童話の父、アンデルセン。
若い日には、
オペラ歌手をめざしたり、
バレエ学校にも在籍したものの
失敗と挫折を繰りかえした。
その経験が、のちの
『みにくいアヒルの子』を生んだ
ともいわれる。
作家として大成功し、
まさしく美しい白鳥となったアンデルセンだったが、
女性に対しては醜いアヒルのように
モテることなく、生涯独身でおわる。
葬儀は、デンマークの国葬をもって
おこなわれた。
女性との縁に恵まれなかったが、
葬儀には王族からホームレスまで、
もちろん子どもたちも参列した。
たしかに、アンデルセンは
たくさんの人々から愛されたのだった。
そしていまも、
世界中の子どもたちを夢中にさせている。
ギリシャの哲学者、ディオゲネス。
みすぼらしい路上生活を送り、
どこでも平気で物を食べた。
そんな彼を見て、
人々は「まるで犬だ」とののしった。
ディオゲネスはこう言い返した。
「人が物を食っているときに集まってくる
おまえらこそ犬じゃないか」
食べることがおかしなことでなければ、
どこで食べてもおかしなことではない。
それが彼の哲学。
さて、現代。
道ばたで、地下鉄の中で、
物を食べている人々も哲学、
しているのだろうか。
ノーベル賞の条件。
それは長生きすること。
功績をあげてからの最長記録は
55年後の受賞。
その1人、エルンスト・ルスカは
25歳の年に電子顕微鏡を開発し、
80歳の年にノーベル賞物理学賞を受賞した。
今の研究開発が
未来のノーベル賞かもしれない。
みなさん、長生きしましょう。
孤独と不安。
それらを絵で表現するとしたら、
どんな色だろう。
どんな形だろう。
1つの見事な答えがある。
ムンクの『叫び』
不気味な赤い空。
ミイラのような男のゆがんだ表情。
自然をつらぬく、けたたましい、
終わりのない叫びに耐えかねて
男は耳をおさえている。
なぜ、ムンクには叫びが聴こえたのか。
病と狂気と死が、
私の揺りかごを見守っていた黒い天使だった。
そんなムンクの孤独と不安が
世界の叫びと激しく共鳴したのだろうか。
ムンクの『叫び』
それはまるで1枚の音。
薄景子 10年10月17日放送
本のはなし 五味太郎
読むというより、中に入っていっしょに遊ぶ。
そんな絵本を次々生みだす五味太郎。
彼のエッセイが名門私立中学の
国語の試験に出たことがあるという。
作者の意図を次の4つから選びなさい。
全体の論旨を50字以内でまとめなさい。
出題はぜんぶ五味さんの文章がらみだった。
試しにそのテストをやってみたという五味さん。
当然100点かと思いきや、フタをあければ68点。
85点が合格ラインの入試に、
不合格という結果になってしまった。
作者本人だぜ、たのむよ、中学に入れてくれよ。
とこぼしつつ、
この気分を50字以内にまとめてみよう!
