八木田杏子 10年07月18日放送
作家の言葉 「唯川恵」
生き方を選べるようになって、
女性は迷うようになった。
唯川恵は、そんな女性たちへの想いを
小説「永遠の途中」にこめている。
結婚して仕事をやめた薫と、結婚せずに仕事をつづける乃梨子。
ふたりの主人公は、お互いを比べながら
競い合うようにして生きる。
そして60歳になると、こんな言葉を口にする。
自分のもうひとつの人生を勝手に想像して、
それに嫉妬してしまうのね。
いつも生きてない方の人生に負けたような気になっていたの。
人生はひとつしか生きられないのに。
どんな選択をするかよりも、
選んだ答えを信じて生きぬくことのほうが
大切なのかもしれない。
作家の言葉 「伊坂幸太郎」
伊坂幸太郎の小説には
隠されたメッセージがある。
著書「モダンタイムス」に登場する
井坂好太郎という小説家。
その自虐的につくられたキャラクターは
死に際に、作家としての苦悩を吐露する。
「お前の本は売れただろう」と言われると、こう答える。
薄っぺらいからな。読みやすいから、誰でも読めるんだよ。
そして、たどたどしく、言葉をつづける。
俺が小説を書いても世界は変わらない。
今までだって、分かってくれた奴いなかったんだよ。
ジェットコースターのようなストーリー展開にのせられて
あっという間に読み終えてしまうこの一冊を
もういちど、ていねいに読み返してみると、
たった一人でも伝わればいいと願いをこめた言葉が
見つかる。
アスリートの言葉
蝶のように舞い、蜂のように刺す
モハメド・アリの闘い方は、そう呼ばれていた。
力任せに殴り合う大男たちに、
華麗なフットワークと、鋭い左ジャブで切りこんでいく。
1960年。18歳のアリは、
ローマオリンピックで金メダルをとる。
それでも黒人差別が変わらない現実を嘆いて、
金メダルを川に投げ捨てる。
1967年。25歳のアリは、
ベトナム戦争の徴兵を拒否。
ボクシングライセンスとヘビー級タイトルを剥奪される。
3年7カ月のブランクを経て、実力で王座に返り咲く彼に
声援をおくったのは、ボクシングファンだけではなかった。
差別や戦争とも闘いつづけた、モハメド・アリ。
モハメド・アリは、
ヘビー級ボクシングの闘い方を一変させると同時に
アスリートのあり方も変えていったのだ。
ハプスブルグ家の言葉
約6世紀にわたって、
ヨーロッパで権勢を誇ったハプスブルグ家。
オーストリア、スペイン、ハンガリー、神聖ローマ帝国などの
皇帝・国王をうんだ名門王家は、血を流さずに闘う。
ハプスブルグ家には、こんな言葉が伝わっている。
戦争は他国に任せておけ。
オーストリアよ、汝は幸せな結婚をするがよい。
政略結婚があたりまえだった王侯貴族。
そのなかでもハプスブルグ家は、
夫婦仲が良く子宝に恵まれことが多かった。
領土争いが過酷なヨーロッパでは
戦争が上手い国より、戦争をしない国が繁栄する。
どんな戦略も、幸せな結婚にはかなわない。
哲学者の言葉
ヨーロッパ最初の哲学者タレスは、こんな言葉を残した。
万物の原理は水である。
その意味を解読しようと頭を悩ませる私たちに
哲学者竹田青嗣(せいじ)は、まず言葉との向き合い方を教えてくれる。
言葉というものは世界の全体や起源を
言い尽くせないようにできている。
たとえ哲学者であっても、
自分が感じたこと全てを、言葉で表現することはできない。
だから言葉は、言葉どおりに受けとめてはいけないのだ。
では、哲学者の言葉をどう扱えばいいのか。
「万物の原理は水である」という言葉には、
タレスの世界への直感がこめられていたはずだ。
哲学者が言葉でたぐりよせようとした直感に、想いを馳せてみる。
そうすると、言葉をきっかけにして、哲学の世界が広がっていく。
おなじように。
恋人、上司、親からもらう言葉も
言葉どおりに受け止めずに、その言葉にこめられた気持ちを考えてみる。
理解するとは、きっとそういうこと。
子どもの言葉
人生に必要な知恵はすべて
幼稚園の砂場で学んだ。
そんなタイトルの本が、ベストセラーになった。
人として生きるために大切なことを、
私たちは5歳までに学んでいたらしい。
何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたらごめんなさい、と言うこと。
すべての大人がこれを守ることができたら。
環境問題も、国際問題も、人権問題も
なくなっていたかもしれないのに。
残念ながら、私たちは
オトナになると言い訳を学んでしまうのだ。
名人の言葉
個性とは、つくるものではなくて、
ふとしたときに、出てしまうもの。
名人・羽生善治は、
将棋の話をしながら人生を語る。
将棋は、まず定跡で打ちます。
答えがないとか、答えがわからない場面、
混沌とした場面のときに何を選ぶかで、
自分の持っているものを出せる。
思いがけないトラブル、先が読めない苦しみ、
それをどう乗りこえるかが、個性になる。
混沌からうまれた自分だけの一手は、
定跡をこえていく。
仕事にも、恋愛にも、あてはまりそうだ。
研究者の言葉
多数決をとったとき、
自分とおなじ意見が多いと、それだけで安心する。
賛成の多い意見が正しいとは限らないのに、
多数は強気になりやすい。
日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹に
