細田高広 10年09月11日放送
現代の技術をもってして、
何故300年も前のヴァイオリン、
ストラディバリウスを越えられないのか。
その秘密を解き明かそうと、
いくつもの科学者チームが分析をしてきた。
木材に秘密がある。ニスの塗り方が決め手だ。
いくつもの仮説は生まれた。
しかし、ストラディバリウスには近づけない。
ヴァイオリニスト
イツァーク・パールマンは言う。
ストラディバリウスは ”音”を持っています。
すでに音楽がそこにある。
自分は弓を楽器の弦にのせて動かすだけで、
音楽が流れ出てくるのです。
科学はまだ、感性を超えられない。
3度のグラミー賞を
受賞した音楽家にして、
発明家の殿堂入りも果たした男。
レス・ポール。
彼が生まれなければ、
B.Bキングも、ジェフ・ベックも、
キース・リチャーズも生まれなかった。
彼のギターを愛する男を並べれば、
アメリカの
ポピュラー音楽史になってしまう。
94歳で無くなるまで、
毎週月曜日にイベントを開催し、
現役でギターを弾き続けたレス・ポール。
彼は、語る。
成功する秘訣は、
今より少しだけ上を目指すこと。
これを続けることだね。
天国でもきっと、
レス・ポールは鳴りやまない。
譜面はモナリザよりも美しい
と言ったのは、
ギタリストのスティーブ・ヴァイ。
フランク・ザッパから技術を学び、
バークレー音楽院で理論武装をした。
奇抜な衣装を身に纏い、
長髪をたなびかせるその姿。
3本のネックがついたギターから
繰り出される、
ギターの制約や定石を完全に無視した
フレーズの数々。
そんなスティーブ・ヴァイを
ファンたちは変態ギタリストと呼ぶ。
「上手」や「かっこいい」を追い求めても、
新しい音楽は生まれないから。
「変態」は、音楽家にとって
最大の誉め言葉かもしれない。
バット職人、久保田五十一。
父親が51歳の時に生まれたから、
五十一と書いて、「いそかず」と読む。
51という数字の魔力だろうか。
彼は「51番」を背負うある男と
運命の出会いを果たす。
メジャーリーグのシアトルマリナーズで活躍する、
イチロー選手だ。
木を見極め、精巧な技術を駆使してバットを仕上げる。
イチロー選手は、そんな久保田がつくるバットしか使わない。
それでも久保田は、控えめに言う。
バッターと木が主役。私は脇役です。
10年連続200本安打への期待がかかる今年。
イチロー選手と久保田の記録は、
どこまで伸びるだろうか。
八木田杏子 10年09月11日放送
都会と田舎では、セミの鳴き方も違うらしい。
青森の八戸から東京に来たお婆さんは、
排気ガスに咳き込みながら、
セミの鳴き声が違うことに気がついた。
わずかに残された木々にしがみついて、
せわしない鳴き声をたてる東京のセミ。
そんなセミも、
山にかこまれた田んぼが青々と広がる場所では、
のんびりと鳴いているらしい。
明日は日曜日。
せめて、一日のんびりと過ごしませんか。
夏休みを振り返ってみよう。
頑張った夏は、これからのチカラになる。
さぼった夏は、これからもずっと足をひっぱる。
ある小学校の先生は、
漢字ドリルをやらなかった子供に、
その何倍もの夏休みの宿題を出していた。
おどろいた親に、先生はこう言った。
私は厳しいから、
そのときは恨まれるけど、
あとから感謝されるんです。
やり残した夏の課題は、ありませんか。
まだきっと、間に合いますよ。
昭和20年の夏
沖縄には270万発の銃弾と6万の砲弾が撃ち込まれた。
ロケット弾は2万、機関銃の弾はおよそ3000万発だそうだ。
それでも沖縄の海は青い。
空も高くぬけるように青い。
あの年の夏も、きっと青かっただろう。
さとうきび畑の風も
きっと同じように吹いていただろう。
沖縄から生まれたバンド「かりゆし58」は、
「ウージの唄」に想いをこめる。
ウージの小唄ただ静かに響く夏の午後
あぜ道を歩く足を止めて遙か空を見上げた
この島に注ぐ陽の光は傷跡を照らし続ける
「あの悲しみをあの過ちを忘れることなかれ」と
沖縄に行くと、誰もが癒される。
その居心地のよさは、
辛い体験をした人たちが、破壊された土地の上に
もう一度築きあげてくれたもの
それを忘れないようにしたい。
もうすぐ、65年目の夏が終わります。
小山佳奈 10年09月05日放送
「フランツ・カフカの日常」
朝8時に役所に行き、
午後2時まで働く。
午後3時に家族と昼食をとり、
仮眠をし、散歩をし、夕食をとった後は、
夜10時半から午前5時まで執筆。
これが、
20世紀最高の作家、
フランツ・カフカの
すべてであった。
独身で
役所勤めで、
実家暮らし。
おそろしく規則正しく
おそろしく不規則な生活。
そこから彼は
おそろしく奇妙な作品を
次々と生みだした。
「公務員 フランツ・カフカ」
カフカは優秀な
公務員であった。
「労働者傷害保険協会」という