と洒落で流すユーモアセンス。
どんなことでも面白がれる、五味さんの器は無限大。
石橋涼子 10年10月17日放送
本のはなし 森見登美彦
本は、読み終わってからが始まりかもしれない。
芥川龍之介は今昔物語を読んで「藪の中」を書き、
太宰治はギリシャ神話のエピソードから「走れメロス」を書いた。
そんな巨匠たちの作品を愛読しカバーしたのは、森見登美彦。
「新釈走れメロス他四編」という短編小説集は
近代日本文学の名作を現代に置き換えたものだ。
なぜ書いたのかと聞かれると、彼はこう答えた。
やりたくてしょうがなかったので
やったとしか言いようがない。
さあ、読書の秋。
今あなたが読んでいる本からは、何が生まれるだろう。
本のはなし 松谷みよこ
児童文学作家の松谷みよこは、
終戦直後の東京でデビューした。
当時は道徳的な読み物だった児童文学で、
彼女は戦争の辛さや社会の厳しさも隠さずに描いた。
松谷は、子どもをひとりの人間と考えている。
切ないことも厳しいことも受け止めるひとりの人間、と。
師匠である坪田譲治の教えは、この一言だったという。
人生をお書きなさい。
本のはなし 安藤忠雄
専門教育を一度も受けることなく
世界的建築家になった安藤忠雄は、大阪の下町で育った。
働き方も、生き方も、不器用でまっすぐ。
しかし、どんなに素晴らしい建築でも、
クライアントに説明できなければ建てられないし、
職人とケンカしてしまっては、完成しない。
あるとき、下町の小さな会社の社長に言われた。
キミはおもしろい人間だけど、
もっと本を読んだ方がいい。
安藤は、その言葉に従うことにした。
収入の半分は本にかける。そう考えて、大量に本を買った。
気になる部分にアンダーラインを引きながら読み
くりかえし読むたびに変わるラインの場所から
自分の思考の変化を分析したという。
今、安藤忠雄はこう語る。
先人の英知が詰まった本は、誰にも開かれた心の財産。
それを自ら放棄することは、あまりにも愚かなことだ。
本のはなし 俵万智
25歳で出版した歌集「サラダ記念日」が
ベストセラーになった女流歌人、俵万智。
一児の母になった彼女にとって、こどもの言葉は、
まっさらな目で世界を見る発見にあふれている。
おんぶしてほしいときは、
「せなかでだっこして」とせがみ、
半端な時間にお菓子を食べたいときは
「きもちが3時なの」とねだる。
俵万智は子どもの成長に驚いたり喜んだりしながら
こんな歌を詠んだ。
たんぽぽの綿毛をふいて見せてやる
いつかおまえも飛んでゆくから
熊埜御堂由香 10年10月17日放送
本のはなし スヌーピーの素顔
世界中で大人気のキャラクター、スヌーピー。
もともとはアメリカの人気漫画家
チャールズ・M・シュルツが
新聞に連載していた「ピーナッツ」という漫画の登場人物だ。
漫画の中で描かれるスヌーピーは
犬小屋の屋根の上で空想にふけり、多くの名言を残している。
例えば、こんな人生訓。
羊として12年生きるより、
ライオンとして1日生きるほうがましさ。
犬だって哲学するときがある。
本のはなし 魔女の宅急便
ジブリ映画で知られる「魔女の宅急便」。
原作は角野栄子(かどのえいこ)が書いた児童文学だ。
1985年に1巻が発売。
主人公の魔女のキキは13歳で修行にでかける。
人々に世の中には不思議なことがたくさんあるのだと、
自分の魔法で教えるという役目をせおって。
角野は、キキに「ほうきで飛ぶ」という魔法をひとつだけ授けた。
キキは、ひとを驚かせたり、怖がらせたりする魔法ではなく
ほうき1本で世界の不思議を街のみんなと共有したのだ。
その後も、キキたちの物語は紡がれ続け、昨年6巻でついに完結した。
キキは、34歳。初恋のとんぼさんと結婚して
2人の子どもがいる。
少女のころに降り立った街で、
ずっとずっと暮らしてきた。
角野は言った、
魔法はたったひとつでいい。そしてそれは、
魔女でなくたってきっと誰もが必ず
ひとつは持っているものなのだと思って
書き続けてきました。
そう、魔女のキキの物語は、
わたしたちの物語でもある。
本のはなし 装丁家・鈴木成一
装丁家・鈴木成一(すずきせいいち)。
約8000冊を手掛けた彼の方法論は明確だ。
原稿を読み込み、個性をかたちにすること。
装丁は、本の第一印象。
見かけに惚れてはじまる恋があってもいい。
気になる表紙の1冊を手にとってみよう。
坂本和加 10年10月16日放送
椅子は、かけるもの。
けれど、だれもかけていなくても
美しいと思わせる椅子がある。
ミッドセンチュリーの英国製。
その椅子を復刻し、
現代にプレゼンスしたのは、
ファッションデザイナーの
マーガレット・ハウエル。
アーコール社製の
その椅子には
著名なデザイナーの
華々しさはないけれど、
質のいい職人の作った
堅牢な機能美がある。
長く使えるもの。
多少ほころびても、
くたびれても、捨てられないもの。
「よいもの」であること。
それがマーガレット・ハウエルのデザインだ。
Good design is timeless.