こんな言葉がある。
真実は、いつも少数派
わかってもらえなくて、笑われるかもしれない。
間違いだったと証明されて、恥をかくかもしれない。
そんな不安に足をとられずに、
少数派にまわっても信じることを貫く人が、
真実を塗りかえていく。
細田高広 10年07月17日放送
イーストウッド、80歳。
ウディ・アレン、74歳。
創造的な仕事は若い人の方が向いている。
そんな一般論も映画監督たちには
まるで当てはまらない。
スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン。
彼もまた、重ねた年齢すら映画の燃料にする男だった。
70歳を越えて一度映画からは引退。
だが80歳半ばにカムバックして
再びメガホンを取った。
老年は山登りに似ている。
登れば登るほど息切れするが、
視野はますます広くなる。
彼の言葉を聞くと、
歳を重なるのがちょっと楽しみになる。
独身女性が「負け犬」と呼ばれ、「婚活」を迫られる。
自由なはずの恋愛は、いつから
義務になってしまったのでしょう。
「負け犬」と揶揄された女性から、
圧倒的な支持を集めたアメリカのシンガー、
ケリー・ノーブル。
どうして、彼女の歌うラブ・ソングが海を越えて
日本女性の胸に響いたのか。
彼女のインタビューを聞いて、
少しだけ分かった気がします。
負け犬?
彼女たちは負けたわけではないわ。
“間違った結婚”をしていないだけ。
ケリーが歌っているのは、
ラブ・ソングのフリをした、
女性「応援歌」だったのです。
40年もの間、カントリー音楽界のトップに
君臨しているドリー・パートン。
ショービズの世界で成功を収めた彼女にも、
初めから華麗な衣装が
用意されていたわけではない。
幼少期の暮らしは貧しく、
ボロボロの布袋を縫い合せて作った
服を着ていた。
彼女は言う。
私の見方からすると、
虹が欲しけりゃ、
雨は我慢しなきゃいけない。
その晴れやかな歌声は、
長い雨に耐えて
手にしたものなのだ。
映画監督エルンスト・ルビッチは、
アメリカ人に恋を教えた男。
男女の複雑な心境を、
視線や小物で表現する彼の手法は、
“ルビッチ・タッチ”と名がついた。
だが彼の本領は、手法だけではない。
男と女への鋭い洞察こそ、
ルビッチの持ち味だ。
例えば、こういうセリフ。
男は2人以上の女性を同時に愛し、
消去法で1人に絞る。合理的ね。
何人の男女が、
スクリーンの前で冷や汗をかいたことか。
その伝統は今でも「ラブコメ」という
ジャンルに受け継がれている。
恋愛学の講義は、教室より、映画館がふさわしい。
女優イングリッド・バーグマン。
映画「カサブランカ」で脚光を浴びると、
「ガス灯」でアカデミー主演女優賞を獲得。
だが、そのキャリアの絶頂期に、
仕事も家庭も捨てイタリアへと発つ。
巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の作品に心酔した、
というのが理由だった。
世論からは激しく非難され、ハリウッドから追放された。
だが、数年後。
バーグマンはケロッとアメリカに戻ると、
再びアカデミー賞に輝く。
その表情は、追放劇なんてなかったかのように
晴れ晴れとしていた。
バーグマンは言う。
幸せとは、健康で記憶力が悪いことよ。
映画「オズの魔法使い」のドロシー役で
スターになったジュディ・ガーランド。
その朗らかな歌や演技と裏腹に、
子役の頃から、
睡眠薬に頼る生活を送っていた。
大作に出演し有名になる一方、
過密スケジュールと薬物依存に悩まされ、
離婚と自殺未遂を繰り返した。
私は千の人々の喝采より、
愛する人からの一言、二言が欲しい。
映画スターに憧れる、
私たち普通の人に
映画スターは憧れたりする。
レイ・チャールズの「What’d I Say」(ホワッド・アイ・セイ )。
「ローリング・ストーン」誌が選ぶ、
もっとも重要な500曲の10位にランクされている。
この曲で印象的なのが、エレクトリック・ピアノだ。
当時ポピュラーソング界では
ほとんど使われていなかったこの楽器に、
レイ・チャールズは真っ先に飛びついた。
周りのミュージシャンたちは
「小っちゃいピアノを買った」とバカにしたらしい。
だが彼は、その小さなピアノを
効果的に使う方法を探り、「What’d I Say」をつくった。
君たちは目が開いているのに、何も見えないんだな。
そう言いながら陽気に歌う
レイ・チャールズ。
その姿は、目を閉じていても見えてくる。
三島邦彦 10年07月11日放送
哲学者からひと言/大森荘蔵
見るもの、聴くもの、感じるもの。
世界のすべてを疑うところから、哲学は始まる。
戦後の日本哲学界の巨人、大森荘蔵(おおもり・しょうぞう)は、
ある日の対談で、哲学者の素質について聞かれた時、こう語った。
哲学をやるというのは極端に言えば一種の病気で、
健康な人間がちょっと気にするだけのことがどうしてもとことん
気になる因果な病気だとお取りくださっていいんじゃないかと思うんです。
哲学の巨人が世界を疑う姿勢は、とても謙虚だった。
哲学者からひと言/マルクス・アウレリウス
その男を、
劇作家オスカー・ワイルドは「完璧な男」と呼び、
哲学者ヴォルテールは「もっとも偉大な男」と呼んだ。
皇帝にして哲学者。
第16代ローマ皇帝 マルクス・アウレリウス。