聞くからにまじめそうな役所に
勤めていたカフカは
それにも負けないまじめな仕事ぶりで
上司からの信頼も厚かった。
何よりも頼りにされたのが
文書の類だった。
友人たちが文壇で活躍する中、
彼は黙々と
協会の年次報告書や
保険に関する論文といったものを
書き続けた。
カフカはあくまで
優秀な公務員であった。
「フランツ・カフカの奇妙な行動」
フランツ・カフカは
数多くの芸術家と同じように
生きている間はほぼ無名であった。
生涯で出版した本は全部で7冊。
それもごく少ない部数しか刷られず
一般の人にはなかなか目につかなかった。
であるのに、カフカはなぜか
せっかく書店に並んでいる本を
ことごとく買い占めた。
売れ残っているのが恥ずかしいのではない。
自分の作品が人の目に触れることを
極度に嫌がったのだ。
そんなカフカは死ぬ間際、
親友のブロートに切願した。
すべての手紙と作品は破棄するように。
ブロートは深くうなずきながら、死後、
彼の作品を次々と世に送り出した。
私たちは
親友の大いなる裏切りに
感謝しなければならない。
「フランツ・カフカ少年」
14歳のフランツ・カフカが
友人の家に遊びに行った時の話。
「作家になりたい」と口にしたカフカを
その友人の兄が笑った。
それに対してカチンときたカフカは
帰り際、その家の訪問帳にこう書いた。
出会いがあり、交わりがある。
別れがあって、そしてしばしば再会はない。
残された中でおそらく
人生最初の作品において
その類まれなる文才と皮肉は
すでに完成されていた。
「フランツ・カフカと女」
カフカはめんどくさい男だ。
フェリーツェという女性と
二度、婚約して、
二度、破棄した。
500通と言う尋常ではない数の手紙を送っては
返事がないと不満をもらす。
彼女がカフカに魅かれ始め
実際に会いたいと言った途端に
さまざまな理由をつけて逃げ回る。
挙句の果てに
仲介役に入った彼女の友人と
こっそり文通を始める。
カフカは本当に
めんどくさい男だ。
そんなめんどくさい男を
好きになってしまうのが、
女という生き物。
その証拠に、フェリーツェは
カフカからの手紙を
生涯、捨てることはなかった。
「フランツ・カフカの発明」
フランツ・カフカ。
作家であり公務員でもあった
彼の仕事は、
工場で事故にあった労働者に
ちゃんと保険が支払われているかを
監督することだった。
現場へ視察に行くと心配性の彼は必ず
「安全ヘルメット」をかぶった。
それを見た工員たちが
ヘルメットを着用するようになると
工場では事故が大幅に減った。
そこから「安全ヘルメット」が
世界中に普及したのだ、とか。
工事現場を見かけたら
カフカをちょっと思い出そう。
「フランツ・カフカと南京虫」
今やらなくてはならないことがあるときほど、
今やらなくていいことがはかどる。
フランツ・カフカは
5年の間、長編小説に
かかずらっていた。
逃げたい一心で書きだした
とある短編は
その短さも手伝って
一気に書き上がった。
それが後に
カフカの名を不朽のものにした
「変身」。
ちなみにこの「変身」、
当初は「南京虫物語」という
タイトルだったという。
「フランツ・カフカの最期」
1924年、
カフカは死んだ。
結核だった。
激しい痛みの中でも
彼は書くことをやめなかった。
最後の作品は「断食芸人」。
自ら食べることを拒む男の話を
食べることを拒まれた作家は
震える手で書きあげた。
ぼくの書くものに
価値がないとしたら、
それはつまり、
この自分がまるで
無価値だということだ。
フランツ・カフカは
やはり作家だ。
やさしくて孤独な
世界最高の作家だ。
佐藤延夫 10年09月04日放送
ラフカディオ・ハーンが来日した数年後、
ひとりのポルトガル人が神戸の町に降り立つ。
ヴェンセスラウ・デ・モラエス。
ポルトガル領事館の日本総領事長を務め
「日本通信」という本を発表したが、
ハーンほど有名にはならなかったし、
もてはやされることもなかった。
最愛の人、おヨネが亡くなると
彼女の故郷、徳島で暮らし始める。
そびえ立つ眉山と自然の美しさに惹かれたのだろうか。
こんな言葉を残している。
立ち並ぶ木々の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、
囁く小川、美しい田畑で飾り立てたふんだんに緑また緑の風景・・・
いつも和服姿で正座をしていたポルトガル人は、
島国の小さな町で、
緑の中に溶けていった。
宮沢賢治の生まれた4年後、
尾形亀之助は、産声をあげた。
どちらも東北出身で
病気に悩まされ
若くして亡くなったが、
ふたりとも詩人だった。
亀之助は、有名になろうとも
金持ちになろうともしなかった。
これは、「ある来訪者の接待」という作品の一説。
どてどてとてたてててたてた
たてとて