ひとつの肩書きにはおさまらず、
まさに、職業「寺山修司」だった彼が、
大の競馬好きでもあったことは、
よく知られていること。
おもしろいのは、
寺山流馬券の買い方。
クセのある馬を気に入っては
手元の数字を組み合わせて
当てずっぽうに買う。
だから寺山は結局
いつもゼロに賭けた。
「儲かってますか」という質問には、
こんなふうに返したという。
では、あなたがこれまでに見た芝居で、
泣いたのと笑ったの、どちらが多いですか?
競馬ファンが握りしめているのは、
馬券なんかじゃない。
自分自身の過去と未来だ。
ファン層は30代女性を中心。
そのライブには
著名なタレントや女優まで
足繁く通うという
シンガーソングライターがいる。
浜田真理子。
ちいさなジャズバーで
始まった彼女の音楽は、
いつしかせつない言葉たちを
味方につけた。
クチコミで広がった噂に、
メジャーデビューの声もかかった。
けれど彼女は、いまも松江で、
好きな音楽をして、
ふつうのひとと同じように暮らす。
東京に行かないのは、
東京でなくても、できるから。
本物というのは、やっぱりすごい。
育てた上げたマラソン選手は、
きっともう数え切れない。
有森裕子も、高橋尚子も
あの監督がいなければ、
メダルはなかったと口をそろえる。
それが、小出義雄監督だ。
小出監督は、
昨今のマラソンブームの立役者でもある。
都知事に東京マラソンを提言し、
ウェブでは市民ランナーを
指南する「小出道場」を運営する。
「一般のひとに、マラソンの楽しさを」。
金メダルのつぎに見た小出監督の夢は、
あっという間に叶った。
いまは2度目の金メダルの夢を見ている。
とにかく好きなんだな、かけっこが。
監督、つぎのオリンピックが、
今から楽しみです。
宇宙飛行士、野口聡一さんは、
小学校1年生のとき文集に
「ロケットに乗りたい」と書いた。
初フライトは40才。
野口さんは30年以上も、
夢を追いかけつづけたことになる。
ただ毎日、ちいさな目標を
掲げてクリアする。
その積み重ねの延長に、
宇宙の夢も見えてきた。
100年後、宇宙飛行士は
めずらしくない職業になる。
僕は歴史に名を残すより、
宇宙への挑戦を続けた
名もなき宇宙飛行士のひとりでいい。
そうか、情熱が夢を追いかけているのだ。
たとえばあなたが、
うまいスピーチや
企画書の書けるひとを、目指すなら。
ことばを、豊かで美しく、
広がりと厚みのある
表現に変えてくれる
テクニックがある。
たとえば、
古今和歌集の時代から
いまも連綿と続く掛詞。
平成のレトリックなら、
広告のキャッチコピーに、
それが見つかる。
ネクタイ労働は、甘くない。
コピーライター、眞木準。
クールでシャレた
コピーをつくる天才だった。
いまでこそ有機野菜は、
安全でおいしい、
栄養価も高いと人気だが、
40年前は、そうではなかった。
お手本を里山の生態系に、
金子美登さんは
独自の有機農法を実践した。
利潤を追求するより、
「見事に循環している自然」
に含まれること。ひとも野菜も。
生産量が少ない
金子さんの野菜を
味わえるのは地元のひとだけ。
だから、いいのだ。
全国各地に、金子方式ができれば、
日本が抱えるさまざまな問題も
かわるだろうと
金子さんは思うから。
21世紀は耕す文化。
工業や製造業にはない感動が、
まだ農業にはあると、鈴木さんは言う。
蛭田瑞穂 10年10月10日放送
1.東京オリンピックを支えた人々「北出清五郎」
1964年の今日、東京オリンピックの開会式が開かれた。
敗戦から19年、オリンピックの開催は日本国民の悲願だった。
テレビから流れる開会式の模様を、
多くの日本人が万感の思いで見つめる中、
中継を担当したアナウンサー北出清五郎は、
こんな言葉で実況を始めた。
世界中の青空を全部日本に持ってきてしまったような、
素晴らしい秋日和でございます。
1964年10月10日の青空。
それは日本の復興を祝うかのような美しい青空だった。
2.東京オリンピックを支えた人々「亀倉雄策」
日本を代表するアートディレクター、亀倉雄策。
彼の名を世界に広めたのが、
1964年の東京オリンピックのポスターである。
亀倉は真夜中の競技場に4台のカメラと
50台のストロボを運び込み、