昼は皇帝として、巨大なローマ帝国を治め、
夜は哲学者として、自らの思考を書き記した。
読書と瞑想を好んだアウレリウス。
政治を行い、軍を率いるよりも
純粋な哲学者として生きたかった。
けれど、多くの難題を抱えたローマ帝国の皇帝として、
責任を放棄するような人間でもなかった。
圧倒的な権力を持ちながら、
暴君にならなかったアウレリウス。
そこには、徹底した自分への厳しさがあった。
例えば、こんな一文を残している。
善い人間とはどういうものかを論ずるのはもういい加減で切り上げて、
そろそろ善い人間になったらどうだ。
2000年ちかく経った現在でも、
思わず背筋が伸びるような言葉です。
三國菜恵 10年07月11日放送
哲学者からひと言/シモーヌ・ヴエイユ
あるときは、教室で
あるときは、工場で
そして、内戦下のスペインで
世界のどこかで起きている不幸と
向き合いつづけた哲学者、
シモーヌ・ヴエイユ。
彼女は、人間について
こう綴った。
人間が存在する唯一の目的は、
生きるという闇夜に火をつけることである。
彼女の言葉もまた、
灯りとなって誰かの心を
照らしつづけているにちがいない。
名雪祐平 10年07月10日放送
世紀の発見といわれた
エジプト・ツタンカーメン王の墓。
考古学者ハワード・カーターの
30年におよぶ執念だった。
ついに、ついに。
ファラオのマスク、動物たち、像。
どこもかしこも黄金だった。
しかし、なかでも目を引いたものがあった。
王の棺にそっと置かれた、
ヤグルマソウのからからに乾いた花束。
どの輝きよりも、
その枯れた花のほうが美しいと、
私は思いました。
花が教えてくれたのです。
3000年といっても、
それはわずかな時間に過ぎないのだと…。
いかに死ぬか。
作家・山田風太郎は、
『人間臨終図鑑』で、
古今東西923名人の臨終の様をまとめた。
死へ思い巡らし、
結論として愛した言葉は、
いまわの際に言うべき一大事はなし。
1996年、風太郎は突然倒れ、
慌てて駆け寄った妻へのひと言は、
死んだ。
実際に亡くなったのは、その5年後で、
愛した言葉どおり、
ひと言も残さず、
風のように世を去ったという。
20世紀初めのアメリカに
君臨した新聞王、
ウィリアム・ランドルフ・ハースト。
戦争や殺人事件、スキャンダルな記事で
部数を伸ばし、
数十のマスコミを牛耳った。
その影響力は大統領さえ上回るといわれた。
倫理や道徳は、儲からない。
イエロージャーナリズムが富を生む。
ハーストの横暴ぶりは、
映画『市民ケーン』のモデルとなった。
幸か不幸か映画は傑作となり、
後世まで伝わることに。
ハースト家が背負う十字架として。
1974年、アメリカ屈指の大富豪である
ハースト家の令嬢、
パトリシアが誘拐された。
過激派の犯行声明があり、
連日連夜、報道されるなか、
事件はあまりにも意外な展開に。
あらたに銀行襲撃事件が発生し、
犯人一味のなかにマシンガンをもった
パトリシア本人がいたのだ。
私はこれ以上、
ハースト家の一員として生きられない。
私はここで戦う。
謎めいた言葉を残して
彼女は逃亡する。
追いかけてきたのは、
皮肉にもハースト家の祖父が造りあげた
イエロージャーナリズムだった。
祖父譲りの横暴さで、彼女は吐き捨てる。
あなたたちジャーナリストのせいで
刑務所に入ったのよ。
この事件は、もちろん映画になった。
ただ、幸か不幸か、祖父がモデルの
『市民ケーン』のような傑作ではないらしい。
歩いて、
アメリカ大陸を横断できるか。
やろうと思えば何だってできるんだ。
そう覚悟した男には、両足がなかった。
ベトナム戦争で地雷を踏んだのだ。
腕で歩く。
それが、ボブ・ウィーランドのやり方。
1982年9月、ロサンゼルスを出発。
5000キロの挑戦は、
one step at a time
一歩ずつあせらないで。
そして3年8か月後、ついにワシントンへ。
ゴール地点はベトナムで戦死した
5万8000人の兵士の名前が刻まれた
記念碑の前であった。
樹木を癒す人がいた。
どこが痛いんだ。
いま、治してやるからな。
樹木の医者、「樹医」。
山野忠彦
日本全国の
樹齢百年、千年の老木、巨木を
甦らせてきた。
忠彦は98歳で永眠したが、
彼が治療した樹は
あと百年、
あと千年、
生きてゆく。
昭和39年、ある新聞社が
新聞小説を広く募集した。
賞金は当時としては破格の1000万円。
プロの作家の応募作もあるなか、
1等を射止めたのは、
北海道旭川で雑貨店を営む、
42歳の主婦だった。
女流作家・三浦綾子は
こうして衝撃的デビューを果たした。
受賞作『氷点』のなかで、こう記している。
信頼し合ったことさえ、
悲劇になることもある。
背後に、死の意味を孕む言葉。
それは三浦自身が経験した
戦争体験や長年の闘病生活から得た
達観であるかもしれない。
しかし、こんな言葉も残している。
苦難の中にこそ、人生は豊かなのです。
人に勇気を与える文学を書く。
その決意で多くの本を出し、
大人気作家になっていったのだった。
蛭田瑞穂 10年07月04日放送
7月4日にちなんで① フェレンツ・プスカシュ
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
ハンガリー代表チームのキャプテンは、