てれてれたとことこと
ららんぴぴぴぴ ぴ
とつてんととのぷ
ん んんんん ん
てつれとぽんととぽれ
世捨て人のように暮らした亀之助が紡ぐ言葉は、
常人の理解を遥かに超えている。
世界50カ国を放浪した青年は、
1974年、フィリピンのルバング島に渡った。
残留日本兵、小野田寛郎(ひろお)を探すために。
冒険家、鈴木紀夫、24歳。
小野田さんを日本に送り届けたあとは、
雪男を探そうと思った。
何度もヒマラヤを訪ねたが、
世間をあっと言わせる証拠は見つけられず、
苦しい胸の内を明かす。
早く雪男の件は片づけたいのに、神様はどうして助けてくれないのだ。
神は、この俺の運命を如何に決めてあるのだ。
そして六度目の雪男探索のとき、
雪崩に遭い帰らぬ人となった。
慰霊のためヒマラヤを訪れた小野田さんは、
彼のことを、友と云ったそうだ。
現存する明治、大正時代の絵はがきには、
時折、髭ぼうぼうの痩せた男が写っている。
彼こそが、世界探検家、菅野力夫だ。
明治44年から、のべ8回も世界探検旅行に赴き、
そのたび、新聞に大きく取り上げられた。
足跡は全て写真で残されている。
スマトラ島では酋長の格好をし、
満州ではラクダに跨がり、
ビルマでは象の前で腕を組み、
ブラジルではアリ塚の上に立ち、
ペルーでは頭蓋骨を持ってポーズをとった。
それが全て、絵はがきにプリントされた。
テレビなどあるはずもなく、
ラジオも新聞も今ほど普及していない時代では、
絵はがきが最大級のマスメディアだった。
世界探検旅行を経験し、
彼が何を語ったのか。
その真実は謎に包まれている。
だけど、
どれほど楽しかったのか。
それは数々の絵はがきが、雄弁に語っている。
トレードマークは、
仙人のような長く白い髭。
明治生まれの画家、熊谷守一は
いい絵を描こうとも、有名になろうとも思わなかった。
絵を描くのは、気が向いたときだけ。
知人に金を借りては、千駄木や東中野の借家を転々とする。
絵が売れるようになったのは晩年のことで、
文化勲章も全て辞退した。
お国のために何もしたことないから。
身の回りだけを見つめ、
自由に、気ままに生きて、97歳で目を閉じた。
下手も絵のうち。
画壇の仙人と言われたが、
まさに生き方も仙人なのである。
人並み外れた運動能力は、
スポーツ以外にも生かされることがある。
たとえば、刑務所からの脱獄。
明治時代の囚人、西川寅吉は
脱獄を六度も重ねた。
濡れた囚人服を壁に叩きつけ、
一瞬の吸着力を利用して壁を乗り越えたという。
盗みに入った質屋では
逃亡する際に五寸釘を踏み抜いたが、
そのまま12キロも逃走し、
五寸釘の寅吉と呼ばれるようになった。
世間を騒がす痛快なアンチヒーローは、
このご時世、なかなか現れにくいようだ。
11月になると
赤い小さな実を付けるコヤスノキは
トベラ科の常緑樹で、
日本では兵庫県の一部と岡山県の東部でしか生きられない。
この珍しい植物を発見したのは、
明治時代の博物学者、大上宇市だった。
農業の現状を知らない都会の学者を
名指しで批判する武骨な男だったが、
牧野富太郎とは親交を深めた。
ふたりとも学歴に乏しく、学会から冷遇されたせいかもしれない。
秋空晴れて日は高し
今こそ我等の散歩時
芒(すすき)は野道に招くなり
小鳥は森によばうなり
よばう小鳥は何々ぞ
雀 山雀(やまがら) もず 鶉(うずら)
こんな自作の歌を口ずさみながら、
野山をねり歩いた。
村人には、ヒマ人が来たと疎まれたが、
やがてその研究内容が評価され、郷土の英雄となった。
ひとつの道に通じていれば、いつか必ず花開く。
そんなメッセージが込められているようでならない。
蛭田瑞穂 10年08月29日放送
イングリッド・バーグマンを偲んで①
「アルフレッド・ヒッチコック」
アルフレッド・ヒッチコックは
『山羊座のもとに』という映画で
カメラの長回しを多用する撮影手法を試みた。
すると、主演のイングリッド・バーグマンが彼に詰め寄った。
「どうしてそんな面倒な撮影をしなければならないの?」
口論の嫌いなヒッチコックは最初黙って聞いていた。
しかし「なぜ?」「どうして?」という
彼女の度重なる追及に辟易し、しまいにはこう言い放った。
イングリッド、たかが映画じゃないか。
サスペンスの神様ヒッチコックに
「たかが映画」と言わせたイングリッド・バーグマン。
その女優魂には畏れ入るしかない。
イングリッド・バーグマンを偲んで②
「エレットラとイザベラ」
2007年、コスメティクスブランドのランコムは、
ブランドの美の象徴であるミューズに、
イタリア人モデルのエレットラ・ロッセリーニを選んだ。
エレットラ・ロッセリーニの母親は、
イザベラ・ロッセリーニ。
映画『ブルーベルベット』の主演女優として知られる彼女は、
やはりランコムのミューズを長い間務めた。
そして、イザベラ・ロッセリーニの母親が、