陸上選手の撮影をおこなった。
スタートダッシュと、シャッターを切るタイミングを
完璧に合わせるために、選手たちは肉体の限界を超える
30回ものダッシュを繰り返したという。
オリンピック競技の躍動感と緊迫感が
凝縮された一枚のポスター。
それはオリンピックの本質を
見事に表現しているだけでなく、
日本のグラフィックデザインのレベルを
世界に示すポスターだった。
3.東京オリンピックを支えた人々「フレッド・和田勇」
東京オリンピックの成功の裏にひとりの日系人の尽力があった。
彼の名は、フレッド・和田勇。
和田とオリンピックの関わりは、
1949年にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に始まる。
当時まだ戦争の禍根の残るアメリカで、
日本人選手団が泊まれるホテルはなかった。
その時、和田は自宅を宿泊場所として提供し、
親身に選手たちの世話をした。
それが縁となり、のちに東京オリンピックの準備委員に就任。
南米の国々を訪問し、各国のオリンピック委員たちに
東京開催の協力を依頼してまわった。
その渡航費用などはすべて自費でまかなったという。
1964年10月10日。
東京オリンピックの開会式をロイヤルボックスから眺めていた和田は、
止めどなく涙を流しながらこう言った。
日本はこれで一等国になったのや。
戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。
日本人は皆よう頑張った。
4.東京オリンピックを支えた人々「勝見勝」
オリンピックの競技種目や、
会場内の施設を案内するためのサインマークを
ピクトグラムという。
初めて採用されたのは1964年の東京大会。
美術評論家の勝見勝をディレクターに、
30人ほどのデザイナーが集まって制作された。
世界中からやってくる言葉の異なるお客さまに、
一目で情報がわかるように。
オリンピックのピクトグラムには
そんな日本人のもてなしの心が隠されている。
5.東京オリンピックを支えた人々「平沢和重」
1959年5月26日。
次期オリンピック開催地を決めるIOC総会が
ドイツのミュンヘンで開かれた。
開催地に名乗りを上げていたのは、
東京など4都市。
各都市が順にプレゼンテーションをおこなう中、
東京を代表してスピーチをおこなったのが、
当時テレビ局の解説委員を務めていた、平沢和重だった。
45分の持ち時間があったにもかかわらず、
平沢は15分でスピーチを終わらせた。
その簡潔な内容に、彼が話し終えると
会場から大きな拍手が湧き上がった。
東京の未来を決めたわずか15分のスピーチ。
その中で彼はこう訴えた。
西欧の人々は、日本をファーイーストと呼びますが、
ジェット機時代を迎えたいま、ファーではありません。
国際間の人間同士のつながり、接触こそが
平和の礎ではないでしょうか。
6.東京オリンピックを支えた人々「安川第五郎」
1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開幕式。
前日までの東京は暴風雨が吹く荒れた空模様だった。
開幕式の中止さえ危ぶまれる中、
東京オリンピック組織委員会会長の安川第五郎は、
天に向かって、ひたすら晴れを祈り続けた。
その甲斐あってか、当日は抜けるような青空になった。
後年、安川は事あるごとにこんな言葉を人に贈ったという。
「至誠通天」。
心を持って祈れば天に通じる、という意味である。
7.東京オリンピックを支えた人々「坂井義則」
オリンピックの聖火を運ぶ最終ランナーは、
過去のメダリストなど、
著名なスポーツ選手が務めることが通例になっている。
しかし、1964年の東京オリンピックの最終ランナーは、
酒井義則という、早稲田大学競走部の学生だった。
輝かしい実績があるわけでもない学生が
最終ランナーに選ばれた理由。
それは彼が1945年8月6日に広島に生まれた若者だったから。
原爆投下直後に生を受けた聖火ランナー。
それは平和の祭典にふさわしい人選だった。
8.東京オリンピックを支えた人々「市川崑」
巨匠、市川崑が総監督を務めた
ドキュメンタリー映画『東京オリンピック』。
市川崑は監督を任命されると、