今なおハンガリー史上最高の選手として語り継がれる
フェレンツ・プスカシュ。
18歳で代表にデビューしたプスカシュは、
29歳で代表を退くまで84試合に出場し、
83ものゴールを決めた。
1度ボールを蹴っただけで2点を奪う。
とチームメイトが賞賛するほど
圧倒的な決定力だった。
スイス大会の決勝戦。
前半の6分にハンガリーの先制ゴールを挙げたのも
やはりプスカシュだった。
7月4日にちなんで② シュベシェ・グスターヴ
「マジック・マジャール」。
1950年代の始めに、世界を席巻した
サッカーハンガリー代表チームを、人々はそう呼んだ。
「魔法のハンガリー人」という意味である。
1950年からの4年間で32戦無敗。
ヘルシンキオリンピックでは金メダルを獲得し、
サッカーの母国イングランドを
聖地ウェンブリーで破るという快挙も遂げた。
マジック・マジャールの強さの秘密。
そのひとつが監督シュベシェ・グスターヴの
構築したサッカーシステム。
試合中に選手が臨機応変にポジションを変える、
当時としては画期的なシステムだった。
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
シュベシェ率いるハンガリーは
前半わずか8分で2点を奪い、その強さを見せつけた。
7月4日にちなんで③ ゼップ・ヘルベルガー
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
両チームはその2週間前にも
予選リーグで顔を合わせていた。
結果は8対3でハンガリーの圧勝。
西ドイツの監督、ゼップ・ヘルベルガーは、
マスコミから「国家の裏切り者」という汚名を着せられた。
しかし、この負けは彼の計算だった。
ハンガリーに敗れて予選を2位で通過すれば、
強豪国との対戦が少ない組み合わせで
決勝トーナメントを戦うことができる。
先の勝負を読んだヘルベルガーは
ハンガリー戦であえて主力選手を温存して戦った。
一方、西ドイツに勝利し、
予選を1位で通過したハンガリーは
ブラジルなど強豪国との死闘を勝ち抜いて
決勝戦まで進んだものの、
主力選手は満身創痍の状態だった。
そして決勝戦。
前半の8分に2点目を奪われた西ドイツは
2分後に1点を返す。
それは西ドイツが上げた反撃の狼煙だった。
7月4日にちなんで④ 西ドイツ代表チーム
それは「ゲルマン魂」を
初めて世界に見せつけた試合だった。
1954年7月4日、スイスのベルンで行なわれた
ワールドカップ決勝戦、ハンガリー対西ドイツ。
当時「魔法のハンガリー人」と呼ばれ、
無敵の強さを誇ったハンガリーを
西ドイツは3対2で下し、初優勝する。
2点差を覆す、見事な逆転劇だった。
その勝利はまだ第2次世界大戦敗戦の傷が癒えていない
西ドイツ国民に勇気と自信を与えた。
その後、敗戦からの奇跡的な復興を遂げ、
ワールドカップでも3度の優勝を果たしたドイツ。
1954年7月4日の勝利を人々は
「ベルンの奇跡」と呼び、今に語り継ぐ。
7月4日にちなんで⑤ アルフレッド・ディ・ステファノ
今も昔もサッカー好きが集まると口にする
「史上最高のサッカー選手は誰か?」という話題。
サッカーの王様ペレはこう答えている。
史上最高の選手はペレかマラドーナだと
みなさんは言うが、わたしにとって最高の選手は
アルフレッド・ディ・ステファノだ。
アルフレッド・ディ・ステファノ。
1943年、17歳でアルゼンチンの名門
リバープレートと契約した彼は、
すぐに頭角を現し、2度の得点王に輝く。
その後コロンビアリーグに籍を移し、得点王を2度獲得。
そして27歳でスペインのレアル・マドリードに移籍する。
彼の移籍を巡っては、
レアル・マドリードとバルセロナの間で
当時の最高権力者フランコ将軍が仲裁に乗り出すほど
熾烈な争奪戦が繰り広げられたという。
チームに在籍した11シーズンで
決めたゴールは466。8度のリーグ優勝、
そしてヨーロッパNo.1のクラブチームを決定する
チャンピオンズカップの5連覇という偉業も遂げた。
現在、レアル・マドリード名誉会長にして、
今なおチーム歴代最高の選手といわれる男、
アルフレッド・ディ・ステファノ。
彼は1926年の今日、ブエノスアイレスに生まれた。
7月4日にちなんで⑥ モード・ワトソン
テニスのウィンブルドン選手権には
白い衣服を着てプレーしなければならない
という決まりがある。
これは1844年、女子シングルス初代王者
モード・ワトソンが白い衣服で
プレーしたことに由来する。
白い帽子、白いブラウス、
そしてくるぶしまである白のロングスカート、
モード・ワトソンのテニスウェアは、
鮮やかな白でまとめられていた。
2010年のウィンブルドン選手権は
イギリス時間の今日7月4日、最終日を迎える。
ウィンブルドンの緑の芝が
ひときわ美しく感じられるのは、
名物の雨と、白いウェアのおかげかもしれない。
7月4日にちなんで⑦ シュテフィ・グラフ
1996年7月4日。
ウィンブルドンの女子シングルス準決勝、
シュテフィ・グラフ対伊達公子。
2セット目の第7ゲーム。
グラフがサーブの態勢に入ると、
突然、観客のひとりが大声で叫んだ。
「シュテフィ、僕と結婚して!」
笑い声に包まれる場内。
緊張の糸が切れてもおかしくない状況に、
しかし彼女はこう応えた。
あなたお金は持ってるの?