イングリッド・バーグマン。
イングリッドの残した美の遺産は、
こうして脈々と受け継がれている。
イングリッド・バーグマンを偲んで③
「ティ・アーモ」
1948年、イングリッド・バーグマンは
ブロードウェイの小さな映画館で、
イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の
『戦火のかなた』という映画を観た。
衝撃的だった。
ロマンス映画にばかり出演してきたイングリッドにとって、
戦争の悲劇を克明に描いた『戦火のかなた』こそ
本物の芸術だと思えた。
この監督の作品に出たい。
その一心でイングリッドはロッセリーニに向けて手紙を書く。
もしスウェーデン人の女優が必要でしたら、
わたしは「ティ・アーモ」しかイタリア語は知りませんが、
喜んでイタリアへ行って、
あなたといっしょに映画を作るつもりです。
イングリッドがロッセリーニに対して抱いた気持ちは
最初、純粋に尊敬の念だった。
しかし、それがいつしか愛へと変わる。
そしてついには仕事も家庭も捨て、
ロッセリーニのもとへ走ることになる。
「ティ・アーモ」。
彼女が唯一知っていたイタリア語は、
奇しくも「あなたを愛しています」という言葉だった。
イングリッド・バーグマンを偲んで④
「君の瞳に乾杯」
「君の瞳に乾杯」。
映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガードが
イングリッド・バーグマンに囁く有名なセリフ。
もとの英語は“Here’s looking at you, kid.”、
直訳すると「君を見つめることに乾杯」という意味になる。
このセリフを「君の瞳に乾杯」と訳したのは、
昭和の名翻訳家、高瀬鎮夫。
彼は原文にはない「瞳」という言葉を加えて、あえて意訳をした。
そうすることで、このセリフの持つ甘美で切ないニュアンスを
日本人にも伝わるようにしたのだ。
『ゴッドファーザー』や『サタデーナイト・フィーバー』など、
数々の字幕制作に携わり、洒落た翻訳で知られた高瀬鎮夫。
映画『ある愛の詩』の名セリフ、
「愛とは決して後悔しないこと」も彼によるものである。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑤
「後悔」
1957年1月19日。
ニューヨークのアイドルワイルド空港に降り立った
イングリッド・バーグマンを待ち受けていたのは、
大勢の新聞記者とカメラのフラッシュだった。
映画監督ロベルト・ロッセリーニとの
不倫スキャンダルによって、
イングリッドは長らくハリウッドを追われていた。
その彼女が、ロッセリーニとの破局の末、
再びアメリカに戻ってきたのだ。
記者から辛辣な質問が飛ぶ。
「ミス・バーグマン、
あなたは自分の行動を後悔してないのですか?」
その質問に対して、
イングリッドは微笑みを浮かべてこう答えた。
いいえ。
わたしが後悔しているのは、
しなかったことに対してであって、
したことを後悔してはいません。
スキャンダルを乗り越え、
のちにオスカーも獲得したイングリッド・バーグマン。
彼女は美しいだけでなく、強い女性だった。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑥
「As Time Goes By」
その日、ロンドンの
聖マルタン・イン・ザ・フィールズ教会には
亡くなったイングリッド・バーグマンにお別れを言うために、
200人の人々が集まった。
追悼の言葉と歌が捧げられると、
教会の片隅からバイオリンの音色が聴こえてきた。
それは彼女の代表作『カサブランカ』のテーマ曲
“As Time Goes By”だった。
知性的な美貌と、オスカー主演女優賞に2度も輝く演技力で、
世界中の映画ファンを魅了したイングリッド・バーグマン。
彼女は1982年の今日、67年の生涯に幕を閉じた。
この世から去った後も、
イングリッドは人々の思い出の中で輝き続ける。
“As Time Goes By”
どんなに時が流れても。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑦
「薔薇の名前」
2000年に開催された第16回世界バラ会議で、
「イングリッド・バーグマン」という品種が
史上10番目の「バラの殿堂」に選ばれた。
その薔薇の名はもちろん
女優のイングリッド・バーグマンに由来する。
深紅の花びらが醸し出す高い気品と燃えるような情熱。
それは彼女の魅力そのもの。
かつて銀幕の花として、多くの人々を魅了した
イングリッド・バーグマン。
彼女はいま薔薇となって人々を魅了し続ける。
イングリッド・バーグマンを偲んで⑧
「カサブランカ」
映画史上最高の脚本は何か?