谷川俊太郎など3人の作家に協力を依頼し、脚本づくりを始めた。
そこで生まれたのが「人類の平和」というテーマだった。
完成した映画は、単なる記録映画を超えた芸術性の高い作品になり、
カンヌ映画祭の国際批評家賞も受賞した。
映画の最後はこんなメッセージで締めくくられる。
聖火は太陽へ帰った。
人類は4年ごとに夢を見る。
この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか。
三國菜恵 10年10月09日放送
バンジョーはアメリカ生まれの楽器。
ギターよりも弦の数が少なく
まるい形をしている。
それが、ジョン・レノンが初めておぼえた楽器だった。
手ほどきをしたのは、生みの母である、ジュリア。
訳あって離ればなれに暮らしていた二人だったが
コードを覚えたくて仕方なかったジョンは、
バンジョーが得意だった母のもとへ通った。
母と子の絆になったバンジョーがきっかけで
ジョンはミュージシャンへの道を歩きはじめるが
同時にそれは、ギタリスト ジョン・レノンに
ある癖を残すことになった。
その頃の演奏についてジョン自身が語る。
6本めの弦の使いかたがわからないままギターを弾いていた
正しく弾けることが、人を魅了する音楽になるとは限らない。
ジョン・レノンは、
ロックスター最初の「主夫」でもあった。
1975年、35歳の時に
息子 ショーン・レノンが誕生。
彼は、音楽活動を休止して
育児にいそしむことを選んだ。
僕には、仕事と家庭は両立しないように思えた。
ヨーコとの関係や子どものことの方が
ずっと大事に思えたんだ。
息子の骨格の変化を気づかったり、
どんなテレビを見せようか悩んだり。
パンを焼いてヨーコの帰りを待つ日もあったという。
そんな「主夫」生活にも、ピリオドが。
きっかけは、5歳になった息子が
友だちの家から帰ってきた時に発した、こんなひと言だった。
パパって、ビートルズだったの?
三島邦彦 10年10月09日放送
ビートルズとその他のバンドを決定的に分けたもの。
それは、「ユーモアのセンス」だったのかもしれない。
ある時、インタビューを受けたジョン・レノン。
「フランス人はビートルズに関して
はっきりした意見を持っていないようですが、
あなた方はどう思いますか?」
という質問に、こう答えた。
ああ、僕らはビートルズが好きだよ。あいつら、かっこいいもの。
ものの見方を変えれば、状況は一変する。
ジョンはやがて、ユーモアの力を
世界の暴力に立ち向かう武器へと変えていった。
ギターとベースとドラム。
シンプルな構成で、一時代を築いたビートルズ。
ジョン・レノンはビートルズの初期を振り返ってこう言った。
私たちはアーティストと呼べるようなものではなくて、
単なるロックン・ローラーだったのです。
しかし、その音楽に人々は熱狂した。
ステージでの演奏は観客の叫び声でほとんど聞き取れなかった。
そこで、レコーディングを活動の中心にすえる。
楽器によるシンプルな演奏から、機械を駆使した実験的な音楽づくりへ。
それはビートルズが、ロックミュージシャンから、
アーティストへと変わることでもあった。
この対応能力に関しては、ジョン自身も誇りに思っていたようだ。
後に、こんな言葉を残している。
私たちは有能でした。どんなメディアのなかに置かれても、
なにか価値のあるものをつくり出すことができますから。
もし、まだ、ジョンがこの世にいたならば。
進化するインターネットの世界で
どんな驚きを見せてくれていただろう。
中村直史 10年10月09日放送
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの
行動はいつも具体的だった。
戦争に反対して、
ふたりでベッドにこもりつづけたときも。
人種差別の愚かさを示すため、
袋に入ったままインタビューを受けたときも。
奇をてらいたかった訳ではなく、
具体的に、世界を変えたかったのだと思う。
ジョンが亡くなってからというもの、
ほぼ毎年、オノさんは、
ジョンの誕生日に
木を植えて過ごしているという。
今日、10月9日、世界のどこかに木がふえる。
ふたりの具体的な行動が、
今年もまた、ほんのすこし世界を変える。