野次に動揺するどころか、
ユーモアで切り返したシュテフィ・グラフ。
あまりに見事なリターンエースだった。
7月4日にちなんで⑧ スザンヌ・ランラン
「テニスの女神」スザンヌ・ランラン。
1920年代にウィンブルドンを5連覇し、
全仏選手権も6度制覇した伝説の選手。
彼女の偉業はそれだけではない。
その時代、テニスは社交のための優雅な遊び。
女性は長いスカートを穿いてプレーしていた。
しかし、ランランはそんな恰好では動きにくいと、
スカートを膝の高さで切ってしまった。
それ以降、女性のテニスウェアは短いスカートが主流となり、
テニスの競技性が一気に増したといわれている。
今日7月4日は、スザンヌ・ランランが
39歳で亡くなった日。
短い生涯で彼女が残した功績はあまりに大きい。
現在、全仏オープンテニスの
女子シングルス優勝者に贈られるカップには
スザンヌ・ランランの名前が刻まれている。
佐藤延夫 10年07月03日放送
午後11時と、午前3時半。
毎日この時刻を気にするようになったのは、
7時間も時差のある南アフリカのせいだ。
寝不足もやむなしと諦めるようになったのは、
世界中から集まった足の器用な男たちのせいだ。
そして、選手ではないのに注目を集める小太りの男。
彼は以前に、こんな言葉を残していた。
母国の監督をやりたい。給料なんかいらないし、今すぐでも構わない。
ピッチの脇で、選手よりも激しく動き回る彼は、
今日もどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。
マラドーナ監督、楽しみにしてますよ。
サッカーは、スポーツなのか、戦争なのか。
グループリーグから
鮮やかなサッカーで注目を集めるドイツ代表。
よく見ると、ベンチに目を見張るようなイケメンが座っていた。
ヨアヒム・レーブ監督だ。
現役時代は無名の選手だったが、
その戦術とサッカー理論は高く評価されている。
彼の爽やかな横顔を見ていると、サッカーはスポーツなんだと思える。
今回のワールドカップが始まる前、
レーブ監督は警戒するチームを挙げた。
オランダの攻撃には、機関銃、追撃砲、大砲のすべてがある。
なるほど、やっぱりワールドカップは、戦争なんだ。
草食男子、メガネ男子、弁当男子・・・
いろんな男子が出てきたけれど、
そのうち、ビッグマウス男子が流行るかもしれない。
ワールドカップ日本代表、本田圭佑をリスペクトする男子は多い。
僕自身はベスト4ではなく、優勝を目指していいと思う。
誰もがグループリーグ敗退を予感している中、
彼だけは大風呂敷を広げていた。
そして自身による2つのゴールで、
見事に風呂敷を畳んでみせた。
ところで、ビッグマウス男子を狙う皆さん。
実力が伴わないと、
仕事も女ゴコロもゴールは決められないので
くれぐれもご注意を。
なにしろエピソードの多い人だ。
彼について、オランダ史上最高と言われるサッカー選手は言った。
「マラドーナには、選手として全てかなわない。」
現役時代、1000回近くもゴールネットを揺らしたブラジルの英雄は言った。
「サッカー界でスーパースターと呼べるのはマラドーナだけだ。」
神様と呼ばれる男は言った。
「私とマラドーナを比べることは、彼に失礼だ。」
将軍と呼ばれる男も言った。
「ジダンがボールでやることを、マラドーナならオレンジでできる。」
そのジダンは言った。
「彼とは比べないでほしい。彼は惑星の選手なのだから。」
当のマラドーナは、引退後に言った。
「私は、サッカーボールのように太っている。」
薬物依存、不摂生による肥満、娘との確執と和解。
いろいろなことがあったけど、
今また、時代はマラドーナに味方している。
一日でも長く、あなたの姿を見ていたい。
トルコ移民のトルコ家系に生まれた青年は、
ドイツの国籍を取得し、今、ドイツ人としてピッチに立っている。
メスト・エジルという
サッカー選手らしからぬ優しい顔をした青年は、
毒々しいほどのテクニックと視野の広さを持つ。
しかしコメントは、優等生のように清々しい。
たとえばこれは、ガーナ戦で勝ったときのインタビュー。
僕はただボールを蹴っただけだよ。チームメイトがたくさんサポートしてくれたんだ。
21歳の謙虚な司令塔は、