アメリカ脚本家協会によれば、
それは『カサブランカ』である。
2006年、アメリカ脚本家協会は
「史上最高の映画脚本ベスト101」の第1位に、
『カサブランカ』を選出する。
この脚本を執筆したのは、ジュリアス・エプスタイン、
フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの3人の脚本家。
「ゆうべはどこにいたの?」
「そんなに昔のことは憶えてないね」
「今夜は会えるの?」
「そんなに先のことはわからない」
イングリッド・バーグマンと
ハンフリー・ボガードが交わす男と女の粋な会話。
1943年のアカデミー脚本賞も受賞した『カサブランカ』には
珠玉のセリフが溢れている。
小宮由美子 10年08月28日放送
詩人・山之口獏の生活は貧しかった。
戦後、貧乏を語る専門家のようにマスコミにひっぱりだされたことも
手伝って、生活の苦労は一躍有名になってしまう。
妻である静江は、新聞記者やアナウンサーから
不躾な質問を浴びせられた。
「逃げ出したいと思われたことは何度かあったでしょうね?」
それに対して、
静江は詩人の妻としての矜持に溢れた返答をしている。
「貧乏はしましたけれど、
わたくしたちの生活にすさんだものはありませんでした。
ともかく詩がありましたから…」
似た者夫婦という言葉があるが、
正反対の夫婦もある。
中川一政は、
女房となった暢子を画家らしい視点から観察した。
「どうも自分の女房は人が好きらしい。
私の家へ客が来る。客がくれば食事をする。
面倒くさいだろうと思うのだが、長年の間、
そういうことで嫌な顔をしたことが一度もなかった」
麦や胡瓜は食べるが、その生態には興味がない。
鳥や樹木を愛でるが、その名前にも興味がない。
黙々と知識を得るより、人とのかかわりによって生き生きとする妻。
「私は考えた。私の女房は人生派である。
私は自然派であると。
その極端が夫婦になったのだと」
「さみしい家庭」に育ち、人を怖れていたと語る一政。
暢子への視線には、自分にないものを持つ妻への
信頼と憧れとを感じることができる。
「夫婦の愛というのは、それぞれの夫婦によって
築いていくものが違います」
この一文からはじまる「愛について」という随筆の書き手、
節子・クロソフスカ・ド・ローラ。
2001年にこの世を去った画家・バルテュスと
彼女の場合、それは<仕事>だった。
「私はバルテュスという人間と、彼が作る作品を愛しました。
美しい作品を生むためには何でも受け入れることができる、という
気持ちがあったことが、長く続く基盤になったのです」
最期の別れのとき、
節子は昏睡状態にある夫・バルテュスの耳元にそっとささやいた。
「今まで何から何まで本当にありがとうございました」
「再婚はいたしませんよ」
そう付け加えると、バルテュスの口元が、微笑んだという。
西武子は、夫を、硫黄島の戦いで亡くした。
夫の名は、バロン西こと、西竹一。
男爵家に生まれ、莫大な財力と華やかな容姿、
人を魅了してやまない独特の魅力に恵まれた男。
その竹一に嫁いだのが、名家に生まれ、美貌の人だった武子。
のちに竹一はロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し
さらに輝かしい栄華に包まれるも、太平洋戦争、勃発。
二人もまた、時代の渦にのみこまれていく。
生前の栄光と、過酷な戦場であった硫黄島での戦死という
壮絶なコントラストによって、死後も注目を集める竹一。
周囲が特別な視線を遺族に浴びせ続ける中で、
女手ひとつ、のこされた一男二女を育てあげた武子は、
後年、次のような文章を残している。
「戦後、花やをやり、デパートでもんぺをはいて、
売り場に立ったこともあります。もとの知人が私を見て、
『気の毒で声をかけられなかった』と、あとで聞きましたが、
残念でした。私にとっては当たり前のことでしたのに」
西武子は、昭和53年に亡くなった。73歳だった。
年を重ねたときの彼女は落ち着いた気品があり、
若いときよりさらに美しかったという。
戦「おまえなんか、酒田へ帰れ!」
と、押し入れからトランクを引っぱり出す夫・弘(ひろし)。
「ええ、帰ります!」と、トランクに物を詰め始める妻・きみ子。
「まあ、まあ」と、そこに同居の父が割って入って事なきを得る。
吉野家で繰り返された、夫婦喧嘩の一場面。
互いに気持ちをわかっていながら、時に烈しくぶつかり合う。
ぶつかりながら、長い年月をかけて信頼を築く。
そんな、妻・きみ子との夫婦生活の中から、詩は生まれた。
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい…
結婚式で、新しい門出を迎えたふたりに贈られることの多い『祝婚歌』。
夫である、詩人の吉野弘の作による。
「あなたの直感を信じればいいのよ」
「僕の直感は、僕のことを信じていないんだ」
夫婦そろって、世界no.1プロ・テニスプレーヤーで
あったことで知られる、アンドレ・アガシとグラフの会話。
ふたりの考え方は、まったく違う。
「そこが、結婚生活がうまくいっている秘訣なんだ」とアガシは言う。
彼が長年に渡ってテニス界のトップに君臨し続けることが
できたのは、同業者であり、考え方の違う、この妻の存在が
大きかったといわれている。
「あるとき、檀のことをどのくらいわかっていたと思うかと質問された。
それに対して、私は傲慢にも、檀の気持ちのかなりの部分は
わかっていたと思うと答えてしまった。たぶん10のうち7か8は、と。
だが、本当は何もわかっていなかった」
檀ヨソ子が、夫である作家・檀一雄の代表作『火宅の人』を通読したのは、
檀の17回忌を過ぎた後だった。
愛人との暮らしを綴った私小説ともいえるその内容は、
妻であるヨソ子にとっては堪え難いものだった。
ヨソ子はその苦悩を、インタビューを受けるかたちで、
『檀』という一冊の本に記す。
過ぎ去った日々の記憶に傷つき、
夫の死後に知る、夫婦の距離に茫然とするヨソ子の心情が
率直に書かれた本の中には、
だが時に、夫と妻の間だけで交わされた、甘い思い出が滲む。
一年に渡るインタビューによって書かれたというその本は、
ヨソ子のこんな言葉によって締めくくられている。
「あなたにとって私とは何だったのか。
私にとってあなたはすべてであったけれど。
だが、それも、答えは必要としない」
石橋涼子 10年08月22日放送
1.夏の風物詩 人魂 葛飾北斎
浮世絵画家 葛飾北斎先生が
90歳で亡くなったときの辞世の句がある。
ひとだまで 行く気散じや 夏の原
浮世のしがらみから自由になって
ふわりふわりと夏の原っぱを飛びまわれば
さぞ気持ちのいいことだろう。
北斎先生にかかったら
死ぬこともこんなに涼しい。
2.夏の風物詩 日本初のビヤガーデン
日本のビールの父と呼ばれているのは、
ウィリアム・コープランドというビール好きのアメリカ人。
当時の日本ではおいしいビールが飲めないという不満から
明治2年、自ら醸造所をつくったのだった。
彼のつくったビールは、
日本人にもビアザケと呼ばれ愛されたが
15年後、資金難から醸造所は人手に渡ってしまった。
しかしそこはビールを愛するコープランド。
今度は、自宅の庭を開放して
できたてのビールを客にふるまうことにした。
これが、日本初のビヤガーデン。
彼が日本の夏にもたらしたものは大きい。
ビヤガーデンで飲む一杯を想像するだけで
夏の暑さも疲れもゆるむというものです。
3.夏の風物詩 ウナギの滋養
土用の丑の日にウナギを食べよう
と言い始めたのは平賀源内という説も
文人の大田南畝(なんぼ)という説もあるが、
万葉の時代からウナギは夏の滋養食だった。
「万葉集」で、大伴家持はこんな歌を詠んでいる。
石麻呂に われ物申す 夏やせに
よしというものぞ 鰻(むなぎ)とりめせ
夏バテの友人を心配してか、からかってか、
ともあれ鰻を食べるよう薦めている。
おいしいものを食べるための理由は
いくつあってもいい。
4.夏の風物詩 風鈴 黒澤明
映画監督、黒澤明は音に対しても強いこだわりを持っていた。
すべての音は、人の持つ記憶につながっている。
そう考える黒澤監督は、
特に、季節感の音と、情感の音にこだわりを持っていたという。
映画「赤ひげ」のワンシーンでは、
ある男が、生き別れの女房と
浅草のほおずき市で再会する。