限りない才能と、限りない将来を手に入れている。
思えば、今年の4月、
ワールドカップが始まる少し前。
欧州チャンピオンズリーグの準々決勝で
リオネル・メッシは、強豪アーセナルを相手に
たった一人で4得点をあげた。
敗軍の将、ベンゲル監督は、こんな表現で試合を振り返った。
メッシは、まるでプレイステーションの選手のようだ
今日はマラドーナ監督の手元にも注目してみよう。
もしかしたら、コントローラーを握っているかもしれない。
岡ちゃん、ごめん
正直、3戦全敗だと思ってました。
日本がデンマークを破り、
決勝トーナメント出場を決めた直後、
ツイッターは、岡田監督への謝罪の声であふれ返った。
強化試合で結果を出せず、
チームの不協和音が報じられたとき
日本のファンは、あらゆる期待を放棄していた。
一億総ペシミストになったこの国。
でも、サッカーには、国民の意識を変える力があった。
華々しいフリーキックと
タフな戦いに耐える同胞を見て、
人々は息を吹き返す。
ブブゼラの鳴り止まないスタジアムで
岡田監督は、絶対的な信頼を手にした。
それでも彼は、いつもどおりに口をヘの字に曲げている。
6月30日、午前2時。
あの悲観的だった国民は、みんな思っていた。
岡ちゃん、ありがとう。
八木田杏子 10年06月27日放送
1.ディアギレフの才能
才能がないと言われた人の、
才能を見つけだす方法がある。
ロシアの貴族の息子、
ディアギレフはそれを知っていた。
何の才能にも恵まれなかった男。
でも天職を見つけた。
多くの才能を集める仕事、
そして、その才能が活躍する場をつくる仕事。
ディアギレフの一生は、そのために捧げられた。
ピカソやコクトーなどの芸術家の協力を得て
芸術革命をおこすロシアバレエ団をつくった彼は、
世界初のプロデューサーかもしれない。
2.ディアギレフの意
20世紀のはじめに、音楽、美術、文学
すべてに影響を与えたロシアバレエ団。
1921年に上演した「眠りの森の美女」は
端役のダンサーまで
金糸銀糸の刺繍に宝石を縫い付けた衣装を身につけた
超豪華版で
観客拍手はもらったものの
プロデューサーのディアギレフは、
多額の負債をかかえる。
ダンサーをホテルに泊めるために、
自分は使用人部屋で寝起きすることもあったディアギレフ。
パリの社交界では、ロシア貴族らしい振る舞いをして、
パトロンには弱音を吐かないディアギレフ。
一張羅だったビーバーの毛皮のコートが擦り切れても、
芸術への想いは擦り切れないディアギレフ。
世界中の才能が、
彼に惹きつけられたのも無理はない。
3.フォーキンの疑問
1898年にロシアの演劇学校を卒業したばかりのダンサー、
ミハイル・フォーキンは疑問を感じていた。
踊りのスタイルが、
なぜ曲のテーマや衣装と調和していないのだろう。
バレエの心理表現は、
なぜ、脈絡もない一定の型で表すのだろう。
誰かに答えを求めても
伝統に根ざした決まりごとに疑問を感じる人はいない。
自分の手で、答えを創るしかなかった。
1909年、フォーキンはロシアバレエ団に加わり
振り付け師としてあたらしいバレエに挑戦する。
レ・シルフィード、ダッタン人の踊り、火の鳥…
傑作が次々に生まれた。
中性的なニジンスキーの魅力と跳躍を活かした
『薔薇の精』を見た観客は息をのんだ。
同じくニジンスキーのペトルーシュカは
観客の魂を揺さぶったといまでも語り伝えられる。
この「ペトルーシュカ」でフォーキンは
はじめてのこころみをした。
主役たちの背後で踊る群舞と呼ばれるダンサーたちに
兵隊、警官、子守り、大道芸人などの役柄を与えたのだ。
新人のときに感じた疑問の答えを、
自分の手で創りだしたフォーキン。
バレエにおける民主主義は
フォーキンによってもたらされた。
4.ニジンスキーの跳躍
クラシックバレエの天才ダンサー、
ニジンスキー。
彼の素顔は内気な青年だった。
おそらく「牧神の午後」と出会うまで
自分が振り付けや演出をすることになるとは
思ってもみなかったに違いない。
マラルメの詩とドビュッシーの曲
そしてニジンスキー振り付けの「牧神の午後」は
1912年、ロシアバレエ団によって上演される。
言葉の少ない青年が、心の内からたぐりよせる動きは、
バレエを壊しかねないものだったけれど
静まりかえった客席の何人かは