ふたりが互いの存在に気づいた瞬間、強い風が吹く。
ほおずきの籠に吊り下げられた風鈴が一斉に鳴り響く。
赤ひげの時代に、ほおずき市に風鈴は飾られていなかった。
スタッフにそう告げられた監督の答えはというと。
違ってもいい。
最高の風鈴を持ってこい。
こうして日本中から選ばれた風鈴の音色は、
通常のものよりも余韻が2倍も長く
映画の中のふたりの再会のはかない結末を惜しんでいる。
黒澤監督は、こう語る。
映画音楽というのは、画に足したのではだめた。
掛け算にならないとだめなんだ
熊埜御堂由香 10年08月22日放送
5.夏の風物詩 花火師 高杉一美
昭和5年の春、16歳の少年がある職業に夢をかけた。
花火師、高杉一美
親方からやっと認められはじめた7年目のとき。
盧溝橋事件が勃発し、
やがて世界は太平洋戦争へ突入した。
火薬の知識が買われた高杉はダイナマイトの製造に関わるようになる。
工場にある火薬を見ると想像力が騒ぎだす。
これをつかえば大輪の花々を夜空に咲かせる尺玉がいくらでもつくれるのに・・・
ある日、火薬庫へ向かおうとしていると、
すさまじい爆発音とともに倉庫の屋根がふっとんだ。
中にいた女性の工員はみんな亡くなり
あと1歩のところで高杉は命を拾った。
花火師、高杉一美は
戦後、次々とコンクールで賞をとる花火を生み出していった。
高杉は花火にこんな願いを込めていた。
生きていることがうれしくてたまらないような、
そんな花火であってほしい。
6.夏の風物詩 衣がえ
灰皿も硝子にかへて衣更へ
日本の少女小説の祖とも言われる
吉屋信子が詠んだ句だ。
女性らしい、彼女らしい、
細やかな夏の楽しみ方が
伝わってくる。
真っ白なワンピースを着たくなる。
髪をアップにしたくなる。
方法はひとそれぞれ。
夏が終わる前に、
もっと、もっと夏を感じよう。
7.夏の風物詩 お盆を想う唄
盆だ盆だと待つのが盆よ。盆がすぎれば夢のよう。
岩手県の遠野市に伝わる一口唄だ。
村のだれが唄いはじめたのか、わからないが
こんなふうに、
日本中がお盆を楽しみにしている時代があった。
8月は日本人が故郷に帰る季節。
帰省ラッシュに文句をいいながら、
それでもやっぱり
帰りたくなる場所がある。
8.夏の風物詩 まんまる西瓜
作家、結城信一が1967年に発表したエッセイ、西瓜幻想。
結城は、電気冷蔵庫におしこまれた現代の西瓜に同情をよせ、
こう書いた。
土から生まれた西瓜にとっては、
井戸の中にいれてもらって、
ごろんごろんと
浮かびながら
ひとを待っているのが
いちばん楽しい時なのだ。
そういえば、最後に、
まんまるの大きな西瓜に、わくわくして、
包丁をざくりと入れたのはいつだったっけ。
スーパーで切って売られている赤い水瓜を手に取ると
家族の多かった子供時代を思い出す。
坂本仁 10年08月21日放送
飛行機もクルマも存在しない、
まだ世界最速の陸上の移動手段が馬だった時代。
17歳のマルコ・ポーロはヴェネチアを出発し
中東から中央アジアへ、
そして現在の北京にあたる元の首都まで旅をした。
それから17年間、
マルコ・ポーロは元の国の外交官として
アジアの各地を旅してまわった。
その壮大な冒険を口述したのが、
「東方見聞録」である。
「東方見聞録」の内容は
あまりに想像を絶するものだったために
はじめは誰も信用しなかった。
けれども、
マルコ・ポーロが記したアジアの富や物産は
人々の冒険心を刺激して
やがては大航海時代の目標につながっていく。
コロンブスも東方見聞録を愛読書としていたという。
日本を代表する声優、山田康雄。
洋画では、
クリントイーストウッドやジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えとして知られ、
アニメではルパン三世の声優として長い間多くの人に愛された。
そんな山田康雄には、
新人声優たちを指導する際の口癖があった。
声優を目指すな。
役者を目指せ。
演技は全身でするものだ。
彼は現実の世界で、知識と経験という宝を若い声優たちに与えつづけた人だった。
イタリアを代表するサッカー選手、ロベルト・バッジョ。
現役を退いてなお、
世界中にファンを持つ彼が、以前、
ドーピングについて語ったことがある。
僕の知っているドーピングはただひとつ、
努力だけだ。
絶対に負けたくないという強い気持ちがあれば
そのために
「努力」という方法を選ぶこともできる。
ファタジスタと賞されたロベルト・バッジョ華麗なプレーも
日々の練習に支えられていたのだから。
1903年12月17日。
その飛行機は浮き上がったかと思うと、
今度は地面に向かって急降下した。
世界ではじめて人類が飛行機で飛んだのは、
わずか12秒だった。
しかしそれは、
人類が長い間抱いていた夢を叶えた12秒であり
空気よりも重い機械を使って空を飛んだ世界最初の成功例でもあった。
ライト家の三男、ウィルバー・ライト。
四男オーヴィル・ライト。
人類初の動力飛行という偉業を成し遂げたライト兄弟は、
大空を飛ぶためにすべてを捧げた。
オーヴィル・ライトは
こんな言葉も残している。
「飛行の興奮はあまりに強烈で喜びが大き過ぎるので
スポーツとは認められない」
戦後の日本のジャズ界をリードした世界的テナーサックス奏者、松本英彦。
眠そうに目を閉じながら、
とろけるような音色を奏でることから、
スリーピー松本と呼ばれた。
2000年にこの世を去った松本英彦は、
現在、京都にあるお墓に眠っている。
そのお墓には、
スイッチを押すと彼の演奏が流れるという、
ユニークな仕掛けがある。
紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞を受賞したジャズマンは
目を閉じてもなお
訪れる人と共にスウィングしている。
一日のうち、何かを待っている時間は意外と多い。
そして、私たちは一日何度も苛立ちを感じている。
けれど、
「武器よさらば」、「老人と海」などで知られるノーベル賞作家、
アーネストヘミングウェイの言葉は、
そんな苛立ちをゆとりへと変えてくれる。
魚が釣れない時は、
魚が考える時間をくれたと思えばいい。
なかなか来ないエレベーターだって、
いつも遅刻してくる友人だって、
そして渋滞だって、
考える時間をくれているのだ、
そう思えれば、きっと毎日は楽しくなる。
1895年、パリのグランカフェで
ある人はコーヒーをこぼし、
ある人は外に向かって逃げ出し、
ある人は腰を抜かした。
人々が目にしたのは、世界初の映画上映。
リュミエール兄弟の作品のひとつ、
「シオタ駅への列車の到着」だった。
駅のホームに蒸気機関車がやってくる情景を
ワンカットで映した単純なショートムービー。
しかし、スクリーンで映像を見たことがない人々を
驚かすには十分だった。
その場にいたすべての人が、
本物の蒸気機関車がカフェに突っ込んできたと思ったという。
映画をつくった人はたくさんいる。
けれど映画というジャンルをつくった人は、
リュミエール兄弟以外にはいない。
映画というエンターテインメントの世界を切り拓いたリュミエール兄弟。
その名にあるリュミエールという言葉が、
フランス語で「光」を意味することは、
偶然にしてはできすぎているのかもしれない。
中村直史 10年08月15日放送
あの人の、8月15日。/島田覚夫
1945年8月15日、戦争は終わった。
けれど「戦争が終わった」と知るすべのない人たちにとって、
戦争は終わりようがなかった。
その日、ニューギニアの山奥で、
島田覚夫さんは
仲間の兵士とともに
敵の陣地に置き去りにされたままだった。
四方八方に敵の気配を感じながら、
武器も食料も底をつく中、彼らは
ひとつの、シンプルな大方針を立てる。
生きられる限り、生き抜こう。
最初は、わずかに残された乾パンを、
それがつきると、蛙、蛇、鼠、とかげ、いもむし、あらゆるものを食べた。
飢えをしのぎなら、今度はジャングルを開拓し、畑をつくった。
無我夢中で毎日を生き、気がつけば10年が経っていた。
本人が、原始時代、石器時代、鉄器時代と呼ぶように、
工夫を重ね、生き延びた10年。
その回顧録を読むと、
不謹慎かもしれないが、
生き抜こうとする人間の力と知恵にわくわくさえしてしまう。
ようやく終戦を知ったのは、昭和30年3月のこと。
「実家に帰ったら、自分の遺影があったんですよ」
彼はそう言って、笑った。