モダンバレエがいま生まれたことを知っていた。
5.ロシアバレエ団の春
「春の祭典」は
ロシアバレエ団が1913年にパリで上演した。
不可思議なリズムと、不協和音でつくられた音楽。
奇妙なポーズで、小刻みに飛び跳ねるダンス。
クラシックに慣れていた観客は、耳と目をうたがった。
これは芸術への冒涜ではないだろうか。
観客を侮辱しようとしているのだろうか。
観客は賛成派と反対派に別れて争った。
暴れる観客は警官が取り押さえたが
野次や足踏みや殴り合いの騒々しさで
舞台で踊るダンサーに音楽が聞こえないほどだったという。
今でも斬新に感じる『春の祭典』に、
100年前のパリは、パニックを起こし
翌朝の新聞には「春の虐殺」という見出しが載った。
けれども、
この事件はクラシックが窮屈になっていた芸術家たちにとって
いい刺激になったようだ。
ココ・シャネルも、そのひとり。
ロシアバレエ団の旗印に
ますます多くの芸術家が集うようになってきた。。
6.ストラヴィンスキーの騒音
不協和音を好んで使う
27歳のストラヴィンスキーは、
才能がないと評されることがあった。
けれどもロシアバレエ団の支配人ディアギレフは
彼の才能を見抜き、「火の鳥」を依頼する。
ストラヴィンスキーが書き上げた曲は、
いかにもストラヴィンスキーらしい
独特のリズムと不協和音でできていたために
主役を務めるはずのバレリーナは、
「騒音みたい」と評して舞台を降りてしまった。
しかし、1910年『火の鳥』が上演されると、
観客は熱狂し、
前衛的な作品にもかかわらず人気演目になる。
新しい才能は、否定されるところからはじまるのかもしれない。
7.ピカソの恋
ピカソがデザインするバレエの衣装は、
人体の形や動きを無視した
キュビズム的造形物だったので
立っているだけでも大変なほどだった。
しかし、それが一変したのは
ピカソの恋だった。
そのお相手はロシアバレエ団のダンサー、オリガ。
リハーサルに通いつめて、
動くことでより美しく見える衣装を創りあげた。
1919年。
ピカソの恋から生まれた造形美は、
バレエの舞台から街へ広がり、
流行のファッションになった。
8.コクトーの再戦
社交界のプリンスだった、ジャン・コクトー。
ロシア・バレエ団を率いるディアギレフに、
こんな言葉をかけられる。
ジャン、僕を驚かせてごらん。
20代前半だったコクトーは、
インドをテーマにした
Le Dieu Bleu(青神)という台本を書いた。
しかし、『青神』は、
豪華な衣装とメンバーにもかかわらず、
10回に満たない上演で忘れ去られる。
その5年後。
コクトーは再び、舞台に戻ってくる。
いまこの時代に生きている人、音、動きを
バレエにした「パラード」
作曲にサティ、衣装にピカソを迎えて
1917年に上演されたパラードは
初日から激しい怒号につつまれた。
ついにコクトーはディアギレフをびっくりさせたのだ。
坂本仁 10年06月26日放送
彼は、生涯で何百人もの人間を殺した。
また数多くの犯罪者を見つけた。
犯罪者の心の闇に焦点をあて、
人間の本質を見事に描いた小説家松本清張。
空前の執筆量
相次ぐベストセラー
そして所得番付では作家部門のトップになったが
文壇での評価は本の売れ行きとは反比例する傾向にあった。
でも、清張は気にしなかった。
「小説が面白すぎると批評家のけいべつを買うようだ」
そう語ると、また次の作品を書きはじめた。
世界的な俳優・映画監督、Clint Eastwood。
彼の名はアナグラムで
「懐かしい西部劇」を意味する「Old West Action」になる。
西部劇のスターからダーティハリー、
そして、反戦、非暴力を訴える映画監督へ
老いてなお映画の世界を開拓する現代のカウボーイは、
人生という荒野の歩き方を次のように教えてくれる。
I don’t believe in pessimism.
If something doesn’t come up the way you want, forge ahead.
If you think it’s going to rain, it will.
「思い通りに行かなくても先に進もう。
雨になると思ったら本当に雨が降るものだ」
この世でいちばん官能的な靴とは?
その答えは、今、きっとクリスチャン・ルブタンだ。
鮮やかなレッドソール。
大胆なカッティング。
その独創的な靴のつくり方をルブタンは次のように語る。
「デザインしているときに、
思い浮かべるのはヌードの女性なんだ。
一番良いのはショーガールだね。
彼女たちは裸でヒールを履いているから。
服は僕の志向を邪魔するんだ」
ファッションではない
ましてやドレスの付属品でもない
そんな視点から靴を見る時代が来ているのかもしれない。
ゴールを決められるわけでもない、
キラーパスを出せるわけでもない。
にもかかわらず、
世界中のサッカーファンから世界一と評された男がいる。
ピエルルイジ・コッリーナ。
イタリアのサッカー審判員だった彼は
的確なレフェリングで多くの重要な試合を担当し、
5年連続でFIFA最優秀審判員に選出された。
コッリーナが審判の定年規定の45歳を迎えた時、
サッカー協会は彼の功績を認め、
特例として定年後も審判を続けてほしいと依頼した。
しかし、彼は次のように言った。
「審判はルールを守らせる存在だ。
だからわたしもルールに従うさ」と。
イタリアの審判2万5千人のうち
セリエB以上で審判をつとめるのはたった35人
優れた審判員になるのは、もしかしたら
選手になるよりむづかしいのかもしれない。
あなたは自分以外の人すべてを敵に回しても、
自分の信念を貫けるだろうか。
アメリカの上院議員ポール・ウェルストンは、
2002年のイラク戦争決議の際、
ただ一人反対票を投じた。
誹謗中傷が毎日のように彼を襲い、
臆病者と多くの人に揶揄された。
反戦活動の志半ばで
しかも選挙活動のさなかに謎の航空機事故という
無念の死を迎えたウェルストン。
今、彼を臆病者と言う者はいるだろうか。
漫画家水木しげるは代表作「ゲゲゲの鬼太郎」で
本来ならば恐ろしい姿をしているはずの妖怪を
不思議なほど人間臭く描いている。
ねずみ男、猫娘、砂かけ婆
一反木綿に子泣き爺
欠点も弱点も充分すぎるほど持ち合わせている妖怪は
とぼけたユーモアがあり、子供たちにも愛された。
さて、そんな妖怪たちを紹介する
水木しげるの「妖怪画談」にはこんな言葉があった。
春はあけぼの。夏は化けもの。
おとぼけとユーモアは
水木しげる本人の持ち味らしい。
可能性が0に近いことに挑むときは
どうすればいいのだろうか。
考古学者ハインリッヒ・シュリーマンが
その答を教えてくれる。
シュリーマンは
ホメロスの叙事詩が単なる神話でないことを
発掘によって証明した人物だ。
子供の頃に読んで感動したホメロスの叙事詩。
その物語の中にあるトロイア遺跡の存在を証明するために
シュリーマンはまず商社マンになり、財産を築いた。
42歳になるとすべての事業から手を引いて
考古学者になるための準備をはじめた。
2年間の世界旅行、そしてソルボンヌ大学へ入学。
トルコのヒッパロスの丘に最初の鍬を入れ
トロイア発掘に乗り出すのはシュリーマン48歳のとき。
そして3年後、
トロイアと、それより1000年も古い古代エーゲ文明の遺跡も発見してしまう。
目的を持った人生の道は
ゆっくり確実に歩けばいい。
シュリーマンの人生がそう語っている。
石橋涼子 10年06月20日放送
1.父の役割 セオドア・ヘスバーグ
父親の役割は何だろう。
いつもはどっしり構えて、
いざというときに体を張って家族を守る?
定期入れに家族の写真を入れ、
毎日汗水流して働く?
牧師であり哲学者でもある
セオドア・ヘスバーグは、こう語る。
父親が子どもたちのためにできることで
一番重要なことは、
子どもたちの母親を愛することである。
お父さん、
たっぷりお母さんを愛して
父の威厳を示しませんか。
今日は、父の日です。
2.父親の楽しみ 福沢諭吉
明治の啓蒙思想家であり学者でもある
福沢諭吉。
昔の偉人と言うと、
家庭を顧みないイメージを抱きがちだが、
諭吉はとにかく子煩悩だった。
9人の子ども全員の育児日記をつけ、
毎晩、一番小さい子どもと一緒に眠った。
寝付きの悪い娘が夜中に目を覚まして
眠れないと泣きついたとき、
諭吉は、天井をさして言った。
ごらん、お月さまがお部屋にきてくれたよ。
それはストーブの煙突のために開けられた穴が
外の明かりを受けて丸く光っていたのだが、
娘は、小さなお月さまに見とれているうちに
眠りに落ちた。
教育者としてではなく、父として。
諭吉を動かしたのは、理論より愛だった。
3.父から息子へ レオポルト・モーツァルト
音楽界一の教育パパとして有名なのは、
あのモーツァルトの父、
レオポルト・モーツァルト。
幼い息子が音楽の才能を備えていることに気付いた彼は、
自分の出世も人生も捨てて、
息子の才能を開花させることにすべてを捧げた。
しかし、神童モーツアルトの成長に伴って、
教育者として、プロモーターとして
レオポルトにできることは少なくなる。
成人した息子にできることは、
父としてのアドバイスだけ。
仕事の相談から、生活のこと、
世間知らずな息子への叱責まで。
恋に盲目になった息子には、
「お前の手紙はまるで小説みたいだ」
と書いてさとし、
失恋した息子は、父に宛てて
「今はただ泣きたい」
と手紙を送った。
後に偉大な作曲家となったモーツアルトが
後世に残したのは、膨大な名曲たちと
数百通にわたる、父との手紙だったという。
4.ふたつの光 ジェームズ・サーバー
シニカルだけどあたたかいユーモアたっぷりな
短編を得意とした作家、ジェームズ・サーバー。
彼が残した言葉。
光には2つある。
ものを照らす鮮やかな光と、
おおい隠すギラギラした光と。
確かに近ごろ、夜はあるが、闇は少ない。
今は、一年でもっとも夜が短い季節。
今夜は電気の代わりにろうそくを灯して、
暗闇を楽しんでみませんか。
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